3 「そもそもあんたたちも、なんで当然のようにうちにいる訳? ピエロくんに家がないからってね、ここは集会所でも子供部屋でもないんですけど」 毒舌の矛先をちょこんと並んでいる子供二人へ向け始めた女レンジャーへ、家くらいあるっつーの、と威勢の良い声が返った。 「リューエルがうろついてんだぞ。いいじゃんか、ちょっとくらい居させてくれたって」 「だったら何? あんたといい、お兄さんといい、リューエルが来てるくらいどうしたって言うのよ」 「そ、それは……だから……」 言い淀んだタケヒロへと勝ち誇った笑みを投げかけると、レンジャーは背を向けて行ってしまった。怒ってるのかな、帰った方がいいんじゃない、という潜めたミソラの気弱な言葉に、少年は相変わらずむすっとしてかぶりを振らない。なんなんだよ、子供扱いしやがって。あいつと一緒にしやがって。 ゴトゴトと音を立てて、大仰な機械が薄っぺらい印刷用紙を吐き出し始めた。その手前、タケヒロとミソラの視線から見た机の脚を挟んだ向こうで、レンジャーはスマートな動作で黒いローブを身からはぎ取り、椅子の背もたれへ引っ掛けた。赤と黒とを基調としたポケモンレンジャーの隊員服では、女の肢体はより締まった印象を持たせる。ミソラが最後のお菓子をもぐもぐと食んでいる間に、タケヒロは首を曲げて机に隠された部分を覗きこもうとした。その前に、レンジャーは機械から紙を引きちぎり、何かを手に取ると、つかつかとこちらに戻ってきた。 「早く帰ってよ。私だって仕事があるの。あんたたちみたいなお気楽なお子様じゃないんだから」 言いながら彼女が右手首へと装着したその『何か』を、おーっと感嘆符を付けながらタケヒロは指差した。 「それ、もしかして、キャプチャ・スタイラーってやつ?」 「そうよ。よく知ってるじゃない」 それってなんですか、とミソラが首を傾げた所で、レンジャーは見せつけるように右腕を差しだした。手のひら大、楕円状の小型機械は隊員服と同じく赤を基調としたカラーリングで、バンドで手首へと固定されている。やや傷の入った、けれど使い古されているようには見えないその機械の指先側の先端から、レンジャーは灰色がかった円錐形のものを取り外した。 「そしてこっちがキャプチャ・ディスク。撃ったディスクを操作してぐるぐる取り囲むことによってポケモンと心を通わせることができる、っていう私の商売道具」 「商売道具……」 「スタイラー持ってるってことは、ねーちゃん本当にポケモンレンジャーだったのか。なぁ、キャプチャ・オン! ってやって見せてよ、ファンサービスだと思ってさ」 レンジャーは黙ってディスクを元の位置に取り付け、左手をスタイラーに添え、右腕を斜め下方へぴしっと伸ばし、興奮気味のタケヒロへとぴたりと照準を定めると、機械側面のボタンをかちっと押し込んだ。 勢いよく放たれたキャプチャ・ディスクが、寸分の狂いもなくタケヒロの眉間に直撃した。 軽い音と奇声が響いて、ミソラは体を強張らせた。足元を暫し回転して、ディスクはすぐに威勢を失った。暴力女、と呻く声を鼻で笑うと、レンジャーはそれを拾い上げる。額を両手で押さえながらも、タケヒロはしかし、その動作のひとつひとつにしっかり目を奪われていた。 「暴力女で結構、これ以上殴られたくなければとっとと退散することね」 ミソラが全部空にしたお菓子の箱を手に取ると、帰った帰った、と声を浴びせながらレンジャーは再び向こうへ行ってしまった。委縮したミソラはタケヒロを見、帰ろうよ、と訴えるが、タケヒロは一人小さく悪態をつくばかりである。 「……クッソ、なんで……」 「どうしたのタケヒロ、さっきから怒ってるみたいに」 不安げに顔を覗きこむミソラには返事もせずに、畜生、とタケヒロはソーダの瓶を握りしめた。 「どうやったらあんな奴に……」 「あんな奴、って」 「こんな……こんな、お世辞抜きにレベル高い彼女ができるんだ」 「……。えっ、え」 一瞬の間の後、目に見えて動転したミソラが何か言う前に、はぁ? と小馬鹿にするような声が飛んできた。奥の部屋からレンジャーが顔を覗かせた。 「今、なんつった」 「え? い、いや……だから……」 「誰が? 誰の? 彼女だって?」 