「ほ、本当に見えないんですか? ちっとも見えないんですか?」
「ちっともってことはないよ、ゴースグラスを掛けてるんだから。ほら、あの屋根の上にフワンテが飛んでるぞ。優雅だな」
「フワンテくらい眼鏡なしでも見えるでしょっ」
「じゃああの服屋の手前だ。ユキメノコがショーウインドウのドレスを見つめてる。恨めしそうな顔をしてる」
「横のヤミラミは?」
「え、どこだ?」
「ほらこっち見てますって、しめしめって顔してますって」
「ヤミラミは金目のものが好きだからな。霊感のない人間を見たら良いカモだと思うんだろう」
「うわあっこっこっち来ましたってちょっとぉー!」
 トウヤがきょろきょろしている隙に突っ込んできた喜色満面のヤミラミが、二メートル手前で、突然ふわーと浮かび上がった。
 宙に浮かんでいる。手足をじたばたさせている。まるで見えざる神の手に摘まみ上げられているかのよう。そのままぺいっと投げ捨てられたみたいにすっ飛んで退場していったが、最後まで百点満点の笑顔だった。ゴーストタイプって言うのは、四六時中不幸に打ちひしがれてる顔の子と、四六時中楽しくて仕方なさそうな子と両極端だ。
 ……人差し指を振るだけでヤミラミをペいっとしたメグミが、相変わらずミヅキの姿で、トウヤと腕を組んでいる。恋人のように寄り添いながらくすくす笑っている。『サイコキネシス』は効かないはずだけど何を使ったんだろう。
「……メグミ、いいんですか? 出してて」
 因縁の姉を模したものの顔、真横、至近距離にある顔を一瞥し、トウヤは苦笑いする。
「ノクタスやガバイトを用心棒に連れ歩くよりは、まだ噂の回りが遅いだろ」
 だとしても透明でいろと命じない理由にはならない。つまるところ、トウヤはメグミに甘いのだった。
 トウヤの肩に怨霊のように憑き続けていたカラカラ(怨霊のように、というか、怨霊そのものだけど)が元の公園へ帰るのを見送って、一行はまた歩きはじめる。
 厚い雲の下でも日が短くなっているのを感じる。時間はまだ早いのに、既に仄暗さがたちこめていた。そしてゴーストポケモンの活気も、昼間より格段に強くなっていた。街の中心部に至るにつれどんどん気配が混み合ってくる。霊園よりも街の方が幽霊が多いのだから変な話だ。
 トウヤは両親の死の真相を知りたいと言った。ヨシオは、なら幽霊に聞けばいいと言った。……あのペテン師め。ヨシオが提示したのは、なんてことはない、旧ホウガ所属隊員の住居だった。リューエルを退職したことを『墓に入った』と表現したのだ。
「僕も噂には聞いたことがある、旧ホウガの人間がワタツミに住んでるって。最近越してきてな、今年のはじめ頃だったか、確か六十過ぎの研究職員だ」
 両親、特に父親の同僚だったと思われる人物を訪ねてみようと今日まで思わなかったのは、『オリベ』と言う名の研究職員に、まったく心当たりがなかったからだ。
「ホウガの研究施設には結構出入りしてたんだ、父親に連れられて。皆可愛がってくれていたし名前の聞き覚えくらいはありそうなものだ。研究施設と言ってもさして大きくなかったし、職員も全員顔見知りだった」
 子供の僕にしてみれば途方もなくでかかったけどな、とちょっぴり感傷を付け加えた。
 トウヤがホウガを去ったあとにやってきた人なら、トウヤをトウヤだと気付かないかもしれない。とはいえリューエルの関係者だ。ミヅキやキノシタに張られているリスクもある。それでもトウヤが会いに行くことに決めたのは、「大丈夫大丈夫、ボケてるんだとさ」というヨシオの言葉を鵜呑みにしたわけもあるまいし。「ハヤテが『流星群』を覚えるまでの暇つぶし」なんて説明も本心ではない。
