17



 トウヤの様子が明らかにおかしくなったのは、天までのぼりつめた太陽が西へ傾きはじめた頃だった。
 ビスケットを頬張りながらしゃがみこんだ地面に、ミソラはふと視線を落とす。砂礫を掬いあげ、手のひらを返しながら軽くふるうと、細かい粉塵が立って風に流れていった。
「お師匠様、この辺りの地面は砂利の粒が小さいように感じます」
「地中に暮らすポケモンが多いんだろう」
「地中に暮らすポケモン、というと……」
 そこまで言いかけて顔を上げ、ミソラは口をつぐんだ。
 視線の先にはオニドリルのメグミとガバイトのハヤテが、もそもそと固形飼料を貪っている。ハヤテの鼻先に立ち、おもむろにリュックサックを下ろしたノクタスのハリの視線の先で、トウヤはハヤテに力無く寄りかかるようにして座り込んでいた。
「……お師匠様」
 ミソラの声に、トウヤは閉じていた瞼を大儀そうに持ち上げた。
「お前が出がけに襲われたテッカニンの進化前のポケモンも、土の中で成長するし……」
「あの……大丈夫ですか」
 ハヤテとメグミが、揃って主の方を覗き見る。幾分生気に欠けた目線でそれに答えると、トウヤはハヤテに預けていた上半身をゆっくりと起こした。
「大丈夫だ」
「でも……」
「本当だよ。いつものことなんだ」
 ハリは荷物の中から何か取り出し、二人に割って入るようにそれをトウヤへと差し出した。
 片手で包み込める程度の、小さなガラス瓶だった。中には小指の先ほどの大きさの白い錠剤が詰まっている。ミソラは興味深そうにそれを覗きこみ、トウヤはそれを見て苦笑いを浮かべた。
「いいよ。分かってるだろ」
「薬ですか?」
「あぁ、でも今は飲めない」
「なぜですか」
「副作用が強いんだ。体調はしばらく良くなるが、飲んでから半日は眠気で動けなくなる」
 今回は急ぎだからな、と言いながら一旦は立ち上がったトウヤだったが、すぐにハヤテの背中へと腰を下ろしてしまった。
「思った通りだが、爆心に近付くとちょっと酷いな」
「そこまでして、行かないといけないのですか?」
「……どうしても行きたいんだ」
 頭を軽く振ると、トウヤはハヤテの背中に腕をついて再び立ち上がった。ハリは小瓶をリュックにしまい、肩にひょいと担ぎ直す。餌を食らい尽くしたハヤテとメグミに目をやりながら、ミソラもぱんぱんと手を払って腰を上げた、その時だった。
 微かに鼓膜を震わせた高い音に、ミソラはふと顔を上げる。
 淡青の東の空の中に、無数の黒点が連なっている。ピューピューという長い鳴き声は、そちらの方から飛んできているようだった。
「鳥ポケモンの群れでしょうか」
「ピジョンだな。縄張りを見回っているだけだ」
 それを見て唸り声を上げ始めたハヤテを、トウヤは軽く頭を叩いて制した。
「騒ぐなよ。人とは競合しないことを知ってるから、目立ったことをしなければ襲ってくることはない」
「やり過ごせますか」
「そうだといいな。無駄に動き回りたくない……」
 もう一度へたりと座り込んだトウヤの前で、ミソラは心配そうに空を眺め続けた。
 見えるか見えないか程度だった点が、だんだんと大きくなってくる。重なり合った鳴き声がやかましいほどに近づいてくる。一度は視線を落としたハリが、再び東の空へと顔を向ける。メグミが静かに体毛を逆立てる。ハヤテは血の気立って身を震わせ、唸ることを止めようとしない。
 額に手をあてがって眠るような素振りを見せていたトウヤも、従者たちの様子に渋々と目を開いた。
「……やっぱりおかしいな」
「こちらにまっすぐ向かっているみたいです」
 その言葉通り、ピジョンの影は一つ一つの翼まで識別できるほどに迫ってきていた。
