どうしよう、と思っている間に、ミソラを乗せた暴れ馬はココウの中央商店街へと突入した。
 噂の『異国のお姫様』を乗せたドラゴンポケモンが全速力で駆けてくるのに、行く誰もが顔を引きつらせ道の端へと飛び退いた。人波の割れた石畳を突風のようにハヤテは抜けた。一陣風が巻き起こり店先の品々や婦人の服を捲り上げ、鉢植えが倒れ紙屑が飛び、いくつか絶叫が轟いた。ごめんなさいを叫ぶ間もなく振り向く双眸に、コジョフーの姿が映り込む。懲りる様子は全くない。
 急に重心が傾き、ミソラは悲鳴を上げハヤテにしがみつく。通りの中央に茫然と突っ立っていた男の子をすんでのところでかわして、ガバイトはその勢いのまま先の青果店へと頭から突っ込んだ。店先の商品棚に山積みにされていた大量の果物たちが潰れ吹き飛び撒き散らされてそこら中をぐちゃぐちゃに汚して、やはり謝る間もなくハヤテはそこから逃げ出して、真っ赤な顔で何か叫ぼうと拳を握った店主の頭に、ひとつ、ふたつと順にコジョフーが蹴りを入れた。ひっくり返った店主の方は見向きもせず、コジョフー達は騒動の根源を追いかける。一帯に怒号が響いた。ミソラだけが身を縮めた。
 前触れなく首を振り直角に右折すると、ハヤテは裏路地へ進んでいく。打って変わって閑散とした、細く狭い日陰の道を、方角も分からなくなるほど右へ左へ。砂埃を巻き上げがらくたの類を吹き飛ばし、それでもいっこうに距離の取れないどころか幾分詰め寄ってきた二つの敵手に、ハヤテはどうするかと言うようにミソラに視線を投げかけた。こんな厄介者を引き連れて人の家になど、到底行けたものではない。
「でも、狭い道じゃ、体の小さいコジョフーの方が有利だよ。このままじゃ多分逃げ切れない、なんとかおどかして、追い払わないと……」
 その時、腹に何か違う振動を感じて、ミソラは視線を落とした。
 抱きついているハヤテの体と、自分との間に挟むようにして大事に置かれているのは土色の鞄。鞄だ。鞄の中の、ニドランを捕まえたモンスターボールが、ひとりでに暴れている。
 内ポケットに大切にしまっていたそれを取り出す。ぴかぴかの、自分のモンスターボール。スピアーに毒を食らい、完全に消耗しきっていたはずのニドランがそこには入っている。
「……戦ってくれるの?」
 問いかけると、まるでそれ自体が意思を持つ生き物であるかのように、無機物球はカタカタと動いて返事をした。
 ふっと目の前に現れた一匹が、再度スピードスターを乱射する。ハヤテは火力を弱めた『竜の怒り』で応戦し、コジョフーの立つ手前の横道へと折れ曲がって――その目と鼻の先に、そちらで待ち構えていたもう一匹のスピードスターが迫るのを見た。
 ミソラがわっと声を上げるのと同時だった。斜め上後方、丁度頭の上から滑り降りてきた三発目の星型弾が、二発目のそれらと衝突し相殺したのだ。飛び散る黄色の星屑の中を訳も分からず走り抜けるハヤテの頭の上に、どすん、と何かが降り立った。それがミソラと目を合わせた。
 動揺のまま頭上のものを振り払おうとするハヤテに、待って、と声を張り、ミソラは瞳を輝かせる。
「――エイパム!」
 目の前の紫の小猿、例の禿げのあるエイパムは、いつものようににやっと笑うと、助太刀とでも言わんばかりに自らコジョフーたちの方へと突っ込んでいく。
「ありがとうっ」
 走り去っていくミソラたちに一瞥もくれないままエイパムはコジョフーの一匹を引っ掻きかけて、もう一匹に派手に『飛び蹴り』をお見舞いされた。
 エイパムが作った僅かの隙にハヤテは物陰に入った。背から降りふうっと息を吐くと、ミソラはハヤテへ目配せして、未だ自己主張を続けているニドランのモンスターボールへと問いかける。