 危険を冒してでも、今のトウヤは確かめずにいられないのだ。彼が愛し続けた父と母が、本当はどんな姿をしていたのか。
 あんなオバケ男と二人きりにされるなんてまっぴらごめんだった。でもそれ以上に、思考を人でないものに侵食されつつあるこの人が何かしでかす気がしてならない。幽霊のはびこる時間帯のワタツミに、だからミソラは嫌々ついてきた。
「夜が近いのに、そこまで寒く感じないな。ヒビが寒すぎたんだ」
 言葉と裏腹にしっかり肩を縮ませつつ、トウヤは頻繁に無駄口を叩いた。
「海辺だからってのもある。ワタツミの近海は南から暖流が流れ込んでるから、冬でも内陸より温暖になる」
「夏は暑いんですかね」
「風があって気持ちいいよ。ココウよりうんと住みやすい気候だ、おかげで街の外れには色んな種類のポケモンが混在してて面白い。僕も歳をとったらこの辺に住みたい」
 そう言って、少しだけ黙り込む。自分がそう長く生きられないらしいことを思い出したのかもしれない。
 追っ手を警戒するトウヤの変装は、完璧と言ってもよかった。防寒に厚手のコートを見繕ったこともあり、長髪を後ろで結わえ丸縁眼鏡を掛けているトウヤは、痣さえなければ別人だ。下手すれば見失いそうになる。見慣れなくって変なのに、街の風景によく溶けていた。美女に扮したメグミの方が目立ってるくらいだ。ヒガメに行ったときもそうだったが、旅慣れている人というのは、旅先でよそ者にされない術を皆心得ているらしい。
 出会ったときから着ていた薄汚れの茶色いコートを、何の躊躇いもなしに捨てる。それをミソラの肩に掛けておいてきぼりにしようとしたことなんか、どうせ覚えちゃいないだろう。
「あのときミソラを置き去りにしてたら、どうなってたろうな」
 しっかり覚えていた。
「私、命を救われたと思ってましたけど、今はあんまり感謝してませんよ」
「同感だな。僕も助けてやったとばかり思っていたが、これだけ図々しい奴だったら、置き去りにしたってどのみち殺しにきてた」
 皮肉を言うだけの余裕はあるらしい。髪を縛っているからか、眼鏡をつけていても表情がはっきりと見て取れた。
「ほら、あれは外国船」
 港に差し掛かる。午前中は遠目に眺めただけだった船は、間近で見ると見上げても見上げきれないほど大きく、淡い夕闇の中でいくつもの光の粒を纏っている。
 そっと盗み見る横顔。
 頬と鼻の頭を少し赤くしたトウヤ。船のライトをきらきらとさせている双眸が、どことなく――獲物を見定めているようにも、見える。
「ミソラはこれに乗って外国から来たのかもな」
「その話、もうメグミとしました」
「なんだ、仲良くなったのか」
 そうなのだろうか。メグミは茶目っ気のある微笑みを浮かべ、ちょこんと首を傾げてみせた。
 こうやって二人で話をするの、久しぶりだ。港から南へ伸びる商店街をぶらつきながらふと思う。旅行中はもちろんのこと、ココウでのありふれた日常の中にだってトウヤと二人になる瞬間は毎日あり、決しておしゃべりな二人じゃないけれど、数えきれない話をした。ココウを出てからは、アズサやタケヒロ、ハルオミと一緒にいることが多くて、二人きりはほとんどない。懐かしい感覚だった。トウヤはいつもミソラより賢く、ミソラの問いかけに一定の答えを示す。トウヤと背伸びして話す分だけ、ミソラは少し大人になる。
 二人じゃないでしょう、と言わんばかりに、ドラメシヤ――ドラちゃんが首元へまとわりついてくる。ひらべったい頭を撫でると嬉しそうに手へ顔を擦り寄せてくる。それは子が親へする動きではあっても、友人が友人へする動きではない。
 トウヤは平台に並んだ色とりどりのゴースグラスを前にして、ああだこうだと講釈を垂れている。ミソラはその横顔をもう一度見た。