ずかずかと歩み寄ってくる女の眼下で、一人は小さく縮こまっており、一人は目を白黒させている。 「……あいつと付き合ってるんじゃない、の?」 途端前髪を掴みあげられて、いでぇっ、と少年は情けない声を上げた。 ぐいっと引き寄せられた顔が顔へと近付いて、艶やかな紅の唇と、すらりとした鼻筋をなぞってから、迷子の子犬のそれ以上に戸惑った丸い双眸は、相手方の漆黒の瞳に映る己の哀れな姿を見た。黙れ小僧、冗談は顔だけにしとけ、あんまりありえないこと抜かしてるとスズちゃんの念力で捻り潰す、そんな類の物騒な言葉にコクコクとかぶりを振りながら、あぁ、良い匂いがする、タケヒロはそんなことを考えていた。 解放されて、視線を上げたままへなへなと床にへたりこんだタケヒロを蔑んだ目で一瞥すると、レンジャーはそいつへ舌打ちをくれた。 「頼むから変な噂広めないでよね」 部屋の奥の方から、高らかに歌い上げるようなチリーンの鳴き声が聞こえてくる。机に体を預け、不満げな顔つきで送られてきた資料に目を通し始めたレンジャーの前で、ハァ、とタケヒロはため息をついた。ミソラも同調するように息を吐いた。 「びっくりしちゃった、タケヒロ変なこと言うんだもん」 「俺だってびっくりしてたんだからな、前ここ来た時から……」 「もう、早とちりだなぁ」 「いやだってさ普通に考えて……でも、まぁ……なんだ、そうかぁ」 タケヒロはもう一度息をついた。 「よかった……」 「うん……」 女が黙って資料を捲る音と、チリーンの歌声をバックミュージックに、二人の会話はそこで一端ぎこちない間を空けた。 「……『よかった』、って、なんで?」 「は?」 「だってもしそうだとしても、別にタケヒロには関係ない……」 あぁっ、とミソラは手を打って、タケヒロの方へと振り向いた。 「分かった! タケヒロ、レンジャーさんのこと好きなんだ」 う、とタケヒロが小さく呻き、あっ言っちゃったとばかりにミソラは両手で口を塞いだ。 悪いタイミングでチリーンの独唱が途切れた。資料を捲る音もいつの間にか止んでいた。油の切れた玩具のようにぎこぎこと顔を見上げると、そんなタケヒロのことをレンジャーは数秒、さも他人事のように悠然と俯瞰して、 「……へぇ」 にんまりとほくそ笑んだ。 そこからタケヒロは速かった。立ち上がる反射の速さは尻に火がついたコラッタの如く、真っ赤に茹った顔は怒り狂ったマンキーの如く、 「ななななワケねーだろあっありえねー、ありえねーから普通にナシだろお前みたいな暴力女ちょちょちょっとかわいいからって怪我のお応急処置してもらったくらいで別にその、すすすっ、すす好き、と、か……な、なったりしねぇんだからなッワケあるか! アホ! ぜってぇないからなしし嫉妬なんかっぜぇんぜん、してなかったんだからな! 調子に乗んなよ勘違いしてんじゃねーぞ! いいな! じゃ!」 甲高く捲し立てるのは天敵を前にしたペラップか何かか、身を翻し猛ダッシュで屋外へと逃げていくのは尻尾を巻いたニャースさながら。あっという間に姿を消したタケヒロを囃すようなバラード調の歌声が、チリーンがいるらしい方から流れ始めた。 くつくつと笑っているレンジャーに一礼すると、タケヒロが残していったソーダ瓶を掴んでミソラも駆け出した。 女の家を抜けて路地を一本曲がった所に、タケヒロは待ち伏せていた。あからさま過ぎるふくれっ面で、見ている方が恥ずかしくなるほど紅潮し、若干瞳を潤ませてさえいる少年に、ゴメン、とミソラは手を合わせた。それからすぐ、堪え切れずに噴き出してしまった。 けらけらと笑い始めた友人から空のソーダ瓶を奪い返すと、タケヒロは苛立ちをぶちまけるようにずんずんと地面を踏みながら歩いていく。 「ねぇタケヒロ、本当にレンジャーさんが好きなの?」 「……」 「ねぇってばー!」 「うっせ、バカミソ! お前ちっとは空気読め!」 ふたつの賑やかしは、せわしく影を交えながらココウを南へと下っていった。 * 空けた大皿を重ねながら、しかし、と眼鏡の男――アヤノは低く呟いた。 「ワカミヤの息子は……なんというか……」 「随分と物静かになったな」 別の客が二の句を継いで、幾人かが首肯する。