「この鳴き声は警戒音だ。普段はこんな音を立てない」
「同じ飛行タイプのオニドリルを敵と認識しているのではないですか?」
「いや、そんなことは……」
 言いながらミソラの方へと顔を上げて、トウヤはそこで目を止めた。
 不安を滲ませた顔つきでピジョンの群れを見つめ続けるミソラの、その腰にまで届きそうな長い金髪が、強い日差しを反射して輝いている。
(……何もない荒れ地の真ん中に光るものがあれば、やはり目立つのだろうか)
 トウヤは口を開きかけたが、無邪気な横顔にしばらく目をやると、溜め息だけついて立ち上がった。
「お師匠様……」
「奴ら目は利くが頭は悪いらしい。僕が注意を引くから、ミソラはハヤテと先に行ってくれ」
「え、あの、でも……」
 二つの視線が、男の左腕へと注がれる。包帯の巻かれたそれを右手でさすると、トウヤはくるりと背中を向けた。
「平気だよ。すぐに追いかける――メグミ、悪いがもう一度乗せてくれるか」
 メグミが何も言わぬ間に、トウヤはその背に飛び乗った。
 仰ぎ見る空は、既にピジョンの群れに覆われていた。警笛を鳴らしながら飛び交う二十、三十の鳥ポケモンの眼光が、確かにこちらを睨んでいる。ハリをボールに戻し、右腰へと手早く引っ掛けるトウヤに、ミソラは懇願するような瞳で訴えた。
「私がメグミに乗ってピジョン達の気を引きます。今の状態では」
「僕が大丈夫って言ってるんだ。心配するな」
「でも」
「それに、メグミは僕以外の人間を背中に乗せたりしない」
 ミソラが目を合わせようとすると、メグミはぷいと顔を背けた。
「頼んだぞ、ハヤテ。分かってるな、絶対に騒ぐなよ」
 ハヤテが一声鳴くのを確認すると、メグミが大きく翼を広げた。
 何度か羽ばたき、埃を巻き上げて、オニドリルが静かに飛び立っていく。
 せめぎ合う鳴き声が激しさを増し、数羽のピジョンが群れを離れた。向かってくる一羽一羽と間合いを取りながら、メグミはゆっくりと上空へ向かっていく。
 群れを刺激しないように何度か旋回を繰り返すと、オニドリルは西へと進路を取った。
 青い鼻先に押されて、ミソラが急いで小竜に跨る。肩掛け鞄を足の間へ持ってくると、右手はハヤテの首へ回し、左手は鞄にくくり付けられた小さな鈴を握りしめた。
「大丈夫……大丈夫」
 呪文のように唱え始めたミソラをよそに、ハヤテは控えめに地面を蹴り飛ばした。
 白んだ大地に落ちた数十の鳥影の上を、ならべく足音を立てぬようにガバイトが駆け抜けていく。規則的な振動に体を合わせつつ、ミソラは西の空を振り返った。逆光の中、ひと際大きな翼の影が、小さな影の度重なる奇襲をひらりひらりとかわしながら、彼方の向こうへ飛んでいく。無駄のない翼の動きに、すごい、と感嘆の息を漏らしたミソラの耳に次に飛び込んで来たものは――突然のガバイトの悲鳴であった。
 足音のリズムが乱れ、体の平衡が崩れる。慌てて両腕でハヤテの首を抱きしめ、東へと向きなおった先の視界に、ミソラは思わず目を見開いた。
 地面が沸騰するように、ぼこぼこと隆起し始めた。
「――うああぁッ!」

 ガバイトと、続く人の子の上げた奇声に、ピジョンの隊列が一気に乱れた。
 それまでオニドリルに引き付けられていた群れの半数が大きく軌道を変え、けたたましく騒ぎながら地上へと向かっていく。後方へと一瞥をくれると、トウヤはほとんど言うことを聞かない左腕を、メグミの左翼の付け根へと押しつけた。傍につけていたピジョンの間を裂くように南へと滑空し、急激に旋回していく。メグミの体にしがみつきながら、視野に入れたハヤテとミソラの姿に、トウヤは苦しそうに顔を歪めた。
