不思議そうな表情を浮かべる客たちの左腕には、揃いの腕章が鈍い艶を湛えている。
 知り合いか、という誰かの問いに、眼鏡を掛けた中年の男は興奮気味に声を返した。
「お前だって知ってるだろ! ほらあの子だよ、ワカミヤ君とこのきょうだいの、ちび助の方だ」
「ワカミヤの子供……」
「なんだい、あんたたちホウガの工場町の部隊なの?」
 興味深々とカウンターから身を乗り出したハギへ、えぇ、と眼鏡の男は頷いた。
「あそこの施設は一昨年に放棄されて、今は誰もいませんけどね。旧ホウガの連中がうちの部隊には複数いて、俺と、こいつらだってずっと昔から……」
 顔を見合わせ首を傾げている数人から、もう一度トウヤへと視線を戻すと、人の良さそうな笑顔を浮かべて、男は強めに肩を叩いた。
「いやぁ、また会うことができて本当に嬉しい。背が伸びて随分見違えたな、歳はいくつになった?」
「二十二……です」
「そうかそうか。息子が立派に成長して、ワカミヤ君も喜んでることだろうよ。あぁ、ご両親のことはその、残念だったが……」
 急に歯切れが悪くなり、いたたまれないという風に男は目を伏せた。トウヤは小さく首を振った。ココウに引き取られてから一度も顔を見なかった父と母とが死んだのは、一昨々年の初めのことだ。不慮の、と電話越しに聞かされた事故の内容は、頭に入らなくて殆んど忘れてしまった。実の親が知らぬ所で死んでいったことももちろんショックだったが、それよりも深く胸を抉ったのは、その連絡が入った時には、葬儀が終わって三カ月も経ってしまっていたということだった。
 あの日感じたやり場のない怒りと、吐き気のするような孤独感とが暴力的に弾けかけて、無理矢理それを抑え込むと、代わりと言うように次々記憶が蘇った。ホウガというのは、村落の中央にある物々しい研究施設を除けば、ここよりもずっと長閑で平和な場所だった。敷地がある分家々は背が低く点々と散らばっていて、自分が子供だったのもあろうが、空は高く、世界はずっとひらけて見えた。住んでいた家は二階建てで、一階の広間にはよく、賑やかな大人たちの笑い声が響いていた。学校と呼ばれていた場所には少なくない数の子供トレーナーが集まって、小さめのバトルフィールドには休みなくポケモンが放たれていた。
 ――ぞっとするほどに過去に引き込まれていくことが間々あって、そいつは非常に厄介だった。眼鏡の男の望郷する柔和な声に曖昧な返事を寄こして、トウヤは足元へと視線を泳がせた。
 早鐘を打つ心臓の音が、拡散する思考の中に落ちていく。
 ひとつ瞬きするごとに、現実と錯覚するほど明瞭な景色が、瞼の裏に蘇った。平らな校舎、フィールドの消えかけたサイドライン。黒い煙の上がる煙突。二つ並んでいたベッド、折れた三脚、毛布の敷かれたダンボール。窓から見えた白い月、太陽、畦(あぜ)や水路に咲いていた、名前も知らない赤い花――
「――こらっ、やめなさいポニータ」
 鳴り響いた呼び鈴の音で、トウヤはふと平静を取り戻した。
 店の外にいる馬車馬らしいポニータが、扉をこじ開け店内へと鼻先を突っ込んでいる。慌ててそれを諌めに飛び出した男の姿に、客の方から失笑が漏れた。トウヤも無理に頬を緩めた。それから小さく頭を振ると、先程まで今にも我が身を飲み込まんとした生温かい濁流は、煙のように散っていった。
 手持ちの失態に気恥ずかしそうに振り向いた男は、ひょいと視線を奥にやると、途端に表情を華やげた。
「おぉ、あれはもしかして、昔連れてたサボネアか!」