 聞いてみたい。人は死んだらどこへ行くのか。
 ポケモンの魂が海の底へ向かうのなら、人の魂はどうなるのか。
「ゴーストポケモンが肉眼で捉えられる程度について、個人の素質以外にも地場のもつエネルギーの性質や多寡が影響してるんじゃないかって説もある。例えば、カントーのある町では……」
「……あの」
 トウヤがはたと振り向く。
 ミソラは思わず口ごもる。
 ――生まれ変わりって、信じます? 人間からポケモンに、とか。元は死んだ人間だって言い伝えを持つポケモンもいますけど、本当だと思いますか。ドラメシヤだったらどうですか。ポケモンに生まれ変わるとして、死んでからポケモンに生まれ変わるまでにどのくらい時間がかかるんでしょう。例えば、タケヒロみたいにせっかちな人だと一日くらいで生まれ変わったりもするんでしょうか。この子、ちょっとタケヒロに似ていると思いませんか。
 押し黙ったミソラを、トウヤはまっすぐ見つめた。
 あまりに愚直な顔。意味を問い詰めるような顔。そうやって続きを急かされると、自分が訊かんとしていることの突拍子のなさを自覚して、だんだん頬が熱くなる。
「……え、と、その」
 ドラちゃんをもじもじと揉みながら、慌てて言葉を見繕った。
「……やっぱり変ですその眼鏡……」
「そんなにか……」
「こっちの方がかっこいいですよ」
 無駄に品揃えの多いゴースグラスの中からシックでスタイリッシュな眼鏡を選んで差し出す。いいよ誰に見せるんでもなし、とトウヤは手に取ろうともしない。
「今から人に会いに行くんでしょうが。第一印象は肝心ですよ」
「会って話をするだけなのに見た目を気にする必要があるか?」
「会って話をするだけだからこそ見た目を気にする必要があります」
「まあそうなんだけどな……」
「ねぇねぇ、そこの三きょうだい」
 声が明らかにこちらを向いていたので、トウヤとミソラは顔を上げた。
 ゴースグラスを扱う土産物屋の店主だった。そこで商品を見ている客は他にない、やはりミソラたちに声を掛けたらしい。いや、声を掛けられること自体は、お客さんだし普通だけれども。
「いやーそっくりな三きょうだいだね。特に君たちあんまり似てるもんだからびっくりしちゃうよ、成長前、こっちが成長後、ってね」
 ミソラ、トウヤと、男は順番に指差した。
「おじちゃんから提案なんだが、ここはひとつ、お揃いで買うっていうのはどうだい? サービスするよ」
 おそろい、欲しい、とメグミが後から顔を見せる。トウヤによく似たミヅキの顔を。
 トウヤはちらりとメグミを見、それから、ちらりとミソラを見た。
 見ただけで何も言わないので、我慢できずにミソラが問うた。
「えっと……三きょうだい、ですか?」
 きょうだいならよくわかるが、三、と言うのは、これいかに。金髪碧眼の白人であるミソラを、トウヤやミヅキのきょうだいと勘違いすることはまずないはず。……こちらを見下ろすトウヤの顔が、半笑いなのが気になった。大量の眼鏡が陳列している平台の端に、小さな鏡が置かれていた。覗き込んでみる。
 肌の色の濃い、黒い短髪の、茶褐色の瞳をした男の子と、ばっちり目が合った。
 ――ああ、そうだ。そうだった。自分は今、メグミの趣味で、子供時代のトウヤの姿を投射されているのだった。
 見た目を気にするべきなのはミソラだった。自身の顔でべらべら小生意気を言うミソラを、トウヤは内心でずっと笑っていたと言うわけである。
「……。で、どうします? "兄さん"」
 嫌味ったらしく訊いてみる。でも、正直ちょっと助かった。トウヤの呼び方問題は、お師匠様と呼ぶのをやめてからというもの、目の上のたんこぶだったから。



