――吹き飛びかけた意識をその時引き戻したのは、突然の白い閃光であった。
 その閃光が敵の気を散らした。『重力』の弛んだ僅かな一瞬をついて振り上げた右脚はやはり空を切ったが、同時に眼前に覆いかぶさっていた灰色の影が、首を絞めつけていた巨大な手もろとも消え去った。光を撒き散らしてボールから飛び出したのはノクタスのハリで、ハリは主の腕を掴んで引きずり起こすと同時に前へ蹴り出し、飛び掛かってきた最初の気配――アブソルと呼ばれる白い獣に向けて、至近距離から黄土色の針を乱射した。
 アブソルの奇声を背後に、トウヤは瓦礫に散らかった路地を駆け抜け、勢いを殺さぬまま地面に転がった二つのボールを拾い上げた。行く先の突き当たり、景色が揺らめく一点を睨みながら、手探りで開閉スイッチの縁を辿り、そこに二つ切れ込みが入った方を目前へ投げる。霧が凝集するような格好でそこに現れた灰色の巨大な手の持ち主――無表情な一つ目のヨノワールへ、ガバイトのハヤテが咆哮を上げながら踊りかかった。
「ドラゴンクロー!」
 指示とともに右肘の剣へと収縮したエネルギーを持って、ハヤテはヨノワールを切りつけた。
 クリーンヒットした一撃に呻くヨノワールの脇の下をすり抜け、突き当たりを曲がろうと踏み込んだ瞬間に降りかかった影を見て、トウヤは左手のゴミ山の中へと飛び込んだ。
 次の瞬間、刹那の前まで彼のいた場所を、風の刃が幾重にも切り裂いた。『かまいたち』を放ちながらその場へ降り立ったアブソルは、通路脇で体を起こしたトウヤと目を合わせ、『辻斬り』のモーションで鎌を大きく掲げた――そのしなやかな背中へ、金槌を叩きつけるように、ハリが両腕を合わせて振り下ろした。
 崩れ落ちたアブソルを前に立ち上がったトウヤの鼻先を、二本の赤い光が掠め通った。痛みにもがくアブソルを見下ろしていたハリが、ヨノワールに敵対していたハヤテが、そして三つ目のボールをトレーナーベルトへと戻したトウヤが、その光線の元を辿った。二つのモンスターボールを構え、アブソルとヨノワールを包み込んだ光をその中へと吸いこませる人間の影が、その先の路地へと入り込んでいく。
 無意識のうちにトウヤは地面を蹴り出していた。野性的な衝動が感覚も思考も吹き飛ばして、ただそれを追うためだけの方向へ全神経が動き始める。中心街を除いて、ココウは物騒な町だと言われる。腕の立つトレーナーとしてそこそこ名前の売れている彼であっても、裏路地で物剥ぎに襲われた数は両手の指では済まないほどだ。だから奇襲には慣れたものだし、命を失いかけたことも一度や二度ではない。それでも、待ち合わせたように襲われた、その場所の意味する所が、トウヤの体を突き動かし、角を曲がった先で新たなモンスターボールを手にしていた人間の胸倉を掴ませ、それを強引に廃屋の壁へ叩きつけるまで行かせた。
 うぐ、と呻いた相手へと何か吐きかけようと吸った息は、その歪んだ顔を見るや否や、しかし気の抜けた吐息へと変わってしまった。
「――グレン?」
 思わず腕の力を緩めたトウヤの目前、少し落ち着けと言わんばかりに彼の両肩を押したその相手は、あまりにも見知ったものであった。





 どこまでもどこまでも続くなだらかな草色の海。
 地平線に向かって薄らんでいく青の空。肌触りのよい薫風にきらきらと波打つ草原をかき分け、子供が二人、ポッポが二羽連れ立って、ココウの町を離れていく。
 先を行くタケヒロは頭の周りを飛び交うポッポ達に目配せすると、肩越しに後ろを振り返った。鞄の鈴を不規則に鳴らしながら覚束ない足取りでついてくるミソラの表情は、町にいた時と比べて随分強張っている。
「どうかしたか?」
「……前来たとき、この辺でテッカニンが飛び出してきてさ」
「ヘぇ」