「君は、コジョフーたちの気を少し引いてくれればいいんだ。あの子たちが角から飛び出してきたところで、何か技を使って二匹を驚かせる。それで、そのうちに、ハヤテがドラゴンクローで決める、っていうのは、どうかな」
 力のこもったミソラの言葉に、ハヤテはこくんと頷いた。
 開閉スイッチを押し込み、慣れない動きで宙に放る。解放された白い光は地面の上で収縮し、メスのニドランのシルエットを形作った。飲ませていたあの薬が効いているのだろうか、立ち上がった姿は思いの外しっかりしている。これなら一度技を使うくらいは平気そうだ。
「えっと、ニドランは何の技が使えるんだっけ。毒タイプのポケモンだ、って言われていたから……毒針、と、か……」
 見下ろし、声を詰まらせた視線の先で、片耳の小さなニドランは――尋常でなく血走った眼で、フーフーと威嚇するように激しく呼気を立てている。
 異様ななざわめきが、一瞬背筋をなぞりあげた。
「……ニドラン、大丈夫……?」
 返事をする素振りもなく、ニドランはぶるっと体を震わすと、突然物陰から飛び出してしまった。
「あっ、待って!」
 ついていこうとするミソラの肩をハヤテが掴んで引き戻した。
 ニドランの駆けていく先に、コジョフーたちの姿が見えた。二対の瞳が小兎を捉え、一瞬怪訝そうな色を浮かべた後――その向こうのミソラの姿を見たのだろうか、いたずらな歪みを取り戻した。汗ばんだ拳を握るが、それもどうしていいものか、一直線に走る手負いのニドランに、一体なんと声を掛ければいいのだろう。
 距離を、と言うのも、戻って、と言うのも、どう考えたって間に合わない。両者が接近していく。ただ愕然として祈るような思いだった。攻撃を受ければ、きっとただでは済まない。なのにハヤテは動かない。動いてくれないし、動かせてくれない。
 すっと片腕を引いたコジョフーの、『ドレインパンチ』の挙動が、ニドランの顔面を捉えようとした、まさにその刹那だった。
 強烈な光と、若干の熱とが、かぁっと世界を焼いた。
 目は閉じなかった。ぞっと全身に鳥肌が走った。耳元の青竜の呻り声の向こうに、高い咆哮が響いた。箍(たが)が外れたように氾濫したエネルギーに、コジョフーたちは一斉に後方へ退いていった。
 ハヤテの腕に抱きとめられながら、ミソラは息をするのも忘れてその光景に見入っていた。
 知らない技かと思ったが、違う。大きな光の衣を身に纏ったのは、確かにあの小さなポケモンだったが――駆け出し、白光が剥がれ落ちて徐々に輪郭が現れると、それはもう、頼りない風体のニドランではなくなっていた。
 体はくすんだ薄青から、高く澄んだ日の空色へ。赤子のような弱々しい手足は屈強な四肢へ、尾は太く長く、背中の棘は幾分攻撃的な姿へ。溶け落ちた左耳、血色の双眸はそのままに、しかし体躯は以前の二倍ほどにも見て取れた。
 進化、という言葉は、知識としては頭の中に入っていたが――それをミソラが理解する前に、威勢を取り戻したコジョフーの二匹が揃ってニドランへ飛び掛かった。先に出た一匹が右拳を突き出した。
「ニドランッ……」
 ミソラが呼ぶよりも早く、拳はニドランがいた場所をすり抜けた。
