3・連中の正義 1 ここまで様変わりしてしまうと、懐かしさも何も、あったものではない。 男は馬車に揺られていた。強い日差しが照りつけていた。白く広大に続く地盤は眼鏡の奥の瞳に眩く、目を逸らすと頭上には、かんと冴え渡る空があった。夏に片足を着くこの時節、この辺の空は曇ることさえ知ろうとしない。今は軽やかに髪と頬とを撫でつける風は、じきに熱波と化し喉をからからに焼くだろう。この荒涼地帯を気軽に遠征できるのも、今の季節のうちだった。 「しかし酷いもんだ。以前のような森であれば、夏場もそこまで苦労はなかろうに」 眼鏡の男の独り言を、ゼブライカに跨った一人が聞きつけた。 「森があった時期を知ってるのか。君、三年前の計画には参加していなかっただろ」 「いいや、知ったこっちゃあない。通ったことがあるだけだ。届け物を、頼まれて」 そう、届け物。男は目を伏せる。あれの顛末に思いを馳せると、じんと懐かしさが込みあげてきた。 からからと回る車輪と、馬車馬――ポニータの固い蹄とが、渇いた大地を噛みしめていく。 あの頃は、そんな音はしなかった。黒々とした腐葉土の上を、冬の密やかな木漏れ日の中を、きしきしと鳴って車輪は行った。町の入り口の、大きな一本道の前に『届け物』を下ろして、彼とそれとはそこで別れた。 不揃いの髪はぼろぼろに枯れ、涙の貼り付いた頬は死人のようにこけていた。移動中、気付かぬうちに噛み切ってしまったらしい右手の指先には、黒い血痕がこびり付いていた。体じゅうに生々しい傷跡が残り、左腕と首とは奇妙なほどに腫れていた。大人たちは努めて目を合わさなかったが、瞳は動かぬ石だった。人形の顔の窪みに嵌め込まれた無感情な何かのようで、にもかかわらずその奥に、ふうっと息を吹きかければ煙となって消え去りそうな、不安げな光を宿していた。 『ねぇ、』 『いつか、帰れるの』 ひび割れた唇から発された、あまりにも痛切なその響きが、しばらく耳から離れなかった。 「はぁ、昔にこっちに来たことがあるってのもまた珍しいな。それは一体いつの話だ。観光スポットも名産品もない上、交通の要所でさえなかった時代だろう?」 声に、眼鏡の男は曖昧な返事を寄こす。 軽快な足音の合間に、ブルルと鼻息が聞こえた。目の前のポニータのたてがみの向こうに、男はじっと目を凝らす。白い岩盤の横たわる先、絨毯のように広がっている草原の中に、地味な色合いの町並みがあった。 「もう、十年……いや、十二年前の話だよ」 * 昼間でもひと気のない裏通りの一角を、高らかな歌声が抜けていく。 歌いながら驚いているのはタケヒロだった。ドラム缶に腰かけて、一人で手拍子を打ちながらアップテンポのメロディを奏でる小さな主を、二羽のポッポは傍に留まってじっと眺め続けている。その目の前の動くものを、タケヒロは自分が歌っていることにも気付いていないような恍惚とした表情で見つめていた。 まっすぐ手を広げ、ぴんと指を開くと、別に磨いた訳でもない爪先が日に晒されてきらりと光る。右脚を蹴り、軸をぶらさぬようくるりとターン、すると長髪がふわりと舞って、ちらちら瞬く金髪は夜空に撒いた星のごとし。手首に結んだ赤いミサンガはラメ入りで、弾く光は良いアクセントだ。ぴょんと跳ね、とんとんとステップを踏むたび、裾の長いシャツが踊り、映る笑顔があまりに眩しい。空色の瞳に、長いまつげ、真っ白な頬にほんのりピンク。あれだ、例えるなら。妖精。ピッピやピクシーじゃなくて。いや分かってるこれ男だ、でも、あぁだってさぁなんだその、理性と本能がなんか俺の中でなんかあの――! あぁ、だめだ、うがぁ! とタケヒロは突然叫んでドラム缶から飛び降りた。びくっと直立して、ミソラも踊るのをやめた。 