2・厄介な拾い物








 夢かと思った。

 いや、夢だと思いたかった。夢であれ、と願った。
 しかし光が――無理矢理こじ開けられた瞳に散らされるペンライトの光が、思考を掻き乱す熱が、体中を猛然と駆け巡る痛みが、幻想へと逃避する己の髪をひん掴み、現実なのだと認識させた。夢ではない。夢では、ない。
 鼻をつく消毒液の匂い。嫌いだった。ポケモンバトルで惨敗した時のことを思い出すから。あの時、笑いながら傷口に絆創膏を貼ってくれた白衣の女が、今、恐ろしい形相で自分の体を睨みつけている。その部屋も嫌いだった。嫌いになったのかもしれない。天井の右の隅に掛かった蜘蛛の灰色の荒城が、白く濁った世界の中で大きく小さくうねっている様は、まるでいつか自分を飲み込んでしまおうとしているかのようで、なんだか怖かった。でも、もしかすると、あれがうねっているのは、もしかしたら、自分自身があれに、近付いたり離れたりしているからなのかもしれない。そんなふうに浮遊する意識は、悲鳴を上げる体から抜け出そうとしている魂の現れなのだろうか。
 見知った大人たちが駆け込んできて、次々と動揺の言葉を口にする。何故。何が。鍵は。薬は。誰がこんな――
「――あぁ、一体何があったって言うの。どうしてこんなことに……!」
 ヒステリックな声。それを聞いた途端、恐怖の傍から後悔の念が溢れだし、零れる涙が止まらない。視界の端で、中でもよく知った顔の女が両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。よく知った顔の男がそれを受け止めた。
「落ち着け」
「なんで、この子が――!」
「落ち着け!」
 ……母さん、父さん
 発する息は、ひゅうひゅうと声帯を掠るばかり。
 闇に堕ちていく視界の中で、一番会いたい人を探した。枕元、冷えた空気を揺らす唇、きめ細やかな頬に乗せた桃色、艶やかに輝く長い黒髪。月明かりに佇む少女。うっすら笑う彼女の顔を、今その顔を見たいのに。
 どうしていないんだ。分からない。傍にいてくれるはずなのに。分からないよ。痛みが迸る。体が内から妙に熱い。泣き叫びたかった。大声でその名を呼びたかった。けれども、腫れ上がった喉からは、ただ細い嗚咽だけ漏れ続けた。
「落ち着きなさい」
 母親の震える肩を抱く父親が、こちらを一瞥した。濁った目ではその表情までは見えなかったけれど、その眼差しは果たして、我が子に向けるそれであったのだろうか。
「……人に優しい子に向かって、運命は、それほど残酷な仕打ちは、しない」
 母親を慰むように、一言一言噛みしめるように、父親は微かに震える声で言う。
「……だから、この子は」
 ――そうだ。それだから。
 世界が暗転する。転落していく。見上げる空は淡く儚く。木漏れ日のちらつく樹木の中の、その広げる枝のどこかの、明るい古巣が遠のいていく。
 僕は悪い子供だ。僕が悪い子だから、運命が、こんな仕打ちをした。
 光を求めて喘ぐ子供の、その太陽を覆い隠すように、誰かが身を乗り出した。
 僕が悪いんだ。全部、僕のせいだ。僕が、悪い子だから。
 僕が、僕が、僕が――


「――ッ!」
 毛布を跳ねるように飛び起きて、一瞬の後、トウヤは大きく息をついた。
 世界が眩しい。ぞくぞくと胸を這う不快感と倦怠感に妙な現実味を感じながら、呼吸を整えて窓の方を見る。日は既に高く昇っていた。晴れの日の強い光の差し込む傍ら、居候の寝ていたはずのベッドは空で、寝具は折り目正しく揃えられている。
 机の上にたたまれた紙を見つけて、トウヤはそれを手に取った。

『友だちとあそんできます 朝ごはんきちんと食べるように
 おばさんが言っていました みそらより』

 幼いが綺麗な筆跡で綴られた置き手紙を元に戻して、トウヤは苦々しい表情で額をさすった。
 二人が『死閃の爆心』へ赴き、同じ道のりを経て無事帰宅した翌々日。
 ココウの空は、今日もからんと澄み渡っている。





