ヒビという後進地区の急速な発展の裏側には、巨大資産家であるホシナ家を中心とした『ホシナ組』と呼ばれるグループの影が存在する。
 行政にすらその影響力を及ぼすと噂されるホシナ組は、当代組長の保科武智(タケチカ)のカリスマを以って都市開発を牽引した。インフラ整備、産業誘致を中心に、社会基盤の形成を惜しみない投資で支え、その尽力なくしては、今日のヒビは語れないと言ってもいい。ヒビを中心に盤石の体制を築きつつある組は、現在に至っては他地方まで勢力の拡大を目論んでいる。
 武智の長男である武光(タケミツ)は、若頭と呼ばれる身分でありながら、船舶を繰り世界中を飛び回る多忙な日々を送っていた。
 無論、次期組長の呼び声は高い。だが、この男には跡継ぎとなる子息がない。一人目の妻は娘を残して病に先立ち、二人目の妻とは、子宝に恵まれることはなかった。
 組の古臭い慣習に則り、武光の弟である智也(トモヤ)の息子の晴臣を跡取りに、と祭り上げる声がまことしやかに立ちはじめたのは。今から四年ほど前、妻の齢が四十を数えはじめてのことだ。
 ――直系の男児の存在しないことによる権威の失墜を、武光は恐れた。そして、突然に、『隠し子』の存在を周囲に仄めかすようになった。
 ホシナの本家に仕える家政婦の詩織(シオリ)との間の子。十三年前に彼女の産んだ、語るべき父を持たないその赤子。当時の武光には既に妻がいた。不貞の愛の結晶は、一旦は忘却の彼方へと葬り去られた。遠く離れた砂漠の先に里子という形で送り出され、その存在を抹消した。
 だが、その赤子に、自身との血の繋がりを示す『武宏(タケヒロ)』という名を与えることだけは、決して忘れることはなかった。

 ――それが、ココウの少年ピエロの生い立ちである。

「四年前かな、俺、ヒビから迎えが来るって話があって」
 あっけらかんと振る舞おうとしても、どうしても口ぶりが翳ってしまう。隣を歩くミソラが反応に困っている。だがそれ以上にタケヒロ自身も戸惑っていた。『自分を捨てた親はヒビに住んでいて、自分は隠し子で、彼らは自分を取り戻したがっている』、タケヒロの知っていたのはそれだけだ。そうだとタケヒロに教えた男も、それ以上のことは、教えられていなかったのだろう。
 息子の存在を世に公表するためにタケミツは小者を遣った。が、里親だった人物は養育の金品のみを懐に収め、肝心の赤子はひと月と経たずココウというスラムに捨て去り、既にそこからも消えていた。治安状況の最悪な町で実子の消息を掴めない。業を煮やしたタケミツが、使用人に指示して別途雇ったのが、そのとき丁度旅荷を盗まれ、ヒビのスタジアムで資金繰りに励んでいたココウの若者――つまり、トウヤである。
 帰宅できるだけの駄賃を握らされたトウヤは、ココウに戻ると裏路地やスラムを聞き込んで回り、とある捨て子グループに与している子供の所在を突き止めた。当時九つのタケヒロと対話を重ねた。ヒビの実家に行くという意思を確認した。ヒビから迎えが来る日まで、面白がって首を突っ込んできたグレンと共に、『社会』というものの中で生きていくために必要なことを、あれこれと教え込んだ。
「……どうして行かなかったの?」
 ミソラの疑問は当然である。
 あのままヒビに向かっていれば、タケヒロは今頃、この綺麗で整った街で裕福に暮らしていたかもしれない。
「ん、なんつうか」
 先を歩いているトウヤとハルオミは、少し前から黙している。話を聞いているだろうか。
「怖くなった……っていうか……」
 こちらを覗き込む澄んだ空色に目蓋の影が差したのが、タケヒロは少し痛かった。
 雪ははらはらと舞い続けていたが、重ねて積もるというほどではない。舗道は溶けかけの雪がべしゃべしゃの泥水のようになっている。服はボロだが、靴だけはそれなりに良いものを丁寧に履いてきたから、いまのところ沁みてこない。でも時間の問題か。
 視線を下げて歩いていると、前方を歩いていく両者、隊員服と揃いのごついブーツと、履き潰されたぺらぺらのスニーカーの対比が、嫌でも目に付いた。