「お師匠様が助けてくださったんだけど」
 途端にタケヒロはわざとらしく嫌そうな顔をして、前に向き直ってしまった。
「テッカニンくらい、俺のポケモンだって余裕で倒せるぞ! なぁ、ツー、イズ!」
 そう言って拳を振り上げるタケヒロに、ポッポ達はくるくると旋回して応えた。
 天高く昇る太陽の光がさんさんと注いでいる。言葉通り雲ひとつない青空と、淡々と広がる草原の二色のみに景色は埋めつくされている。腰ほどの背丈のある植物の群生を進む単調な時間の中でも、ミソラは握りしめたモンスターボールのことを思って胸を高鳴らせていた。
「なぁ、ミソラ」
「何?」
「そういえば、お前、こないだあいつとどこまで行ったんだ?」
「えっと、ずっと東の方の、『死の閃光』の光が起こった所まで……」
 まじかよ、と振り返ったタケヒロの顔を見て、ミソラはしまったと口を閉ざした。
「本当に、『死閃』の中央まで行ったのか!」
 だだっ広い世界に、高い声が渡っていく。
 詰め寄るタケヒロの強い視線を受けながら、ミソラはココウに戻った日のトウヤの言葉を思い出していた。爆心で見たものをむやみに他言しないように、と彼の言っていた意味は、しかしミソラにはあまり理解できないところであった。
「う、うん」
「それで、中央はどうなってた?」
「うん……」
 タケヒロにだったらいいかな、と心の中で呟いて、ミソラはタケヒロを追い越して歩き始めた。
「大きなバンギラスの死骸があったんだ」
「バンギラスの死骸? なんでまた」
「それも頭から胸まではなくなってて」
「……なんだよ、それ……」
 沈んだタケヒロの声を聞いて、ミソラはふと思い当たったことがあった――あれを見て、何故自分は、怖いとか不気味だとかいう感情を抱かなかったのだろう?
「それで、あいつはそれについて何って? やっぱり、連中の仕業だって?」
 ポッポを引きつれて隣に並んだタケヒロの発言に、ミソラは小さく首を傾げる。
「連中、って?」
「なんだ知らねぇのか」
「お師匠様は、バンギラスについてはあんまり教えてくれなかったよ」
 ふむ、と難しい顔で顎を撫でるタケヒロの焦げ茶の瞳を、空色の双眸が覗き込む。
「連中って何?」
「話せないってことなのか……?」
「ねぇ、連中って何なの?」
「そりゃあ、だって……ミソラはどうよ。『死閃』の中央にバンギラスの死体ってどういうことだと思う?」
 歩を進めながら、ミソラはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
 深夜、突然の閃光と地鳴りが、一夜にして周囲の森の生命を奪った――白い砂漠に立つ緑青色の大岩が、その夜に関与している。それほど深く考えるまでもなく、ミソラは一つの結論に至った。
「『大爆発』じゃないかな」
「何?」
「そういう技があるんだ。もの凄いエネルギーを撒き散らす大技だって書いてあった。あんだけ大きなバンギラスが大爆発すれば、きっとこういうことにもなるよ」
「バンギラスって、その技覚えるっけ?」
「えっと……」
 鞄から『ポケモン百科』を取り出そうとする間に、タケヒロは言葉を継いだ。
「あれはポケモンがやったんじゃない。人間の仕業だよ」
 ミソラは顔を上げる。青空をバックに前一点を見据えるタケヒロの表情は、どこか暗く厳しい。
「人間……」
「だって変だろ。一回全滅したって言っても、人間の住んでる町の周囲だけ植物が復活するだなんてさ。まるで、爆発があることを知ってて、あらかじめバリアか何かを張ってたみたいに」
 一拍置いて、タケヒロもミソラの目を見やった。
「いるんだよ。ココウを……俺の町を、めちゃくちゃにした奴がさ」
 かさかさと草のこすれ合う、渇いた音が流れていく。
