突然目の前に現れた新手に対し、グレイシアは指示を待たず『冷凍ビーム』を放射した。
 直進してくる青白い光線に、トウヤの送り出した従者――とびはねポケモンのバネブーは、頭に乗せた真珠をキィンと輝かせる。たちまちに紫色のオーラに包まれた『冷凍ビーム』は、バネブーの手前でぐにゃりと進路を捻じ曲げた。強力な念力によって斜め上へと変わった軌道はバネブーの鼻先を、次いでさっと屈んだトウヤの頭上を掠め、脇の家の屋根の高さまで上がったかと思うと、そこで鏡にぶつかったようにガクンと屈折。瞬く間に光線は、トウヤの背中側、少し遠くから眺めているミソラの随分手前の地面へと、ほぼ垂直に突き刺さった。
 地面に突した光が弾け、その形で凍りついた。順にその場に降り注ぐビームが塊となり、成長する生き物のようにむくむくとかさを増していく。呆気にとられたミソラの身長を越え、向こうに垣間見えたグレイシアのトレーナーの頭も一瞬にして視界から消し、せりあがる氷壁の高さがついに近隣の屋根まで達したところで、ようやくビームの青い光が途切れた。
 場にそぐわぬきらきらとした美しさを湛えた分厚い氷の壁は、今やミソラとトウヤの間で完全に道路を封鎖している。狐につままれたような何が何だか分からない心地で、ミソラはすっかり脱力してしまった。何やら低い会話が聞こえてくる気がしないでもないが、向こうの景色は氷に拡散されて殆んど窺うことができない。
「……さすがに二番目だけのことはあるな……」
 ついてこないミソラを案じたのか、先に行っていたはずのタケヒロも曲がり角からこちらを覗きこんでいた。結果としてグレイシアの追跡の手を阻んだその芸当を今一度仰ぎ、振り返って、ぽかんとした表情のままミソラはゆるりと頷いた――そこで再び、先程目に入れた理解しがたい光景が、脳裏に鮮やかに蘇ってきたのである。
 トレーナーベルトの右手側にあるボールホルダー、その手前から三つ目までだけを、トウヤは常に使用する。一つ目のボールはノクタスのハリ、二つ目のボールはガバイトのハヤテ。そして、三つ目のボールはオニドリルのメグミ。いつもその定位置からボールを外し、必ずまた同じ場所に戻すことを、それをずっと観察していたミソラはよく知っている。
 いや、それ以前に。その三つ以外のモンスターボールを彼が所有しているのを、まず見たことがないではないか。家の裏庭でポケモンと遊んでいるときも、ご飯をやっているときだって、繰り出すポケモンは決まって『ノクタスとガバイトとオニドリル』だ。
 ならば――三つ目のボールから飛び出してきたあの『メグミ』は何? オニドリルというのは、果たしてあんなポケモンに『進化』するだろうか? ミソラの知っているメグミは、一体どこへ行ってしまった?
