リューエルか、というタケヒロの低い呟きに、ミソラは小さく頷いた。こちらを見とめるなり、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべてポニータから降りた人物――アヤノ、の左腕、高慢な装飾の施された腕章に仰々しく刻印された組織名は、確かにそれを示している。
 興奮したように鼻息を荒げ、何度も足踏みをするポニータの蹄が、秘密基地の『屋根』を苦しげに軋ませている。燃えているように見える子馬の背中を優雅にさすると、アヤノは眼鏡の向こうの瞳を穏やかに弛ませた。
「おや、かわいらしいカップルだ。……この辺りにエイパムが逃げ込んだみたいなんだけど、君たち見なかったかな?」
 その言葉の前半分をミソラが掴みかねている間に、知るかよ、と棘のある声でタケヒロが返した。そこまで来てから、先程秘密基地の中に滑り込んでいった長い尻尾の持ち主が例のエイパムであったことに、ミソラはようやく思い当たる。どうして隠すのか、と言うようにミソラは隣の彼を見たが、少年の双眸は敵の視線を逃そうとしない。
 冴えた日差しの落とす強烈な光陰を踏みしめたまま、片側のみが放つ険悪な雰囲気が不自然にその場を浮遊している。
 今にも噛みつかんという表情の孤児(みなしご)らしい風体の子に、アヤノは小さく溜め息をついた。
「見かけたら、おじさんに知らせてくれるかい?」
 金髪の方がこくんと頷くのを見ると、男は満足気に背中を向けた。
 影が過ぎ去り、ポニータの発していた熱が拡散して消え失せてからも、心臓はいつもより小刻みに躍動を続ける。落ち着こうと両手を胸にやりながら、ミソラは再度タケヒロを見た。そういう型がつきそうなほど眉間にしわを寄せていたタケヒロもその顔のままミソラを見、はぁっと脱力して肩を落とした。それから二人は揃ってゆっくり、先程男が乗っていた家屋の残骸の下へと目を移した――秘密基地の入り口であるぼろ布と地面との合間から、エイパムの丸い瞳が覗いていた。
「……お前、何か悪いことでもしたのか?」
 そう言って、あぁそうかいつも悪いことばっかりしてるか、と訂正を入れるタケヒロには構わず、エイパムはそこから顔だけ出し、あからさまに怯えた表情でくるくる辺りを見回すと、ギギギッと鳴き声を上げながらスラムの奥へと逃げていってしまった。
 エイパムが行ってしまうと、何事もなかったかような喧騒が二人のもとに戻ってきた。
「……追われてるのかな?」
「だろうな。ああいうポケモンを始末するのが、あいつらの仕事だ」
「始末……」
 冷静を取り戻したように振る舞いながら、タケヒロはぎくしゃくと歩き、屈んで、おぼつかない手つきでぼろ布をはぐった。エイパムが突っ込んでいった基地中の被害を確認しているらしい。
 ほっと胸を撫で下ろすような気持ちの中にも、何か煮え切らないものが蠢いている。先日、コジョフーに追われてハヤテと町中を逃げていたとき、エイパムが飛び出してきて助太刀してくれたことを、ミソラは思い出していた。晴天の下、いつも通りの渇いた風が流れる合間で、子猿の逃げていった方向を眺めど、その様子を窺うことはもうできない。このままだとあのエイパムは、どうなってしまうのだろう。悪そうな人ではなかったけれど、でもなんとなく裏のありそうなさっきの男に捕まったとして、そのあと、痩せて『骨と皮』みたいなあのエイパムでさえ、『下種っぽい』研究に使われてしまうのだろうか……
「ねぇ、タケヒロ」
「んー?」
「エイパムの飼い主の子たち、このこと知ってるのかな」
 ぼろ布の向こうに上半身をつっこんで、こちらに顔を向けないまま、タケヒロはぶっきらぼうに返事をした。