「岬の小屋に戻ったら、ヨシくんがどんな格好で出てくるか見ものだぞ」
 ワタツミ名物ゴースあんまん(普通の白いあんまんで、どこがゴースなんだかわからない)をはふはふと食べているとき、トウヤがそんなことを言った。
「幽霊もおめかしするんですね」
 おしゃれ好きそうな感じだったものな、と従兄弟をおちょくるときの彼の陽気さを思っていると、トウヤはちょっと笑う。彼がちょっと笑うたびに、見た目を馬鹿にされている錯覚がして癪に障ってしまうのはいいとして。
「どんな格好にでもなれるんだよ、あいつ」
「……どんな格好にも、って?」
 ゴースまみれの往来――彼の目に映る往来は、ゴースまみれではないかもしれないが――を眺めながらトウヤは続けた。
「僕がはじめて会ったときは、あいつ子供の姿だった」
「子供の頃に会ってたんでしょ?」
「ああ、幽霊になってからの話だ。僕は十六か十七か、八だったか、魚の送り主を探しにワタツミまで来てたんだ」
 魚。……あ、とミソラは声をあげた。秋ごろに、大きな生魚がハギ家に送られてきて、お刺身にしたものを喜んで食べた。毎年送られてくるが送り主が分からないと、確か言っていたような。あれ、もしかして、
「……ヨシくんさんが送り主?」
 トウヤは小さく肩をすくめる。
「テレポート便の店で送り主の心当たりを訊いて、岬の小屋であの棺桶を開けたとき、中でぐうぐう寝てたのはほんの小さな子供だった。お前より小さいよ、このくらい」
 彼の腰のあたりに手をやった。ヨシオが死んだのは十二歳のときだと言っていたが、それじゃあよくて七歳くらいだ。
「自分たちが従兄弟だと分かると、俺今頃このくらい背ぇ伸びてるはずなのかと感心した様子でな。そして次の日会いに行くと、僕と同じくらいの背格好の男が、気味の悪い顔でニヤニヤしてた」
 以後、再会するたびにトウヤに合わせて歳を取るのだという。つまりヨシオの今の姿は、ヨシオの勝手な妄想の産物ということになる。成長後の姿として妥当なんですか、と問うと、トウヤは笑った。生前のヨシオはおばさんによく似てさながらブーピッグみたいだったと、悪戯な声で教えてくれた。
「驚かされたら嫌だなあ……夜になる前に帰りたいです」
「そうだな。このへんは特に、夜中は出歩かないほうがいい。その名の通りのゴーストタウンだ」
 参ったな。悲鳴をあげずに帰れるだろうか。
 ゴースあんまんがゴースを名乗っているのは、多分核にあたる餡が黒っぽいからなんだろうな、などと他愛もない話をする。旅先で食い歩きした話。ハシリイのカイスジュースにモモンクレープ、ヒガメの峡谷巨大ワッフル。ヒビでは甘くないコロッケを食べた。どれも懐かしくて、どこにも共通の光景がある。
「食べなかったですよね、いつも」
 あんまんの最後のひと切れを口の中に放り込んだ彼は、なんだか得意な顔で、包み紙をくしゃりと握り潰した。
「たまにくらいは食わせてくれよ」
「悪いとは言ってませんよ」
「食わなきゃ、生きられないからな」
 言う。笑う。
 ミソラはもう一度、彼の横顔を盗み見る。
 ――さっきから、こんなにたくさん笑っているのに、ちっとも楽しそうに笑いやしない。
 足元に絡み付いているドラちゃんに、生地をひと口食わせてやる。遠く波の音がする。海岸の方向にはプルリルの影が白く浮かびあがり、波が寄せては返すのと同じリズムで暮れなずみの光に溶けていく。灯りのつきはじめた木造の酒場のそばで、ボクレーが二、三匹ふよふよと漂う。
 メグミは静かだった。トウヤのそばにしゃがみこみ、あんまんを小さな口で大事そうに食べながら、幸せそうに微笑んでいた。
 ミソラとリナと三人だったときはあんなにお喋りだったのに、トウヤが混じると静かなものだ。それに、こんな顔は一度もしなかった。そう、飄々としてもどこか不安げな顔を、していた。
 話しかけてきていたのは、不安の裏返しだったのだろうなと、ミソラは今更になって気付いた。
「ミヅキちゃんと、何があったのか知りませんけど……」
 まだほんのりと温もりの残るあんまんを胃の中へ全部落としてから、やたら口数の多い同行者へ。
「あんまり自棄(やけ)にならないでくださいよ」
 言いながら、偉そうな口を叩くようになったものだ――と、ミソラは内心で自虐した。
 半年以上師匠と崇めていた人相手に、いつの間に、肩を並べる相棒気取りだ。
「今日、ずっと怖い顔してますよ。あなた」
 ……トウヤは狐につままれたような顔で、いくつか目をぱちくりとさせた。肉付きが悪すぎて皮がこわばっている己の頬を、摘みあげて、ぐにーと引っ張った。
 もう少し信じてくれませんか、私たちのこと、とヒビで言ったのを思い出す。トウヤはあれから子供らに頼っただろうか。実際頼りにされるほど、ミソラは強くなってもいない。けれど、アサギから逃走する命懸けの局面で、大事なメグミを、トウヤが託した。ミソラがメグミとともに逃げ切ると、トウヤは信じて、ミソラは彼の信用に応えた。
 自分が強くなったとは、とても思えない。でも、トウヤが弱くなったとしたら、利かない右腕の代わりに果物を剥いてやるくらいの役目は、自分でもこなせるかもしれない。
「じゃあ、ミソラ、お前、僕が自棄を起こしたら」
 笑うと疲れると昔言っていた表情筋を照れ隠しに解しつつ、彼はまた不器用に笑む。
「そのときこそ、僕を殺せるチャンスじゃないか。そうだな。いざってときは、お前が僕を殺してくれ」



