4・黒煙







 ……陽炎か。
 いや、違う。揺れている。視界がぐらついている。目下の緑の、従者の姿と、卑しくくすんだ紅色の。……静かに振り向くその目線と、目線が上手く噛み合わない。気を切り替えようと客席を仰げど、そこには、捻り出した絵の具を衝動のままに混ぜ捏ねたような、無秩序な色彩が広がるばかりだ。
 向かいのトレーナーボックスに立つ若い男が、何か叫んだ。紅色の、以前当たった時と比べると随分大きく成長した獣――噴火ポケモンのバクーダが、ゴオォと野太い鳴き声を上げた。空気が唸っている。地鳴りのような歓声が蠢いている。
 すっと敵方に顔を向け、ノクタスのハリは、もう一度こちらに目をやった。落下防止柵にすがりつくように身を乗り出し、ともかく何か指示を、息を吸い――体中に迸る感覚に、言葉が、思考が詰まってしまう。
 痛い。熱い。
 ……従者は静かに月色の目を細める。また、景色がぶれていく。焦点がどこに向かうかも定められない。
 来ないのか、なら『度忘れ』だ、と向かいの指示が微かに聞こえた。だめだ。まずい。ハリ、何か――ハリ――
「――『噴煙』ッ!」
 自信に満ちた高めの叫び声は、脳に深く抉り取るような激痛をもたらす。
 諦めて――呆れたようにも僅かに見えた――従者が前を向き、勝手にフィールド中央へと飛び出していく。ギン、と世界が白く瞬く。頭痛が嘔気さえ呼ぶ。視界が、視界が、霞んでいく。
 左腕が戦慄いた。バクーダの咆哮が轟いた。
 その背の『火口』が一瞬せり上がり、赤い光を破裂させた。観衆のどよめきと、頬を打つ熱、突風、それに乗って次に迫り来るは、黒い、どす黒い噴煙――
 ――――熱い。不意に意識が飛んだ。誰かの悲鳴が、槍のように頭を突いた。熱い、熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い――――!


 ――頭痛がする、と言ってトレーナー控室の隅っこで頭を抱えていた師匠の姿を、何度も蘇らせていた。
 喧嘩見物に来た暇な群衆の熱気に包まれたココウスタジアム。その建物の内部、フィールドにせり出すトレーナーボックスに続く廊下の真ん中で、不安に駆られながらミソラはその背中を見つめている。鞄の中の、さっきからカタカタと騒がしく揺れている子供のたった一つのボールも、その恐怖心を加速させた。宥めるように鞄をさすってから、もう一度視線を前へ。試合が始まってから一言も発さないままのトウヤは、ゆらりと手すりへ腕をついた。
 起きがけは普段通りであった男の体調は、スタジアムに入り、試合を重ねるごとに段々悪化していくように見えた。何戦か終えて、朝だったのが昼前になって、ついに顔色だけでなく態度でまで不調を訴え始めた彼の隣に腰かけて、今日はもうバトルはやめにして家に帰りませんか、とミソラは声をかけた。その方が良いに決まっていた。なのに、トウヤはじわりと顔を上げて、浮かない――多分、頭痛だけのせいではない――表情で、ぼそりとミソラに言うのだ。
「……今、何勝してる?」
「はい?」
 トウヤは二の句を継がなかった。そんなことは、普段通りなら人に聞かなくたってちゃんと自分で覚えている。やっぱり何か変だ……ミソラは少し困惑しながら、今日彼の背中越しに観戦した試合を指折り数える。
「五勝です。次で六戦目ですね」
 やはり浮かない表情のままで、トウヤは額をさすり、目を閉じ、息を吐いて、それからだるそうに立ち上がった。
 そうして何も言わずに控室を出ていこうとする男の後ろを、ミソラは薄暗闇に呑まれるような心境でぱたぱたと追いかける。
「お師匠様?」
「そろそろ時間だ」
「でも……」
「これが終わったら棄権する。次で、最後」
 普段から声の大きい人ではないけれど、それよりも数段小さい声で彼はそう言って、色の悪い顔で苦笑した――その人が。
 迫り来る黒煙に呑まれる直前にずるずるとその場に崩れ落ちたのを、ミソラは心臓を握りつぶされるような心地で目の当たりにしたのだ。
「――お師匠様ッ!」
 叫ぶも虚しく、うずくまるトウヤの姿は敵方が放ったらしい『噴煙』の中に消え去った。慌てトレーナーボックスへと向かおうとするミソラの行く手を、屋内まで入り込んできた煙が阻み、思わず足を止めた時。コツン、と何かが地面に落ちて、ミソラはそちらへ目を向けた――そこに転がり、瞬時に鮮烈な光を放ったのは、いつの間にか鞄から飛び出した紅白のモンスターボールだった。
 制止する暇などなかった。放たれたリナ、片耳を失った小柄なニドリーナは、けたたましく威嚇音を上げると、血走った眼を見開いてフィールドの方へと駆け出していく。
 そのポケモンの名を呼びながら、暗い廊下をミソラは夢中で疾走した。暗雲を振り切るようにそれを抜けると、やはり立ち込める煙幕の中にも僅かに日射が感じられた。リナはトレーナーボックスの中には見当たらない。柵を越え、試合中のフィールドへと飛び出して行ってしまったらしい。
「リナー!」
「――『だまし討ち』ッ!」
 腹の底から絞り出すような声が足元に響いて、ミソラははっとそちらに吸いつけられた。
 右手がそれを捻り潰さんが如く鉄柵を握り、体を引き寄せるようにしてトウヤは上半身を起こしていた。何か振り切れたかのような酷い剣幕と、対してそこだけだらんと重力に習う包帯の巻かれた左腕を見、不意にぞくっと恐怖が走る。ミソラは息を詰まらせた。得体の知れない胸騒ぎが、体中を駆け巡っていた。
 噴煙の赤と黒に覆われたフィールドはミソラには何も見えないのに、殆んど怒鳴るような調子で、トウヤはいくつか指示を飛ばした。低い太い奇声が尾を引いた。身動きの取れなくなった観衆のざわめきは、煙の不気味な闇の中へと尽く吸い込まれていく――