 指先を擦り合わせる。黙っていると、そのぶんの時間に取り囲まれてじわじわと押し潰されていきそうだ。
「そ、そんなことより……ハルにいちゃんは跡取りだからポケモンレンジャーにさせられたって言ってたけど、俺がヒビに来てたら、ならなくても済んだってこと?」
「うんにゃ、そうじゃねえ」
 ハルオミが振り返るのに乗じて、トウヤもちらりと視線をくれる。
「俺がポケモンレンジャーになるのは生まれる前から既定路線だ。ホシナ家に生まれた宿命みたいなもんだよ。まあ、頭(かしら)になろうがなるまいが、俺は俺のやりたいことをするし、現に今やりたいことをやってる」
 背中に、ぽん、と手が添えられ、タケヒロは振り向いた。後ろをついてきていたハピナスは、はっぴー、と平和的に鳴きながら、短い両手でポンポンと慰め――あるいは鼓舞を送ってくる。
「お前も、やりたいようにすればいいんだぜ」
 トウヤが目を細めて頷いた。タケヒロも小さく頷き返した。
 ほら、ここだ、と足を止め、ハルオミが顎をやる。
 タケヒロの『実家』は、鉄柵の門に閉ざされた先、広すぎる庭園の向こうに聳える、『豪邸』としか形容できない建物だった。
「さっきも話したが、不倫の隠し子なんか認められるかっつうことで、お前を跡取りにって話はもう大分前に死んでる。今更家を継げなんて言わせねえから心配すんなよ。なんだ、それとも残念か? 遺産はぜぇんぶ俺のもんだぜ」
 軽い調子が裏返しの優しさなのは、分かるのだが。
「若頭がいるかどうかは分かんねえが、母親とは、まあ感動のご対面だな」
 どう見ても、自分の暮らしぶりとは、遥かに縁遠い景色である。
 親との対面。刻々とその時が近づくごとに、タケヒロの戸惑いは深まっていくばかりだった。ヒビに行くことを決心した以上、両親に会うということは、無論考えていた。そうしなければならないとも思っていた。だが到着した日のうちにトントン拍子でここまで来るとは、正直思ってもみなかった。甘ったれとは分かっているが、心の準備ができていない。こんな場所で、不倫して子供を作って捨てた無責任な母親と感動のご対面をして、一体どうなると言うのだろう。でも、これは、自分が望んだことじゃないか。
 いや、本当にそうしたかったのだろうか。
 『感動のご対面』などしたかったのだろうか。
 ハルオミが庭に踏み込もうとしたとき、ちょっといいか、と声をあげたのは、だがタケヒロではなくトウヤだった。
「僕はここで待ってるよ」
 などと言って、ますますタケヒロの尻込みを煽る。なんでよ、と眉をあげる引率者に、「僕じゃなくハルさんが連れてきたことにした方がうまくいくだろ」と、なんだかそれらしいことを言った。そりゃまあな、なんてハルオミも納得しかけている。
 何故トウヤが逃げようとするのか。思わず腕を掴んでいた。
「一緒に来てよ。頼む」
 彼は困った顔をする。でも、と何かを言いかける。タケヒロはそれを許せなかった。巨大な家の形をした、おそるべき悪魔に、トウヤという身寄りなしで立ち向かえる気がしなかったのだ。
 立ち向かう――そう、自分は立ち向かうのだ。
 決して感動のご対面なんかじゃない。
「お前が……お前がいなかったら、俺、こんなとこ来る羽目にならなかったんだぞ」
 結局、タケヒロは、最早思ってもいない言葉を使って、トウヤの弱みを利用した。
「……分かったよ」



 だが――彼の懸念は、果たして現実のものとなったのである。
「帰りなさい!」
 曇天の、静かに雪降る昼下がりに、酷く不似合いなその血相。
「行きなさいよ! 悪魔! 人でなし!」
 ヒステリックな怒号が飛ぶ。顔を見るなり、パニック半ばバケツを引っ掴んで浴びせられた冷や水が、黒髪の先から滴っている。
「帰って! 帰って!」
「落ち着けよカヨさん、話くらいは聞いてくれって」
「坊ちゃん! これは一体どういうことなのっ!?」