「じゃーん!」
 そんなオノマトペと共に目の前に突き出されたものを見て、しかしタケヒロは大した反応を見せなかった。
「お、モンスターボール」
「……もっとびっくりするかと思ったのに」
「おぉー、スゴイスゴイ」
 不服と言うようにミソラは頬を膨らませて、それでもなお嬉しそうに自分の手の中のものを太陽にかざした。日光にきらきらと輝くのは、傷一つない新品のモンスターボールだ。
「ついにミソラもトレーナーデビューってか」
「うん! お師匠様が買ってくれたんだ」
「へぇ」
「ご褒美だって」
「何の?」
 怪訝そうに瞳を向けるタケヒロに、ミソラは空色の双眸を細めて、へへへ、とだけ返した。
 目覚めたばかりの大通りの喧騒が、少し遠くから聞こえてくる。朝方の日差しに照らされたいつもの裏路地は、普段より幾分眩しい感じがした。
 腰かけていた廃ドラム缶からひょいと飛び降りると、タケヒロはその紅白のボールを覗きこむ。ミソラも習って目をやった。
「なんだ、空(から)じゃねぇか」
「そうだよ」
「じゃ、暇だしいっちょ捕まえにいくか」
「え?」
 ボールから視線を外して、二人はばっちり目を合わせた。きょとんとしているミソラの前で、タケヒロはいたって真剣だ。
「ほ、本当に?」
「ボール持っててもポケモン入ってなきゃ、トレーナーでもなんでもないぞ」
「そうだけど……」
「だけど、なんだよ」
 その時、天の方から降り注いできた音に、二人は顔を上げた。
 刹那、二人の瞳に映り込んだ星型弾が、次から次へと裏路地の壁に地面に炸裂した。光と音が弾け黄色の星と砂埃が舞い上がり、突然のことにただ目だけ見開いたミソラの右腕に、続いてどすんと何かが落下した。
 とっさに顔を伏せていたタケヒロは、耳に飛び込む間抜けな悲鳴に顔を上げ、目の前の友人の腕に乗っかっているものを見て血相を変えた。
「あっ、盗人連中のハゲザル!」
 そう呼ばれた紫色の小さなポケモン――数日前にミソラと白い鈴を巡ってやりあった禿げのあるエイパムは、ひとつにやりと笑うと、長い尻尾を振り上げて、自分の乗る腕の先に掴まれたピカピカのモンスターボールへと踊りかかった。
 器用な尻尾の先が、むんずとボールを掴んだ。小さくとも強力な獣の力にミソラは殆んど抵抗もできずにボールを離してしまった。あっ、と短い悲鳴の間に、エイパムは地面に降り立つと、掴みかかろうとする腕の合間をかいくぐり、キャキャッと笑って屋根の方へ飛び上がった。
「返して!」
 ミソラが叫び、タケヒロが舌打ちしてズボンのポケットからモンスターボールを取り出すのとほぼ同時だった――空中のエイパムを、水流の一陣が打ちつけた。
 二人は息をのんだ。不意の一撃にエイパムの体はいとも簡単に吹っ飛ばされた。後頭部から家屋の壁に勢いよく激突し、鈍い音が響く。小さな薄紫は、力無く地面に落下した。
 ころりと転がったモンスターボールを急ぎ拾い上げて、薄く開いたエイパムの目を、ミソラはきっと睨みつける。エイパムはそれを見てギギギと弱々しく鳴き、よろりと起き上がると、慌ててその場から立ち去ってしまった。
 大事そうに両手でボールを抱くミソラと、ポッポの入った二つのボールを構えたまま茫然としているタケヒロが、思い出したように振り返る。路地の、曲がり角のあたりに、一匹のよく肥えた大きなビーダルが、何食わぬ顔でこちらを覗いていた。
「……今の、ヴェルがやったの?」
「水鉄砲か」
 ぽてぽてと近付いてくるビーダルに駆け寄って、その太い首にミソラはそっと抱きついた。
「ありがとう、ヴェル」
 黒目をじとりと動かして、めんどくさそうに尻尾を振るビーダルのヴェルの姿に、タケヒロはやれやれと言うような笑顔を浮かべた。
「そいつが技使ってるのなんて、初めて見たわ」
 大事に思われてるんだな、というタケヒロの言葉に、ミソラは改めてヴェルの顔を見た。年老いたビーダルの表情は相も変わらず推し測りづらいが、小さな手のひらが撫でる背中は、日溜まりのように暖かい。
 ヴェルがその場に座り込み、ミソラは顔を上げた。
「そういえば、ヴェルも自分のボールがあるのかな」
「ハギのおばちゃんが持ってんじゃねぇの? 飼われてるポケモンなら、皆入れられるボールがあるだろ」
「さっきのエイパムも?」
「あー……」
 タケヒロは顔を渋める。エイパムや、彼以外の捨て子の話を持ちかけた時、決まって彼は嫌そうな顔をした。
「あれは捨て子連中に馴らされてるだけだよ。あいつらボール持ってないし」
「よく馴らしてるんだね」
「まぁ、あんな扱いしてても逃げないってことは、そういうことになるよな……でも、ボールがあった方がいいのは確かだよ。トレーナーとポケモンっていう関係がはっきりするし、ボールに入れてるのと入れてないのとで、信頼の厚さは変わらない」
「なるほど」
「あいつらとエイパムなんかより、俺とこいつらの方が、よっぽど信じあってるって、断言できるね」
 そういってポッポの入ったボールを掲げるタケヒロに、ミソラは自分の取り返したボールへと視線を落とす。そこにいずれ入ることになるであろうパートナーと、トレーナーになった自分の姿。それを努めて描くのは、どうにも難しいことであった。
「いいなぁ」
「いいだろー」
 ぽつんと漏らすミソラに、何の気なしにタケヒロが返す。
「僕も、そんなトレーナーになれるかな」
「なれるって。よし、捕まえにいくか?」
「でも……いいのかな」
「だから何が」
「お師匠様に指導してもらわなくていいのかな、って」
 そう言うミソラをタケヒロは一端笑い飛ばして、それから大げさに溜め息をついた。そしてミソラの眉間をびしっと指さし、
「あのなぁ、お前のボールだぞ。お前がトレーナーになるんだぞ。ミソラのポケモンなんだ、そうだろ!」
 高らかにそう言い放った。
 ミソラはきゅっと口を結んだ。ヴェルがぼんやりした顔で見上げる中で、長い金髪の少年は、決心したと言わんばかりに、手の平のボールを握りしめた。
「――ポケモンを、捕まえにいこう!」