 白っぽい砂礫に覆われていたはずの大地が、目下の一部分だけ、茶色の小さな何かにびっしりと埋め尽くされていた。
「……こんな時に……!」

「ハヤテ、大丈夫だよ!」
 吠えながら右へ左へと飛び跳ねるハヤテの上で、ミソラは必死に声を荒げた。
 足の踏み場もないほど大量に現れたポケモンに、ハヤテは完全に錯乱してしまっている。ミソラは振り落とされまいと強く首を抱きながら、大丈夫、大丈夫と自分自身にも言い聞かせた。落ち着け、落ち着け。まずは敵を知ること、手持ちに心を伝えること……。鞄の中のポケモン百科の一ページを、ミソラは夢中で思い起こす。茶色の頭、赤い鼻。小柄で素早く、暗い所が大好きで。
「ハヤテ、ディグダだよ。明るい所は苦手なんだ、多分ちょっと驚いて出てきただけだから、騒がなければすぐに土の中に……ッ!」
 その時後頭部に走った衝撃には、ミソラもうろたえざるを得なかった。
 いつの間にか目前にまで接近していたピジョンのくちばしに、ミソラはとっさに顔を伏せた。頭に、背中に、そして狂ったように吠え立てるハヤテの体に、鋭いくちばしと足の爪が降り注ぐ。尖ったガラスで引っ掻き回されるような鋭い痛み。溢れかえるディグダの海を逃げ惑うハヤテの、張り裂けそうなほどの興奮が伝わってくる。
 うめき声と同時に世界が傾き、投げ飛ばされるようにミソラが地面へと落ちる。ディグダに足を掛けたハヤテは、そのまま前方へと崩れ込みながらも体を捻り、口元から光を溢れさせた――その獰猛な瞳が、青い空から降り注ぐ幾多の翼のみへと向けられた。
 頭を地に打ちつけるのにも構わず放たれた『竜の怒り』は、きれいにピジョンの間をすり抜けて天へと直進した。
 僅かに怯んだピジョン達が若干高度を上げる間に、ハヤテは仰向けの姿勢のままもう一度息を吸い込む。
(だめだ、狙いを定めないと!)
 焦り起き上がったミソラの目の前で、二砲目のエネルギー波が発射され、何もない場所を突き抜けていく。
 攻撃を見切った群れが一斉に急降下してくる。足元のディグダ達が地面の奥へと逃げていく。我を忘れた小竜が哮(たけ)り立つ、その横で、金髪碧眼の人の子が掘り返された地面をきつく踏みしめ、土色の肩掛け鞄を握りしめた。
 振り上げた鞄が、ピジョンの頭を殴打した。
 金切り声を上げて一羽が転がり落ちる。腕に直接伝わる感触に気味悪さを感じつつも、ミソラは鞄の肩紐に持ち替え、襲い来る鳥達の前でそれを振りまわした。
 耳を射抜く鳴き声の中に、鞄の鈴の音が高く聞こえる。薄橙の抜け羽が舞い踊る。またひとつ、真白の光線が群れの間を突き抜ける。渾身の力を込めて、ミソラは悲鳴に近い声で叫んだ。
「ハヤテ落ち着いて!」
 リンリンと乱暴に打ち鳴らされる鈴の音が、声に乗ってハヤテの耳へと届くと――狂気を帯びた両の瞳が、すっ、と精悍さを取り戻した。
 咆哮、ミソラが肩を震わせる間に、立ち上がり、横から飛んできた一羽へと体をぶつける。短いスパンで繰り出す『竜の怒り』の熱波が、接近する群れを一掃する。未だあ然としているミソラを放り上げ、背中で受け止めるまでに、ハヤテは深く息を吸い込み、確かな意図を持ってそれを吹き出した。
 地面にぴったりと添うように噴射された『竜の息吹』が、軌道上のディグダの顔を次々と引っ込ませながら、まっすぐ東へと伸びていく。
「ハヤテ!」
 しっかりと抱きついたミソラの一声に頷くと、ハヤテは即座に地面を蹴り上げた。

 四方八方から降りかかる電光石火を回避しつつだんだんと苛立ちを募らせていくオニドリルの上で、トウヤは従者の首に左腕を回して体を固定し、肩を掴む右腕を離してモンスターボールを開放した。