 藍地白襟のロングスカートワンピースに白いエプロン。カヨと呼ばれた家政婦らしき初老の女性は、間に入ったハルオミへもなりふり構わず食いかかる。メイド服のようなものに身を包んだチラチーノが怯えた様子で震えていた。大きな玄関の左右には、ミルホッグが一匹ずつ、威風堂々と腕を組んで来訪者を睨んでいた。頭には金の刺繍のあるつば付きの帽子が、ちょこんと行儀よく乗っかっている。
「恥知らずもここまで来ると恐ろしいわ。ヒビに来ただけでも図々しいのに、よくぞまあ抜け抜けとホシナ家の敷居を跨ごうと思えたものですよ」
 濡れた頭を、無言で小さく下げる。
 タケヒロはそれを後ろから見ていた。
 水をかけられたのは、怒られているのは、タケヒロではなく、最初からずっとトウヤだった。
「旦那様はね、ココウというのがどんなに酷い町なのか、ちゃんとご存知でおられたのよ。生きているか死んでいるかも分からない子だもの、連れてこられないなら、こられないでもよかった、だのに」カヨの怒気も舌も燃える視線も『生きているか死んでいるかも分からない子供』の方へは向かなかった、その前に立つ男へばかり向いていた。タケヒロは何故トウヤがこの女に責められているのか最初全く分からなかった。だが段々と知れた。依頼を達成できなかったトウヤの置かれている立場など、タケヒロは自分のことばかりで、考えてみる余裕もなかったのだ。「見つけたと言って、あまつさえヒビに行きたがっているとまで言って、旦那様もシオリさんも期待させておいて……シオリさんがあれからいかに肩身の狭い思いをしたか、ねえ、あなたお分りになって!?」
「申し訳ありませんでした」
 トウヤがまた頭を垂れる。どうしてお前が謝るんだ。タケヒロは叫びたかった。期待を裏切ったと言うのならトウヤより絶対にタケヒロだった。タケヒロは確かに、トウヤへ「ヒビの両親のところに行く」と承諾して、そして土壇場になって、その約束を破ったのだ。
 だが、叫べなかった。彼の背に隠れて、タケヒロは怖気付いているだけだった。何が怖いのか分からない。
 ただ、胸の柔らかいところにふんわりと抱き続けてきた『家族』というものへの想像を、現状はあまりにも絶している。
「でもよカヨさん、こうやって連れてきたじゃねえか。ホラ」
 ハルオミが立てた親指で背後のタケヒロを指した。カヨの目がようやくこちらを向いた。ビクリとした。幾重に折り畳まれた皺の深くに生々しく潜んだ目。宥めをものともしない鋭さを秘め、まるで蛇かなにかのようにも思える。
「シオリさんはね」
 息を吐き、一転、年齢という重みを付加した厳然たる口調で、カヨは続けた。
「お亡くなりになったのよ。この夏に」
 ハルオミはただ目を見開いた。知らなかったのだろう。見開かれたその目の大きいのが、確かに自分に似ている、と、タケヒロはそんな他愛ないことを、まずうっすら考えた。
 それから、静かに呑み込んだ。
 自分の母親が死んだ。この夏に死んだ。裕福な家に仕え、その家の主人と不貞をし、産んだ子を僻地へ捨て、自分は都会に暮らし続けた母親が。カヨの言ったのは思いもよらぬ事実だったが、そのとき、こんなもんか、と思うほど、タケヒロはショックを受けなかった。胸の真ん中に一滴のインクみたいにぽとんと落ちたその黒い染みは、だが、ゆっくりと、着実に、じわりじわりと沁み込んで、タケヒロの心を侵していく。
 死んだのか。
 あの暑かった日のどこかで、あのどこかの瞬間で、『お母さん』という人は、死んだのか。
「本当に可哀想だったわ。助けてやりたかった。シオリさん私にだけはよく話してくれていたのよ。手放したくなどなかったと、慈しんで育ててやりたかったと、今でも息子を愛していると」
 皺だらけの手で顔を覆って咽ぶカヨの絵空事みたいな言葉たちが、いつだか知れないあの夏の一幕を、灼熱に、白く、黒く、焼け落としていく。
「手放さなければならなかった最愛の息子を思いながら、ああ、シオリさんが、シオリさんが、いかに無念だったことか……!」
 トウヤは頭を下げたまま、動かなかった。
 すすり泣く声が、途切れ途切れに聞こえた。庭掃除をしていたらしい前掛けをしたオーロットの二匹が、向こうでひそひそと囁き合っていた。ハルオミは苛立たしげに頭を掻いた。その後ろであのハピナスが、今はデリカシーに欠けているとすら思える能天気な桃色の体に、雨霧のような弔いの気配を、じっとりと纏い漂わせている。