 おかしい。おかしい。なにか、絶対に変だ。もう一度氷の方へ振り返ろうとしたミソラの腕を、タケヒロの掌ががしっと掴んだ。
「なにしてんだ、逃げるぞ!」
「え? あっ、まって……ちょ、ちょっと――!」


「なっ……、おや、トウヤ?」
 グレイシアを追って現れたアヤノへ顔を向ける前に、トウヤは気ままに跳ねているバネブーを即座にボールへと収納した。
 そのボールをベルトの三つ目のホルダーにひっかける間に、自らの放った氷に行く手を阻まれてしまったグレイシアは、きゅうんと弱々しく鳴きながら眼鏡の男へと駆け寄っていく。『冷凍ビーム』の進路を『サイコキネシス』にいとも容易く操られたことで戦意を喪失したのか、主の前で首を垂れるグレイシアの尻尾は、後肢の間にくるんと巻き込まれてしまった。とりあえず、『後ろから来る奴をどうにかする』ことには成功したか。しかし、子供たちの前で面目を保ったことに安堵するのも、ほんの束の間のことであった。
 しゃがみこみ、萎れているグレイシアの頭を撫でながら、アヤノは顔を上げた。彼の前にそびえているのは、明らかにグレイシアの放った技によって形成された氷の壁。グレイシアが技を繰り出したということはつまり、そこに突っ立っている男に敵意を示したということに他ならない。
「これは、一体……」
 懐疑的な眼差しを送ってくるアヤノに、トウヤは無意識に一歩足を引いた。
「すいません、技の練習をしていて……」
「技の練習?」
「はい……あの」
「こんなところで……?」
 人気がないとは言え白昼の狭い一般道、両手を広げることもままならない砂利道の中央で、もっともな指摘を受けた男は言葉を詰まらせ、そのまま閉口を余儀なくされる。
 幾ばくか、気まずい沈黙が流れた。トウヤは若干青ざめて一人と一匹を見下ろし、アヤノはその顔をしげしげと眺める。グレイシアはそんな二人の表情を交互に見、リラックスしたのか尻尾をフリフリと揺らし始めた。
 どう言い逃れるべきか、言い訳の思考回路をフルスロットルで加速させながら全くもって二の句が継げないトウヤに対して――先に表情を緩めたのはアヤノだった。
「――そうか、やんちゃは相変わらずか!」
 そういって大きな笑い声を上げ始めたアヤノの前で、トウヤはただただ竦んでいるばかりである。
「なんだそうか! いやぁ安心した。ちゃんと昔通りだ」
「は、はい?」
「いやな、ホウガでは名高い悪ガキだったトウヤが妙に控えめになっていたから、心配していたんだよ。しかし根はやっぱり悪ガキのままだな」
 アヤノは立ち上がりトウヤに寄ると、親戚の子供にするような笑顔でぽんぽんとトウヤの両肩を叩いた。
「今も抜かりなくポケモンの勉強してるんだろうな? ん?」
「それは、あの、えぇ」
「そうかそうか! いやぁこうしてよく見ると、随分お父さんに似てきたな。もう二十年もすればワカミヤ君の生き写しみたいになるんだろう。これは楽しみだぞ、はっは」
 俺は仕事があるから、じゃあな、と言って踵を返そうとするアヤノを、トウヤは茫然自失として一度は見送りかけた。しかし、タケヒロのいくつかの言葉が頭に降り注ぐように蘇り、あっ、と思わず上げた声に、アヤノは振り返った。
「どうした?」
「……。あ、の……」
 ――相手リューエルだぞ! 俺たちがどうなってもいいのかよ!
 ――ごちゃごちゃ言ってんな! 一応ココウで二番目のトレーナーなんだろ!
 怪訝としてこちらを見るアヤノと、その足元でお座りしているグレイシア。……引き止めなければ。しかしどうすればいい。雑談というのは、身につけるべき技の中でトウヤが最も苦手意識を持っているものの一つである。しかし……
「……その、え、えぇと」
 グレイシアのつぶらな瞳が、不思議そうに自分の姿を映している。――しかし、ポケモンの話であれば。
「……珍しいポケモンですよね。確かグレイシア……初めて見ました」
「おぉ!」