 左手へ最小限の動きで攻撃をかわし、続く二匹目の『はたく』も軽々といなしてみせる。後ろへ回った二匹目の細い体躯を、右前足を軸に急ターンしたニドランの尾が叩きつける。転がっていく二匹目の横を抜けた一匹目が連射するスピードスターを、次々と襲い来る星型弾を、踊るような『乱れひっかき』で全て打ち崩す。たじろぐ一匹目を、戻ってきた二匹目が鼓舞するように鳴き声を上げる、その瞬間に一匹目の顔に腹に『二度蹴り』が面白いように決まって、よろめくそいつを頭突きで吹き飛ばし、続けざまに向かってくる二匹目の攻撃に僅かに身を引き、技を外したところの肩に噛みつき地面へ叩きつけ、懲りずに飛び込んでくる一匹目の蹴りも見切った動作で避け、敵の勢いを利用して『引っ掻く』で逆側へ受け流し――見事なまでの、手慣れているとしか言いようのない肉弾戦に、ミソラもハヤテも、茫然として見守ることしかできなかった。
 噛みつくを食らった方が跳ねるように起き上がって、背後から『ドレインパンチ』で攻め込んでいく。応戦しようと振り返り、絶妙な位置で攻撃をかわしつつ間合いへ踏み入るニドランの、後ろで、ゆらりともう一匹が起き上がった。武術ポケモンらしい構えを取るコジョフーの目は、もう完全に遊びの様相ではなくなっている。
 本気で飛び掛かってくるコジョフーに、もう一匹と対峙するニドランは気付かない。
「危ないっ!」
 思わず叫んだ声が、届いたのかは分からないが――ニドランは突如、ビクッと体を強張らせると、一閃、全身から電流を放った。
 ――電流を放った。ばちばちと焼け付く音と共に周囲に黄色い稲妻が伸び、明く照らされた裏路地の中央、ばんと銃声の響きを持って、傍にいたコジョフー二匹が超能力にでもやられたかのような勢いで弾かれ、数メートル先の地面へ、受け身も取れずに落下した。体を縮めて固まったミソラを、ハヤテがぎゅうと抱きしめた。一瞬の出来事だった。風が、痺れて揺れた気がした。
 いつだかのような焦げた匂いが、ゆっくりと通りを渡っていった。
 コジョフーたちはしばらく地面に伏せていたが、ニドランの低い呻り声を聞いた途端、お互い顔を見合わせて一目散に逃げていった。
 ……全身の力が抜けていくようで、ハヤテに身を預けながら、ミソラは長く長く息をついた。
 二匹の逃げていった方向へニドランは威嚇を続けている。歯を剥き出しにして、血走った目を見開いて。誰もいない場所へ敵意を向けるニドランの四肢は、よく見るとしかし、その表情とは裏腹に、小刻みに震えている。
 ハヤテに促され、ミソラは茫然としながらも、モンスターボールを今一度握りしめてニドランの方へと近づいた。
 ざく、という足音に、ニドランが振り向いた。
 そして、傷だらけの体で何度か足踏みすると、目の前の子供へと牙を剥いて、呻り声を上げ始めた。
 ミソラは足を止めた。分かっていたような気もした。けれど、悲しいような、悔しいような感情が負かしきれず、胸の中で渦巻き始めた。ニドランは自分を威嚇している。敵としてこちらを睨んでいる。今にも食いかかって来そうなそれは、もう完全に、自分が抱きかかえて走っていた時の小兎ではなくなっているのだ。やろうと思えば、人の子一人の体など、簡単に吹き飛ばしてしまうに違いない。――けれど。じっと見据えた目は逸らさずに、ミソラは下唇を噛んだ。
 微かに戦慄くボールを持つ手に、もう片方の掌を重ねる。
「怖くないよ」
 問いかけるようにそう言って、一歩二歩と踏み出した。鞄に括りつけられた鈴が、リン、リンと音を立てた。ますますニドランは声を荒げた。
 手前に座りこむと、その片耳の汗ばんだ額を、ミソラは静かに撫でつける。
「君は僕の友達だ。友達のこと、僕は怖がったりしない。だから、君も、怖がらないで」
 怒った、けれど怯えた瞳で人の子を見上げていたポケモンは、しばらくするとゆっくり目を閉じて、眠るようにその場に倒れ込んだ。