 いざってとき――いざってときの明確なビジョンが、トウヤの中には、既にあるのではないか。
 何故そう直感したのだろう。すぐには分からなかった。けれど確かにミソラは、らしくない乱暴な笑み方をする彼に、得体の知れぬ予感を確かに覚えた。嫌な予感だった。ミソラの非力な手じゃ到底届かない場所に事態が転がり落ちていってしまいそうな、そんな、言いようのない不安。足元で揺らめく影みたい。掴めそうで掴めない、怨霊めいたものの正体。
 あなたの言ういざってときがなんなのか、聞いてしまえばよかったのだ。隣に並び立ってる今なら、相棒気取りでいるんなら、聞くこともできるはずだった。けれど、冗談めかしても聞けなかったのは、掴めないと思い込んでいる予感の正体に、どこかで勘付いていたからなのか。
 東に聳え立つ山向こうから暗闇が迫ってくる。夕暮れに差し掛かるワタツミ南東の閑静な住宅地。あれだな、とトウヤが指し示す。庭のある小さな家だった。近づくにつれ、不穏は姿を現しはじめる。庭には枯色の雑草が繁茂している。玄関灯が切れかかって橙光を不規則に戦慄かせている。
『そのときこそ、僕を殺せるチャンスじゃないか』
 そう、チャンス――チャンスという言い方が、おかしい。そのとき、トウヤが自棄を起こしたときに、なぜミソラにチャンスがくるのか。
 ミソラにチャンスがくるとは、つまり、トウヤを殺すチャンスが巡ってくるという意味だ。今、ミソラがトウヤを殺しあぐねているのは、トウヤが両親を殺した人殺しではなかったことが判明して、トウヤを殺す正当性が失われてしまったからだ。ミソラにトウヤを殺すチャンスが巡ってくるということは、失われた正当性が回復する――トウヤが殺されるべき人物、正真正銘の人殺しになる――彼が誰かを殺す、ということに、他ならないのでないか。
 トウヤが自棄を起こすときは、彼が誰かを殺すときだ。
 一体、誰を? ――ひとりしかいないじゃないか。
 門扉に絡みついた蔦が引き千切られているのを見たとき、予感は不意に形を持ってミソラの心を支配した。全然手入れされていないな、と率直な感想を述べながら敷地に踏み入ったトウヤの横で、そのときがくる瞬間を想像した。トウヤが自棄を起こす瞬間。誰かを殺す瞬間。あのひとを、殺す瞬間。そのとき、自分に何ができるだろう。僕はどうしたらいいのだろう。僕はどちらに立てばいいのだろう。だって、だって――ミヅキは、タケヒロを殺したじゃないか。
 辛うじて判別できる煉瓦造りの花壇から、奔放に生い茂る植物。元は園芸品種なんだか雑草なんだか見分けもつかない、野生化しているし、全部枯れているからだ。
 玄関まで辿り着いたトウヤが、ミソラを一瞥して、頷いた。
 赤黒い左手がドアチャイムを鳴らした。
 沈黙が流れる。
 扉の向こうから気配はしない。
 ミヅキとは知り合いの可能性があるのでメグミは透明になってもらっている。トウヤとミソラの手の中にはそれぞれハリとリナがいる。元研究所員なら、バトルには不慣れな連中がほとんどだ、臆することはないという見立てだ。老人の記憶を喚起するのに子供時代のトウヤの見た目は多少役に立つかもしれない。深入りはしないとも打ち合わせてある。戦う準備も、逃げる準備もできている。
 でも、いざってときが、思わぬところから、こうやって思わぬ形で殴り込んできたら。
 僕は、何ができるだろう。
 僕に、僕なんかに、なにかできるんだろうか。
「……ああ、」
 薄く扉を開いておずおずと覗いた、気弱そうな顔をした白髪の老爺は、ミソラの顔を見るなり、

「おかえりなさい。ルディ」

 ふわり、と顔を綻ばせた。
 まるで、よく見知った子供を、子や孫を、慈しむような優しい顔。

「忘れ物をしましたか?」

「……え、」
 まったく予測不可能の言葉に、面食らって思わず漏れた声が、夕暮れの庭に滴り落ちる。
 老爺は少し腰をかがめ、ミソラと目線を合わせた。吸い寄せられるようにその顔を見た。知らない顔。知らない瞳。濁った色をしたその瞳にミソラの困惑は映り込まず、ただ折り畳まれた皺の奥にある潤んだような目の感じや、まばらな白髪や、そればかり長い眉、ミヅキよりうんと細い肩、古本のような匂い、煙のような静かな声、そこから受けるすべてを、懐かしい――と無意識が、無防備なまでに受け入れる。

「ミヅキちゃんと出かけたばかりではありませんか」

 返事に詰まっているミソラを見つめて、織部 宗一郎(オリベ ソウイチロウ)は困ったように目尻を下げた。





 
 
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