 そうして一挙に注目を集めたカウンター向こう、階段に接する廊下の真ん中に、ノクタスのハリは佇んでいた。そこでぴたりと立ち止まっていた案山子草は、そうですよ、一緒に連れてきた奴です、という主の紹介を聞いてなのかどうなのか、何事もなかったようにそのまますたすた歩き出した。愛想もなくこちらへやってくる傍若無人な従者の態度に、トウヤは苦笑を浮かべた。そこに誰がいようと、目の前で何が起ころうと、物怖じしないその気質は、彼女が丸サボテンだった頃から一つだって変わりはしない。
「こいつはいいポケモンだ。こっちもすっかり見違えてしまった」
「――あぁっ思い出した、サボネアのガキか!」
 先程首を傾げていたうちの一人が大声を上げ、それから慌てて口を塞いだ。穏やかな笑いが巻き起こって、店内の雰囲気がもう一度温まり始める。目の前へやって来、じっと見上げてくるハリの頭を、トウヤは右手で何度も撫でた。そして、何か決意をしたように、浅く頷いて見せた。
「アヤノさん」
 何だい、と視線を合わせたのは、例の眼鏡の男である。
「……あの、」
 言い淀んだその顔を、傍らの相棒の、月色の瞳が見上げている。
「……姉は今、どこの部隊に?」
 舌の痺れるような感覚を、その時トウヤは感じていた。
 言葉に秘められたどんな心境を汲み取ったのか、輪郭のない相槌を打って、アヤノと呼ばれた男は気の毒そうな面持ちで頬を掻いた。
「うーん、悪いが知らないんだ。たまに噂を聞くから、組織の中にいることは確かだが」
「噂……」
「輝かしい功績の数々さ。間違いなく元気にやってるよ、君の姉さんは」
 アヤノがそう言って笑うのに、そうですか、とトウヤもぎこちなく破顔して返した。





「――どうして教えてくれなかったんだ!」
 半ば叫ぶように言ってから机の上に伏せた男を、レンジャーは心底呆れた視線で見下ろした。
「仕方ないでしょ、こっちにリューエルが向かってたなんて、私だって昨日の電報まで知らなかったんだから。それ以降にうちに来なかったお兄さんが悪い」
「だからって……」
「だからってもへったくれもあるか、大人になれ、大人に」
 そもそも第七部隊に旧ホウガの残党が入ってるなんて私が知る由もないでしょ、と低くぼやくと、女は突っ伏す男の後頭部にていっと軽く手刀を打つ。その様子を、部屋の隅に座り込み、ソーダ水をちびちび飲み下しながら、タケヒロとミソラは眺めていた。
「だいたい、普段はこっちからリューエル追いかけまわしてるのに、いざ向こうから接近してくると途端に逃げ腰ってどうなの、何がしたいのよあんた」
「知ってればこう、色々準備とか……」
 恨めしげな視線を送りつける男に対して、話をするのに何を準備すんの、と真っ当な指摘が飛ぶ。
「……、覚悟できたし」
「覚悟ォ? ばっかじゃないの、このヘタレが」
 いくつも年下の女の子に罵倒され続ける新鮮な師匠の姿を、ミソラは食い入るような視線をもってじぃっと観察していた。それから横へ顔を向けると、もう空になったソーダ瓶に吸いつき続けているタケヒロが、嬉しいとも悔しいとも取れる微妙な色の澄んだ瞳で、年長の二人を睨んでいる。
「散々だったんだぞ、思い出したくないことまで根掘り葉掘り聞かれて……君みたいな神経の太い人間には理解できないだろうけどな」
「はいはい、それは悪うございました。根掘り葉掘り聞かれた分、相手方の情報引き出すとかするけどねぇ、私なら」
「僕だって精一杯やった」
「どのへんが? せっかく接触できたのに連中が何しに来たのかさえちっとも分からないじゃない。アホか」