「どうだろうが関係ねぇよ、あんなやつらの事」





 かくれんぼというのが、自分の中で、その頃専らの流行りだった。
 ソファの裏や、客間の押し入れ。台所のシンクの下までもが、家じゅうが日々の冒険の舞台だ。体を滑り込ませ、時には無理にねじ込んで、そして、静かに息を潜めている。薄ら闇の中で小さく膝を抱え、目を閉じ聴覚を研ぎ澄ませ。鬼の到来に怯えるでもなく、ただただ胸を高鳴らせて――見つかってしまうまでの、いつもの生活空間から一人浮遊していく感覚は、何度やってもたまらなかった。
 鬼役の帰宅は、決まって午後七時三十分。ドアノブの捻られる音と共に潜伏行動を開始するのが、二人の間の暗黙のルール。今日はリビングの棚の物陰、角度によっては一発で発見されてしまう場所に身を寄せて、顔を覗かせ廊下を窺う。鬼の足音が迫ってくる。あと、五メートル。三メートル……。
『ただいま。……なんだ、今日もトウヤは隠れてるのか』
『早く見つけてあげてよ?』
 母の笑い声は、自分が身を隠す方とは反対側へと飛んでいる。その声の方へと、鬼の足音は遠ざかっていく。台所へ探しに向かったか。
『こっちだよ!』
 短く呼ぶと、おっ? と小さく声がして、鬼がこっちに向かってきた。緊張と期待感とがきゅっと体を縮こめる。迫りくる、三メートル、二メートル、一メートル――ガタッ、カタン、というのは、見なくても分かる、立て付けの悪い庭先の窓が開く側へと動く物音だ。鬼の視界には、今、夕暮れの庭を臨む窓の、不自然に膨らんだカーテンが映っているに違いない。
 鬼が鼻で笑った。足音が自信ありげに早まった。よれよれのジーンズに包まれた二本の足が、棚影に隠れていた自分の前を、かなり間抜けに通り過ぎた。無防備に背中を晒し、うごめくカーテンの方へと向かっていく。鼻で笑いたいのはこっちだ。けれどもそれを押し殺して、すっと立ち上がる。こちらを観察している母が、にやにや笑みを浮かべている。そんな母に向け、立てた人差し指を唇に当て破顔すると、過ぎ去っていった鬼の背中を、そうっと、そうっと追いかけて――そろそろカーテンの向こうから、サボネアのハリが顔を出した頃か。あれっ、と鬼が言った瞬間に、その首元へと勢いよく飛び付いた。
 ウワァッ、と悲鳴を上げて、鬼だった父は危うくバランスを崩しかけた。執拗にしがみついてくる倅(せがれ)を体勢を直し背負い上げて、ハッハッハ、今日はしてやられたなぁ、と父は笑った――仕事帰りで疲れていたろうに、毎日毎日くだらない遊びに付き合ってくれていた父のことが、好きで好きで、たまらなかった。
『父さん聞いて、今日学校でついに十連勝した!』
『うおぉ、そりゃ凄いぞ。俺の子供とはとても思えない』
『相性だって悪かったのに、ハリめちゃくちゃ強いんだ』
 そうかぁ、凄いなぁ、と感慨深げに漏らしながら、背中の大荷物をソファに降ろす。隣に腰かけると、帰宅してすぐの父の服には、いつだって煙草の匂いが染みついていた。父親の代名詞のようだったその匂いは、傍にあると、なんとなくにも安心していた。
『ハリも凄いけどなぁ、トウヤも凄いんだぞ。トウヤがポケモンのこと友達よりずーっと勉強してる、その成果がバトルの成績に現れてるんだな』
『そんなことないよ』
 褒められると照れくさくて、ソファに行儀悪く寝転がった。傍に、丸くて小さいハリがとことこやってくる。強くて賢い相棒の頭をぺたぺた撫でているとき、父は決まって、少し嬉しそうな顔をした。
『トウヤ。ポケモン好きか?』
『うん!』
『じゃあ将来はポケモンマスターだな』