「ハリ、東だ!」
 かなり見当違いな方向でボールから飛び出したノクタスは、それだけの指示に両腕を構え、得手のミサイル針を乱射した。
 黄土色の無数の矢が、日の傾く向かいの方角へとすっ飛んで行く――ピシピシと何かを打つ音にミソラが顔を上げた。頭上をしつこく追ってきていたピジョン達が、次々と、そして一羽残らず翼を煽り、まるで最初から獲物はそちらだとでも言うように、西の方へと戻っていくではないか。目は利くが頭は悪い、という先刻の男の言葉が、一瞬ミソラの脳裏を掠めた。
 ガバイトに群れる全ての鳥影を正確に狙撃し終えると、ハリは顔色ひとつ変えずに反対方向へと走り出した。
 動きの遅いノクタスへと、ピジョンの群れが詰め寄ってくる。敵の放つ『竜巻』をやり過ごしたメグミの肩を掴みなおし、トウヤはそれを前へと押しこんだ。
 翼とくちばしの奇襲をかいくぐり、オニドリルが風を裂いて下降していく。ハリを、という主人の声など聞かなくとも一直線に緑のポケモンの背後へと滑り込んだメグミは、かぎづめでがっちりとその肩を掴むと、強く羽ばたき再び上空へと舞い戻った。
 オニドリルを追ってくる群れとノクタスを追ってくる群れとが重なり、乱れた隊列が再び団結した。ピジョンの大群を従えるような形でまっすぐ飛んでいくメグミにしがみつきながら、トウヤはぶら下がった状態のハリをボールへと収納し元の位置に引っ掛ける。両腕でしっかりとメグミにつかまると、トウヤは後ろに一度目をくれ、せき立った声でメグミを扇動した。
「出番だ。こっちに追い返したい、行けるか?」
 肯定も否定もなく、メグミは翼を振るった。
 風の塊を前方へはね返すように、両翼が大きくはためいた。反動で仰け反って急ブレーキをかけ、もう一度翼を鞭打つと、メグミの体は完全に上下反転した状態で空を切り返した。
 背中の主人など素知らぬ顔、天に腹を向けたまま滑空するメグミの上を、ピジョンの翼が駆け抜けていく。水中の小魚のような自在な動きを彼らは追うことができない。標的を見失った群れが減速しあたふたと振り返ったところで、長い縦旋回を終えたメグミが、そして必死の形相でそれにしがみついていたトウヤの双眸が、動揺を隠せないピジョンの一群を捉えた。
(うまく避けてくれよ)
 そんなことを思う間に、メグミの体が躍動した。
「やれ!」
 言うが早いか、放たれた強烈な光が、砂漠の空を焼きつくした。
 熱波、轟音と、真っ白な光線の柱が、ピジョンの群れの中央を貫き、遥か彼方へと伸びていく。叫声と断末魔の悲鳴が混じり合い一人と一匹の鼓膜を射る。オニドリルの背中が震え、光が収束していく。地面へと力なく落下していくいくつかの黒ずんだ塊には目もくれず、ピジョン達は散り散りに飛び去っていった。
 空の点へと帰っていく数十の影を見て、トウヤは長い長い溜め息をついた。僕まで殺す気か、と呟きながら首元を撫でる主の顔にちらりと目をやり、メグミは今度はゆっくりと、緩やかに体を傾けながら東の方角へと向きなおる。
 数えきれないほど沸いていたディグダの姿は、いつの間にかなくなっていた。掘り起こされて色の変わった大地の向こうに、嬉しそうな表情のガバイトと、その脇に立つ黄金(こがね)に輝く髪の子供が、こちらに手を振っている。
「……勇敢だったな、あいつ」
 幾分優しい男の声に、メグミは僅かに頭を上げると、黙ってその方へと下降しはじめた。





 夕闇が徐々に空を抱きはじめた。