 次々と飛んでくる黄土色の針に、スピアーたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 高鳴ってやまない心臓の前に、傷だらけになった二羽のポッポを抱きかかえて、タケヒロは茫然と座り込んでいた。草原の向こうから、それとほどんど同じ色をしたノクタスがてくてくと近づいてくるのが見える。
 それから少しもしないうちに降りてくるのは、ポッポのそれよりも何倍も大きな羽ばたきの音。乗っていたオニドリルを手早くボールの中に収めると、頬に痣のあるその男は、へたっている少年へと目をくれた。
「平気か、タケヒロ」
 朦朧とした様子だったタケヒロは、その言葉にはっとして体を強張らせると、ぷいと顔を背けてしまった。
「……毒針は? そのポッポたちも食らってないか」
 言いながら手元を覗きこもうとするトウヤからポッポを庇うようにして、今度はきっ、と睨みを効かせる。
「助けれくれなんて言ってねぇぞ。あんな虫野郎くらい、俺達で十分倒せたんだ」
 それに、そうか、とだけ呟きが返ると、そこから何か複雑な色をした沈黙が流れ始めた。
 ゆるやかな風が生長途上の植生を揺らし、さくさくとそれを掻き分けていたハリがようやく主の隣に辿りつく。ハリがトウヤを見上げ、トウヤはハリを一瞥してから、少年の方へと顔を戻した。
 一人と一匹の、冷たいとも温かいとも取れない視線を浴びながら、タケヒロは次第に呼吸こそ落ち着かせたものの、小刻みに膝が震え続けてなかなか立ち上がることができずにいる。
 くう、とハリが伸びをした。日は緩やかに西へ傾き、それぞれの影を草原に落としている。
「……背負ってやろうか」
「う、ううう、うっせぇ、アホか! それ以上こっちくんな!」
 自棄を起こしたように突如として立ち上がると、タケヒロはポッポたちをボールに戻して、ずかずかと町の方へ歩き始めた。トウヤとハリはもう一度顔を見合わせて、言われた通り若干距離を置きながらそれを追う。
「悪いけど、君を乗せられるポケモンを今連れていないんだ。歩いて町まで戻れるな?」
「……」
「あのニドランは、ミソラが僕の知り合いの家まで連れて行ってるから心配いらない。……庇ってやったんだってな、そういえば」
「……」
「せっかくだから、一緒にそこまで行こう。ポッポの治療もしてやりたいし……」
 いじけたように無視を決め込んで、タケヒロはひたすら黙々と歩き続けた。
 随分年下の子供に取り合ってもらえない主のことを、ハリはちらりと控えめに眺める。一方でトウヤはそれを特に気にする風でもなく、惨めに痩せた、けれどどこか勇敢に見える少年の背に、一人嬉しそうに目を細めた。
「……凄く久しぶりだな、こうやってゆっくり話をするの」
「お前と話すことなんかない」
 ようやくの返答。そうだな、というトウヤの声は呆れたような笑みを滲ませている。
 いくつかの足音と草の音。日は西へ僅かに傾くのみで、昼間と言って差し支えない。空の青と草原の緑、その間に浮かぶ目指すココウの町並みが、だんだんはっきりと現れてくる。これほど遠くに出てきたのは、物心ついてからの少年にとり、実は初めてのことであった。
 おそらくガバイトに乗って行ったんだろうあの町の中で、ミソラとニドランは無事だろうかと、タケヒロは思考を巡らせようとする。けれど、そうしようとするたびに、たくさんの雑念が羽虫のように鬱陶しく飛び交った。邪魔だ。邪魔だ、邪魔だ、と思いながら踏み込む一歩がどうにも落ち着かないと、自分でも嫌と言うほど感じられた。いつからだろうか、後ろを歩いている男の、姿を見るだけで。声を、名前を聞くだけで、思い出したくもないことが、考えたくもないことが、胸の中に膨らんで、膨らんで、それが邪魔で、あるだけで、固かった決意がどろどろに、どろどろに溶けだして――そんなことを目の前の子供が考えているなんて露ほども知らず、トウヤはもう一度声を掛けた。
