6 ――大丈夫大丈夫、ボケてるんだとさ。 ――ボケてるって? まだそんな歳じゃないだろ。 訊いたが、話に覚えがあることに気づく。同じ噂を、トウヤも市街で耳にしていた。 ヨシオは意地の悪い笑みを浮かべつつ、頭をトントンと指差して言う。 ――どうやら弄りすぎちまったらしい。 「おかえりなさい、ルディ。忘れ物をしましたか?」 固まっているミソラへ顔を寄せ、オリベは言った。 「ミヅキちゃんと出かけたばかりではありませんか」 ミソラを庇わなければならない。咄嗟に動いていた。惚けた顔で突っ立って老爺を見上げているミソラの前に、腕を差し出し、一歩退かせる。 予想だにしない出来事に息を詰めたまま、トウヤは次の動きに構えた。様々な想定が、瞬時に脳裏を駆け抜ける。リューエルのお尋ね者と知っての撹乱。耄碌老人の妄言。――記憶を失う前のミソラの知り合い。おかえりなさいと言った。ミソラが帰る場所。ミソラのいるべき場所。そこに迎えにきていたミヅキ……。 けれど――引っかかる。彼に見えているのは、「長い金髪に色白碧眼の異邦人」ではなく、「黒い短髪の少年」ではないのか。 オリベの次の動きは、こうだった。 背を向けた。そして、戸を開け、玄関へ入った。 「寒かったでしょう。さ、上がってください」 廃墟に片足を突っ込んでいる外観とは異なり、室内は綺麗なものだった。 絵画の飾られた玄関。ダークブラウンで統一された品の良い家具が並ぶ。レース編みのテーブルクロスには染みひとつない。ただ――編み目に、埃が詰まっている。硝子戸は水拭きの跡が汚らしい。時計の針は夜明け前を指して止まっている。 生活するための道具は一通り揃っているが、生活をしていた痕跡が希薄だ。読みかけの本もない、飲みかけのグラスもない。水差しに差された白い花だけが、やたらと生々しく艶めいている。今時期、あんな綺麗な花は、花屋で買わなきゃ手に入らない。花を買うだけの余裕があるなら時計を修理した方がいい。 自身の足で労せず歩けるにも関わらず、日当たりのよさそうな窓辺の一等地に、車椅子が置いてある。同居人がいるとは聞いていないが……。 「ルディと出会ったのは、北方の異国でのことでした」 ローテーブルを挟んで向かいあうオリベが、懐かしそうに目を細める。耄碌していると思ったのは最初だけで、発言の様子も内容も、十二分に冴えていた。 「あるポケモンの捜索のために、奥地の雪原を調査していましてね。ひどい吹雪でした。テントを張れる状況でもなく、拠点に戻ろうとしていたとき、行き倒れたバックパッカーを見つけたのです」 雪に半ば埋もれていた彼らを、自身も遭難しかけていたにも関わらず、オリベは親切にも掘り起こした。 「若いカップルでした。可哀想に、二人とも既に息絶えていましたが、女性が抱いている赤子だけは、まだ仄かにあたたかかった」 『Rudolf Schaefer』。遺品から探り出した赤ん坊の名前。産毛のような金髪がまだ生え揃わぬうちだったが、人見知りもせずよく笑い、オリベの指を小さな手で握りしめた。生きようという信念が、小さな体に満ちていた。 同行者はいない。異国語も喋れず、攫ったと思われても仕方のない状況だ。他に手段もあったろうに、焦りのあまり盲目になっていた。調査の終了とともに船に乗せ、連れて帰ってきてしまった。 雨垂れが浸みていくような男の語り口を、トウヤはなるべく注意深く聞き取ろうと試みた。口調には『ルディ』への深い慈しみが感じられる。その優しさは、親から子へ、あるいは祖父から孫へ向けられるのに、あまりによく似た色味をしている。 その優しい顔を、トウヤへも、彼は惜しげもなく向けようとしていた。 ……顔に刻まれた皺は、六十過ぎという年齢にしてはいささか深すぎる。そのせいだろうか。対面しているのはあくまで好意のはずなのに、嫌な緊張が引いていかない。手のひらに滲む汗を、トウヤは腿で拭う。 「何せ、独り身なものですから。赤ん坊を育てるというのは、想像していたより遥かに大変でね。ほら、アサギ。ミヅキちゃんのバクフーン。子育ての経験があるでしょう。役に立つからと彼女が連れてきてくれて、よく世話を焼いてくれました」 玄関入ってすぐの居間のほかに、もう一室部屋があり、そこは『ルディ』が子供部屋として利用していた――今も、している――らしい。ミソラはそこへ『忘れ物』を探しに入っている。トウヤはミソラを、『ミヅキとの外出のさなかに忘れ物を思い出したルディ』を、この家へ送り届けにきた『ミヅキの知り合い』だった。 