 もはや自力で立ち上がることすらできなくなったトウヤを乗せたハヤテが、その横を白い肌の至る所にかすり傷を作ったミソラが、黙々と東の方へ歩き続けていた。荷物を担ぐハリがその後ろで辺りを警戒してはいたが、夕刻の生き物の気配は淡く、何か動く姿を見ても、不思議と物騒には感じない。上空にはメグミが静かに翼を動かしている。ポケモンレンジャー達の警戒区域にはとっくの昔に差し掛かったはずだったが、ココウの女レンジャーの言ったとおり、人の姿はどこにも見えなかった。
 歩きながらも、疲労にふいに落ちかけるミソラの意識を繋ぎとめるように、リン、リンと規則的な鈴の音が、沈黙する世界に浮き立って響く。
「……何か」
 眠ってしまったものだと思い込んでいたトウヤの声に、ミソラは少し驚いて顔を向けた。
「思い出すことは、ないのか」
「はい?」
「……昔のこと」
 下手すれば拾い逃してしまいそうなほどか細い声だったが、静寂のさなか、疲れに圧迫された子供の胸を叩くには、それで十分だった。
「……いえ」
 返答も沈んだ声だった。トウヤはハヤテの体に顔を伏せたまま、そうか、と変わらず聞き取りづらい調子で返す。
 再び静けさが戻ってきた。暗闇の中を彷徨うような気持ちで思いを巡らしながらも、ミソラは、そんなことを言う彼の心がこちらには向いていないことを、なんとなくだが感じていた。
 ハヤテに身を預ける彼が何を考えているのか計りかねる間に、トウヤは一度首をもたげて、自らの腰のモンスターボールへと目を落とした。
「……兄弟は? いなかったのか」
 あまりに唐突な質問だったが、それが意外にもミソラの胸の奥へと流れ込んだ。
 ハリが顔を上げ、微かに瞳を揺らす。ミソラは口をつぐんだ。問いかけるような小さな声が、とんとんと心の扉を叩く。
『よお、兄弟』
 大人のような、子供のような、不思議な響きを持った声。
 うっすらと情緒を波立てた音に、ミソラは少しだけ目をつぶった。
「……いたような、気がするんですけど……」
 ハリが瞬きし、ハヤテがそろりと首を動かす。
 その時、ピィ、と空から落ちてきた鳴き声に、トウヤもミソラも顔を上げた。見た目にそぐわない可愛らしい音を何度か奏でると、メグミは翼をはためかせ、闇に沈みかけた地平線へと速度を上げる。
「どうしたんでしょうか」
「……あぁ」
 トウヤは首を持ち上げて前方を見ると、若干生気を取り戻した声で呟いた。
「見えた。あそこだ」

 しばらく行ったところで、トウヤはハヤテを止めた。
「僕はここまでだ。ミソラも、あまり近づかない方がいい」
 ハリに支えられながらハヤテから下りたトウヤは、そのままその場に座り込んだ。二十メートルほど向こうの上空を、メグミがゆったりと旋回している。ハヤテはそわそわと体を揺らすと、そちらの方へ駆けていってしまった。
 ここまで誰もいないとは、あいつ本当にユニオンの連中と繋がってるんだな、と覇気のない声でおどけるトウヤの顔を、ちらりとハリが覗きこむ。その目はしっかりとハヤテの行く先を捉えている。その脇に茫然と立っていたミソラが、一歩、二歩と足を出し、そこで固まってしまった。
 強い風が乾いた大地を吹き抜け、男の黒髪を、子供の長い金髪を乱暴に撫ぜつける。前を向きなおした黄色の瞳がしぼめられる。舞い上がる粉塵が斜陽に細やかに反射し、夕日に濡れた岩石砂漠を駆けていく。――その世界の真ん中に、何もない世界の真ん中に、ひとつ不自然に、緑青色の岩山が座っていた。
 高さは三メートルほどだろうか。上側が切り崩された半球形の巨岩を支えるように、取ってつけたような大きなこぶが二つ、その裏側に先の細った筒のような岩石が一つくっ付いている。全体が雨風に劣化して虫に喰われたような穴を開けているが、筒状の岩の先端付近にある棘も、またこぶ状のものの最下部の白く濁った突起物も、はっきりと見て取ることができた。ミソラが振り向くと、トウヤは少し困ったような顔で、小さく息をついた。
