エイパムの形が消えて、紅白のモンスターボールがコロコロと地面に転がった。
「……あ……」
 すぐに状況を把握できたのは、そこに居合わせた子の中では、ミソラとタケヒロだけであった。
 激しい光に目を眩まされ、エイパムが何かに吸い込まれた事だけ見て歓声を上げた子供もいた。けれど、その後視界に現れたものが、一つのはずが何故か二つになっていて――紅白でなく、見慣れぬ青いカラーリングのボールのみがカタカタと揺れ、すぐに死んだように動かなくなったのを見て、何か思い通りではないことが起こったのだと、不意に勘付くことができた。
 少年の投げたモンスターボールがエイパムに当たる手前で、エイパムの背後から突き刺さった『スーパーボール』と呼ばれるそれを、ゼブライカの男は拾い上げた。それからベルトに引っ掛けていたトランシーバーを取り外した。
「イチジョウだ。B22地区にてターゲットは捕獲した。今から集合ポイントに戻る」
 そうしてまるで何事もなかったかのようにゼブライカの背に手を掛ける男に――耳をつんざく金切り声が上がった。飛びかかろうとした女の子を、しかし取り押さえたのは、例の背の高い少年である。
「待って! 返して! 返してよォ――!」
 しゃがみ込み、聞いている方がおかしくなりそうな激しい泣き声を上げ始めた女の子を宥めかねて、少年は男の方を振り向いた。誰も、何も最初から存在していないかの如くひらりと騎乗し、男は彼らの前から立ち去っていく。レンジャーの真横を過ぎようとして、男は随分高い位置から、赤い制服に身を包んだ少女の瞳を見下ろした。
「……血も涙もないの? リューエルの隊員さんって」
 イチジョウと名乗った男は、徐にゼブライカを止めさせた。
「ポケモンレンジャーたる君が、この浮浪児たちに肩入れするのか? このエイパムは長期に渡ってココウの住民に危害を加えてきている。守るべきは、善良な市民の生活だろう」
「善良な、って……あなた……!」
 ――全ての市民のために在れ。
 淡々と告げる彼の言葉が、いつだかの、似ても似つかない男の声と重なった。
 威勢を弱めたレンジャーの代わりに、食い下がったのは傍観に徹していた方の少年であった。タケヒロは男の服を掴み、強引にゼブライカから引きずり落とそうとした。
「お前らのっ、お前らのせいで、俺たちは……ッ!」
 バチッと音と光がしてタケヒロは突然飛び下がった。纏わりつくものを『充電』による静電気の痛みで引き剥がし、さっと距離を取ったゼブライカの上でイチジョウは若干声を荒げる。
「ここに来て尚邪魔をするか。一度教えてやらないと、分からないようだな――!」
「おい、その辺にしないか」
 場を一転させる柔和な声が、ミソラの背中の方からやってきた。
 ボールを握る手をぴく、と強張らせて、イチジョウはそちらへ振り向いた。へっぴり腰ながらも臨戦態勢を取っていたタケヒロも、レンジャーも、その奥にいる様々な表情をした子供たちも――そのリーダー格の少年が、次の来客を見て、すっと顔色を悪くした。
「……アヤノか」
 不機嫌そうに呟いて、イチジョウはボールをホルダーへと戻す。
 夕日色の砂利道の上を、ざく、ざく、と音を立てながら、足音が一つやってきた。
 連絡を受けた方角から子供の泣き声が聞こえたもんでね、と、ポニータもグレイシアもボールの中へと引っ込めているアヤノは苦笑した。訝ってレンジャーはその新手を見、タケヒロは苦虫を噛み潰したような顔で、ミソラは神妙な顔つきで黙ってごくりと唾を呑む。アヤノはそれぞれの前を素通りすると、子供らの突き刺す視線を浴びながらも平然として、泣きじゃくっている女の子の前にしゃがみこんだ。
「やっぱり、あのエイパムはお嬢ちゃんのポケモンだったか」
 女の子は顔を上げた。顔を拭い、鼻水をすすって、うん、と小さく頷いた。
 アヤノは満足気に微笑んで、一度、二度、と汗ばんだ小さな頭を撫でる。
「おじさんたちが悪いことをしたね。でも――分かるかい。お嬢ちゃんのエイパムもまた、町の人たちに悪さをしたんだ。おじさんだってお嬢ちゃんとエイパムを引き離すようなことはしたくない。けど、このままじゃ、町の人たちの気は収まらないかもしれない。君たちが悪いことをしなくたって、町の人はエイパムや、君たちに手を上げてしまうかもしれない」
 赤くなった両目をまっすぐに向けてくる女の子に、だからね、とアヤノは、努めて優しい声色で聞かせた。
「こういうのはどうだろう。エイパムはリューエルで一時的に預からせてもらう。そして、エイパムをいい子にすることができたら、その時は君たちの元に必ず返す」
 必ずだ、と念を押して、アヤノは小さな肩に手を置いた。
 失意に歪んだ無垢な瞳は、徐々に淡い輝きを取り戻していく。