 沈痛な沈黙の中を、雪だけが、揺らぎ視界を流れていく。
 目の前のトウヤがいつまでも動きそうもないのを見、悔恨の双眸を、カヨはすうと冷たくした。
「……まあ……そうね、」
 そのひどくさめざめとした声を、トウヤに向けかけ。
 そして、確かに背後のタケヒロへと、移して、カヨは吐いたのだった。
「路上で盗みを働いて生き延びた溝鼠のような子供など、会わずに逝って、シオリさん正解だったかもしれないわね」
 その露骨な言葉が、タケヒロをひと突きにする前に、
「――あっあの!」
 隣でじっと俯いていたミソラが弾かれたように顔をあげ、それに覆い被さって、
「悪いのは、僕です」
 トウヤが、叫ばないまでも、どきっとするほど響く声で、そう言った。
 様子を伺っていたチラチーノが、ぴょんと驚いて玄関の奥へ逃げていった。
「僕が中途半端なことをしたのが悪いんです。シオリさんも、ご主人も、タケヒロも、あなたも、僕が余計なことをしなければ、誰も不幸にならなかった。本当に惨いことをしました。ですが、タケヒロは」
 頭を下げたまま、空の雑巾を絞るような声で続けるトウヤは、こちらに背ばかり向けていた。彼がどんな顔をしてそんなことを言っているのか、だからタケヒロは見えなかった。
「タケヒロくんは……なりは汚いかもしれませんが、心根はまっすぐ育ちました。ココウで子供たちは盗みをすることでしか生きる術がないんです、でも、今こいつは、盗みからも足を洗って、他の誰にも出来ない立派なやり方で、真っ当に稼いで暮らしています。明るくて、素直で、いつも一生懸命で……仲間思いの、本ッ当に良い奴なんです」
 ミソラがぶんぶんと頷いた。
「わ、私、タケヒロのことが好きです。ココウでタケヒロのことを知ってる人はみんな、タケヒロのことが大好きです」
 驚いてそちらを向くと、空色の目は潤んでいた。トウヤはまだ頭を下げていた。二人とも、タケヒロのために、立ち向かっていた。
 ――なんでだよ。
 もう一度ミソラを見、トウヤを見やって、タケヒロは呆然とする。
 ――なんなんだよ、お前たち。
「僕のしたことは謝ります、ですが……タケヒロのことは……こいつのことだけは……」
 彼が最初に発した、半ば威圧的な声色は、次第次第に萎んでいった。取りすがるような声で続けるトウヤの、深く下げられたままの頭を、カヨは無言で見下ろしていた。
 一瞬、引きかけていた怒りの色は、
「……謝る、って、」
 向かいの声が弱るのと比例して、着実に再燃していった。
「あなた、その薄汚い身なりで?」
 ふ、と研がれた冷笑が浮かぶ。
 トウヤはおそろしくぎこちない動作で頭をあげた。
「なに、その、浮浪人のような汚い服は。あなた前からそうだったわよね。そんな格好で謝罪だなんて言われても、シオリさんに合わせる顔がないじゃない。笑っちゃうわあ。それとも、菓子折りの一つでも持っていらしたのかしら?」
 トウヤは黙り込んだ。
 タケヒロは何も出来ずに見上げていた。
 どく、どく、と、心臓のひとつ鼓動するごとに、この場の空気が血流を巡って、体が錆びついていく。そんな幻想が起こる。逃げ出したい。もうやめよう。言って、彼の腕をもう一度掴みたい。だって、こんなところに。こんな奴がのうのうと勤めている家に。別に住みたくもねえよ、俺。だから謝らなくっていいよ。お母さんも死んでるらしいし。もう関係ねえよ、これで終わりにすればいいんだよ。な。そうだろ。――なぜ言葉は出ていかないのだろう。トウヤやミソラやアズサの前であんなにもべらべらと出ていった言葉は、なぜ今胸の中で、ぐちゃぐちゃにこんがらがった毛玉になって膝を抱えて拗ねてるのだろう。代わりに頭を埋め尽くす言葉がある。なんだよ、こいつ。頭おかしいんじゃねえのか。こんな奴もう相手にすんなよ。くたばっちまえ。化け物め。化け物。化け物。化け物。化け物。化け物。化け物。化け物。化け物! 化け物!! 化け物ッ!!