 ガツン! と目の前に隕石の如く降り注ぎ机と衝突したチリーンに、トウヤは驚くでもなくただ溜め息をついた。自滅し伸びているチリーンを尾から掴みあげると、尻尾握らないでよ、というレンジャーの声にも構わず、それを彼女の胸めがけて放り投げる。そんな二人のやり取りを眺めて――タケヒロはおもむろに瓶から口を離し、その中身がいつの間にやら空になっていたことに少し驚いた様子を見せた。それからぼそりと呟いた。
「……仲良いのな」
「どこが」
 その返事が高いのと低いのと両方で、図らずもシンクロした二人はお互いのことを嫌そうな目で一瞥する。
「……ピエロくん耳おかしいんじゃないの?」
 それだけ吐き捨てると、レンジャーは仕切り布をくぐって奥の部屋へと消えてしまった。ミソラが不思議そうに覗きこむ中で、タケヒロは唇を尖らせて何やらむすっとしている。対してトウヤは、ハヤテのものらしいボールを机の上に転がして、つまらなさそうに指先で弄んでいた。
 タケヒロの提案で子供たちがレンジャーの家に逃げ込んでから、トウヤがいつになくハイテンションで、にも関わらず完全に憔悴しきった様子でその家に押しかけて来るまで、ほとんど時間の差はなかった。『リューエル』という物騒な集団が、町をうろつくどころか、ハギの酒場にまでやってきている。それも結構な人数であるとか。男の経験した一部始終の話を聞いて、家に戻らなくてよかったとミソラは心底感じていた。同時に、そんな連中とまだ一緒にいるらしいハギの身を案じもしたが、トウヤの語る雰囲気だと今すぐ何かやらかすようでもないので、ひとまずはほっと胸を撫で下ろしている。
 でも、それなら、というミソラの疑問は、先程の二人の応酬の中にも少し見え隠れしていたものだ。
「あの、その……それで、リューエルっていう人たちは、ココウに何をしに来たのでしょうか」
 トウヤが指の動きを止め、タケヒロが難しい顔でうーんと唸る。
「情報、なくもないのよ。海岸線付近の生物群構造の調査がどうとかこうとか、とりあえずはココウ自体が目的地ではないみたい。ただの中継地点として寄ってきたんでしょうね」
 声と共に戻ってきた女レンジャーは、トウヤの手元に湯呑を乱暴に差し出すと、椅子に腰かけ足を組んだ。机に伏せてあった二、三枚の資料に目を通し、それも男の方に滑らせる。
「今晩宿に泊まるかどうかも怪しい、ってとこかな。夕方には出ていくんじゃない?」
「わざわざ野営か」
「物好きよね。大方、『灰』の飛び交ってるココウには長居したくない、ってとこなんでしょうけど」
 その言葉に、自嘲するように小さく笑って、トウヤはもう一度机に伏せた。置きっぱなしのハヤテのボールが控えめにカタカタと揺れたが、それに触れようとする者は誰もいない。
 ハヤテの何らかの主張を見、ゆるりと顔を綻ばせて体育座りの膝を抱えなおすミソラに、レンジャーも笑顔を浮かべて再び立ち上がった。
「ミソラちゃん、リューエルについてはどこまで知ってるの?」
 ミソラちゃん、と呼ばれたことに何か言い返そうとも思ったが、それよりもその先の好奇心の方が胸で疼いて、ミソラはふるふる首を振った。
「何も。……悪いことをした人たち、ってことしか」
「アハハ、誰に聞いたのそれ。まぁ間違いではないけれど」
 なんも間違ってねーよ、とタケヒロがまたしても低くぼやく。拗ねたような言い方だ。それから、歩き寄ってくる彼女の足元を、少年の視線は迷子の如く右往左往。目の前に差し出されたお菓子の包みにミソラは早速手をつけ、タケヒロは間近にやってきたレンジャーからなぜか顔を背けた。
「慈善団体よ、分かる?」
「いえ……」
「例えば町で悪さをしたり、暴れたりする危険なポケモンを、殆んど無償で片付けて回ってる集団。いわばポケモンのエキスパートね。だから世間的には、とっても良い組織って思われてる」