 ごくりと喉を鳴らしてはみたものの、それほど恐ろしいともミソラは感じなかった。前トウヤが語った『あの夜』のことを思っても、執念めいたタケヒロの言葉をとっても、豊かな森林に囲まれたココウの姿など、ちっとも想像がつかないのである。今のココウがめちゃくちゃだと言われても、ミソラにはよく分からない話だった。
 ミソラが押し黙ると、タケヒロも話題を間違えたというような表情で頭を掻いた。気まずさをあしらうように鼻歌を繋げたり、そんで欲しいポケモンいるの、特にいない、だめじゃねぇか、なんて他愛もない会話を続けたりしながらそわそわと首を回し、しばらく行ったところで、タケヒロははたと立ち止まる。その視線の示す方向にミソラも習って目をやった。
「なにしてんだ、アレ」
 ぶぶぶぶ、と低い羽音が、風に乗って流れてくる。
 風上には二匹のポケモンが見えた。細身の黄色い体躯に4枚の薄い翅を震わせ、赤い複眼の光はある一点を捉えたまま、ぐるぐると円を描くように飛び交っている。目立つのはその体の半分の長さはあろうかという両手の鋭い針と尻の大きな毒針だが、テッカニンの件を意識してしまうミソラにとっては、毒針よりもむしろ昆虫型であるというそのこと自体が恐怖の対象であった。
「スピアーだっけ……」
「でっけぇ虫タイプってのは気持ち悪いな、ホント」
 二人が見つめる中で、スピアーたちは一か所でしばらく舞い踊ると、ふいに草むらの方へひらりと滑り下りた。瞬間、羽音に隠れて、微かな悲鳴が耳に届いて――二人は顔を見合わせた。
「何かいる!」
 すぐさま走りだしたのはタケヒロだった。オオオ、と猛りながら突進してくる人間の姿に、スピアーがすっと矛先を変える。二羽のポッポを扇動するように拳を振りかざし、タケヒロは高らかに指示を飛ばした。
「吹き飛ばせぇッ!」
 二対の小さな翼が、揃って空を打った――それぞれの風圧は重なり一つの風となり、見えない塊が丈の長い草原を裂いて駆け、渦のように竜のように、相対するスピアーの二匹を正面から猛烈な勢いでぶん殴った。
 文字通り十数メートル吹き飛ばされたスピアーたちは、慌てた様子で向かいの方角へと逃げ出していった。その背に噛みつくようにタケヒロはやいやいと吠え立てた。
「この虫野郎! 群れていい気になって、弱い者いじめなんかしてんじゃねぇ! お前らみたいなザコ野良なんか、俺たちが何度でも追い返してやるー!」
 続いてポッポたちまでもが楽しそうに鳴き立てる後ろで、ミソラは膝をつき、緑に埋もれながら草をかき分けた。必死に耳を澄まし、乱れた息遣いのする方へ。伸ばした指先が何かに触れて、ミソラはそれを夢中で抱いて立ち上がった。
「タケヒロ!」
 その声でふと我に返ったタケヒロは、腕の中のものへと視線を落としているミソラへと慌てて駆け寄った。
 ミソラの胸に顔を埋め、苦しそうに息づいているのは、濁った淡水色のポケモンだった。体じゅうに刻まれた傷跡からうっすらと染み出す血液に混じって、濃い紫の粘性の液体がいたる所に付着している。針先から出す強烈な毒で獲物を仕留める、というポケモン百科のスピアーに関する説明が、鮮明にミソラの脳裏に蘇った。
 メスのニドランだな、と呟いてタケヒロがポケモンの頭を撫でる。ニドランは薄目を開けてその手の主を見とめるが、その赤い瞳には殆んど生気が宿っていない。
「スピアーに毒喰らわされたか」
「毒……」
「モモンとか、ラムとか、持ってないよな」
 ミソラは黙って頷いた。
 その時、もぞり、と体をよじらせたニドランを見て、タケヒロは突然目を丸め、ミソラの胸元を覗きこむ。彼があからさまに顔色を変えたのに、ミソラは一気に不安を募らせた。
「こいつ……」
「ど、どうしたの」
「……耳が」