そうかい、うちに来た時からあの子はあんな調子だったけれど、とハギが口を挟むのに、アヤノはかぶりを振った。 「とんでもない。昔は素直で人懐っこい子でしたよ、加えてホウガでは悪名高いやんちゃ者で」 「ワカミヤ邸の角を曲がると空からサボネアが降ってくるって奴だろ、思い出した、思い出した」 誰かが笑いを誘って、店内は騒々しさを増した。ホウガ出身者の歓談の後ろで、渦中の人物の叔母にあたる人間は、いつになく寂しげな顔をして微笑んでいた。それを横目にしながら、アヤノも回想を――おそらくそこで繰り広げられている昔話とは全く異なった遠い記憶を、何度も蘇らせていた。 十二年前、一度だけ訪れたココウの前で、離別したはずの少年の影。届けるにしても仕事は半端で、彼らはそれをその場所に、宛名だけ貼って置き去りにした。ひとりで行けるね、と問いかけると、足元のポケモンを見やり、極めて力無く頷いていた、『傷モノ』であったあの子供を。 馬車が遠ざかっていく中で、アヤノは幾度となく、彼らのことを振り返った。少年とポケモンとは、こちらの姿が消え失せるまで、いつまでもいつまでも立ち竦んでいた。時間と共に掠れかかっていたあの日のことが今、男の胸を、あまりにも生々しく揺さぶっていた。あの濁りきった瞳の奥にちらついた、子供が抱えるには大きすぎる不安の色と、それに塗(まみ)れてもなお、たった一抹残っていた、他人に掛ける期待の光――否定のしようもなく彼の『恐怖』を煽ったあの光が、大人になった少年の目にも、微かに宿っていようとは。 ポケモンのこととなると今も十分やんちゃなんだけどねぇ、とハギが苦笑を浮かべるのに、アヤノは頷いて返した。 「それは何よりだ。俺は安心したんです。あの事故の前にも色々嫌なことが続いていて、俺はあのまま、トウヤがポケモンをやめてしまうのではないかと思っていましたから」 その時、呼び鈴が豪快に鳴り響いて、油に顔を黒く汚した若い男が飛び込んできた。いらっしゃい、と声を掛けるハギに、違う違う、と男は手を振って、 「おばちゃん、トウヤは?」 「さぁ? つい三十分前に出ていったばかりだけど。またスタジアムにでも行ってるんじゃないの?」 「スタジアムかぁ、遠いな」 何か用事かい、と問われた工具屋らしい出で立ちの男は、それがよぉ、と苛立ったように左の掌に右拳を叩きつけ始めた。 「またあの泥棒エイパムが出たんだよ! なんとか何も盗られずに追い払いはしたんだけど、やりあってるうちに値が張る機械を壊されちまった。今度こそ怒った! と思ってポケモンレンジャーに駆除依頼出してみたんだけど、あいつらって甘っちょろい仕事するだろ、だから先に懲らしめてやろうと思ったんだ。けど俺のポケモン足遅いし、トウヤなら軽く一捻りだろ、あんな猿」 「その猿にこの間泥棒されてたけどね、あの子も」 笑いながらのハギの言葉に男はえぇーっと不満を漏らし、まぁいいやスタジアム行ってみるわ、と踵を返したところで、 「ちょっと待ちなさい」 誰かが名乗りを上げた。 工具屋の男は振り返り、そこに立つ眼鏡の男と対峙した。アヤノは二三歩踏み出ると、人当たりの良い笑顔を浮かべながら、左腕の腕章を大仰な動作で彼に示した。 「そういうことでしたら、ポケモン退治のエキスパートと呼ばれる我々にどうかお任せを。 ……彼に一捻りで出来ることなら、指先一つで片付けてご覧に入れましょう」 その腕章に綴られた『リューエル』という文字を見つけて、工具屋は顔を上げた。 * ココウ西部、レンジャーの家から数分南下してやや西側へ踏み入った辺り。 この町では中央通りを離れるに従って景色が急激に荒廃していくが、極西地域では特にその様相が見られる。タケヒロに連れられてミソラが訪れたこの場所では、家は殆んど(ミソラに言わせれば)家の形を成していない。腐って朽ちかけた木板の外壁に、波打つトタンの錆びた屋根。狭い路地を縁取るように並んで提げられた洗濯物の間を縫って、途中でタケヒロは道を折れた。稀にすれ違い、また継ぎ接ぎの窓から物珍しげにこちらを眺める人々の視線に委縮しながら、ミソラも友人の後を追う。 タケヒロが立ち止まったのは、以前は誰かの住処だったのであろう、潰れた建物の残骸がそのまま残る空き地であった。