 え、とミソラは目を丸くした。それは、ミソラが思い描いていた、マフィアのような『連中』の姿とは程遠い。
「リューエルというのは、いい人達なのですか」
「傍から見れば、ね」
「それでは……」
「慈善団体もいいが、研究組織だよ、あれは」
 ぼそっと水を差したトウヤを、あんたにとってはね、とレンジャーが一蹴する。
「ポケモンのいろんな研究、例えばグレードの高いモンスターボールだとか、ポケモンの自然治癒力を飛躍的に上昇させるっていう小難しいシステムだとか……田舎のこのあたりには全然浸透してないけど、そういうものの開発に携わってたり、あとはポケモン専用の医薬品の研究とかね。最先端の技術を持ってる組織でもあるんだけど」
「それも、いいことですよね」
「そうね、でもそのやり方が、ちょっと下種(げす)っぽいというか……」
 どう説明しようか、と言うようにレンジャーは男を振り返るが、先程の資料を興味なさげに眺め始めたトウヤは今度は口を挟まなかった。
「……とにかく、リューエルのポケモンに対する活動って、ポケモンレンジャーの仕事と結構被ってくる所があるのよね。しかも、リューエルはポケモンをきちんと始末したり捕獲したりするけれど、ポケモンレンジャーっていうのは自然保護の観点から、興奮してるポケモンをなだめたらそのまま野生に放っちゃうことも多い。そういうのがまた暴れたりすることも、残念だけどある」
「そうなんですか」
「だから、人により望まれた活動をしてるリューエルは、世間様からの評価がここのところ高くなってるの。捕獲されて研究施設に持ち帰られたポケモンがどうなってるかなんて、一般の人には関係ない話だからね」
「あ、なるほど……」
 『下種っぽい』の意味をなんとなく解して、ミソラは頷いた。
「当然、仕事と世間的評価を奪われたレンジャーユニオン――っていうのはポケモンポケモンレンジャーを取り仕切ってる上層部、お偉いさんのことね――そのユニオンは、リューエルのことをよく思わない、まさに目の上のたんこぶって感じなのよ」
「つまり、レンジャーさんにとって、リューエルは敵ということですか」
 レンジャーさんって私ね、と笑って、彼女はその場にしゃがみ込んだ。長いローブの中に隠れていた健康的且つ華奢な太股が、二人の前に露わにされる。タケヒロは横目にそれを窺った。
「建前ではそうなんだろうけど、ぶっちゃけて言えば、私全然興味ないのよね、そういうしがらみって」
 真っ赤な隊員服のパンツルックから伸びている、きめの細かな、はりのある、滑らかで、肌触りのよさそうなその――目の前のその、それと、今しがた机の上に資料を放って退屈げに欠伸をした痣の男とを見比べて、タケヒロは極めて神妙な顔つきで唾を呑む。
「興味をそそられないリューエル関係のミッションは、仕事熱心なそこのお兄さんが代わりにぜーんぶ引き受けてくれる。私はやりたいことを好き放題やってられる、楽ちん、楽ちん、って訳で……ちょっと少年、なに余所見してんの」
「え、あっ、……。い、いや、なな何だよ、ちょっとあっち見てただけだろ」
 タケヒロの妙な動揺っぷりに、レンジャーはにんまりと笑みを浮かべた。
「ふうん、何か質問は?」
「し、質問?」
 ――問いただしたいことが次々と脳内を駆け巡って暴れ狂いながら出口の喉に殺到し、頭の中の小さいタケヒロが木刀を振り回してそいつらを隅へ追いやった。冷静になれ、別の一手だ。絞り出せ、ここでまともな一手。
「……ポケモンレンジャーって、ねーちゃんみたいな適当な人ばっかなの?」
 あれ、これはまともな一手か?