 ぎゅっ、と、握られて、拳が激しく戦慄いていたことを、ようやく実感した。
 自分より小さな白い掌が、タケヒロの拳を握り込んでいた。
 ミソラはこちらを見なかった。
 口を引き結び、じっと前を見据えていた。
 カヨさん、こいつらは色々事情があって今朝こっちに来たばっかで、服とか手土産とか別にいいだろ、とハルオミが言う。助け舟を出されたのに、そうだと気付けなかった。ミソラがきつく掴んでくれていなければ殴りかかっていたかもしれなかった。ハルオミを訳もなく殴り倒して、それから、トウヤに、こんな奴に頭下げるんじゃねえと、勝手な怒鳴りをあげただろう。だが、どちらにせよ、カヨには言えなかっただろう。何ひとつ文句を言えなかっただろう。きっと、目も見れなかっただろう。
 でも、そうはならなかった。ミソラに制されているタケヒロは、自分の中でぐるぐる回って暴れ狂っている感情の無数のひとつひとつに、次々と火がついて、内側から燃えあがって、身体中が熱くなって、ただそれだけで、突っ立っているだけだった。
 馬鹿みたいだった。
 ほんの一瞬でも、家族というものに、俺も、とくだらない幻想を抱いたことが。
「手土産もないなら」
 カヨは、蛇より一層惨い目をしていた。
 ついと足元を指差した。
「せめて土下座でもなさったら?」
 靴裏の泥と雪解けの混ざった、ぐしゃぐしゃに濡れた足元を。
 カヨさん! とひとつだけ荒げられたハルオミの声は、慌ててトウヤへと舵を切った。おいっ、と制止して伸ばされた手を、乱暴と言えるほどの力で、トウヤは振り払った。膝を折り、膝をつき、両手をついた。眼前で淀みなく行われるのを、タケヒロは止めもしなかった。手が熱い。ミソラの手が熱い。顔が熱い。目の奥が熱い。それでいて、肺に巻きついて締め上げる鎖の雁字搦めにでもなったみたいに、タケヒロの声は、音になっては、ひとつたりとも出ていかなかった。トウヤが一体、どんな顔をしてそれをしたのか、最後まで、タケヒロは見ることさえもできなかった。
 ちらちらと、しつこく雪が舞っていた。
 雲越しの薄日の降り注ぐ庭で、雪解けへ、彼は額をつけた。
 なんでだよ、という思いが、また頭の真ん中を揺らした。
 その光景を見ていると、火照りは、次第にさめていった。腹の底でどろどろと波打っていたものが、そのままの形で固まっていった。一刻、一刻を経るごとに、冷たくなっていく。自分が雪の上に這い蹲っているわけではないのに。





「――ばかだな、どうしてお前が気に病むんだよ。僕は自分の保身のためだけに従順なフリをしたんだぞ」
 帰路。男の身振りも口振りも、実に飄々としたものだった。滅入ってぼうとしているタケヒロに、土下座するのに金が掛かるとでも思ってるのか、殴り蹴りされたんじゃあるまいし、と後ろ歩きしてこちらへおどける。でも、そうする彼の膝のあたりは、泥水を吸って生地の色を変えて、見ているだけでも寒かった。「勝てるなら僕はどんな手も使うんだ」なんて、どこか軽薄ですらある。なんなんですか、勝つって。ミソラが呆れたような諦めたような声で問うた。まったくその通りだとタケヒロも思った。
 土下座をしてみせろと罵倒した張本人は、相手が本当に土下座をすると途端に不味そうな顔をして、ブツブツ言いながら家の奥へと引っ込んでいった。すまん、まさかこんなことになるとは、とハルオミがいらぬ謝罪をして、腹の虫が収まらねえ、俺カヨさんにビシッと言ってくっからよ、と言ってずかずか後を追っていった。ハピナスは気遣うように一人ずつと目を合わせてから、やはりハルオミを追いかけていった。
 三人は元来た道を歩いて帰った。