 『医務室』と名のつく休憩スペースは、スタジアムの薄暗い廊下の西の端の方に存在している。
 その扉の前で門番のように待ち構えていたグレンに「帰った帰った」と手を振られて、ミソラは最初何の事だか分からなかった。暴走の末、ハリに一発かまされて気絶してしまったリナをフィールドまで迎えに行っている間に、ミソラはトレーナーボックスの中で動けなくなっていたトウヤが担架に乗せられて運ばれていくのを目撃しているのだ。その辺のトレーナーを捕まえて話を聞いて、ならば居場所は『医務室』で間違いないだろう、と教えられてここに来たのに。
「あの、お師匠様は」
「中で寝てるが」
「入れて下さい」
「別にミソラが入ったって、どうこう出来る訳じゃないだろ?」
「で、でも、あの」
「そのニドリーナの事もあるだろ。先に家に戻って、ひとまず落ち着かせてやった方がいい」
 それはもっともだ。今はボールの中で眠っている、突然暴れはじめたパートナーのことを思って、ミソラはちょっと目線を下げた。それから、でもやっぱり居ても立ってもいられない、という表情で見上げると、そんなに心配すんな、とグレンは笑った。それから低く声を潜めた。
「弱ってるとこ見られたくないんだろ。そっとしといてやってくれ、な?」
 そう言って、男は下手くそにウインクをする。
 その気持ちは、ミソラにはよく分からなかった。けれど、ここにいてもどうしようもないことも、今自分には別にすべきことがあることも、そして目の前の大男がどうしても通してくれそうにないことも、何となくは理解できる。
 諦めるしか、ないらしい。ミソラは再度俯いて、小さく息を吐いた。
「……はい……」