「な、なに? なにかだめだった?」 「い、いや……ごめん、こっちの話」 「えー、タケヒロの歌、すっごくよかったのに。本当に上手だよね、やっぱりたくさん練習した?」 真っ赤に上気した顔を覗かれ、あー褒められて照れてるーとはやすミソラに、タケヒロは心の底の底から、そんなんじゃねーよ、と突き返した。 ポッポ達は二人から隠れるように顔を背けて、くつくつと二羽して肩部を揺らしている。その頭をぺしんぺしんと叩いてから、タケヒロは低めた声で感想を述べた。 「お前のダンスもまぁまぁよかったぜ、まぁまぁ。きらきらしてるし、まるでようせ、い……」 「ヨウセイ?」 「いやその、目立つし、話題性もあるなって。大通りでやれば、きっとたんまり金が貰えるぞ。そしたら山分けだ」 小首を傾げるミソラの前で、タケヒロはわたわたと話を変えた。 向こうの角を曲がって、小柄なニドリーナが駆け寄ってきた。リナ、とミソラが手を振ると、リナも右耳で返事をする。溶け落ちたように欠けた左の耳は相変わらずだが、数日前捕まえた時と比べると、もうすっかり元気になっていた。 リナが難しそうに咥えてきたソーダ水入りの二本の瓶を受け取って、いい子いい子、とミソラは背中を撫でまわした。 「じゃあ、ちょっと休憩にすっか」 「うん……あれ」 なんだろう、と友人が首を伸ばした方へ、タケヒロもひょいと目をやった。 いくつかの足音と、騒がしい声が聞こえてきた。タケヒロははっとして、それからぎゅっと目を凝らす。西の方、より物騒な区画から大通りの方角へやってきたのは、少年と同じような薄汚い服をまとった、捨て子と呼ばれる子供達だった。 「本当なんだ、リューエルが来てた!」 「確かに見たのか?」 「間違いないよ、あの腕章だ」 「やつら金持ちだから、靴磨きしたらいっぱい金くれるぞ!」 ばたばたと前方を通り過ぎていく一行を、タケヒロは険しい顔つきで、隣でミソラは不思議そうに眺めている。 「リューエル……?」 少し遅れて、ひと際背の高い男の子が過ぎようとして、一瞬こちらと目を合わせた。 ふっと記憶が頭を掠めた。あれは確か、エイパムの飼い主たちだ。エイパムに白い鈴を盗まれた時、エイパムと一緒にいて、それにげんこつを落としていた子供たち。 それから、背の高い少年はむっと嫌な顔をした。そうして何も言わずに去っていった。横を見ると、タケヒロもいつの間にやらむすっとして唇を尖らせている。 「なんだよ、あいつ」 「友達?」 「ちげーよ、あんな泥棒集団と一緒にすんな! ……それよか、リューエル、って言ったな、あいつら」 リューエルってなんなの、とミソラが問うと、タケヒロはますます厳しい顔つきで腕を組んだ。 「気味悪ぃ偽善組織だよ、ココウをめちゃくちゃにした連中だ」 「えっ!」 ――タケヒロの言う、ココウをめちゃくちゃにした連中というのは、確か三年前、ココウ一帯を一夜にして消滅させた謎の光に関わっているという人間達のことである。 それが町をうろついているとなると急に不安がこみ上げて、早く家に帰らなければ、という気がミソラの中に起こってきた。家に帰らないでも、安全な所へ逃げた方がいい。その考えを伝えると、タケヒロはぼりぼりと頭を掻いた。 「まぁ、確かに、俺もあんまり出くわしたくないな。どっかいい隠れ場所は……、あ」 ポッポ達とニドリーナとが、それぞれのボールの光に吸い込まれていく。 ソーダ瓶片手に駆けていく二人を、近場の家の屋根の上から見つめるひとつの影があった――にんまりと口元を歪めると、そいつは身を翻し、ぱっとそこから飛び降りてしまった。 長い尾の描く軌跡は迷いなく、町の中央へと伸びていった。 * ベッドに倒れ込むと、抜き切れていない日頃の疲れが、ずんとマットに浸みていく気がした。 