 タケヒロが悶々として首を捻る間に、馬鹿にしてんの、と女レンジャーは眉根を寄せた。
「私くらいなもんよ、そうでないとこんなカタブツ集団成り立たないっつーの」
「いや自分が適当だってとこを否定しろよ」
「得体の知れない民間人にミッション放任してるポケモンレンジャーって常識的に見て適当でしょ、それでいいの私は」
「……得体の知れないって、どの口が……」
 トウヤの低い独り言に、何か、とぎろりと視線が向けられて、何でもアリマセン、と白々しい声が戻る。タケヒロはそれを、まったくもって制御しきれない雑多な心情を抱えたままで睨んでいた。
 そのやり取りのさなかに、例のチリーンがミソラの鼻先にも降り注いできた。意外と内気な所があるようで、ひとたびお喋り達の応酬が始まると、だいたいミソラは会話に割って入れなくなる。そんな折に現れた妙ちきりんな生き物に、子供は完全に興味を移してしまっていた。百科で見るポケモンの中には、これは本当に生物なのかどうなのか、と思うような姿のものも少なくない。今、人の両手に包まれて、小指の先ほどの腕を規則的に開閉しているそのチリーンは、ミソラが初めて目にする(リナの治療をした時にも片手間に目にしていたのだが)人工物様のポケモンであった。
 まん丸い頭から生えた黄色い突起物を、おそるおそる押してみる。その瞬間、チリーンがぱかっと口を開き、チリンと鳴き声を上げる。ミソラは目を輝かせた。もう一度、そっと押してみる。チリン。ミソラの鞄についている鈴よりも、幾分高い音の響きだ。二回続けて叩いてみる。チリン、チリン。これは面白い、と心を躍らせるミソラには、残りの三人が不思議そうにその様子を眺めているのに気付く余裕もなかったが――とんとんとんと連続で突起を叩きつける、チリーンがぱかぱか口を開ける、チリン、チリン、チリン、チリン、
「まるでおもちゃだな」
 耳元でぼそっとタケヒロが言って、わっとミソラは身を縮めた。
 するりと手から抜けだして、部屋中をすいすい蛇行してから問題のチリーンは奥の部屋へと飛んでいった。あれも変だしさぁ、とタケヒロはそちらを指差した。
「ねーちゃんってさ、はぐれレンジャーなわけ?」
「そう言うあんただって町の捨て子グループから孤立してるでしょ? 孤高のはぐれピエロくん?」
「う、うっせぇなぁ」
 照れたように鼻の下をぐいぐいこする少年を見て、その隣で、遊んでいるのを見られていたことに気付いたのか、ちょっと顔を赤らめている金髪碧眼の子供を見て――女レンジャーは何か、素敵ないたずらでも思いついたかのような顔をした。ねぇ、と振り向くと、だるそうに頬杖をつく痣の男と目が合った。不敵に微笑みかけた彼女に、彼は少し面食らったようだった。
「私たち、皆『はぐれもの』じゃない?」
 ――はぐれもの。その響きを、ミソラはぽそりと反芻した。
 タケヒロは何も返さなかった。「僕もか?」とトウヤは笑って、それから何かに思い当たったようで、あぁ、と腑に落ちた溜め息をついた。そうして男は立ち上がった。同じタイミングで、レンジャーもひょいと腰を上げた。
「お兄さんどっか行くの?」
「外で訓練でもしてくるかな」
「へぇー、リューエルが来てるのに?」
「来てるったって関係ないよ。ハヤテに教えてみたい技があるんだ」
「それ、わざわざ今じゃないとだめなんだ?」
「早いに越したことはないだろ、いいかレンジャー、僕は奴らとの来たるべき直接対決のために――」
「もういい、目障りだからとっとと出ていけ」
 芝居がかった台詞を抹殺されてトウヤは小さく肩をすくめ、踵を返すと本当に家から出ていってしまった。
 対決する気なんかこれっぽちもない癖に、と見送った背中へぶつぶつ文句を垂れる女の足元で、はぐれもの、とミソラは再度呟いてみた。はぐれている。自分もはぐれている。レンジャーはきっと肌の色のことを言ったのだろうと、ミソラにも何となく察しがついた。落ち着いてこの町を見渡せば、自分の姿が人より浮き立っていることは、嫌でも感ぜられることだ。それ自体を苦痛だと、ミソラは思っていなかったが。二人で『死の閃光』の中央を見たあの時、彼が口にしたある言葉を、ミソラは長らく抱え込んでいた。「お前の本当にいるべき場所はここではない」という、裏を返せばそんな趣旨であったあの言葉――