 アヤノはぱっと表情を華やげた。
「こいつを知ってるか! この辺では滅多にお目にかかれない種族だが。まぁそのくらいは知ってて当然か、さすがワカミヤの息子だな」
 アヤノはぽかんとしているグレイシアの両脇を持ち上げると、ちょっと抱いてみろ、とトウヤに押し付けた。
「どうだい、俺のグレイシアの抱き心地は」
「氷技を使った直後でも意外と暖かいんですね。……大人しい、いい子だ」
「かわいいだろ、かわいいだろ俺のグレイシアは! イーブイの時代から手塩にかけて育てたんだが、進化させるのにもう苦労してな。イーブイという種族が生息環境に合わせて複数タイプに分岐進化する可能性のあるポケモンだというのは君なら知ってるだろうが、最近発見されたグレイシアの進化条件の方はどうかね」
「いや。日射強度によって左右されるタイプについての文献は読みましたが、氷とくれば……そうだな、気温……ですか?」
「残念、それが違うんだ。まだ解明中の部分も多いんだが、寒ければいいというものでもないらしい。ある地域の、特定の場所で鍛えないと、どうもいけないようなんだよ。それというのが……」
「おい、何油を売ってる」
 突然割り込んできたのは、ゼブライカに乗った男であった。左腕に例の腕章をした彼へトウヤが軽く頭を下げる間に、おぉそうだ忘れるところだった、とアヤノはポケットに手を突っ込み、何やら小さな黒い機械をその男に投げ渡した。
「ターゲットは南西の方向に逃げた」
「了解」
 機械のモニターに一瞬目をやると、ゼブライカの横腹を蹴り男はさっさと立ち去ってしまった。あ、と小さく声を零すトウヤを、かなり近い位置からグレイシアが見上げて、きゅう? と鳴く。トウヤはちょっと参ったような表情でもう一度視線を落とした。
「それでね、何の話だったかな。まあいいや、俺のグレイシアの一番のアピールポイントは、なんと言ってもその毛並みなんだ。どうだい極上の艶やかさだろう? 朝晩三十分のブラッシングは当然欠かさないとして、俺なんかは毎日のポケモンフーズにも相当気を使っている。あぁフーズは毛並みの維持にも勿論重要だが、体重管理、俺の徹底しているもう一つの点はこれだね。皮下脂肪の適正な割合。戦闘で最高のパフォーマンスを発揮できる理想体型かつ、抱き心地のふっくらとした柔らかさ、もちもち感。これに尽きる! 抱き心地というのが俺のポケモンを愛で、いや育てる上での最重要ファクターと言っても過言ではない。どうだい一度抱きしめればもう病み付きになるだろう、でも絶対に譲らんぞ! ハッハッハ! いやぁ昨日の晩もね野宿だったんだが、寝袋の中にこう、グレイシアを入れて、こうぎゅうっと抱きしめると、もう一日の疲れなんかあっという間に吹き飛ぶし寝苦しい夜も、この、あぁっ見てくれよこの愛くるしい――――」





 西に大きく傾いた日差しは、地に伏し朽ちた鉄骨に鈍い光を灯している。
 がくんと膝から崩れ落ちるようにタケヒロはそれに腰かけると、長く長く息を吐いた。ミソラは地べたにへたり込み、ぐったりと頭を垂れる。さする胸が苦しい。けたたましく鼓動する心臓は、これ以上走ることを頑なに拒絶するように、酷い脱力感を主に与えた。脚も、他人のものみたいに突っ張って、もはや立ち上がることさえ容易には許さない。
 もう限界だ。そう零したくなる衝動を、ミソラは頭の隅に少し溶け残った理性をもって呑み込んだ。己から生まれる感情は、ずるずると喉を伝って、濁った胸の器の底に泥のように溜まっていく。気だるさを押し切って顔を上げると、同じくそこにぺたんと座っている小猿の背中が、夕日に寂しげに濡れている。それを見ていると、ふやけて破れそうな心の中で、消えかけた正義感がまたゆるゆると立ち上がり始めた。
 あいつらしつこいな、というタケヒロの声は、いつもの彼のようであって、けれどもはりぼての心許なさが見え隠れしている。
