客人達の去った後には、ひどく憂鬱な静けさが残った。
 抵抗するサッシをこじ開けると、暗く淀んだ二階の一室を、夏色の風が懐柔していく。栗の猫毛を掻き上げ、乾いた空気を吸い込むと。明朗なれど、息苦しい。日射に熱された屋外の空気は、想像以上に重く、気怠く。
 目下に広がる茶色か灰の、ごちゃごちゃとした色彩は、乾きひび割れた地面の如く無秩序に眺望を描いている。水気に飢えた砂漠の街に、鮮やかな緑の装いはない。下界の愚かな若人に取れば、それは最早、然るべき景色に他ならずとも――彼女の瞳に映り込むは、在りし日の、それもまた情け容赦ない烈日の下。
 草叢を分け、小枝が手に爆ぜ、ぷつぷつと血が滲んでも。
 声を嗄らし、涙を涸らして。求める何かへ、ただ闇雲に手を伸ばす。熾烈なまでの昂ぶりと、形容し難い心細さの合間で、取り憑かれたように少女は走る。指先からすり抜けていった、とても大切なものがあって、どうしても取り返したいものがあって。躓き、転んで、泣きじゃくって、それでも立ち上がる少女の肩に。ぽん、と置かれたのは、子供がそれを受け止めるには、幾分重すぎた大きな掌。
 その男の声に曰く。
『全て、ポケモンのために在れ』
 少女は血走った双眸を上げ。
『全て、自然のために在れ』
 乾いた唇を小さく噛み。
「……全ての、市民のために在れ……」
 ――最後の一節を零すように呟くと、窓を閉ざし、女レンジャーは階下へと踵を返した。





 道中急に立ち止まったタケヒロに手を取られて、わ、わ、と声を漏らしながらミソラは誰かの家の庭の方へと引き摺り込まれた。
 幸い家主は外出中のようであるが、タケヒロは遠慮なしに敷地内を踏み入っていく。それから塀の近くへ腰を下ろすと、ミソラへもそこに座るように促した。連れ歩いていたニドリーナのリナを抱きかかえるようにして、渋々とそれに従って座る。
 どうしたの、と問いかけるのに被せて、静かにしろ、とタケヒロはジェスチャーを送ってくる。それから、黙って塀の方へと視線をやった。
「ロッキー帰ってきた!」
 突拍子もない誰か女の子の、それもすぐ傍からの声に、ミソラは肩を窄めてタケヒロを見た。タケヒロは神妙な顔で頷いた。どうやら声の主は塀の向こう側にいるらしい。
 二人は耳をそばだてる。声は複数、どれもおそらく子供のもの。そして、それだけではない。人でない何かが駆け寄ってくる小さな足音、続いて、キャッキャッという甲高い鳴き声も。聞き覚えがあった。先ほど出くわしたエイパムの声だ。確かあのエイパムは、馴らされている捨て子の子供たちに『ロッキー』という名前で呼ばれていた。
「ロッキーお前、どこ行ってたんだ?」
「あっ、これ……!」
 その時、足の間のリナが突然唸り始めて、ミソラは慌ててその口を塞いだ。リナが姿勢を低くして睨んでいるところ、塀と地面との境目の一点から、僅かに光がこぼれている。ミソラは目を丸くして、リナを押しのけるようにしてそこへ顔を近づけた。
 ……見える見える。しかも物凄く近い。子供たちの棒切れみたいな細い足と、嬉しそうに長い尻尾をくねらせているエイパムは、ミソラの鼻先から一メートルに満たない場所に立っている。
 進んでそうしているのは自分なのに、体が強張り息が詰まった。なんだか、よくないことをしているみたいだ。
 エイパムが子供たちに手渡した何かが、日差しにきらりと反射している。紅白の球。なるほど、モンスターボールか。どうやら中古のものみたいだが、あのエイパム、ついにどこかから盗み取ってきたのだろうか。
 お、そっから見えるの? と囁きながらタケヒロまで顔を寄せてくるので、覗き穴の前は混雑した。リナは早々に見るのに飽きて、ぶらぶらと庭先をうろつき始めた。
「これ、モンスターボールじゃん」
「凄いよロッキー!」「よくやった!」
 子供たちが次々と歓喜の声を上げ、女の子が一人しゃがみこんでエイパムの頭を撫でた。エイパムはにんまりと笑顔が隠せない様子だ。ボール一個買うのも結構高いからなぁ、とタケヒロは呟き、そうなんだ、とミソラは心の中で返事をした。声を出すのも忘れるくらい、覗き行為の背徳感に胸が躍っているのである。
「これを換金すれば、飯がたらふく食えるぞ!」
 誰かが言って、全員がそれに賛同した――ただ一匹、エイパムだけがその声に尻尾の動きを止め、みるみるうちに顔から表情を落としていった。
