お前は変な奴だ、と言われたことがある。
 『生まれたて』のミソラにとって、日々積み重ねていく時間はあまりに重いものだから、それはずっと遠い昔の事のように思えるけれど。
 たった二日前のことだ。ぽつんとそう、零すように呟いてから、はっとしてばつの悪そうな顔になって、すまん、と彼は謝った。けれど、ミソラにとってそれは別に、傷つくことでもなんでもない。後から考えれば、そんな自分はなんだか可笑しかったけれど、変だ、と認識されたということだけで、ミソラは十分に幸せな気持ちを貰っていた。
「何が変ですか、私は」
 嬉しくて、くすくす笑いながら尋ねると、男は怪訝な色を浮かべて、目を閉じてガバイトに寄りかかった。
 バンギラスの残骸を見た次の一日。『灰』に敏感なのだと言って、トウヤは薬を飲んで、あれから朝までぐっすり寝込んでいたけれど、どうにも体調は上がりきらないらしい。頻繁に小休憩を挟んでは、座り込んだり、今のようにハヤテに身を預けたりすることが多かった。家路に野良に襲われなかったのは幸運だったと言えるだろう。
「何がって……」
 ずるずると岩盤の上に崩れ込みながら、いつもするようにトウヤは紺のマフラーに顎を埋める。
「ハヤテのこと、ちっとも怖がらなかったろう。ミソラは」


 ――前のめりに駆け続けていたガバイトのハヤテが、急に踏み込み上体を反らした。
 慣性にならってハヤテの首にぶつかりながら、ミソラは飛び出した影を目で追う事しか叶わない。ぱっと草陰から爆ぜたのは、一メートルに満たない体躯の、人の子にも見紛いそうなポケモン。ハヤテの鼻先ですっと両手を開くそれの、子供らしい双眸が、ふいにいたずらな歪みを見せた。
 パァン、と高く鳴り響くのは、両の掌を打ちつけた音だ。ビクッと怯んだハヤテの鼻へ軽いキックをお見舞いして、くるくる回転しながら草原へと舞い戻っていく。『猫だまし』という技名まではすぐには浮かばなかったが、敵意があることに間違いはない。後ろへ飛び退き、唸り声を上げ始めたハヤテの上で、ミソラは身を引き締めた。
 前方足元に瞬く一閃、そこから放たれた無数の光弾が次々と小竜に襲いかかる。『スピードスター』、以前ココウのエイパムがミソラに使ってきたのと同じ技で、威力は大してないはずだ。身を捩るハヤテの内から、しかし溢れる動揺が手に取るように感じられる。このドラゴンポケモンが、少し驚くことがあったりすると途端暴れ馬と化すことは、ミソラも心得始めていた。今は自分がトレーナーだ、自分が落ち着いていなければ。
「ハヤテ、草むらの中に『竜の怒り』!」
 よく見てきた技の名前を言うと同時に、白い光線が地に向かって放出された。
 一瞬にして植物の焼き切られたその跡に、例のポケモンの姿はない。左手、映り込んだ小さな影に、ミソラは思わず目を瞑った。ハヤテが気配に振り向いた。血走った瞳が、薄黄の体を捕捉した。
 素早い挙動で宙を舞い、甲高い掛け声と共に突き出された右拳がガッとハヤテの左腹に刺さった。ミソラが細く目を開くさなか、拳の入った打点から、薄緑の光が競うように飛び出した。ハヤテの絞るような苦悶の声。またしても群生に逃げ込もうとするポケモンの体へと、その光は次々吸い込まれていく。――ドレインパンチ、と閃いた名前は、『ポケモン百科』で覚えたものだ。
 敵を追おうと前傾する背中に揺られながら、緑に紛れる敵影を記憶とようやく照らし合わせた。コジョフーだ。武術ポケモン。得意とするのは格闘技、接近戦に得手がある。
 毒にやられたニドランがいるんだ、こんなところで立ち止まっている暇はない、というミソラの思いとは裏腹に、ハヤテは右腕を掲げ、草原のざわつく所へと一心不乱に斬りかかっていく。
「ハヤテ、待ってッ」
 首をきつく抱きしめても、ハヤテは止まらない。身を翻すコジョフーは、ガバイトの切り裂く攻撃を、分かっていたとでも言わんばかりの最小限の動きで軽々いなしてみせた。『見切り』を習得しているか、どんな攻撃もかわしてしまうという、あの厄介そうな技。
 『切り裂く』をかわされたことによって生まれた大きな隙に、コジョフーはぎゅっと腕を引き、両掌で青竜の胸を突き飛ばした。小柄な体からの一撃に、ハヤテは大きく仰け反った。今のは、『はっけい』!