 その一言を聞いて再び視線を落とし、ミソラもはっと息を呑む。
 それは、二人を黙らせるのに十分すぎるものだった。外敵の情報をいち早くキャッチするために、ニドランには小さな体躯に不釣り合いな大きな耳がある。ニドランという種族の特徴とも言える耳だ。細かく揺れる右耳には、スピアーにやられたらしい切り傷がいたるところに入っている。その向こうに見えるはずの左耳が、そのニドランにはしかし、あるべき形で存在しなかった。
 ミソラはその左耳の付け根へと、静かに指を伸ばした。緊張か恐れからか、震える人差し指がなぞる左耳は、根元から溶け落ちてしまったかのように無くなっている。出血はなく外傷のようには見えないが、それは明らかに普通にはありえない状態だった。
 両手に抱く小さなポケモンは自分にすがりつくようにして、ぶるぶると体を震わせている。見渡せど周囲に仲間の姿はない。スピアーに襲われ、毒に冒されたそのひとりぼっちの片耳に、ミソラはいつの間にやら、荒野で目覚めた日の自分の影を重ねていた。
「タケヒロ、どうやったら助けられる?」
 ミソラの声は嫌に真剣なものだった。タケヒロも、その両肩にとまったポッポの二羽も、心配そうにニドランを見下ろしている。助けたいという思いは、皆同じだ。それがミソラには心強い。
「町に戻ればモモン売ってるだろうし、それを食わせりゃ助けられる……と、思う」
「じゃあ、早く戻ろう!」
 顔を上げたミソラの決意のこもった語調に、タケヒロもおう、と声を返した。
 振り返るココウの影は、それほど薄いものではない。間に合うはずだ。きゅっと抱きしめると、ニドランは僅かな反応を返した。守らなければ。勇み踏み出した足にまで、熱い思いがたぎっていく。僕が、助けるんだ――その時、タケヒロの肩からぱっとポッポ達が飛び立って、甲高い声で騒ぎ始めた、その鳴き声に感じた聞き覚えに、ミソラはぞっと恐怖心を煽られた。

『この鳴き声は警戒音だ。普段はこんな音を立てない』

「――おい、ありゃあ」
 仰ぎ見る、町と向かいの方角から、無数の羽音がうねりとなって近づいてくる。
「に……逃げろォッ!」





「……何かおかしいと思ったら、やっぱりお前だったか、トウヤ」
 すんと晴れ渡った空の下、ココウの中心街を西へと逸れた、薄暗い裏道の廃屋の影。
 トウヤが掴みかかったのは、つい先日もココウスタジアムで一戦を交え、そして敗北を喫した相手であり、またココウで一番とも言える有名トレーナー、加えて彼が心を許せる数少ない友人の一人でもある男であった。大男のグレンは、掴みかかってきた彼に対してへらりと苦笑いを浮かべて返した。
 煮え立っていた怒りを向けるべき標的を見失って、トウヤは大きく溜め息をつきながら、握った右拳をグレンの顔のすぐ脇へと軽く打ちつけた。ヨノワールに捻られた手首を筆頭に、体中に潰されかけた痛みが戻ってくる。すぐさま座り込みたくなるような疲労もずんとのしかかってくる。それなのに、目の前のグレンの顔に、敵意などというものはひとかけらも感じられない。てこてこと近づいてくるハリとハヤテの様子を見ても、憤りの方はともかく、絞殺されかけた恐怖の方はばからしいとまで思われた。
 しかし、ふいに思い出された女レンジャーの顔が、トウヤにもう一度睨むだけの気力を復活させた。
「どういう事だ。あの家に誰が住んでいるのか、知っていてこんな事をするのか」
 低いトウヤの問いにも、グレンは動じる素振りを見せなかった。
「いやぁ、すまんかった……よく考えれば、そうだ。勘違いもいいとこだ」
「勘違い?」
「ここだけの話だぞ。俺は今、旅先の人間に頼まれて、とあるお尋ね者を捕まえようとしている。そいつがココウのこの辺りに住んでいるっていう話を聞いて待ち伏せていたんだが、この辺りにはあまり立ち入ったことがないからな、どうやら家を間違えたようだ」