 自分で言っといてワハハと父は笑って、ナイナイ、と母も呆れて笑った。二人の笑い声にちょっと驚いたのか、ハリはぱちぱちと瞬きしている。釣られるように、自分も頬を知らずに緩めて、けれど……そういう夢もありだろうか。思うに、ハリはきっと、バトルに向いている個体なのだ。まだどうだか分からないけれど、戦うのが好き、かもしれない。――でもなぁ、と思わず本音が零れて、なになに、と父親がこちらを見た。
『戦うより、本とか読んで勉強する方が、今は好きだな』
『そうなのか?』
『だから、ポケモンマスターより研究者になりたいんだ。父さんや母さんみたいに、いろいろ研究して、ポケモンの分かってないとことか調べてみたい。うん、それがいいなぁ。大人になったら、父さんと一緒にリューエルで、』
 がばぁっ、と父親が抱きついてきて、急に目の前が塞がれて、口も塞がれて、鼻から吸った煙草の匂いが、胸の方へと落ちていって。きつくきつく締め付けられるほど、息苦しさと、切ないくらいの充足感とが生熟れの思考を圧迫していく。ギブアップ、とバンバン背中を叩いても、しばらく離してくれなかった。母の呆れたように何か言うのと、誰かが階段を降りてくる音。嬉しいこといいやがって、こいつめぇ、という弾んだ父の声が、やたらと鮮明に頭に残った――


 ――名前を呼ぶ声を聞いて、トウヤはふと瞼を上げた。
 視線の先、ずっとずっと先、青く茂った草原に紛れて、ノクタスのハリが佇んでいる。いつの間にあんな遠くへ行ってしまったのだろう。その原因をすぐに察知して、トウヤは浅く息を吐いた。およそそれほど遠くではない煙草の匂いが、彼らの前を掠め通った。
 ココウの町の外、ぼうぼうと群れる植物群落のさなかにある、交通用の狭い砂利道。そのど真ん中に寝そべるガバイトのハヤテにもたれかかっていたトウヤは、町の方角へと顔を向けた。よぉ、とそこで右手を上げたのは、彼の大柄な友人であった。
「こんな所で会うとはな」
「物思いに耽るのが本当にお好きだな、トウヤは。何回呼ばせれば気が済むんだ」
 リューエルが来てたな、外に逃げていると思った、グレンは立て続けにそう言った。やはりその話かとトウヤは苦笑を浮かべた。大男が声もかけずにどすんと背中に腰を下ろすと、ハヤテは驚きはしたようだったが、変な抵抗は見せなかった。
「別に、逃げてきた訳じゃない」
「それはそれは。吸うか? ホラ」
 差し出された煙草とライターとを見とめると、トウヤは一瞬、従者の方へ目を移した。案山子草の相棒の影は、そうしている間にも、一歩、また一歩、と若緑の海原へ遠ざかっていく。――どことなく不躾な動作でそれをボールの中へ戻すと、友人の勧めるものを受け取るだけ受け取った。
 さえずり、と呼ぶにはおこがましい甲高い鳥類の鳴き声が、草原の何処かから響いている。白濁した呼気をフーッと吐き出すグレンを横目に、トウヤは今手にしたものをしばらく掌で持て余していた。
「……腐っても田舎なんだ。嫌な思い出ばかり、って訳でもなくて」
「ほう」
「むしろ、あの頃は……毎日楽しくて……」
 なのに、と言い淀むトウヤの隣で、グレンは黙って煙草をふかし続ける。
 口をつけばつくほどに、煩わしい塊が脳内を黒く席巻していく。落ち着かず足を動かすと、ハヤテが不思議そうにこちらへ目を向けた。子供の時から連れていたハリとは違って、ハヤテは彼がホウガの町にいた時代のことは何も知らない。どうして主人が滅入っているのかなど、おそらく知る由もないだろう。小首を傾げ、何か気になることでもあるの、と問いかけるような無垢な瞳が――それさえもが、しかし、遠く回想の世界へと彼を誘い引き摺っていく。ハヤテの黄色の双眸から、トウヤは気まずそうに目を逸らした。
 『大人になったら、父さんと一緒にリューエルで』――あの時、その後、自分は何と言おうとした?