 足踏みし後退するハヤテの呻りが、突如爆発的な咆哮へと変貌した。驚いている間に姿勢を下げ、弾丸のように飛び出すのは、およそ背中の子供のことなど完全に失念してしまっている。目の前のコジョフーの斜め後方、吹っ飛ばされまいと歯を食いしばるミソラには何もないように見えた、ハヤテの向かうその草むらから、もうひとつ、小さな影が現れた。迎え撃とうと斬りかかるハヤテの前でそれが跳ねた。すっと、同じように両手を広げた。
 二度目の『猫だまし』にも律儀にガバイトが怯むと、突っ込んできたそいつを、二匹目のコジョフーは回し蹴りで後方へ流した。
 草原へと前のめりに崩れ込んだハヤテの背から、ミソラも弾き飛ばされた。一瞬の浮遊感、続いて地面へ叩きつけられると、肺を突き上げられるような息苦しさに襲われる。しかし、だめだ。鞄からモンスターボールが落ちていないことを確認すると、ミソラは急ぎハヤテへと駆け寄った。怪獣らしい低く響く声が二匹のコジョフーを威嚇し、張り詰めるような緊張感を一陣の風が薙いでいく。逃げなければ。睨みあっている今だ。人里まで入ってしまえば、野性のポケモンは寄っては来まい。
「ハヤテ、行くよ! こっち!」
 それで、ぎゅっと青色の腕を掴んで引くと。
 ――獰猛な叫び声が脳を震撼させた、次の瞬間、ミソラの体は、力任せに振り払われたガバイトの左腕に、小石のように吹っ飛ばされた。
 先程の数倍の力を持って地面に打ち付けられた。勢いに負かされ地を転がっていく体がしばらく止められなかった。空の青がようよう落ち着いて見えて、眩しさと、遅れて焼けるような痛みが来た。左の手首から肘まで泥だらけになった擦り傷から、ぷつぷつと鮮血が滲み出した。爪に切られてぱっくり裂けた右の手の甲から、肝の冷える赤がぼたぼたと落ちた。けれど一瞬、何が起こったのかちっとも分からなくて、それが理解できて初めて襲い来るのが、目の回るような、吐き気の催すような、堪えがたいほどのきつい動悸――さっきまで跨っていたものが、ミソラの中で、名前の知れた友人から、絶対に分かり合えない『魔物』のような何かへと、急激に成り下がっていった。


「――だから、見ていて危なっかしいんだ。肝が据わっているというよりも、恐れ知らずと言うか」
 けれど、それでも、あのとき彼の言ったことが、ミソラには分からなかった。
 急に飛び乗ったり、餌を持った手を差しだしたりすれば、驚いた拍子に腕を食いちぎられても不思議ではない、とまで言われて、しかしハヤテはきょとんとしてぱちぱち瞬きを繰り返している。トウヤはそれを呆れたように見上げて、寄りかかった姿勢からゆっくり前に体を倒した。
「普通の子供だったらドラゴンタイプのポケモンにこんなに早く慣れないよ。僕だってまだ、ハヤテは扱いきれないところも多いのに」
「お師匠様は、ハヤテのことが怖いのですか?」
 真顔で問われたその質問に、トウヤは僅かに表情を崩して、右手を上げてハヤテの頬にぺたぺたと触れた。
「ハヤテは卵を孵す所から育ててきた。ハリだってそうだ。メグミはこんなだけど、普段は大人しくて優しい子だって知ってるし、もちろん皆信用もしてる。けど、こいつらはポケモンだろう。人間よりうんと強い力を持ってる。僕くらい、やろうと思えば、今すぐにでも殺せる訳だ。だから、たまに、何を考えてるのか、少し分からないところがあったりすると……」
 一言一言詮索するような様子の彼を見つめたまま、ミソラは首を傾げていた。