 この街を、嫌いだと思った。そしてココウが好きだと思った。継ぎ接ぎだらけのトタン屋根。塵溜めに群がる小汚い野良。鬱陶しい客引き。酔っ払いの怒号。半死半生の子供たち。どれをとってもヒビの街並みとは似つかない。俺は、ほんの赤ん坊のときから、ココウのスラムで生きてきた。あの溝鼠だらけの埃臭い町で。ボロの服を着ていても、誰も詰りやしない町で。タケヒロはあの町の溝鼠だったが、なるべく恥ずかしくない格好をしたくて、清潔感には気を遣っていたほうだ。でもそれも、溝鼠同士で比べればそうだ、という話で、所詮自分は溝鼠なのである。
 道中、すれ違うヒビの人たちが、嫌な目で自分たちを見ている気がした。誰にも目を合わせないように、下を向きながらとぼとぼと歩いた。昼飯代わりにトウヤがコロッケを買ってくれた。精肉屋の主人にまじまじと見られるのが恥ずかしかった。それを路上で食べるのが恥ずかしかった。大きくて、温かくて、サクサクホクホクとしていたが、甘くはなかった。ココウの総菜屋の安いコロッケが、無性に懐かしい。あの安いコロッケが食べたかった。溝鼠にお似合いの、あの油臭くて、安くて甘いコロッケが。
 昔、グレンを交えた三人で、あのドラム缶に腰掛けてあのコロッケを食べながら、『家族』と言うもののなんたるかを、トウヤはタケヒロにたびたび聞かせた。タケヒロが『家族』という曖昧なものに甘い幻想を抱いていたのは、そのせいだと言ってもいい。
 なのに、昨日ハガネールの上で、「僕は望まれた子供ではなかった」と、トウヤは自身の生い立ちを打ち明けた。
 昔のトウヤは確かに、いつも嬉しそうに家族の話をしていた。彼の話に登場する両親は確かに彼を愛していた、彼はいつも愛されていた。『手放したくなどなかった、慈しんで育ててやりたかった、最愛の息子を待つ母親』は、語られた物語の中には、本当に存在していたように思う。だが、それも、どうだったのか。所詮は、騙られた『物語』に過ぎなかったのだろうか。
 その母親を喪ったトウヤは、どんな気持ちで、頭を下げていたと言うのか。
「ごめん、トウヤ兄ちゃん」
 何ともなしに謝罪する彼の悪癖が、今はなんとなく分かる気がする。彼は自分の分のコロッケを買わなかった。二人が食べ終わるのを待ちながら、人や獣や車の往来を眺めていた。
「お前もしつこいな、もう謝ってくれるな。今回のことは、僕が悪かったんだから……」いつもの自嘲を垂れかけて、トウヤは一拍口を止めた。言ったことを訂正はしなかったが、少し切り口を変えてきた。「僕のせいだって言うんなら、そうだ、責任を取らないとな」
 責任。
 トウヤに「言うなら責任持てよ」と言ったのは、タケヒロだ。
 言うんじゃなかった。後悔した。噛み砕いたものを、無理矢理喉の奥へ通した。空きっ腹は満たされない。
「責任って……こんなの、どうすりゃいいんだよ」
 纏わりつく倦怠感を声に乗せ、足元へぺっと吐き捨てたのと、――思いもよらぬ、摩訶不思議な出来事が三人の前に現れたのは、ほぼ同時のことだった。
「は、ひっふぁ」
 咀嚼中のもごついた声で、ミソラが言った。
 タケヒロと、それからトウヤは、同時にミソラの横顔を見、それから空色の視線の先を追った。
 そしてトウヤも呟いた。
「ああ、ビッパ……」
 ――腹を引きずって歩いているようなずんぐりむっくりの茶色いポケモンが、まっすぐこちらへやってくる。それも五匹も。それも、五匹、真横に並んで。道幅を最大限に利用していた。何も悪いことを知らなさそうな円らな瞳に、突き出した出っ歯。もちもちぷりぷりとお尻を振りながら、短い四足をちょこまか動かし、まっすぐこちらにやってくる。
 そして、彼らの前で、止まった。
 そして動かなくなった。
 三人はじっと見下ろした。
 五匹はじっと見上げていた。
「……な、なんですかね?」
「リューエルの手先じゃないのか……?」
「んなばかな……」
 あまりに唐突な出来事に、そうでなくても沈んでいた気持ちがなかなか追いつかない。しゃがみこんで、ミソラがコロッケを差し出した。ビッパたちは一斉に鼻を鳴らしはじめた。ふんふんふん。ふんふんふん。