「そんなことが……」
「現にあったんだ。長い付き合いのお前だ、俺がこういうヘマをしでかす人間だって、分かってくれるだろう」
 顔の横に置かれたままのトウヤの右手を軽くいなして、グレンは悪かったと頭を下げた。
「怪我はなかったか。無関係な人間を巻き込むなんて、この間の試合といい俺はトレーナーとして最低だな」
「……いや」
 僕は平気だ、と返そうとして、トウヤは足元へ落としかけた視線をもう一度上げた。グレンの瞳はまっすぐこちらを捉えている。けれども、その言葉の節々に、何やら白々しいものをトウヤは感じ取っていた。
 確かに長い付き合いだし、グレンが昔からくだらないミスを犯したりすることもトウヤはわきまえていた。彼のことをよく知っていて、それ以上に、グレンはトウヤのことをよく知ってくれている一番の人物だ。幼い頃から、同じ『よそ者』であるトウヤのことを、グレンはよく気にかけていた。異端ななりをしているトウヤがハギを含むこの町の連中と打ち解けることができたのは、その太陽のような人柄を持って周囲とうまくやっていたグレンが傍にいたからこそであった。紆余曲折あれど、最終的にはいつだって、トウヤはその男に対して、実兄に向けるような全幅の信頼を置いていたのだ。……その彼が。
 じっと動かないトウヤに、グレンは痺れを切らしたようだった。
「どうした?」
「……本当なのか、今の話」
 その彼が、信用しろと言っている。
 グレンはトウヤの言葉を明るく笑い飛ばした。それから、疑ってるのか、といつもの張りのある声で言い、子供にするようにトウヤの頭をぽんぽんと叩いた。
「本当だとも。心配しなくても、お前の女に手を出すようなことは、俺はしないぞ」
 その言葉に、トウヤは再三グレンの瞳を見やった。
 そのまましばらくの空白の後、トウヤは呆れたように笑って、ハリとハヤテの方へと数歩下がった。ようやく壁際から解放されたグレンの顔には、安堵の色が滲んでいる。
「僕の女?」
「なんだ、違うのか?」
 大口を開けて笑いながら、グレンは続けてハリとハヤテの頭も撫でまわした。
「いやぁ、勘違い相手がトウヤでなけりゃ本当に殺していたかもしれん。そういう意味じゃ、俺はラッキーだ」
「サイコキネシスで縛られたボールをハリがこじ開けられなければ、僕は死んでいた」
「おぉそうか。恐れ入ったぞ、ハリ」
 緑の両肩を叩く大男を見上げながら、ハリはいつもの笑ったような形の顔を崩さなかった。
 そうしてあっという間に場の緊張を解してしまった男に対して、トウヤはもう何を責める意気も持たなかった。ぴりぴりと痺れの残る右手を何度か振り払ってから、ハリとハヤテをボールの中へと収納する。細かな傷のたくさん入ったボールをトレーナーベルトの手前へ、開閉スイッチに切れ込みのある方を二番目へと引っ掛け直した。
「やっぱり君は凄いな」
「ん?」
「僕のあしらい方をよく知っている」
「ハハハ、そりゃあ、そいつがちっこい丸サボテンだった頃から、弟と思って付き合ってきたお前だからな。お前の扱いについては、多分ハギさんより詳しく知ってるぞ」
 そう言うとグレンはトウヤの背中を押して、大通りの方向へと歩き始めた。
 狭い道端に積み上げられた生ごみに群がるコラッタ達が、近付く足音に耳を反応させ、物影へと散っていく。歩きながら、詫びの印だ、と手に握らされた小瓶を、トウヤは目の高さまで持ち上げた。
「これは?」
「平たく言えば、『ポケモンが元気になるクスリ』だな」
「へぇ」
「と言っても怪しい代物じゃないぞ。木の実のミックスジュースと似たようなもんだ。またポケモンに飲ませてみてくれ」