 ここ数年の自分の行動を思い起こすと、居ても立ってもいられぬような羞恥の念に襲われる。馬鹿らしいことをしている、というのは自分でもよく分かっている。レンジャーに情報をせがみ、彼女がやるはずの依頼をこなして、旅人と呼ばれるくらいにぶらぶら町を跨ぎ歩いて。そうしながら、リューエルの活躍の足跡を追いかけ、だからと言って何をするでもなく、それを遠くから眺めている。死んだ父親の、母親の、過去の自分の影を見る組織に、決して近づくことはできず、かといって遠ざかることもできず。まるで亡霊か何かのように、いつまでもいつまでも付き纏って――何がしたいのよ、と言った先ほどの女レンジャーの言葉が、今になって深く胸を抉り始めた。
 ……何か言いかけた、と思ったらまた一人の世界に籠り出したトウヤをまじまじと見、グレンはもう一度息を吐いた。それから、煙草の先に留まっている灰をとんとんと落とした。
「暇なら一戦するか?」
「そういう気分に見えるか」
「つれない奴だな。じゃあ俺の話を聞け」
 打って変わって陽気な声がしゃべり始めた瞬間に、ハヤテは大きく欠伸をした。
「この間家の前に宅配が置き去りにされてて何かと思ったんだがな、なんのことはない中身はただの手紙だった。例の文通相手だよ。それで、また久々にやりとりを始めた」
「文通?」
 訝るようなトウヤの返事に、なんだ覚えてないのか、とグレンは大袈裟に肩を落とす。
「前話しただろ。子供の時に一回だけ会って、それからずっと手紙交換してた美少女の話だ。先日の遠征先でたまたま再会してな、その場で意気投合! という訳だ」
「へぇ」
「もっと聞いてる風な相槌打てよ。それでその大人になった美少女というのがだな、相も変わらずなんというかこう、非常に見るに悩ましい……前にこう、」自分の胸の位置で両手で大きく円を描き、「どーんと……グラマラスな……」
「あぁ、思い出した」
 嬉しそうに説明するグレンに、感慨も何もなさそうにトウヤは一言投げた。
「前も言ったけど、その話には興味ない」
「阿呆、俺だってお前の話になんぞ興味ないわ」
 大男があまりにも興奮気味に体を揺らすので、椅子代わりにされている小竜はむっと嫌そうな顔をした。
「いやぁな俺にも女の趣味というものがあるが、彼女クールビューティーというかなんというかなぁ、サディスティックな目つきがなぁ辛抱たまらんのだよ、おい分かるかこの気持ちが」
「残念ながら」
「そうは言ってもお前だってこう、多少はグラマラスな方が好きだろ、なぁ?」
 そうしてぐっと身を乗り出し露骨なまでのいかがわしさを漂わせ、にやついて肩に手まで回してきた友人のその言葉に――どちらかと問われれば十中八九の人間が『スレンダー』だと答えるであろうレンジャーの体型を思い浮かべつつ――、トウヤは仏頂面で返事をした。
「そうですね」
「……最近思うんだが、お前って相当年下好きだろ」
「は? 何を根拠に……いや、だからミソラは」
 そうして、あぁ、と不意に呟き、何やらニヒルな笑みを浮かべたトウヤの足元で――暇を持て余したハヤテは片前足で地面を掘り返し、そこに埋まって眠っていたツチニンを見つけて体を強張らせているのである。
「年下も何も、ハリはポケモンの十四歳だからな。人間で言えば」
「おいよせ、お前が言うと本気に聞こえる!」
 クツクツと肩を揺らしながら、グレンは改めて煙草に口をつけた。トウヤも鼻で笑いながら腕を組んだが、その下でハヤテがオロオロと首を回していることには双方気付かない。
「そうと知っていれば、もっとロリータっぽい子を紹介してやるのになぁ」
「ポニータ?」
「ロリータ」
「ポニータだか何だか知らんが……」
「ロリータだ」
「グレンの知り合いにろくな女がいないことは、僕だってよく知ってる」
 嫉妬は見苦しいぞ、と笑いながら立ち上がって、グレンは不意に視線を落とし――今自分が椅子にしていたポケモンが、地面を相手に瞠目して小さく唸っていることにようやく気付いた。それから、そんなことには感付く気配もないそれの飼い主が、その背に今し方全体重を預けたことにも。