 敗戦色の後、甘い匂いの飴玉のように差し出された和解案は、本題を霧の中へと押しやってしまった。女の子は、すん、と鼻をすすってから、少し落ち着いた様子で、背の高い少年の方を見上げた。アヤノは言い聞かせるように続ける。
「もちろん、エイパムに辛い思いをさせることはないよ。ただ、エイパムの中の悪い心を、吸い取ってしまうだけの話だ」
 ……少年は女の子を見据え、静かに頷いた。
 女の子は顔を戻すと、目の前にリューエル隊員にすがりつくようにして、どれくらいしたらロッキー戻ってくるの、と問うた。そんなに長くはかからないよ、とアヤノは柔らかく頬を緩める。固い蕾が色付くように、女の子は微かに顔を綻ばせた――嘘だ騙されんな! と叫んだタケヒロを、背の高い少年の鋭い視線が制した。タケヒロは悔しげに唇を噛みしめる。
「な、なんでだよッ……!」
 アヤノは女の子と、さも親しげな様子で二言三言交わした。それから、イチジョウが渋々と差し出した青色のモンスターボールを受け取って、女の子に撫でさせる。寂しげにそれに触れると、女の子は名残惜しそうにエイパムのボールから手を離した。小さく息をついて、アヤノは立ち上がった。
「それじゃあ、俺たちはこれで。約束だよ、必ずエイパムは返すから」
 最後まで人の良さそうな笑みを浮かべたままで、アヤノはイチジョウを連れ立ってその場を立ち去っていく。
 日暮れ時の細くて影は、すぐに子供たちの足元を離れた。数歩それを追いかけてそこで立ち止まって、……やはり俯いてしまった女の子の背を、少年は眺めていた。慰めることも、触れることもできず、ただただ後ろで眺めていた。大きく悪態をつきタケヒロは歩を進めた。どうするんだよ、おい、と背中に掴みかかろうとした日焼けした手を、
「いいんだよ」
 強い、芯のある声はまたしても制する。
 伸ばしかけていた手を思わずタケヒロは引っ込めた。それほど凄味のある声であった。振り返った少年の頬に、逆光の影が黒く黒く落ちていた。その目は夕焼けに赤く鮮烈に映えていた。
「……いいんだ。これで」
 その、頑なに握った拳が今小さく震えるのを、何か他人事とは思えない気持ちで、ミソラは見つめていた。





 窓から入り込む蜂蜜色の斜陽が、誰もいないベンチを淡く浮かび上がらせている。
 戸の呼び鈴の音を聞いて、酒場のカウンターで頬杖をついていたトウヤは読んでいた本から目を離した。いらっしゃい、と言いかけたところで、今日一日で慣れてしまった顔を見つけて幾分柔らかく笑顔を作る――店番かい、と言ってアヤノも笑った。上半身だけ覗かせた開きかけのドアの向こうには、ポニータのたてがみも見え隠れしている。
「ハギさんは?」
「ついさっき出ていきましたよ」
「そうか。挨拶をしてからと思ったんだが……まぁいいか、よろしく伝えといてくれるかな」
 店の前には荷車が停まって、夕飯前の混み合った商店街の通行を阻害していた。何人かの例の腕章をつけた大人たちが、ポケモンや別の荷車を引き連れて南へと下って行くのが見える。
「もう出発ですか」
「ああ。元々物資補給のためだけの中継地点だったんだ。しかしココウに寄ってよかった、トウヤが元気にしているのも分かったしな」
 自慢話を長々聞かせてすまんかったなぁ、と全く悪びれる様子もない男に、トウヤは思わず苦笑した。
「次は、僕の自慢話もちゃんと聞いてください」
「勿論だとも! 次に会えるのを楽しみにしているよ。その時はどうだ、昔みたいに試合もしないか」
 そうして差し出された右手を、若者は軽く握り返す。
「お元気で」
「そちらこそ。また連絡するよ」
 じゃあな、と手を上げ、見かけによらず身軽にポニータに飛び乗って意気揚々と去っていく背中を、店の前に立ったままトウヤは暫く見送っていた。
 ――それはもう十二年前。ココウ中央通りの南の入り口で、まだ小さな丸サボテンだったハリとぼろぼろの手を握り合って、似たような荷車と、同じ背中を見送ったことを。トウヤは思い返さずにはいられない。今、それをあの時とは対称的な気持ちで眺めているのが、彼には妙な心地だった。あの大切な故郷から、誰かが迎えに来てくれる日を、あの頃はあんなにも待ち望んでいたのに。大人になるという事は、時間の流れとは。考えてみると、なんとも恐ろしいもので――そうして思考が行きついたのは、何故だか、居候の金髪の、頼りなげな背中であった。
 帰りが遅いな、とトウヤはふと呟いた。アヤノの馬の引く荷車は、もう人混みにほとんど紛れてしまっている。自分が気付かなかっただけでもう帰宅しているのだろうか、とその荷車から視線を外し、二階の自室を見上げたところで――トウヤはぎょっとして一瞬瞠目し、それから顔をしかめて目を細めた。