「賢い子ですよ。読み書きは私が教えてやりました。私はもう引退した爺ですが、あの子には、教えてやりたいことがたくさんある。これからも、あの子が望む限り、学ばせてやるつもりです」 「……つまり、あの子は赤ん坊の頃から、ずっとあなたと一緒に?」 「ええ」 手元に落としていた視線が、ゆっくりとこちらへ向く。 薄ら闇に、朧に霞む表情。 「二人でずっと、この家に。あの子は自由でした。のびのびと、良い子に育ってくれました」 無知な子供相手に、子供だましを聞かせるような、年長者の怠惰が、垣間見えた。 臆することはない。トウヤは自身を律しようとした。相手はポケモンを連れていないし、外部と連絡を取れる通信機器も見当たらない。何か起これば、こちらには有能な手持ちたちがいる。 老いて白濁のある瞳は、見えない世界に向けられているように思えた。偏狭なトウヤの視野では捉えられない世界を見ていた。そこに何があるのか、あることすら、トウヤには知れない。けれどこっちだって、与えられるものを呑み込むばかりの雛ではない。考えることができる。直接見えなくとも、迎え撃つことはできる。 「どうして嘘を吐くんです」 正面切って問うても、オリベは微笑みを崩さなかった。 「この街で、この家で不自由なく暮らしていたなら、あの子は雨も雪もよく知っていたはずだ」 ――ミソラは降りしきる雨の中で、柄にもなく大はしゃぎした。傘の差し方すら知らなかった。雪が積もっているのを見たときは、目をきらめかせて「お伽話のようだ」と言った。 オリベが微笑するさまは、まるで一枚の絵画のようだ。呼吸をしているのも疑わしいほど微動だにしないものに、じっ、と対面していると、逆に追い詰められている気がしてくる。青い静寂。ちりちりと時が過ぎる。 目を逸らしたい、逃げ出したい獣の心を、トウヤは抑え込んでいられた。別室のミソラを思う気持ちが、彼が『ルディ』を思う気持ちに遜色ない、引けを取らないと信じていた。それを証明せねばならないと思うからこそ、トウヤは目を逸らさずにいられた。 「君は、ワカミヤくんのご子息ですね」 ほとんど顔色を変えずに、オリベは口を開いた。 名乗るまでもなく、突然現れた若者の正体に、老人はとうに気付いていた。 「私は学校の先生です。ホウガの研究所が解散になるまで、あの工場町の小さな初等課学校で、携帯獣学を教えていました。君のお姉さんは、よく懐いてくれましてね。放課後もたびたび遊びに来ていました。オリベ先生、オリベ先生、と言って」 オリベ先生――敬称を末尾に伴うと、その名がようやく記憶のふちに引っかかった。 「……姉から話を伺っていたかもしれません。でも、あなたが教壇に立たれているのを、見た記憶はありませんが」 「携帯獣学は五年生以降の単位です。君は初等課程の途中でホウガを離れたでしょう。君が私のことを覚えていなくとも、無理はありませんよ」 けれど、と、彼は目を細める。 「私は覚えていますよ。ワカミヤトウヤくん。君のことは、よく覚えています」 その目が、つい、と、僅か横へふれる。 双眸から、左頬の痣へと、ほんの一瞬、焦点を移した。 「……あの事件のことは、到底忘れ得ませんから」 そう――正しい大人というのは、こうだ。表面の奥にある怒りや悲しみ、憎しみを、器用に隠して対話できる。根底からわきあがる嫌悪感を、決して相手に悟らせない。 目蓋で感情を覆い隠し、トウヤは小さく頭を下げた。 ヒビ郊外で相対したとき、ミヅキはトウヤの大切な人たちを、人質の頭を数えるように並べ立てた。ミソラのことはなんと語ったか。 『可愛がっている弟子がいるらしいじゃん』。それだけだ。他の人質と同じ軽さだ。トウヤの弟子が自分の関係者だと分かっていれば、もっと言えば、刺客を送り込んだつもりだったならば、そこに触れないのは不自然だった。 アズサの名前や年齢、彼女が逃走を手伝ったこと、カナミの腹に子供がいることまで、ミヅキは把握していた。トウヤの連れている弟子が金髪碧眼の異邦人だと、知らないわけがない。その異邦人が、仲良しの子供と同一人物だと、気付かなかったということは、つまり。 ミソラがその子供であるはずがない―― トウヤと一緒にいるはずがない―― 子供は、いなくなっていない―― 今も、彼女のそばにいる、 という順に、考えてしまえば、さあ、どうだ。 この物語の中に、金髪の子供は、二人いる。 「なわけないです。