「どこに隠れても、こっちの行くとこが分かってるみたいに出てきやがる。……まるで、どっかから見られてるみたいだ」
 二人は一瞬顔を合わせて、それから辺りを見まわした。夕暮れの空をのぞむ古民家の脇の一角には、他に人気は感じられない。それでも、それも時間の問題だろう、と二人ともどこかで分かっていた。
 気合いの掛け声と共にタケヒロは起き上がって、行こうぜ、とミソラに手を伸ばした。ミソラは座り込んだまま、弱々しく口を開く。
「……夜になるまで僕の家にかくまう、っていうのはどうだろう」
「おばちゃんちにか」
 タケヒロは少しの間だけ、悩むように頭を掻いた。
「……だめだな。おばちゃんはあいつらと知り合いだろ。どのみち、おばちゃんに迷惑はかけられない」
 そうだよね、と呟いて、ミソラは口を閉ざす。時間稼ぎのような沈黙が、黄昏の下にぐずぐずと流れた。
 その中で、小さな影が、不意にのそりと立ち上がった――エイパムは二人に黙って背を向けると、夕日の沈みゆく方向へと、覚束ない足取りで歩み始める。
「俺らにも迷惑はかけられない、ってか」
 低めた声でタケヒロは言った。ミソラもなんとか立ち上がった。エイパムは少年の声に答えず、痩せた影を引きずるようにゆっくりと遠ざかっていく。
 諦めんなよ、と訴えるような、懇願するようなタケヒロの言葉が、一日の終わりに近づくココウの空気を震わせる。エイパムは歩きながら、ぴくり、と耳だけ反応させた。待てって、とちょっとだけ声を荒げて。一歩二歩と、少年がその後を追い始める。
「もうちょっとだよ。ここまで粘ったんだからもうちょっとだけ頑張ろうぜ。きっと何か策があるはずだ……」
 エイパムの体が硬直したのは、そこまで言った時だった。
 突然の光が網膜を焼いた次の瞬間、銃声のような激しい音が轟いた。紫が弾け飛んだ。それは真っ直ぐタケヒロの胸に突き刺さって、衝撃のままにタケヒロは仰向けにひっくり返った。
 息を呑む間もなかった。立ちすくむミソラの足元からリナが駆け出し、エイパムを抱えうずくまるタケヒロの横で軽く飛び前転、興奮した背の棘を打ち出すように『毒針』を乱射する。その奇襲をやり過ごすようにして死角から現れたしなやかな黒い影の、鮮烈な白のたてがみから、青い雷火が飛び散った。
 雷鳴が走る。避けようと跳躍するニドリーナの動きを見切ったように加速した『電撃波』が、ニドリーナの真正面からそいつを打った。
 爆音と悲鳴に、ミソラは目を背けた。
 ずさっと相棒が地に落ちた。タケヒロの呻き声と、リナの息遣いと、荒い蹄の音と。――ミソラが顔を戻した時、目の前に立ち塞がっていたのは、黒い体躯に白のラインを迸らせた、初めて目にするポケモンであった。そして、その背から慣れた動作で降りる人間もまた、あの男より幾分鋭利な顔つきをした、見覚えのない人物。
 彼の左腕に括り付けられた腕章を見るまでもなく、タケヒロは庇うようにエイパムを抱きしめた。その光景を無感動に見下して、男はミソラへと顔を向けた。見慣れぬ髪と目の色の子供は、怯えたような瞳を震わせるばかりである。その足元のニドリーナは唸り声さえ上げるものの、もう飛びかかってくる気配はない。
「睨むだけか。……とうとう逃げる気力も失せたようだな」
 低い、抑揚のない男の声は、嘲笑するでも蔑むでもなく、ただただ感情の色がない。
「諦めない心は大事だ。しかし、君達も大人になるにつれて、徐々に学んでいかなければならない。無謀な望みを切り捨てることも、それと同程度大事だと言うことを」
 苛立ちを噛み潰すように歯を食いしばる少年の前で、男は例の黒い機械を取り出し、子供たちへとそれを示した。携帯機の上部にはめられた液晶の中央には、何やら赤い星型のマークが、今もせわしなく点滅している。
「そのエイパム、発信機がついてるぞ」
 その無情な響きに。子供たちは思考を止め、エイパムはその意味さえ理解できない様子であった。