 喜びからのその一転は、事情はミソラには知れないにしろ、見るに余りに残酷だった。エイパムの頭を撫でていた女の子も立ち上がってしまうと、もうその小猿に向けられる目は塀の外には一つもない。そうじゃない、と言うようにふるふるとエイパムは首を振ったが、腹を空かした捨て子たちはそのことにちっとも気付かない。
 かと思うと、急に歓声が静まって、重い沈黙が流れ始めた。一体何事か、考える間に、コツコツと固い足音が近づいてくる。反して日焼けした少年たちの足が、一歩、二歩、と視界の右手側へと後退していく。ボールを握っていた子が、それを咄嗟にポケットへ捻じ込んだ。
 ついにミソラの目にも左側から映り込んだのは、まずは黒い蹄、薄黄色のしなやかな前足――そこに燃えている赤い炎、であった。
「今入れたものを出しなさい」
 大人の声。その聞き覚えに戦慄が走る。やってきたポニータの背中から、男が一人彼らの前へと降り立った。彼の登場によってミソラとタケヒロの緊張は、今最高潮へと達していく。紛うことなくその声は、タケヒロの秘密基地で遭遇した、エイパムを追っていたリューエルの団員のもので――アヤノは怯え固まっている子供たちへとあえて柔和な笑みを見せ、そして眼鏡の奥の眼光を鋭く尖らせた。
 捨て子たちのリーダー格である一番背の高い少年は、ごくりと喉を鳴らしてから、入れたままにしていた右手を、ゆっくりとポケットから引き抜いた。
「いい子だ」
 受け取ったモンスターボールに損傷がないことを確認すると、アヤノはそう言って少年の肩を叩いた。少年は屈辱的に表情を歪ませた。それを見、隣のタケヒロの拳に僅かに力がこもった事に、ミソラも不意に勘付いていた。
 シャァッと威嚇音が立った。そのやり取りが特別心穏やかでないものが一匹いて、エイパムはくわっと歯を剥くと、タンッと尻尾で地面を打ち、喚声を発し飛び上がった。普段からは想像もつかない獣めいた表情、声。全く動じない様子の男の前で、エイパムは素早く体を回し、『スピードスター』の挙動で尻尾を振るった――その技が発動する前に、男の背後から繰り出された『ニトロチャージ』が、エイパムを弾くように吹き飛ばした。
 エイパムの体が塀にぶち当たって、ミソラとタケヒロは一斉に体を竦ませる。
 しん、と静まりかえった細い路地に、突進を終えたポニータの鼻息だけが小さく渡った。ずるずると地面に落ちた獣は、そのままぴくりとも動かなくなった。失神したエイパムの首根っこを掴みあげると、アヤノは子供たちの前へ、何事もなかったかのようにそのポケモンを提示した。
「君達は今、このポケモンから、これを『拾った』のかな?」
 そうしてもう片腕で、空の紅白球を示した。子供たちは瞠目し口は利けず、頷くこともしようとしない。
「君達も知っているだろうが、このエイパムは商店街でよく悪さを働いている。このボールも元は盗まれたものでね。君達が拾ったものとしても持ち主へ返さないといけないから、おじさんが預かっておくよ。このポケモンも……」
 ぐったりと伸びているエイパムを目の高さまで持ち上げると、アヤノは一人冷笑を浮かべた。
「悪いポケモンだから、いい子にしつけられるまでリューエルで保護することにしよう」
 えっ、と出し抜けに上がるのは、エイパムを撫でていた女の子の声。
 ミソラとタケヒロと、完全に恐れをなしている捨て子たちが見守る中で、アヤノはポニータに言葉をかけると、片手にエイパムをぶら提げたまま、元来た道へと戻り始めた。あ、あ、と震えるか細い声が、去っていく背中を見つめている。大人の左腕から落ちた獣の小さな黒い影が、地面にゆらゆらと揺れている――十秒も経たないうちに、たまらず女の子はその名を呼んだ。
「――ロッキー!」
 背の高い少年が息を飲んだ。アヤノはゆっくりと振り返った。
 その見下げる視線の先には、傍らにすがりつく女の子と、唇を噛む少年と――どれも小汚い恰好の、捨て子と呼ばれる浮浪児達がいる。
「……なんだ」
 場に不相応な微笑みと、ポニータの放つ陽炎とが、真っ直ぐこちらへ戻り始めた。
「この『野生の』エイパムには、名前がついているのか?」
 心臓を突き刺されるが如く、空気は即座に凍りつき。
 体を震わす女の子を、背の高い少年が抱きとめる。再度、エイパムの体を舐めるように見回してから、アヤノは彼に視線を向けた。
「見たところ、ボールマーカーもついていないし、モンスターボールには入れられていないようだけど。もしかして、このエイパムは君達のポケモンなのかな」