 褐色の瓶の中に液体がとろとろと揺れているのを、トウヤはそのまま上着のポケットに突っ込んだ。
 高い日差しが砂利道へ描く二つの影を、ブロック塀に立つミネズミがせわしく鼻をひくつかせながら眺めている。薄汚いオニスズメが澄んだ空合いを横切っていく。中心街の賑やかな音がだんだんと近づくのに安心したように、グレンはゆっくりと首を回した。
「暇なら一戦するか、と言いたいところだが、残念ながら午前中に小銭を稼いできたところだ。再入場禁止のルールがあるから、スタジアムには今日はもう入れん」
「誰に負けて追い出されたんだ」
「まさか! 試合が一方的すぎると客席からゴミを投げられたから、腹立って棄権してきたんだ。この町のトレーナーなんかに負けるか」
 殺伐とした様相の裏通りから一転、大通りは今日も人とポケモンの活気に満ち溢れている。
 敷きつめられた石畳の上を騒がしく足音が入り乱れる中、寄ってくる客引きを適当にかわしながら、グレンは大きめの声でトウヤに呼びかけた。
「そこでどうだ、久しぶりに一杯やるか?」
「まだ昼間だろう」
「そんなこと言ってるから、いつまでも強くならんのだ」
 何を、と呟くと、トウヤは足元へ落としていた視線を上げる。
「それはポケモンの話か?」
「ハッハッハ! 本当にそうかもしれんぞ」
 その豪快な笑い声に引かれて、すれ違った数人の若者が振り返った。
「おっ、グレンじゃないか」
 その声に二人も立ち止まる。小汚い作業着の男たちは、一様に笑顔でグレンを取り巻いた。
「今朝の試合見たぞ。いつにもまして酷い力押しだったな」
「何とでも言え、あいつが俺のスタイルだ」
 その言葉にまた馬鹿にしたような笑い声を上げると、彼らは次にトウヤの方へと視線を投げた。
「トウヤも来ればまだ盛り上がったのになぁ。グレンがボコボコにされる所を、観客席のクズたちは見たがってるんだから」
「あぁでも、今のトウヤじゃだめだな。遠国のお姫様にかかりっきりで、ろくにトレーニングもしてないって噂だろ」
 そうして輩が顔を見合わせてにやつくのに、トウヤは苦笑して返した。
「そんな話になってるのか」
「まぁ、あんだけかわいい子が傍にいりゃ仕方ないか」
「馬鹿な、このポケモン狂が人間なんぞに気を取られるはずがない」
 おどけたグレンの言葉がまたしても笑いを誘う。目を細めはしたが、トウヤはそれには特別何も言わなかった。
 大通りの流れを乱してその場で談笑を始めた彼らの所へ、なんだ例のお姫様の話か、と別の男が割り込んできた。その顔はどこか嬉しそうに輝いている。
「俺もさっき初めて見たよ、ありゃ確かにお人形さんみたいにかわいいな」
「なんだ、顔拝みに酒場まで行ってきたのか?」
「いや、あのなんだ……ホラ、ピエロのクソガキだよ、あいつと一緒に」
 ココウでピエロと呼ばれる人物は、タケヒロを除いて他にはいない。子供二人が取っ組み合いの大喧嘩をしていた光景を真っ先に思い浮かべて、へぇ、とトウヤは声を漏らした。
「タケヒロと仲良くしてるのか」
「あぁそうだ、タケヒロだ。タケヒロと一緒に、北へ向かってたみたいだったな。外にでも行くのか」
「外?」
 繰り返したトウヤの言葉に被せるように、別の男が声を上げた。
「おいおい、保護者なら子供の交友関係くらいきちんと把握してないとだめだろう」
 それに乗って、グレンも相変わらずの大声で、
「なんだ、昔から情に脆い奴だとは思ってたが、ついに子守までするようになったか!」
 そう冷やかすのに対して、男たちはげらげらと下品な笑い声を大通りに響かせた。
 通りを行く人々の、決して快い雰囲気ではない視線が彼らに向けられる。そこまでそれほど表情を崩さなかったトウヤも、ついには不機嫌そうに眉を寄せて、
「僕は保護者じゃない!」