「君達はよく頑張った。だが、最初から逃げる場所などなかったんだ」
 じり、と砂が鳴った。静かに迫りくる敵手に、彼らは萎縮し、唸り、ただ睨め付けるばかりである。
「ポケモンをこっちに寄こしなさい」
「嫌だ」
「聞き分けのない子供だな……」
「絶対に渡さない!」
「ゼブライカ」
 声と共に足元に光が爆ぜた。掠るように放たれた電撃、噛みつかれるような鋭い刺激に体が跳ねて、駆ける痛みがむやみに子供らの恐怖を煽り出す。人に向け『電磁波』を浴びせようとしたゼブライカの、ポニータのそれより何倍も凶暴な目が、人にすがりつく紫の獣を睨んだ。
「……大人しく、言うことを聞かないなら……」
 ――スッ、と子供たちの背後から躍り出たものを、男は目で追う事しか叶わなかった。
 まるで子鼠のようであった。ミソラの顔の横をすっ飛んでいった小さな物体は、地面に着陸するとぎゅんと旋回し、男の足元を素早く駆け抜け、ゼブライカの放つ雷撃をいとも容易く掻い潜った。小石にぶつかるとカッと音を立てて浮き上がり、滑るように一度脇の塀に当たって、道の中央へ向かって弾け跳躍。その間一つ瞬く程度。青白い軌道を描く円錐状の物体が迫りくるのを、男は咄嗟に手を構えることしかできなかった。
 固い物が衝突する音、鈍く擦れ合う音と、パキッ、と軽い破壊音。
「ッ!」
 男が手を引いた。同時にこちらへ跳ね返って来た物体に、二人は思わず顔を伏せた。

「――今、ゼブライカにこの子たちへの攻撃を命じたのはあなた?」
 降り注ぐ声に。ミソラもタケヒロも、はっ、と顔を上げた――眉根を寄せるリューエル隊員から二人を守るように目の前に立ち塞がったのは、対する敵より幾分小柄で華奢な、しかし猛禽の如き鋭い威圧感を兼ね備えた、目の冴える赤色の制服に身を包んだ女であった。
「レンジャーさん……」
 息を切らしながらミソラはそれだけ零し、タケヒロはエイパムを抱えながら恍惚としてその背を見上げるばかりである。女レンジャーは振り向かず、ただ冷やかに男を見つめながら右腕を手前に構えた。
「ポケモンの技で人間を傷つけてはならないって、この子たちくらいの年齢でも皆知ってることだけど……おじさま、まさかご存知なかった?」
 挑発的に言葉を並べる女に、ゼブライカが逆立てたたてがみから僅かに青い火花を散らす。それに一歩下がるように命じてから、リューエルの男は自らの手元へと視線を落とした。――飛びかかってきた『駒』を防ぐために盾にした黒い受信機のモニター部は、衝撃にひび入って機能を喪失している。
「……駆け出しの若輩かと思いきや、相当な手練れと見える」
 レンジャーは口元だけ微笑みながら、先手を食わせた『キャプチャ・ディスク』をスタイラーの元の場所に取り付けた。
 夕闇の足音の聞こえ始めた路地裏で、未だ熱の籠った風が低く冷たくその場に咽ぶ。重石と化したその受信機を、わざとらしい動作で男は地面に放り捨てた。ごつ、と響く鈍い音が、大きく目を開くエイパムの体をびくりと震わせた。
「ココウに駐在のレンジャーがいるとは聞いてないが……君はこの町にいながら、このような有害なポケモンを長年野放しにしていたのかね」
 男の言葉に、レンジャーはショートパンツのポケットの中へと右手を入れた。
 そこから取り出されたのは、折りたたまれた一枚の印刷用紙である。びっしりと刷り出された小さな文字に、男は暫し顔をしかめた。
「そこのエイパムの駆除に関する、初めての正式な依頼文書です。日付は今日! ポケモンが有害かどうか判断するのは、私たちの仕事ではないわ」
 瞬間、男の背中の方から、高い声が悲鳴のように渡ってきた。
「――ロッキーッ!」
 ふと振り返った男の顔の横を、キャプチャ・ディスクよりも随分大きな球体が尾をなびかせながら掠め通った――肩に飛びかかり、尾をするりとレンジャーの首元に巻きつけたチリーンは、そこで何かに気を吸い取られるようにしてすとんと眠りに落ちてしまった。