差し出した手をミソラが取ると、タケヒロはその廃材の上を歩き始めた。解体された電化製品や割れ瓶の破片を避け、侵入している蔦や苔に足を取られながら、二人はなんとかそこを登りきった。以前は屋根だったものの傾斜の上で、その足元と地面とが作る一メートル強の空間に何があるのかをミソラが覗きこもうとしたとき、もう一度タケヒロが白い腕を引っ張った。同じく廃材で作られた下りの階段から回り込むようにして、ミソラはぼろ布が掛けられた先程の空間の前に立った。 薄汚いカーテンをタケヒロがはぐってみせると、ミソラは感嘆の声を上げた。 「うわぁ、これがタケヒロの家?」 「家ってか、秘密基地かな」 「すごい!」 中に潜り込むと真っ暗になったが、カンテラに火を灯すと、十分に暮らせる明るさが生まれた。 立ち上がり体を伸ばすことはできないが、寝食の安息だけ得ようと思えばそこにはそれなりの広さがあった。むき出しの地面の上にダンボールが敷かれ、更にその上から絨毯のようなものが被せてある。足元にはバケツに溜められた水と使い捨てコンロ、釘を打った上に板を乗せただけの簡素な棚にはコップと食器が並ぶ。奥には毛布や衣類、得意の大道芸をするのに使うらしい派手な色彩のボールやバトン、明らかに海外製の置物や妙な絵画まで置いてある。発泡スチロールの中には、干物の魚やポケモンの餌、ミソラの好きなビスケットの類。 凄いね、ともう一度称えると、タケヒロは気恥ずかしそうに鼻の下をこすった。 「こういう基地が、あと四か所ある」 「四か所!」 「しかもここにあるものって、全部自分で手に入れたものだぜ。盗んだものなんか何一つない。そこにある木箱開けてみろよ」 言われた通りにして、ミソラはますます感心した。その中に入っていたのは、普段の生活ならばまずお目にかかることのないような高価な一品ばかりであった。ほの明かりの中でも金ぴかに光るネックレス、大きな宝石の嵌った指輪や、神秘的な文様の刻まれた懐中時計。これは何かな、と持ち上げた手のひら大の石は、武骨な削り跡を残しながらも何やら上品な輝きを携えている。分からん、ときっぱり言い切りながらタケヒロはそれを受け取った。 「これらはピエロやってるときに金の代わりに貰ったもんだ。金持ちの行商なんかでたまに俺のこと気に入ってくれる人がいて、受け取ってくれって言ってくるんだよ。貴重そうだし、換金してもいいんだけどさ、なんとなくもったいなくて集めてる」 「これを全部、一人で……」 「凄いだろ?」 得意げに胸を張るタケヒロの前で、ミソラは木箱の蓋を締め、静かに彼と向き合った。 「……寂しくないの?」 「え?」 「タケヒロ、ここに一人で住んでるの、寂しくない?」 タケヒロは出鼻をくじかれたように威勢を弱めて、口を閉ざしてしまった。 悪い質問をしたと、ミソラは思わなかった。ただ落ち着いた気持ちで、目の前の友人の黒い瞳を見つめていた。その疑問は、彼の素性――両親はおらず、同じ穴の狢(むじな)達と敢えてつるむこともせず、路傍で芸を披露して、頭を下げて小銭を稼いで生きている――を知ったときからずっと抱いていたもので、その巣穴を覗いた今、ほとんど確信へと変わりつつあるものであった。 俺は、とタケヒロは呟いた。それから、ズボンの右のポケットに入れてある、二つのモンスターボールを撫でつけた。 「そんな訳ねぇだろ。俺にはツーとイズがいる。そもそも一人じゃないんだ。俺は……寂しくなんて」 切り裂くような悲鳴が飛び込んできたのは、その時だった。 はっと顔を見合わせて、二人は秘密基地を這い出た。眩しい青空を見た瞬間に、視界の中に黒い影が映り込んだ。ミソラは小さく声を上げ、タケヒロがそれを庇おうとする手前にその影は着地し、何か長いものを躍らせながら秘密基地のぼろ布の中へと素早く潜り込んだ。 「あの野郎!」 追おうとしたタケヒロの腕を、今度はミソラが掴んだ。なんだよ、と振り返り、その腕を払い退けるまでもなく、タケヒロの視線はミソラの右腕が指している方へと滑った。そして――ミソラと似たような驚愕の表情を、すぐにタケヒロも浮かべたのであった。 強い日差しを背に、崩れたトタン屋根、もといタケヒロの秘密基地の上から、ポニータに跨った男が二人を見下ろしていた。 |