 話の意味が分かっているのかいないのか、ハヤテは喉から甘え声を立てながら、主人に顔を擦り寄せじゃれついている。それを片手でいなしながら、なんだよ、とトウヤが苦笑を返すのを、おやつのつもりで先程あげたビスケットを持て余している様子のハリが、ぼうっと眺めている。メグミは頭の上だ。高く澄んだ青空をのんびり旋回するさまは、見ていて穏やかな気持ちになった。
 ――何を恐れているのだろう。分からない。小さな胸を沸き上がる疑問に圧迫されながら、でもうまく言葉にはできなくて、ミソラはそれ以上何も問わなかった。
 どうして手持ちのポケモンを怖がる必要があるのだろうか。あんなに心を寄せて、若干囚われてさえもいるようで、それなのに完全に気は許さないと言うのか。ハリもハヤテもメグミも、主のことをよく認めている風だった。裏切るようには見えなかった。なぜだろう。トレーナーは、ポケモン相手に絶対的な信頼を寄せてはいけないのだろうか。人とポケモンは違うから? 完全には分かり合えないから? ならば、人とポケモンは、一体何が違うの? 分からない、分からない。
 むぅ、と眉間に皺を寄せるミソラに、それに気付かないトウヤがぽつりと、思いついたように言葉を零した。
「……あぁ、お前がそんなだから、こうやってハヤテを手懐けられたのかな」
 ――物怖じしない自分だから、ハヤテは気に入ってくれたの?
 どさくさに紛れて、というような表情でぺろりと頬を舐めてきたハヤテの鼻先をべしんと叩いて、トウヤはやれやれと立ち上がった。行くぞ、と声を上げて歩いていく主の背中を、ハリが、上空からメグミがゆっくりと追っていく。しょげた顔で鼻先を掻いているハヤテは、くすくすとそれを笑っているミソラを見て一変、にやりといたずらに口角を上げた、気がした。
 そうだ、怖くはない。何も怖いことなどないではないか。ハヤテは友達だ。友達が傷つけてくるなんてありえない。怯えてるから移ってしまうんだ。怯えない自分を認めてくれたんなら、怯えずに向き合っていなければ。


『あれだ、兄弟』

 だから、そうだ、怖くなんか、
『ねーだろ、もう、怖いもんなんか。なぁ?』


(――怖くなんかない!)
 草原から高く飛び上がったコジョフーにハヤテは興奮したまま返り打ちの姿勢を取ったが、立ち上がり、腹の底から怒鳴りつけたミソラの声に、はっと我を取り戻したようだった。
「穴を掘る!」
 すぐさま翻り大地の中へ身を隠していくガバイトの上を、コジョフーの足が掠め通った。『飛び蹴り』を外して草むらへ転がり落ち悲鳴を上げる一匹に、もう一匹がキィキィと声を掛ける、ミソラはその横を全速力で駆け抜けた。立ち上がった最初の一匹と、後の一匹が、顔を見合わせ頷いた。
 鞄に括りつけられた白い鈴が、リンリンと高い音を奏でる。かなり近づいてきた町の影を目指しながら、ミソラは首だけ後ろへ向けた。二匹のコジョフーがタイミングを計ったように、揃ってスピードスターを放出した。
 真っ直ぐ子供の背中へ突き刺さろうとした無数の星型弾は、しかしその直前に地面から間欠泉のように噴き上がった土の弾幕に相殺された。地中から脱出してきたハヤテはすぐにミソラと並走すると、すっと姿勢を下げた。ミソラはその背に飛び乗った。
 風を切る轟音で耳は全く機能しない。真剣な、しかしどこか心配そうな表情でちらりとこちらを見るハヤテを、大丈夫、と撫でつけて、しっかり首に手を回したままミソラも振り返った。二匹のコジョフーが追ってくる。人を乗せたままでは全力が出せないことも災いしたか、なかなか遠ざけることができない。二匹も諦めるつもりはないようだ。
 ――、諦める? 何を?