ミヅキちゃんが可愛がってたのは、私ひとりだけですよ」 部屋中の引き出しという引き出しを開け放ち、本棚を物色していたミソラは、不機嫌を隠そうともしなかった。 「それに私、この部屋、知らないですし」こちらの顔を見ようとしない。トウヤの推理に随分とご立腹のようだ。「全然びびっと来ませんもん。前は『バクフーン』って言葉聞いただけでも聞き覚えあるなって思いましたし、ミヅキちゃんの顔写真見たらぶわって一気に思い出したんですよ? 住んでた部屋なんか、思い出さないわけないですよ。ましてや親の顔なんて、絶対分かるじゃないですか」 奥の部屋は、まさに子供部屋然とした子供部屋だった。桃色と白の縞模様の壁紙に沿って、パステルカラーの机や棚が並んでいる。ベッドはひとつきりだった。青空と雲の描かれた掛布団と、お揃いの枕も、ひとつきり。 「失礼な話ですよ、私の顔を見て他の人の名前を呼ぶなんて。そう思いません? 一瞬ドキッとしたの返して欲しいです」 プリプリと怒りながらも、本を一冊ずつ引き出しては、表紙を確認し、捲っている。ページの狭間から記憶の欠片を探し当てようとするかのように。 「分かるのは、私じゃない誰かが今朝までここにいて、ミヅキちゃんはその子を連れて出ていった、ってことだけですよ」 ――そう、それは、ミヅキを思って突っ走ってきたミソラには、到底看過できない事実だ。 ミソラの横に立ち、トウヤも本棚へ目をやった。知っている題名が多い。ほとんどが子供向けの童話だった、初等課程の低学年の教科書に記載されているか、または幼子に読み聞かせるのにお誂え向きの物語。……だが、ラインナップに偏りがある。トウヤは眉を寄せた。魔物、魔法使い、湖の妖精、まじない師…… 携帯獣学の先生が選ぶだろうか。架空の世界の話ばかりで、ポケモンが登場する本がひとつもない。 「……お前、最初、ポケモンのことを『魔物』だと言ったよな」 「よく覚えてますね」 不貞腐れた声。ミソラにも勘付くところはあるようだった。 雨も、雪も、触れたことがないだけで、存在は知っていた。例えば砂漠の真ん中か、あるいは日の当たらない地下室で、年頃の男の子は髪を切るものだとすら知らず。限定的な情報だけ与えられながら無垢に仕立て上げられた、美しい子供――トウヤの描いていたイメージからすれば、この子供部屋は窓が大きすぎるし、庭へ出る戸口もついている。けれど―― 「あの人がミソラの関係者なのは、それらしい気もする」 「どうしてそう思うんです?」 「喋り方が似てるんだ。出会った頃のお前の、無理に背伸びしたような喋り方と、よく似ている」 ミソラは一瞬押し黙り、そして、嫌々絞り出すように打ち明けた。 「地下道を歩いてるとき、ミヅキちゃんに変身したメグミが、私のこと『ルディ』って呼びました。……多分、私忘れてるけど、そう呼ばれてたんでしょうね」 そうよ、とだけ、メグミが返した。 夜闇が迫っていた。みるみるうちに室内も暗くなり、文字の判別が難しくなり、部屋の電球は切れていた。居間に戻ると、オリベは安楽椅子に深く掛け、穏やかに目を閉じていた。 家を後にした。外からあらためて見るオリベの家は、宵闇の中でいっそう廃墟のようで、そこに住む人の生活を想像しがたい趣がある。 「私、あの人のこと、嫌いじゃなかったと思います」 並んで帰路を歩く。日が沈むと海風は肌寒く、透明なメグミが寄り添ってくる左側だけ、場違いな温かみを帯びている。 例えばハシリイで、外国人たちに腕を引かれてミソラが攫われかけたことがある。ミソラはぽろぽろと泣いていた。あのときのような動揺は、今日のミソラは決して見せなかった。唇をへの字にして前を向き、早足に帰り道を進み続けた。けれどそれは、慣れてしまっただけの、強い感情を麻痺させただけの、悲しい老成の面持ちだった。 「でも、なんでだか分からないんです。あの人と一緒に暮らしていたんだとしたら、僕、どうしてあの人のもとを、出ていったりしたんでしょうか」 霊が横を通り過ぎても、声をあげるどころか、少年はもう目線すらやらない。 「どうしてあの人を置いてきぼりにできたんでしょうか。育ての親のあの人より、ミヅキちゃんのほうが大切だったのは、どうしてなんでしょうか。ミヅキちゃんはどうして、僕じゃない人を連れて出ていったりしたんでしょうか」 返事の代わりに、背中に手を当てさすってやる。けれど右隣を歩くミソラに右手は思うほど力を掛けられず、庇護できると思っていた自分の、無力さを、トウヤは思い知る。 「ミヅキちゃんが連れていった『僕』って、一体、誰なんでしょうか」 |