 空は東から闇に飲まれつつあって、頭上には、一番星と思しきものが切なげな光を放っている。それを眺めるような格好の二階の自室の、開け放たれた窓の桟、そこに腰かけて細い脚を投げ出しているのは、そんなところには決しているはずのない人物であった。
 首元に巻き付いた大きな風鈴状のポケモンが、地上で唖然としている男を指してリンリンと笑った――女レンジャーはそんなことお構いなしに、すっと右腕を斜め下方に突き出すと、キャプチャ・スタイラーへと左手を添えた。
 人差し指の動き一つで飛び出していくはずのキャプチャ・ディスクの照準の先は、そこからはまだ遠からず見える、ポニータに跨る男の頭部。
 レンジャーはそれをじっと見つめていた。平静な、しかし赤く高ぶった表情であった。ぎりぎりと弓を引くように、緊張を張り詰める瞳は獲物の姿を一点に映し。ぴんと標的へ伸びた腕は、けれど何故か、思いがけずふるふると震えて――はぁっと息を吐くと同時に、レンジャーはゆるりと腕を下ろした。その様子を、トウヤは怪訝として見上げている。
「……何してるんだ、人の家で」
 見られている事自体には気づいていたようで、名を呼ばれずともレンジャーはしっかりと彼の方へと視線を向けた。
「ミソラが帰ってるのか?」
 レンジャーは黙して首を振る。
「……どうやって入ったんだ」
「窓開いてた」
「窓が開いてたら、勝手に入っても構わないのか? 仮にもポケモンレンジャーだろ」
 呆れた様子で、けれどそれほど咎める気もなさげな口調で話すトウヤに、レンジャーは屋外へぶら下げた足をふらふらと動かした。
 妙な格好で会話する二人を、道行く人々の不可解な視線がなぞっている。そうしている間に、高い場所からもリューエルの荷車は望むことが出来なくなってしまった。
 レンジャーは男から視線を外した。彼女にしては随分虚ろな瞳は、何か掴みようのない物を視界の中央に浮かべていた。いつもと様子の違う相手に何を次ぐでも、次げるでもなくて、トウヤはそのまま黙っていた。そうしていると、レンジャーはひとりでに口を開けた。
「……私」
 埃っぽい窓枠を滑る指先も、夜の足音のほど近い、淡い夕闇に包まれて。
「ポケモンレンジャーって、向いてないかも」
 今日の去りゆくココウの町には、どこからともなく夕飯の、温かな匂いが立ち込めている。
 柄にもなく気弱に発せられた、その独り言のような彼女のぼやきは、
「今更気付いたのか?」
 数メートル下にいるトウヤの耳には、はっきり届いたようだった。
 身も蓋もない返答に、癪に障られたかのような顔でレンジャーはその言葉の主を見やった。トウヤはやはりやや呆れて、加えて何だか可笑しそうな、いたずらっぽい色さえ交えた表情で二階の人を見上げている。
「向いてないと思うならさっさと辞めたらいいじゃないか。誰かが君に、ポケモンレンジャーでいてくれって頼んだか?」
 そんなことまで言った。沈んでいく町の中央でやんわりと殺気立ちさえし始めた彼女の心境をどういう風に受け取ったのか、あのなぁ、とトウヤは本当に笑った。僕は、と楽しそうに、おそらく二階に届くように、彼にしてはよく張った声で、
「僕は、君が家に入れてくれて、お茶を出してくれて、僕の愚痴だけ聞いてくれれば、それでいいんだが」
 淡々と、いつもの調子で、けれどさっぱりとそう言った。
 それが無駄に大きな声で、聞きつけた道行く数人がエッという顔でトウヤを見、その視線の先のポケモンレンジャーの制服の女をかなり訝った表情で眺めた。なぜか得意げに顔を上げている男の言葉に、レンジャーからするすると殺気が抜けていった。それから、奥から滲み出てきた、絶句――という表現が的確に見える顔つきで、その人影をしげしげと見下げる。
「……それって口説いてる?」
 低いレンジャーの問いかけに、
「なんで僕が君なんか口説かなきゃいけないんだ」
 男は真顔でそう答えた。
 一瞬止まっていた人の流れが、ばつの悪そうな雰囲気をもってまた動き始めた。チリーンは急にふわりと浮かび上がると、男の方を憮然とした表情でじっと眺めて、一瞬小憎たらしく口元を曲げると、それから屋根の向こうへとそよ風に乗って流されていく。
 なんとなく空気が変わったことを察したのかトウヤが閉口すると、レンジャーは大きな大きなため息をついて、ひょいっと足を上げ窓の桟に掛けた。
 そこから身軽に屋根まで飛び上がると、ばぁーか、と一言そこに残して。
 少しだけ、気の晴れたような笑みを残して、レンジャーの赤い制服は向こうの路地の側へと消えていった。






  
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