 そして、一斉に歩きはじめたかと思うと、ミソラの前をするりと通り抜けた。
「あれ」「え?」
 そしてトウヤの足元へ整列して、ぐるぐると円を描きはじめた。
 回っている。一心不乱に回っている。トウヤを中心としたそれは謎の儀式のようである。食べかけのコロッケを振って気を引こうとしていたミソラが諦めて立ち上がり、代わりトウヤが腰を下ろして撫でようとする。だがビッパたちはその手も器用にすり抜けた。そして、彼が腰を下ろすのを、待っていたと言わんばかりだった。
 我先にと背後を取り、隊列を乱し押し合いへし合いし、後ろ足ですっくと立ち上がり――男の背へとよじ登りはじめた。
「うお、なんだ、いてて」「ええ……」「何してるんですか……?」
 ビッパがビッパの頭を踏み、ビッパへもつれつきながら、重みで前傾したトウヤの背中をにじにじと登頂していく。肩へしがみつき、足で器用にコートを掴み、あるいは体の向きを逆転させて頭へむっちりお尻を乗せ。最終的には五匹全員、トウヤの首の後ろ側、ちょうどマフラーの結び目のあたりへ、かわるがわる鼻を突っ込みはじめた。
 ……なんだ、この光景は。
 困惑が絶えない。ミソラもタケヒロも呆気にとられて立ち尽くした。ビッパ五匹貼り付けたトウヤが、おーいやめてくれーと鳴く。一匹たりともやめなかった。みな死に物狂いの様相である。結構重いのだろう。舗道へまた膝をつかされているトウヤ。みっちり群がっているビッパ。閉口する子供たち。
「あら? あらら?」
 そこに、ビッパのトレーナーが現れた。
「ビッパちゃんたちが、どうもごめんなさいね。みんなどうしたのかしら?」
 ミソラと同じほどの年頃の女の子だった。手袋に包まれた小さな手を口元に当て、くすくす笑っている。まあ、笑うだろうな。笑っていない自分たちの方がおかしい。なるほど笑えばいいのかと気がついて、タケヒロは愛想笑いをした。ミソラも追って愛想笑いを浮かべた。
 ませた喋り方をする女の子だった。緩くウェーブのかかっている豊かで長い黒髪だ。タータンチェックのカチューシャをつけ、厚手のダッフルコートの下には、たくさんフリルのあしらわれたドレスみたいなスカートを履いている。タイツに包まれた足の先に、上等なブーツ。いかにも『いいとこの育ち』と言った感じ。
 トウヤに貼り付くビッパの一匹を、両手で抱え、剥がそうとする。ビッパはマフラーに前歯を立てて抵抗している。女の子がもたもたするので、ミソラとタケヒロも手伝った。そして三人でもたもたした。ハリを出そうか出すまいかと、左腰のボールの上で、トウヤの左手が泳ぐ。二つしかないホルダーのボールの選ばれていないもう一方が、なんだなんだ楽しそうだぞとカタカタ揺れた。
「ビッパ、あったかい。すごくもちもち」
「かわいいでしょう? うちで飼ってるの。私、自分でお散歩させているのよ」
 異邦人のなりのミソラにもまるで臆することなく、女の子はにこにことしている。
「生まれたときは、こんなにちっちゃかったんだから!」
「そうなんですね。かわいいんだろうなあ」
「ええ。あのね、最初はミルクをあげていたの。私もお世話していたのよ。今は、ポケモンフードと、おやつにミアレから取り寄せたポフレと、たまにワタツミの漁港にあがった」
「あの、早くどけてくれませんかね……」
「なあんか、ヴェルに似てるよな」
 剥がした一匹を目線の高さへ持ち上げながら、タケヒロがぼそりと呟いた。ビーダルの進化前のポケモンだからね、とミソラが知識を披露し、その横で、女の子が両手をぱっと口元にやった。解放されたビッパが、またよじよじと山登りを再開する。
「ヴェル……今、ヴェルっておっしゃった?」