 けれど、そういえば、とつっかえるものにぶつかって、ミソラは徐に視線を下げる。彼女は今、皆はぐれものだ、と言ったのだ。トウヤだって例外ではない。一体彼は、何からはぐれているのだろう。スタジアムの若いトレーナー達とよくつるんでいるのを何度か目にしていたし、町の大人たちともそこそこうまくやっているのをミソラはぼんやり知っている。ココウではない。ならば、答えの在処は明白だ。明白だけど、分からない。何故なら――トウヤの住んでいる酒場を一人で切り盛りしている女は、彼の本当の母親ではない。ミソラが聞いているのは、たったそれだけだったのだから。
 夕暮れの砂漠で一言一言に感じていた、浮ついた妙な違和感のことを、ミソラは目を伏せて思い出していた。いるべき場所の話は、もしかすると。自分だけに向けられたものでは、なかったのではないだろうか? ……――黙り込んでしまったミソラの横で、タケヒロは居た堪れない気持ちに襲われていた。ミソラの考えていることは分からないし、また何となく分かるような気もした。が、それよりも何よりも、顔を上げればローブに包まれたレンジャーの尻のラインを拝めたことが、少年の思考を掻き乱していた。
 なんとか頭を切り替えようと頬をぴしゃりと叩いたタケヒロの隣で、ミソラは再三、はぐれもの、と呟いた。はぐれものなぁ、とタケヒロも言った。ミソラはタケヒロと目を合わせ、タケヒロは、家の出口の方を顎で指した。そこの女のことを考えないとなると、少年の意識は今、大嫌いなあいつのことへと向かざるを得なくなっていた。
「あいつさ」
「うん?」
「あいつ、リューエルの生まれらしいんだよ」
 え、とミソラは声を漏らした。――彼について知っていることのいくつかが、一瞬、光の筋で繋がって、ぴんと頭で弾けた気がした。


 メグミ、行くよ、の言葉と共に、三つ目のボールを開放し、現れたオニドリルの背にいつものように飛び乗った。
 メグミに乗って空を飛ぶのが、移動手段としてトウヤは一番気に入っている。もっとも、メグミ自体はおそらく、誰かを乗せて空を飛ぶことをあまり好ましく思っていない。会って間もない訳でもなく、ただなぜかメグミが気を立てていたというだけの時にこうして空を飛んで、その背中でトウヤは何かくだらないことを口走って、上空数メートルから草原へと振り落とされたことがあった。そんな経験を考慮しても尚、やはりトウヤはメグミに乗るのが好きだと言える。
 オニドリルは飛行が得意だ。殆んど揺れないし軸がぶれない。かなり高度のある場所にいても、彼女が落ち着いている時なら安心して身を預けていられた。植物様のノクタスや竜型のガバイトと違って、メグミの背中は体毛でさらさらとして温かい。耳を付けると、規則的な心臓の鼓動を聞くことができる。そうしていると落ち着いた。彼女の、日溜まりのような水辺のような不思議な匂いを嗅いでいると、子供に帰っていく気がして、いつもうとうとと眠くなる。囁かれるような睡魔の誘いには、脳が溶けだすほどの幸せが染み込んだ心地よさがあって――そうして油断していると、メグミは不意に大きく翼を傾けたりするのだ。それも結構な高度で。殺意があるとしか思えないその行為は、一度や二度でなく主の肝を冷やしてきた。
 だからであるし、やはり彼女が嫌がるのであれば、というのも大きくて、必要に迫られない場合はそれに乗らないようにしている。更に言えば、あまり人目に晒したくない、という気持ちも強かった。けれど今日は、どうにも町を歩く気分になれず――飛ぶことを快諾したように見えたメグミだったが、上空までやってくると、トウヤが指示した方向とは真逆の方へと向かい始めた。
「……メグミ?」
 呼びかけにメグミは答えなかった。ただ黙々と翼を運び続けた。彼女がトウヤの指示を聞かないことは、間々ある。しかし、何だか、今のメグミは――トウヤはその背にそっと顔を寄せた。心なしか、体温が高い。鼓動も少し速い気がする。呼吸も……若干乱れているか。
 近づいてきた、慣れた景色を見下ろして、トウヤはメグミが何を思っているのか、すとんと理解することができた。
「……メグミ、そっちじゃないよ。戻ろう」
 背中をさすると、喉を鳴らすような高い声が微かに響いた。
「あそこにはいないよ。お前だって分かってるだろ」
 すると、名残惜しげな余韻を残しながらも、メグミは先に指示した北の方へとゆっくり旋回し始めた。
 トウヤは小さく息をついた。よく眠っていたはずなのに、妙に疲れている。けれど、いつもの幸福な眠気の予感はそこには無くて、別のことがいつまでも腹に燻り続けていた。
 振り返ると、翼の目指していた場所には、赤い屋根の酒場が見えた。






  
 <月蝕 TOPへ>
<ノベルTOPへ>