 ふとして掠める、根元の疑問。コジョフーは確かに肉食だったような気がするが、あんなに小さなポケモンが、人やガバイトを獲物に選んだりするのだろうか。ニドランのことなら餌にしていても不思議はないけれど、と考えて、そんなことを想像する自分に若干身の毛がよだつ。そもそもコジョフーたちは、ニドランをボールに入れたところまでは見てはいなかったはず。
 しかし、そういえば、ノクタスは人間も食べたりするんだ、とトウヤが楽しそうに話していたことがあった。その時ハリはやはり無表情にこちらのことを見ていたけれど、そうだ、それならば、コジョフーだって見かけにはよらない。
「ねぇハヤテ、あのポケモンたち、どうして追いかけてくるんだろう」
 ミソラの声に、ハヤテは視線だけ寄こし、にやりといたずらに口角を上げた、気がした。
 ふいに地面から植生が消え去った。右手左手には、田畑とまばらな民家の光だけ景が広がっている。ついに農村に入ってしまった、が、コジョフーは全く臆することなくついてくるではないか。
「……もしかして、遊んでるのかな?」
 その言葉に、小竜はぐんとスピードを上げた。
 急激に風圧が圧し掛かってミソラは本当に吹き飛ばされかけた。ぐっと首に抱きついた途端、ハヤテは一つ咆哮、一歩、二歩と踏み込むと、ぐっと身を屈め、大きく跳躍した。
 ――音が無くなって、耳が切れたかと思った。ぐんぐん太陽の方へ上昇する一匹の影を、コジョフーたちは立ち止まり茫然と眺めていた。
 みるみるうちに小さく離れていく民家の上を、羽根のない竜が飛び越えていく。鳥にでもなった気分かな、といつだかのスタジアム戦で同じように飛んでいたハヤテとトウヤを見てミソラは思っていたけれど、ちっともそんなことはない。頂点まで来て、不意に落下が始まった。両脚で必死にハヤテの体を挟んで、それでも剥がれて飛んでいってしまいそうな尻と内臓の感覚に、えも言われぬ恐怖と不快感、加速していく降下スピード、急激に迫りくる黄土色の地面に、思わずぎゅっと目を瞑って――ずどぉん、と着地するとすぐ、ミソラはハヤテの背からへなりと崩れ落ちた。立ち上がることもままならない子供を引きずって、ハヤテは飛び越えた家屋の影へと潜り込む。
 木製の壁の向こうから、人間の騒ぐ声がする。ハヤテに促されてミソラは再び背中によじ登るが、空色の瞳からは若干生気が抜けて見えた。
 ついてくるかな、と囁くミソラに、ハヤテは小首を傾げた。息をひそめて見上げる空にはひとつ、綿雲がぷかぷかと泳いでいる。背中の方、屋内からするばたばたという足音の他に、トントン、と何かの軽い音が聞こえた。呻り声を上げハヤテは身を屈める。ミソラも固くそれを抱きしめた。
 頭上、逆光に黒く映る民家の屋根の張り出した向こうから、スッ、と二つの影が滑り出た。
「来た!」
 言うと同時にハヤテは駆け出し、尾の一振りでスピードスターを薙ぎ払った。民家の角を出た瞬間、突然目の前に現れた人影と正面衝突しかけてハヤテは横っ跳びにそれを避けた。太い尾が民家の主らしい男の目の前を轟音と共に通り過ぎた。奇声を上げ尻餅をついた男に、ごめんなさい、とだけ叫んで、ミソラとハヤテは急ぎ町へと向かっていく。





  
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