 送られてきた資料をぱらぱらと巡りながら、女レンジャーは眼前に座っている男へと視線を落とした。
「爆心でお兄さんが見たのは、確かにバンギラスの下半身ね。損傷が激しいけれど、生命活動を止めてから約三年ってところだそうよ。生物にはありえない量の灰因子も検出されたって。『あの夜』と関わってるのは、まず間違いないわ」
「……だろうな」
 机に肘を付き、うわの空といった様子でどこかを見つめるトウヤに、レンジャーはじれったそうに詰め寄った。
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「嘘。何考えてた?」
 トウヤは一度レンジャーに目をくれると、再び視線をそらして、紺色のマフラーをずり上げた。
「……嫌な感じだ」
 伏し目がちに話し始めた男の様子に、レンジャーは眉をひそめて顔を離した。
「話したことがあるだろう、ヨーギラスが苦手だって」
「聞いたわ。ヨーギラスにやられたんだっけ、それ」
 包帯の巻かれた左手へと右手をやりながら、トウヤは黙って頷いた。
「あそこにいた頃、僕達はまだ子供で、大人たちが何の仕事をしているのか、知ろうともしていなかったが……」
 僕達、とレンジャーが反芻するが、トウヤは自分がそう言ったことにさえ気付きもしない様子で続けた。
「知り合いの言っていたことを覚えてるんだ。組織の末端まで含めても、ヨーギラスを使ってこの研究をしているのはうちだけだと、誇らしそうに話していた。それが本当で、もし今もそうなら、実験を行ったのは……いや、実験を行う場所を選んだのは」
「お兄さんの体が灰因子に過剰に反応すること、ココウに住んでいることを知っている人?」
「その可能性が高い」
 けれど、と繋げる浮かない表情の彼に、女は息をついて腕を組む。
「思い上がりなのかもしれない……周囲に町が少なくて、人の行き交いも殆んどなかった場所だ。僕がいようといまいと、こういった実験を行うには都合が良かっただろう。僕があそこにいたのはもう十年以上も前の話だし、親も……僕のことなど」
「そこまで!」
 男の声を相反する高い調子で遮って、レンジャーは右手を上げるとひとつ指を鳴らした。
 二階へと繋がる階段の向こうから、滑り下りるようにチリーンが飛び出してきた。反射的にイスから立ち上がったトウヤの胸へと勢いよくタックルすると、よろめく彼の足の周りをくるくると行き来して、それからふわりとレンジャーの右肩へ着地した。そこでリンリンと鳴き笑い転げているチリーンの輪郭をなぞりながら、歌うように女は言う。
「私もスズちゃんも、辛気臭いのは嫌いよ。残念だけどお兄さんの身の上になんかこれっぽっちも興味ないし、聞いてあげる気もさらさらないわ」
「……聞いてきたのは君じゃなかったか?」
 もう一度マフラーを下ろしながら苦笑するトウヤに、レンジャーは年齢に釣り合わない妖艶な笑みを向けた。
「私はポケモンレンジャーで、リューエルの情報はレンジャーユニオンから入ってくる。あなたはリューエルを追っていて、情報を欲している……ビジネスライクな関係でしょ? それ以上にも、それ以下にもなりえない。だから名前だって教えない」
「私情の入り込む余地はない、か」
「慣れ合いなんて弱者の慰みよ。まぁ、そうは言っても、今は頼めるミッションも来てないし、なんともね」
 そう言うと、レンジャーはトウヤの座っていたイスにひょいと腰かけて彼を見上げた。その表情は、年頃の女の子のそれに様変わりしている。
「ねぇ、ミソラちゃんは元気?」
「あぁ」
「爆心まで連れて行ったんだってね。仲良くしてるんだ」
「……どうだろうな」