これに崩れ落ちるのがいつぶりだったろうか、とトウヤは寝起きの、覚めきらない頭で巡っていく。外の砂漠の真ん中で襲われていた金髪の子供を拾ってから、十日とちょっとか二週間か、もしかしたら二十日くらいは経ったかもしれない。どうだったろうな、と問いかけると、壁と本棚との隙間に小さく収まっているノクタスのハリは、笑顔のままで首を傾げた。それを見、頬を僅かに緩めると、トウヤはそこにうつ伏せになった。 本物の主を受け入れているはずのベッドからは、もちろん気のせいではあろうが、何かよそよそしい雰囲気がした。ミソラがこの部屋に居候を始めて以来、トウヤはこいつを使っていない。ミソラ自身は初めは申し訳なさそうにしていたけれど、子供相手に床で寝ろとも言えなかったし、何より叔母の視線が痛かった。今ではもう慣れたものだ。押し入れから予備の布団を上げ下げするのも、たまに一階の店のベンチで眠るのも。 認めようが、認めまいがに関わらず、以前と変わってしまったところは、見える範囲でも山ほどあった。環境の変化にいちいちうろたえていいような歳ではないし、特筆するほどの大した疲労も感じていない。けれど、久しぶりにベッドに転がってみると、自分でも気付かない微妙な所で、溜まってくるところもあったらしい。 毎日毎日、ついさっき目覚めたばかりだというのに律儀に再来する睡魔の群れに、トウヤは得てして従順であった。うとうとしていると、机の上に放ってあるトレーナーベルトにひっついたままのボールの一つが、出せ出せ、というように暴れはじめた。コトコトというその音を聞いて、トウヤはふと瞼を上げた。そして、激しく揺れるガバイトのボールには目もくれず、棚の方へと手を伸ばした。 手に取ったのは、ミソラが来てからずっと伏せっぱなしにしてあった、ごくありふれた写真立てである。 ボールの揺れるのを背にトウヤはもう一度横になると、その写真をぼんやり眺めた。 色褪せた、古い写真だった。映っているのは、実母と、実父と。その二人に手を取られて屈託のない笑顔を浮かべているのは、なんの変哲もない、ただの小さな子供である。不気味な痣も、包帯もない、薬も、周りの変な配慮もいらなかった、ただの幼い日の自分――ハリの見つめる中で彼はしばらくそうしてから、写真立ての裏の、銀色の留め具を外そうとした。 その時、どすんどすんと床を震わすような足音が響き始めて、トウヤは慌ててそれを元に返した。 階段をよじ登り、部屋の扉を押し開いて入ってきたのは、店で飼われているビーダルのヴェルだった。どうした、と声を掛けてもヴェルは無表情のまま、体育座りしているハリの隣をのしのし進んで、戸を開けたままベッドの脇までやってきた。そのあたりでトウヤはようやく、窓から降り注ぐ日差しのいやに強いことに気を留める。二度寝どころの話ではない、もう昼飯の時間も終わっている。 それ以外のことにも勘付いて、トウヤは小さく溜め息をついた。大衆酒場を営んでいる階下から賑やかな会話が聞こえてくる。それも結構な人数だ。 「……ヴェル、いいかい」 男はげんなりとして、もう一度ベッドに横倒しになった。 「今日は店を手伝う気になれない。僕はまだ寝ていたっておばさんに伝えてくれ。調子が悪そうだったとも」 ヴェルは動かない。胡麻のような小さな黒目が、じっと男の双眸を捉えている。 「ちゃんと伝えてくれたら、あとでおいしいものをやるよ」 動かない。代わりにハリの黄色の瞳が、すっと横に細くなった。 「……じゃあ、ハリが手伝う。ハリとハヤテが手伝うから……」 それを聞いて、ハリも動かなかった。ボールの暴れ具合がますます大きくなった。 痺れを切らしたようにヴェルはベッドににじり寄って、前足でトウヤの足首を掴んだ。