「嫉妬だ? 僕がいつ君に嫉妬したって言うんだ。グレンの連れてる女なんかに僕は本当に興味ない。だいたい僕にも」
 あ、とそこからそれだけ言って、トウヤの体は前にぐらりと傾いた。背中側からその肩を突き飛ばした後、グレンは左足をハヤテの鼻先へと伸ばし、そこでどすんと地面を踏み鳴らした。眠っていたツチニンがぱっと目を開けた。そして目前に迫っていたガバイトの顔に、反射的スピードで爪を振り上げた。
 ギャァッ、と叫び声をあげて、ハヤテは後ろっ跳びに身を引いた。ただでさえバランスを崩していたトウヤは、従者の唐突な動きに殆んど成すすべもなく、その背に弾き飛ばされるように砂利道へと転がり落ちた。
 睡眠を妨害されたツチニンは慌てて草原の中へと逃げ込んでいった。地面に座り込み、打ったらしい右肩をさすりながら無言で睨みあげてくる痣の男、その傍らを完全に怯え切った表情でうろついているドラゴンポケモンを見、グレンは馬鹿笑いを響かせた。
「しょげた顔ばかりしてると、寄ってくるものも寄って来ないぞ!」
 一人と一匹の見上げている前で、グレンはもう一度煙草を吸うと、それを地面へと投げ捨てる。
「……苗字は捨てろと言っただろう。忘れたか」
 低く、小さくそれだけ言うと、男は背中を向けて歩き始めた。
 最後の言葉が喉元を閉塞して、去っていくグレンに、トウヤは何も言えなかった。おろおろと顔色を窺ってくるハヤテの鼻先を撫でて、気をつけろよ、とそれに目線で指し示す。男の残していった吸い殻からは、まだ白い煙が昇っていた。
 握りしめていた右の掌に違和感を感じて、開いてみると、最初に貰ったライターと、少し歪んだ白い筒がそこにひっそりと収まっていた。いつからかその匂いを嫌い始めた彼女を気遣うように、トレーナーベルトのボールの一つ目を何度かなぞる。それからハヤテの見つめる中で、咥えた煙草の先に不慣れな手つきで火を着けた。
 目の眩むような感覚に、少し眉根を寄せる。それでも深く吸い込むと、遠い記憶の父親と、今去っていった男の影とが、内側から燻ぶるものを締め上げて、すぐに消えた。





 屋根の上に、小さな影が揺れている。

 金属音とともに暫く火花を飛び散らせて、工具屋の男は息をつきながらゴーグルを上げた。溶接し終えた配管を確認し、ちらりと横目に軒先を窺う。修理を終えた中古のモンスターボールが一つ、日の当たる位置にぽつんと転がされている。
 日光にきらりと光を放っているそれに対して不審げに目を細め、通りを行く人々の喧騒にふいと背中を向けたその時――表に物音を感じて、男は咄嗟に振り向いた。
 上方からするりと滑り降りた小柄な獣が、長い尾を使いボールを掴むと、ひらりと身を翻し再度上方へと消えていく。
 舌打ちし工具を投げ捨て、男は軒先へ駆け出した。それと同時に人通りの一角から鋭い声が飛んだ。
「電光石火!」
 ぱっと飛び上がった四足のポケモンが人々の頭上を越え、慌てて屋根を跨ごうとしていた紫色の小さな盗人――エイパムの背中へと突き刺さった。
 悲鳴を上げ吹き飛ばされる直前に、カウンターの如く振り下されたエイパムの尾が四足の獣の体側を打つ。相打ちの形で横道へと落下した二匹であったが、そこからの挙動はエイパムの方が幾分早かった。ボールを掴んだまま細径へ逃げ込んでいくエイパムを、四足の獣は立ち上がり眺めるに留めた。それを見、悪態をつく工具屋の肩に、ぽんと掌が掛けられた。
 人通りの中に紛れていたアヤノは、寄ってきた水色の獣の頭を撫で、その口に咥えていた小さな機械装置を受け取った。そうしてどこからか小型モニターの嵌った黒い機械を取り出すと、眉をひそめる工具屋の男へと、余裕綽々と笑みを浮かべる。
「必ず捕まえますよ」

 ココウ西部へと急ぎ駆け抜けるエイパムの背中には、注視しなければ気付けぬ程度の微細な仕掛けが張り付いていた。






  
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