「……元気にしてたか?」
 ぴた、とタケヒロが立ち止まった。
 そして、くるりと振り向いた。きょとんとしている彼らの前で、タケヒロはべーっと舌を出し、向き直り町の方へと駆け始めた。
「見りゃ分かんだろッ!」
 よく通る声が草原に渡って、それからワァッと甲高い悲鳴が響いて、少年の黒髪の頭は前のめりに植物の中へと消えていった。すぐに起き上がって、大げさにぶんぶんと頭を振ると、大丈夫か、と今そこで笑われたのを気に病まないように、いらない思いを断ち切るように、また一直線に走っていった。





 それから、タケヒロが涙目で苦悶の声を上げるのを、トウヤはやはり少し離れた位置から可笑しそうに眺めている。
「あんたね、なんでろくに戦えないのに外に出ようと思うのよ」
「知らなかったんだよ、あんなにスピアーがいるなんて……いっでぇ!」
 うるさい、と悲鳴を一蹴されて、女レンジャーの手によって再び傷口に消毒液が塗り重ねられる。下唇を噛みしめて顔を背けるタケヒロを見物しながら、よし、とトウヤは膝の上に止まっていたポッポの背中を軽く叩いた。頭部に細く包帯を巻いたポッポの一羽がぱたぱたと飛び立ち、天井すれすれを行き交っているもう一羽とチリーンの動きに混じっていく。
「よかったねぇ、ピエロくんのポッポたち大したことなくて?」
 レンジャーの茶化すような問いかけに、タケヒロはむすっとして答える。
「だから、余裕だっつーの、あれくらい」
 女の一人暮らしには広すぎるからと言って、四人と数匹ポケモンが集まると、レンジャー宅もかなり騒々しい事態となっていた。
 床に寝そべるハヤテを椅子代わりにしているトウヤは、せわしなく飛びまわる二羽と一匹を見上げながら、ニドランの件だけど、と唐突に声を上げた。
「いや、ニドリーナか」
「えぇ。これだけ傷ついている状態でボールから出した途端に進化っていうのも珍しいわ。相当闘争心の高い子なのか、それとも……」
 勘ぐりを入れるような眼差しでレンジャーは男の方を一瞥するが、その目は相変わらず呑気にポケモンを追っている。
「毒タイプなのに毒が効いてしまうっていうのは、相当弱っていたら起こり得るのかな」
「そんな話聞いたことないわ。ちょっと調べた感じだと毒の方もただのスピアー毒で、特別なところはなかった。こういう症例は本当に稀だけど、考えられるとすれば例えば、ニドリーナの毒タイプって属性が先天的に失われている、とか」
「先天的、か。……耳の方も」
「そうなるでしょうね。あの夜、『死の閃光』でココウ一帯の森が無くなったあの日から、奇形個体はレンジャーユニオンで多数保護されてきてるわ。でもこういう、ポケモンの能力機能の障害みたいな例がここで見つかったのは初めて」
「お、おい待て、毒タイプの属性が失われてる、って何だ? あのニドリーナ、ノーマルタイプになったってことか?」
 タケヒロが首を突っ込むと、いや、とトウヤが腕を組んだ。
「ノーマルタイプはノーマルタイプだ。格闘に弱くて、ゴーストが効かない。こいつの場合は、そういうのが一切ない、『タイプ無し』っていう状態になるんじゃないか」
「多分、ね。後はこの子の角の毒腺から毒が分泌されないことが確認できれば、残念だけどほぼ間違いない」