 ミソラ達から見た、リューエルの男を挟んで向かい側。チリーンが引き連れてきたのは、エイパムをいつも従えていた、あの子供たちである。
 先頭に立つ一番背の高い少年と、それに手を引かれているあの女の子の姿を見て、タケヒロは目を見張り、エイパムはぱっと表情を輝かせた。タケヒロの制止も聞かずにエイパムはその腕を抜け出した。多くの瞳が見守る中、一心にエイパムは駆けていく。嬉々として主たちの方へと伸ばす手は、男の脇を抜け、ゼブライカの脇を抜け――ようとしたところで、
 鼓膜を突くような二度目の音に、いとも容易く射抜かれた。
 石ころか何かのようにエイパムは弾き飛ばされた。塀にしたたかに打ち付けられ、先刻のようにずるずると地に落ちたエイパムの姿に、女の子は何か喚き、その横の少年が――また女レンジャーが、その光景に固唾を飲んだ。
 男はアヤノがしたのと全く同じ動作で、電磁波の痺れにぴくぴくと痙攣するエイパムの首根っこを掴みあげる。やめてっ、と幼い声が叫んだ。それは先刻のその子よりも、極めて強い態度であった。
「ロッキーを返して! あたしたちのポケモンなの!」
 あまりにも悲痛な、普通の感覚ならばきっと琴線を強く揺さぶった幼子のその声に、男は、蔑む冷酷さを持って眼を向ける。
「無理だ。こちらにも依頼書がある。市民の安全を守るためにこのポケモンを捕獲することが、我々の使命なんだよ」
「なら、これで捕まえる!」
 そう言って少年が突き出した右手の中のものに、ようよう表を上げたエイパムは――目を見開き、悲しげに口元を歪め、そして小さく唇を噛んだ。
 赤と、白の。表面に入った傷からして、きっと安いものであろうが――ポケモンとトレーナーの関係を示す一番の形、とタケヒロの語った、エイパムがそれを盗もうとしたことが発端であって、それに光になって吸い込まれることを夢にまで見た、あの。
 暖かな夕日を吸い込んだモンスターボールの輪郭が、自らのために用意されたその『容れ物』のきらめきが、エイパムの揺れる瞳に映り込む。
「どこかから盗ってきたか」
 小さく嘲笑うような男の発言に、違う、と少年は努めて興奮を抑えるように拳を握った。
「売れるものは金にして、ちゃんと買ってきた。ボールで捕まえれば、ロッキーは俺らのポケモンってこと証明できるだろ? そしたら俺らは同罪だ。今までやってきたこと全部責任取るし、もう二度と悪いことはしないって約束する。だから、そいつだけ連れて行くようなことしないでくれ」
 言い終えると、暫し沈黙が走った。
 あいつら、と感慨深そうにタケヒロは零す。男は少年から目を外し、元の方へ振り返った。左手を右腕の『商売道具』に添えたまま、険しい顔つきで事の次第を見守っていたポケモンレンジャーへと、ひどく乾いた視線を送る。
「……君なんだな、この汚いガキ共に要らん知恵を与えたのは」
 レンジャーは反応をしないまま、真っ直ぐに男の双眸を見据えた。最後まで、彼女は顔には出さなかったけれど――この先に訪れるであろう展開を容易に想像できてしまうこと、それなのにきっとどうすることもできない自分を思って、まだあどけなさの残る胸中には、火の点いた自虐心が互いを食いつぶすように蠢いていた。
 少年から顔を背けたので気を抜いたと思ったのだろうか、エイパムはここぞとばかりに尻尾を振り回し男の腕を抜け出した。ゼブライカの顔面へ飛びかかって『驚か』し、それが怯んだ隙に主たちの待つ方へと飛び込んでいく。少年が慌てて右手を引き、いけっという掛け声と共に不慣れな動作でボールを投げた。エイパムの名を呼ぶいくつかの声が、焦って、しかし幾ばくもの期待と安堵の色を交えて、ココウの一角に響き渡った――その残響を切り裂く光が、エイパムの『背中側』から発せられた。






  
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