「おい、腰巾着は追い返したぞ」
 決して広くはない医務室の中、いくつか並んだ簡易ベッドのひとつに、トウヤはぐったりと寝そべっていた。戻るなり冗談めかして言うグレンに、黄ばんだシーツの上から少し顔を起こし、開ききらない双眸から虚ろな眼差しだけ向ける。それにも疲れたように目を閉じると、薄手の布団を引いて被って、顔を隠してしまった。
 フィールドを実況するモニターはないものの、時折感じる微かな振動で、既に次の試合が開始されていることが分かる。カタカタと僅かに揺れたコップを手に取って、中の水をグレンは一気に煽った。
「しかし一体なんだ、脅かしやがって。風邪でもこじらせたか?」
 普段通りの陽気な声色に、しかし、相方からの返事はない。
 繕っていた笑顔を窺うものはもうそこには誰もいなくて、グレンはすっと目の色を冷ましていった。見下ろす、ベッドの上に横たわるものは、ともすれば死んでいるのではないかと思われるほどにぴくりとも動かない。ただ、微かに、ひゅうひゅうと不自然な呼吸音が小刻みにそこから鳴っている。布団から漏れる包帯の巻かれた左腕は、右のそれと比べると、幾分腫れているようにも見て取れた――おそらく、ただの風邪ではない。傍観するグレンの瞳は、しかし、至って冷静沈着であった。
 腕を組み、傍のベンチへ腰を下ろすと、グレンは面を上げた。何かが建物へぶつかったか、少し大きな振動がして、天井から塗料か何かが砂のようにぱらぱらと零れた。医務室と言っても医者なんていないし、特別誰かが出入りするでもないこの部屋の天井の四隅には、主のない蜘蛛の古城が灰色の造形を描いている。
 ここに泊まっていけばいい、とグレンは出し抜けに言った。
「家まで戻るのも億劫だろう。そんな状態で帰ったら、ハギさんに心配もかけるしな」
 提案するはいいが、やはり声は帰ってこない。こりゃ眠ったかも分からんな、とグレンが考え始めたところで、布団の中身がようやくもぞもぞと動き出した。
「……いや、」
 トウヤは向こう側へふらりと起き上がると、グレンへ背中を向けたまま、覚束ない動作でトレーナーベルトのボールの一つへと手を掛ける。
「とりあえず帰るよ」
 捨てるように投げられて室内に解放されたボールからは、ガバイトのハヤテが随分しおらしい顔つきで現れた。低く喉を鳴らしながら覗きこんでくるハヤテの鼻先を右手で軽く撫でて、姿勢を下げるように促す。グレンはやや不服そうな面持ちで頬を掻きながら、そうか、と一言だけ。それも、なるべく何の気もなさそうな声色で。
「あぁ。……あまりここに居たくない」
 およそ独り言のように零された細い声には、グレンも僅かに眉根を寄せた。
 ガバイトになんとか跨ると、男はそこでまた眠るようにうつ伏せになった。送ろうか、というグレンの申し出を、トウヤは鼻で笑って返す。のしのしと、重心を崩さないようにとでも思っているのか若干緊張の面持ちのハヤテがグレンの脇を抜け、トウヤも彼へと目を合わせることはしなかった。悪かったな、というそれだけの言葉が、去りがけに低く聞こえた。グレンは曖昧に相槌を返す。
 ドアノブに手を掛け、額で押すようにしてハヤテが扉を開けかけた時に、しかし徐にトウヤは室内へと顔を戻した。
「……グレン」
「あ?」
 見送るでもなく、何か難しい顔で虚空を見つめていたグレンは、不意打ちに素っ頓狂な声を返す。
 覇気こそ完全に消え失せていたが、痣の男の表情には、思いがけぬほど張り詰めた『何か』が宿っていた。立ち止まり、きょとんとしてハヤテは顔を上げる。また少し強めの振動があって、開けっ放しの扉の向こうから下品な歓声が遠く聞こえた。
「……あのトレーナー……」
 そこまで言って、トウヤは言葉を止める。
 特に何か悟った様子もなく、グレンは単純に疑問の色だけ浮かべた。ぐふぅ、とハヤテが喉を鳴らすのと同時に、歓声よりはもっと近くから、誰かの声が残響を伴って響いてきた。廊下のかなり向こうの方で、いくつかのトレーナーらしき人影が、そろそろ試合だぞグレン、とこちらに手を振っている。
 それを見、もう一度グレンに顔を向けて、トウヤは僅かに苦笑を浮かべた。
「いや、何でもない」
 言うなり、足でこつんと従者の体側に蹴りをいれて、トウヤはハヤテに身を預け廊下を出口へと向かっていく。グレンは難しい顔で首を傾げはしたが、向こうのトレーナーたちに急かされて、釈然としない思いを抱えながらもその医務室を後にした。






  
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