 照れてる、とはやす間に、机の下からそろそろとチリーンが顔を見せ、にょろりとレンジャーの手元に這い出てきた。短冊のような平たい尾を優しく弄びながら、彼女は思い出したように、小さな声で何か口ずさみ始める。
 天辺まで迫り始めた太陽の日差しが、部屋の上方の窓からまっすぐ差し込んで彼女の指先を照らしている。細く滑らかな指、艶やかに整えられた爪。透き通った光を湛える白い甲を見、別の少女の姿を思い起こした自分を不気味にさえ感じて、トウヤは机の縁に腕をつき、瞼を下ろした。
 知らない歌だった。唇から紡がれる旋律は穏やかで、もっと言えば単調で、上手いとも下手ともつかない歌声は思いがけないほどに幼く聞こえた。それだけ取れば、本当に年相応の、それより下と取られてしまってもおかしくないようないとけないものだ。普段からは隔たりのあるそんな様子は、思いがけず、胸をちくりと痛ませた。
 強気に出る彼女の姿が、トウヤにはたまに、偽物にしか見えなくなる。少女らしい脆い部分をひた隠ししようとしている風にしか、思えなくなる時がある。ポケモンレンジャーであるとは言え、彼女もまだ十代の非力な女の子だ。治安がいいとは決して言えないこの町に、一人で暮らしていいような年齢ではない。出会ったばかりの頃なんかは、顔を合わせるその度に、いつ危険な目に会うか知れないと気を揉んだりもしたものだったが――その心配だという感情が一々よぎらなくなったのは、果たしていつ頃だっただろうか。虚勢らしからぬ彼女の強がりを、彼は気に入っていたし、それどころか羨ましいと思うことさえよくあった。すぐに要らないことを口走ってしまう自分とは、彼女の虚勢は質が違った。
 ……けれども。あの強さは本物だったろう、と馳せる思いは遥か記憶の向こうへ流されていく。
 温かな傷跡が蘇る。自慢げに微笑む横顔が、そこに鮮明に蘇る。どうしても負かすことのできなかった少女。細くとも頼もしかった背中。彼女がいたから、あの頃の自分は、今よりも幾許か勇敢だったかもしれないと、そんなことさえ考えた。
 会いたい、と泣く声は、確かにいつかの自分のものだけれど。
 それだけでは、決してなくて――
「ちょっと」
 そうして深みにはまっていたトウヤの思考を引きずり出したのは、いつの間にか歌うのをやめていたレンジャーの声だった。
「今、何考えてた?」
 繰り返される質問にトウヤは目をしばたかせる。頬杖をつく目下の女は、不機嫌そうにこちらを見ていた。
「……何って?」
「ニヤニヤしてた」
 慌ててマフラーで口元を隠すトウヤの前で、レンジャーはじっと彼を睨み、机に寝そべるチリーンはカッと両目を開いた状態で薄ら笑いしている。
 しばらく視線を泳がせてから、トウヤは玄関の方へ振り返った。
「何て歌だ?」
「……は?」
「君は興味ないかもしれないけど、僕は君自身の話ももっと聞きたいと思ってる」
 レンジャーが押し黙った。
 背中の方向の空気が一変したことにトウヤはすぐには気付かず、その前にトレーナーベルトに引っ掛かったボールの一つ目がガタリと揺れるのに目をやった。それから放たれる異様な気迫を何となく感じ取り、自分が口走った言葉の意味を考えて、トウヤもその場で凍りついてしまった。
 重たい沈黙のさなか、チリーンの押し殺したような笑い声が響いた。
 何か言わなければ、と必死に頭を回転させて、めいいっぱい取り繕った表情で振り返り、
「と、いうか……君みたいな強情な人間が育まれた環境に興味がある、かな」
 そう釈明した視線の先で、レンジャーはニッコリと微笑むと、心底嬉しそうに瞠目しているチリーンを片手で掴んで素早く振りかぶった。