 女の子が何か言おうとするのを、少年は黙って制止した。
 暫しの沈黙。男の長い溜め息が、今度はその場を席巻する。
「……そうか、弱ったなぁ」
 コツコツと蹄の音が冷酷に響き、いくつかの細い足はミソラの視界からたじろぐように離れていく。背の高い彼と、女の子との前でアヤノは立ち止まると、腰を屈め、目に涙を溜めている女の子へと視線を合わせた。
「おじさん達はね、ポケモンと人とがより良く暮らしていくための組織で、治安を守るのは仕事じゃない。警察でも、ましてやポケモンレンジャーでもない。だから、人間は裁けないんだ」
 風はなく、強く照りつける太陽が大地を熱し体を焼き、少年の額の大粒の汗が、眉間を伝って滴り落ちる。
 もう一度聞くよ、とアヤノは彼に低く問うた。痩せ細ったエイパムの体を、彼の目の前にぶら下げた。
「この子は、君達のポケモンかい?」
 空白は、ほんの数秒であった。
「違います」
 少年は淀みなく宣言した。――ミソラの隣で目を見張る彼が、今一度ぎりっと拳を握った。
 アヤノは満足気に頷いた。ポニータへと合図を送り、再び踵を返そうとした。瞬間、何かキラッと光るものがミソラの視界右斜め上から飛んできて、アヤノの左肘へと突き刺さった。
「ッ!」
 走った痛みが手を緩ませ、エイパムの体がどさっと地に落ち、女の子の短い悲鳴が路地を抜けた。人の良さそうな雰囲気を一気に変容させて振り返ったアヤノが見る、その『毒のない毒針』の放たれた先――ミソラには見えていない塀の上には今は何の影もなく、代わりにミソラとタケヒロの背後に、とんっと何かが飛び降りてきた。
 ミソラも慌てて振り返った。そこには何食わぬ顔でこちらを見ているリナがいる。
「い、今の攻撃リナがやったの」
 声を潜めつつも焦燥感を露わにするミソラに代わってタケヒロが覗き穴を独占した。その狭い視界の中で、落下した衝撃で目を覚ましたエイパムが立ち上がり、彼らに咄嗟に『砂かけ』をお見舞いした。そして目にもとまらぬ速さで逃亡していく。アヤノは見えない敵手に向けて舌打ちをくれると、興奮し出したポニータに飛び乗ってあっという間に消えてしまった。
 飄々として尻尾を振っているリナの体側を、ぺんぺんとミソラは叩いた。
「だめでしょ、いくら毒が出ないからって人相手に毒針なんか撃ったら」
「――お前! 何言ってんだよッ!」
 背中側で怒声が響いて、ひっとミソラは縮こまった。それから塀の方へ目をやって唖然、そこには二メートル近くはあろうかというその塀を易々乗り越えていくタケヒロの姿が。今の怒鳴りはタケヒロのものか。ひらりと塀の向こうへ消えてしまった友人をミソラも追おうとしたが、どう考えても自分に同じ芸当はできず、仕方なく玄関方向を目指して駆け出した。
「どういうことなんだよ、なんであんなこと言えるんだよ、お前それでも男か!? おい、なんか言ってみろよ!」
 騒動のあった路地に飛び降りたタケヒロは、その勢いのままリーダー格の少年の胸倉を掴んだ。少年は歯を食いしばるばかりで言葉を返せない。ただうろたえる取り巻き達の中で唯一、例の女の子だけが、やめてタケヒロ、と仲裁に入ろうとするも、その声も殆んど声にならなかった。
「何が『違います』だ、お前達のポケモンだろ、ずっと一緒にやってきたんじゃなかったのかよ、なぁ」
「……」
「ッ、あの連中に捕まったポケモンがどうなるかくらい、お前だって知ってるだろ」
「そんなこと、決まってるだろ……」
「だったらなんで助けないんだよ!」
 そこでようやく追いついたミソラが、今にも殴りかかりそうな剣幕のタケヒロに思わず遠くで足を止めた。少年はやはり何も言えず、ただタケヒロを強く強く睨み返した。タケヒロは悔しげに、顔を歪ませ――
「――仲間じゃなかったのかよッ!」
 叫び、少年の体を突き放した。
 彼らを残してタケヒロは駆け出した。呆然としているミソラの手を取ると、エイパムの去った方向へ先導し走っていくリナの後を、全速力で追いかける。
 汗ばみ、微かに戦慄(わなな)く彼の右手が、左手を痛いほどきつく握ってくる。ミソラはあの少年と同じように、何も言わず、言えず、ただただその手を握り返した。






  
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