 タケヒロの頬にこびりついた泥を濡れタオルで拭い取り、レンジャーはトウヤの方へと真剣な眼差しを向ける。
「ねぇ、これだけ体が小さければ、明らかに死閃の後に生まれた個体でしょう。この間言ってた、やたらと大きなイワークが増えてきた、っていう話もある。あの爆発事件で野生のポケモンに遺伝的異常が起こっているとしたら、これって大問題よ」
 右手を上げると、先程治療したポッポがぱたぱたとトウヤの腕に止まった。タケヒロは傷口の染みるのを堪えた表情のまま、面白くなさそうにそれを見ていた。
「……木の実栽培をやってる友人がいるんだが、形質に異常が出たって話は聞いてない。木の実はポケモンより世代交代がうんと早いだろう。木の実に影響が出てないのに、ポケモンに影響が出るか?」
「現に出てるじゃない。遺伝異常じゃないとしたら、これ、どう説明するの? 偶然だって言いたい訳?」
 若干辛い口調で詰め寄るレンジャーに対し、トウヤは指先でポッポの頭を撫でながら平然として言葉を返す。
「それを調べるのが、君たちの仕事だろ」
 あのねぇ、と厳しい剣幕でレンジャーが立ちあがるのを、タケヒロは近い位置から唖然として見上げていた。
「お兄さんの興味って一体どこに向かってんの? ポケモンが好き好きって言っときながら、愛でる以外に能ないの? 今まで分からなかったこと知りたいとか、そういう興味は起こらない?」
 声に驚いたのか、ポッポは腕から飛び去っていく。何事かと首を持ち上げたハヤテの頭を意味もなく叩きながら、トウヤも若干声色を変えた。
「じゃあイワークの件だ。僕がこの間見た山みたいなハガネールは、確実に五十年は生きてる個体だ。ああいうのがもう子供を残してる。確かに死閃の後、ここ二、三年程で顕著になってきたとは思うけど、それでもイワークの巨大化の傾向は三年前、君がこっちに来る前からずっと見られてたんだ。ただの自然淘汰だよ。大きい個体が多く生き残って子供を作るから、大きい個体が増えただけだ。死閃が引き起こした遺伝異常とは限らないだろ」
 僕だって考えてる、と話を切り上げて、トウヤは立ちあがるとハヤテをボールの中に収納した。部屋の隅で小さくなっていたハリにも同じようにボールを向ける男に、レンジャーは浅く溜め息をつく。
「レンジャーユニオンで研修してた時に遺伝子頻度的な進化の事例はたくさん勉強してきた。結論から言うとあり得ない、巨大個体がこんなにも爆発的に増える原因がただの自然淘汰だなんて」
「じゃあ違うんだろ。まぁ、三年前からあり得ないことだらけだけどな、この辺では」
「考えてるって言うならそう伝えてくれればいいでしょ。せっかく手を組んでるんだから」
「あぁ、次から気を付ける」
「……ムッカつく……」
 聞こえるように呟いて腰を下ろすレンジャーに、相手にすんなよ、とタケヒロが控えめに声を掛ける。
「……それで、お兄さん、あのニドリーナ、どうするの? おかしいと思ったからここに連れてきたんでしょ」
 ハリを包み込んだ光がボールに収まりきると、トウヤはそれをベルトに引っ掛けながら振り返った。
「さて、どうするかな」
「タイプ属性の欠損なんて、相当貴重な研究材料よ。ユニオンに見せれば、高く買い取って貰える」
「僕も、そのつもりだったんだが……」
 若干語気を弱めたトウヤが視線を移す先へ、二人も揃って目をやった。
 彼らのやり取りをよそに、腕の傷の治療を終えたミソラは部屋の奥の階段の一段目にちょこんと腰掛けていた。その二段目には、ぐったりと寝そべって、うつらうつらと眠りに落ちようとしている片耳のニドラン、改めニドリーナがいる。ミソラはこの上なく幸せそうな表情で、ちょんちょんとその鼻先をつついた。