「何だか分かるか?」
「はい……生き物の死骸、ですよね」
 男が頷くのを見て、ミソラはもう一度首を回した。巨大な胴の腹から下、がっしりと力強い足、人ひとりではとても抱えきれないであろう太い尾。メグミが空から、ハヤテが傍まで寄って興味深々と眺めるのは、確かに巨大な生き物の下半身であった。
「おそらくはバンギラスだろうな。幼生の頃から土を食べて生きるから、死んでも体は腐らずに、こんな風に風化する……こんな怪物みたいな個体がいたなら、生きているうちに見たかったが」
 ほとんど独り言のように呟くトウヤの前に、もう一度ガラスの小瓶が差し出された。無表情なハリの顔を見、僅かに苦笑すると、トウヤは力なく上げた右手にそれを受け取った。
 ミソラは目を細める。穴ぼこの岩肌に、何かうごめく影が見えた気がしたのだ。
 ハリが次に差し出した水筒の水で錠剤を飲み下すと、トウヤは従者の腕にもたれかかりながら、でも、と本当に独り言の調子で声を漏らす。
「そうか……こんなことのために」
「お師匠様、ポケモンがいます!」
 そう叫んで嬉しそうに振り返るミソラに、トウヤとハリは思わず顔を見合わせた。
 ミソラは彼らの方へ駆けよると、トウヤの傍に腰を下ろした。土埃に汚れた手で、棒きれのような足をさする。疲れと痛みは引かないが、帰りの道のりのことを思ってもなお、目的の地に辿り着いた達成感からだろうか、ミソラの心の中はなんとなく晴れやかだった。
 ポケモンの棲みかになっているならユニオンも下手に手は出すまい、とひとりごちるトウヤの声は、ふわふわと宙に浮き、どことなく現実味に欠けている。
「ミソラなら、これからこの場所をどうする?」
 青の瞳が、もう一度岩山へと向けられる。その問いに閃いたのは、町を発つ朝に家の前で見た、花壇の前で語った時の女店主の顔であった。
「花を植えます」
 突拍子もないその答えに、トウヤは呆れたように頬を緩める。
「どうして」
「花は見る人の心を豊かにします。棲んでいるポケモンや、ここを通りかかる人たちが、きっと皆良い気持ちに……あっ、でもそうか、植物は育たないのかも」
 そうしてうーんと唸り始めたミソラの横で、トウヤは少し嬉しそうに、静かに目を閉じた。
 遠くメグミの声と、ハヤテの声が混じって聞こえる。西の地平に太陽は落ち、そうして夜は訪れるだろう。向かいの空に星は瞬き、白んだ月を待っている。その光の影を瞼に見ながら、トウヤは陰りゆく意識の中で、自分でも言っているのかいないのか分からないような状態で、微かに声を発した。
「……お前は優しい子だ」
「え?」
 あまりに予期しない言葉に、ミソラは驚き振り返ると共に、ほんの少し頬を染める。
「そうでしょうか」
「あぁ、だから、大丈夫だ……不安がらなくても、すぐに思い出せる。お前の、本当にいるべき場所のことを」
 空色の双眸が揺れるのに、トウヤもハリも気づかなかった。
「人に優しい子に向かって、運命は、それほど残酷な仕打ちは、しない……」
 それだけなんとか言い終わると、トウヤはかくんと首を折った。
 ハリが抱えなおす腕の中で寝息を立て始めた男の隣で、子供は膝を抱え、その中に顔を埋めた。
「……いるべき場所?」
 小石や何かの破片をくわえたハヤテとメグミが、彼らの方へ戻ってくる。
 広い荒れ地の砂利の上、夜闇に沈む砂漠の中で、震える声に答える者は、誰もいない。





  
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