そしてぐいっと引っ張った。引きずり落とされまいとしてトウヤも必死にシーツを掴んだ。 「嫌だ、今日はいろいろ忙しいんだ、本当なんだ分かってくれ」 成人男性とはいえ人間相手にヴェルは手加減したのだろうが、両者力は拮抗している。ヴェルはすぐさま飛び退いた。ここぞとばかりに布団を被ったトウヤが見ていないところで、そしてヴェルは身を屈めた。 「あと本当に調子が悪いんだ!」 ハリの目線が上へ飛んだ。見かけによらないカエル飛びを披露して、でっぷり太ったビーダルはベッドへと容赦なくダイブした。 ヴェルの、『のしかかり』! 階上からの物音と情けない悲鳴が轟いて、店内は水を打ったように静まり返った。 お盆を片手にせわしく行き来していたハギは、なにしてんだい、と嫌みを零す。それから客へと愛想笑いを向け、振り返ると表情を豹変させて、カウンター奥の廊下の方へと声を上げた。 「こらッ! 起きてるんなら、遊んでないで手伝って頂戴!」 着替えるだけ着替え、適当に髪を整えながら階段を駆け降りると、店内では十人と少しの客が和やかな談笑を繰り広げている。 「遅いじゃないか、焼き飯三つ、唐揚げ一つ頼んだよ」 「はい……」 「あぁ、先にお客さんにお冷、皆飲まないそうだから」 そんな顔するんじゃないよ、と釘を打つと、ハギは別の仕事を始めてしまった。遅れて階段を下りてきたヴェルが、足元をかいくぐってホールの方へと歩いていく。技らしきものをかけられた痛みがじぃん、と蘇ったが、恨めしげに睨みつけてもヴェルは振り向こうとさえしなかった。 水差しとたくさんのグラスを持ってホールに出ると、客たちの怪訝そうな視線が肌を突いた。左の頬から首にかけての赤黒い痣、左腕には怪我人のように包帯を巻いているというかなり特異な身なりのせいで、じろじろと変な目で見られることは旅先であれば日常茶飯事だ。けれど、ココウの中ではもう少なくなったからか、見世物が浴びるような視線には未だに慣れるものではない。ただ、ヴェルのタックルのせいで目は覚めたと言っても、完全には冴えきっていないおかげで、その時トウヤは、どれも知らない顔だな、くらいにしか思わなかったが――奥の席の一人が、突如として立ち上がってから、事態は急激に変化した。 「……その痣」 振り返ると、そこで瞠目しているのは、眼鏡を掛けた中年の男であった。 面倒だな、という感情を表に出していたことに気付いて、トウヤは無理矢理苦笑を作った。どうかお気になさらず、移る病気ではありませんから、という、そういう場合の定型文を口にしようとした瞬間。 「トウヤだろう、ワカミヤ君のところの!」 相手の言葉に、トウヤは出かかった声を詰まらせてしまった。 「……え?」 「あぁ、間違いない。元気そうでなによりだ。まさかまだ、ココウに住んでいたとは……」 眼鏡の男はつかつかと、彼に向かって歩み寄った。温まっていた空気がだんだん静まっていった。それまでと違った色の視線が、二人へと次々突き刺さった。 お盆を抱え、ぽかんとして突っ立っているトウヤの肩へと、眼鏡の男は手を置いた。 「いやぁ、大きくなった……俺のこと、覚えていないか。よく遊んであげたじゃないか、ほら、君の向かいの家に住んでた」 その声がいまいち理解できず、相手方の顔立ちを、まじまじとトウヤは見つめて――思い当たると、急に体が強張って、あ、と細い音を漏らすことしかできなかった。 色褪せた、古い故郷の風景が、幕を剥ぐように蘇った。 それからすぐには何も言えず、トウヤはただ、子供のように立ちすくんでいた。対峙するのがおぞましい何かに変貌し、脳が警笛を鳴らし始めた。相手が眼鏡の奥で、感慨深そうに目を細めるその前で、痣の男の表情は、みるみるうちに凍りついていった。 |