「リナ」
 囁くようにそう呼ぶと、ニドリーナはうっすら片目だけ開けてそれに答えた。ミソラはくすぐったそうな笑顔を浮かべて、じいっとその目を覗きこむ。
 ……その様子を傍観してから、レンジャーは低い声で呟いた。
「ニドリーナのリナ……親譲りのネーミングセンス、ってか」
「誰が親だ」
 渋い顔で即刻切り返したトウヤを、タケヒロはおずおずと見上げた。かと思うとすぐさま顔を伏せ、がりがりと頭を掻き、次に顔を上げると、机上に組んだ手元に視線をやったまま、ぶらぶらと足を揺らしてみる。ぽすんと頭に乗ってきたポッポの一羽は、何か促すように、こつこつと少年の額をつついた。
「……あながち間違いでもねぇよ。あいつ、生まれたてのヒナ鳥が、最初に見たものを親と思ってずっと追いかけてるみたいな状況なんだ、今」
 だから、と顔を上げると、不思議そうにこちらを見下ろしていた男とばっちり目が合って、タケヒロは咄嗟に顔を反らした。その視線の先に、かの友人が、生まれて初めて捕まえたポケモンに寄り添うようにして笑っている。
「あのさ。……あんまり邪険に扱ってやるなよ、ミソラのこと」
 普段ろくに会話も成り立たない子供からのその言葉に、トウヤは不意を突かれたようで、何も言い返すことができなかった。
 ピエロくん優しいんだぁ、とレンジャーが茶々を入れると、途端にタケヒロは耳まで真っ赤になって、やいやいと叫びながらポッポを連れて家を飛び出していった。驚いて振り返ったミソラは何事かと小首を傾げ、こちらに目を合わせようとしないトウヤを見、続いて楽しそうに微笑みかけてくるレンジャーに笑顔を返す。可愛い、と目を細めるレンジャーの横、タケヒロの座っていた椅子に、脱力したようにトウヤはすとんと腰を下ろした。
「刷り込み、か」
「けど、的を射てる」
 くすくすと肩を揺らすレンジャーの横で、トウヤは疲れたように遠くの方へ視線を寄こした。
「……何か変わってしまうのかな」
 何も変わらない、と言い切ったのは、たった数時間前の自分であったけれど。
 音が消えていく。またしても、意識が流されていく。自らのポケモンを息のかかる距離で見つめ、愛おしそうにそっと体を撫でるミソラの様子は、サボネアを手に入れた時の自分とあまりにもそっくり重なっていた。
 忽然として蘇る、懐かしい景色と、匂いと。広がっていく、脳幹を麻痺させ、優しく胸を締め上げる、甘くて苦い記憶の波。また夢を見てしまうだろう。あの嫌な夢を、と頬杖をついてぼんやり子供を眺めながら、けれど、とトウヤは思いを馳せる。多分、そこの子供は、そんな辛いのも、楽しかったはずのもすべて、ぽっかり抜け落ちてしまっている。
「ねぇ」
 潜めて言われたレンジャーの言葉は、何か見透かしているようだった。
「厄介な拾い物したって、思ってる?」
 ふわり、くるりと女の首へ巻きついたチリーンが、陽気な笑い声を立てた。
 ミソラは再度振り向いた。空色の瞳の見つめる中、にやりといたずらっぽく笑う彼女へ溜め息だけ寄こして、行くぞ、とトウヤは立ちあがる。はいっ、と元気に返事をして、わたわたと慌てた手つきでニドリーナをボールへ戻して、恍惚としばしそれを眺めた後、大事そうに鞄へ収めて。何か決意でも新たにしたのか、よぉっし、と小さく拳を握った。
 手を振るレンジャーに一礼すると、小さな新米トレーナーは、さっさと行ってしまった師匠の背中を追って古びた扉をくぐっていった。





  
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