 彼にしては強く放たれたその言葉がますます輩の笑いを触発した。苦しそうに腹を抱えながら向こうへ去っていく連中にグレンはひらひらと手を振って、再びトウヤの背を押して酒場の方へと歩き出す。
「そうか、子供の世話とは大変だな」
「あいつがいたところで、僕は何も変わらないよ」
 少し言いすぎたか、とグレンはそれこそ親のような視線をトウヤに向けた。喜怒哀楽を努めて表に出さない彼だが、ひとたび気に入らないことが起こると、途端にやたらと子供じみた反応を見せたりする。トウヤのそういう面を知っているからこそ、グレンは彼に対して余裕のある行動を取ることができた。
「まぁ怒るなよ。……それにしても、外か」
「昨日ボールを買ってやったんだ。やり方は本を読んで知ってるだろうし、勝手に捕まえにでも行ったんだろう」
 ぶつぶつと喋るトウヤに、しかしグレンは真面目な表情を向ける。
「ピエロの坊主は、ポケモンを持ってるのか?」
 トーンを落としたグレンの声にトウヤは一瞥を向けた。
「確か、ポッポを二匹連れてるが」
「そいつは戦えるのか」
「芸は達者だが、バトルに慣れてるようには見えないな」
「……まずいな」
 何が、と問うトウヤの横で、グレンは厳しい顔つきで腕を組んだ。
「ここんとこ、どうもスピアーが多いみたいでな。捕食するポケモンが少ないのか、相当攻撃性も高いらしい。農村の人間がスピアーに刺されて死んだのもつい先日だ。そいつの巣が、北の方にあるっていう噂なんだが……」
 思い出されるのは、最初に出会った時のこと、そして上空から見た、テッカニンに襲われる金髪の姿。
 突然、トウヤのトレーナーベルトにひっついたボールの一つ目が、そして誘発されるように二つ目が、ガタガタと暴れるように揺れ出した。
 トウヤはそれを見て溜め息をついた。お前のポケモンは本当に我が強いな、というグレンの言葉にトウヤは黙って頷いて、前方を見上げながらその場所で立ち止まった。
 二人の目の前には、トウヤの自宅である赤い屋根の酒場がある。
「どうする?」
 そう言ってにやりと笑うグレンの顔と、先程の男たちの笑い声が、トウヤの胸の浅い所に引っ掛かる。
「行かない」
「いいのか?」
「僕には関係ない話だ」
「本当にいいのか?」
「うるさいな」
 言いながらドアノブを引いた瞬間、呼び鈴の音と共に、店内からのそりと茶色の影が現れた。
 ビーダルのヴェルは二人の顔を見上げもせず、太った体で入り口をふさぐように陣取ると、続いてトウヤの足を、入ってくるなと言わんばかりに外へ外へと押し出して、何食わぬ顔で扉を閉めてしまった。
 行く人来る人の、今度は不可解なものに向ける視線を微妙に集めながら、彼らはしばらくガラスの向こうのビーダルと向き合っていた。
 これには二人とも笑うしかなかった。擦りガラス越しの瞳に加えて、ボールからの二つの視線も突き刺さってくるように感じられた。諦めたように顔を上げて、トウヤはわざとらしいほど大きな溜め息をついた。
「行けばいいんだろ」
「本当に親思いのポケモン達だ。心配なら、意地を張らずに行けばいい」
 グレンはトウヤの肩を掴むと、元来た北の方向へ突き飛ばすように押し出した。
「保護者かどうかはともかく、お前が拾ったものだろう。拾ったものは最後まで面倒を見る、トレーナーなら当たり前のマナーだぞ」
 行き交う人々の喧騒の中で、トウヤは彼に困ったような笑みだけ向けた。
 そうして駆け足で人混みの方へ消えていった彼に片手を上げると、男はひとつぽつりと呟いて、酒場の前を後にした。
「……本当に。昔から、お前はそういう奴だよ」






  
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