 赤くなった額をさすりながら後ろ手に扉を閉めたトウヤは、ふいに顔つきを変えて右腰へと手をやった。
 端から端へと、順に視線を滑らせていく。
 高い日の影は足元に、うんと短く落ちている。眼前にはコンクリート打ちの建物がそびえ、左右に伸びる細い道には乱雑に物が積み上げられている。死角が多い。北寄りの風は無臭。乗って届く、普段なら確実に聞き落としてしまうような、余りにも微々たる砂利の音。右手側からの強烈な緊張感が自然とモンスターボールを手に取らせ、トウヤは殆んど無意識に開閉ボタンを押し込んでいた。
 たった今後にした家の方の物音が遠のき、辺りは不穏な静けさに囚われている。
 背筋をなぞられるような錯覚の直後、昼間のくっきりした影の一角から、すっと何かが飛び出した。気配を感じていた方向だ。冷静に、素早く、しかしかなり反射的にボールを投げようと引いた右手首を――背後から何かが掴んだ。
 とっさに右手のボールを離した。手の平から転がり落ちて解放されるはずだったボールが、何らかの力に縛られてぴたりと空中に静止した。背中側の何かがベルトに残ったボールを弾き飛ばし、伸ばした左手をすり抜けた。右足を軸に体を回し、後ろに蹴り上げた脚が空を切った。大きな赤い一つ目が、じとりとこちらの顔を捉えた。
 掴まれた右手首に捻り折られるような痛みを覚えた次の瞬間、上方から急激な圧力に襲われてトウヤの体は地面に叩きつけられた。
 青空を映す視界を、灰色の巨大な何かが覆い尽くした。指先さえ動かすことが叶わない。金属と化した全身が強力な磁石に吸い付けられるような感覚。周囲の地面さえミシミシと悲鳴を上げる凶悪な重力の中で、体中の骨が押し潰されるような痛みの中で、遠く聞こえた女の声に、トウヤはやっとの思いで唇だけ動かした。どうかした、と問う軽い声に、出てくるなと叫ぶ間もなく、灰色の巨大な手が伸び、彼の首を容赦なく絞めつけた――混濁する脳内に流れ込む明らかな殺意。鮮烈に突き刺さる狂気。なお無感情な一つ目が、生気を吸ったように赤みを増した。
 気道を潰す手にじわりと力が加わる。吹き飛びかけた意識を、その時――






  
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