 トウヤはそのあたりで痺れを切らした。自分で頭の後ろへ手を回して、左手で引き剥がすようにして一匹抱き込んだ。暴れるそれを足の間にむんずと挟み、二匹目に着手しようとする。それを見たミソラが自分も両足で挟もうとして反撃にあっている、その傍らで、前歯を剥かれてカッカッと威嚇されているタケヒロへと、女の子はずいと詰め寄った。
「あなたたち、旅の身なりのようだけど、どこからいらしたの?」
「え? えーとココウってとこなんだけど……」
 濃い睫毛に縁取られた大きな両目が、ぱああ、と宝石のように輝いた。
「ファージェロス・ヴェルノ!」
 そして呪文を唱えた。
 タケヒロは無論固まった。
 だが、がばっと振り向いたトウヤ(その拍子に背中から残り二匹が振り落とされた)が、
「ファージェロス・ベチュラシー・アルナス・ヴェルノ!」
 続いて似たような呪文を唱えた。
 その目も宝石とまではいかずとも見開かれていた。
「やっぱり!」
 女の子が、両手を胸の前で組み合わせて歓喜の叫び声をあげる。
「あなたたち、ヴェルおばあちゃまのお知り合いなのね!」
 ――さて、これまた、理解を置いてきぼりにする急展開である。
 彼女が何を言ったのか、瞬間的にはタケヒロはさっぱり分からなかった。「そうです!」とトウヤが立ち上がったときにも、まだ分からなかった。その足の間から、挟まれていたビッパが慌てふためいて逃げ出して、「ということは、このビッパたち、ヴェルの孫……」とミソラが言ったとき、やっと頭が追いついてきた。そもそも、ヴェルに子供がいることすら、タケヒロにとっては初耳である。
「いいえ、孫じゃないの。ヴェルおばあちゃまのひ孫なのよ!」
「ひ孫……!」
 えー! とミソラが叫び声をあげ、トウヤが全力で驚嘆し、道行く人がこちらを見た。タケヒロは驚きつつも、やはり内心では恥ずかしかった。
 だが、トウヤも、ミソラも、ひどく嬉しそうだった。それを見ていると、タケヒロも少しは嬉しくなれた。嬉しくなろうと努めようとした。そうでもしなければ、タケヒロに、この街は少し寒すぎる。
「ひ孫か……すげえな、やるなあヴェルのやつ」
「ひ孫までいるとは知らなかった……」
「びっくりですね、こんなところでヴェルのひ孫に会うなんて」
「私こそ、こんなところでヴェルおばあちゃまのお知り合いに会えてびっくりよ!」
 女の子がぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「本当に嬉しい! あとでおじいさまに教えてあげなくちゃ」
「あっそうか、ビッパたち、きっと匂いを感じてたんですよ。マフラー、ヴェルが持ってきてくれたじゃないですか、一昨日」
「そう、だったな」
 トウヤの興奮気味の声色が、背後から急に引っ張られたかのように勢いを弱めた。そんなことに気付いた自分を、タケヒロは嫌らしいと思う。嬉しくなろうと努めても、目の前にかかっている変な靄が、嫌なこと以外をぼやけさせるのだ。
 マフラーを外して渡してやると、ビッパたちはそれへもみくちゃになっている。ミソラの推理は当たっているらしい。
「ねえ、ヴェルおばあちゃまは元気でいらして?」
 純粋な好奇心を見せる女の子の前で、ほんの刹那、世界中から音が消えたような沈黙が降りた。
 元気ですよ、と、ミソラが真っ先に取り繕った。ココウを離れるまでの数日間は、タケヒロもハギ家で寝泊まりしていた。本当のヴェルは今は寝たきりのようになり、飯もあまり食わなくなっている。けれど、この子にわざわざ伝える必要はないはずだ。トウヤが微笑んだだけで、何も言わなかったのが、やはり、何か引っかかる。
 タケヒロは、じきに笑顔を作るのも難しくなった。
 ヴェルのひ孫に会えた。いいことだ、でも。
 胸の奥が、ざわざわと音を立てている。
 唐突な出来事に振り回されても、沸いたどす黒い感情や、それが冷えて固まったものは、腹の中にまだずっしりと残っていた。
 人間には見向きもしなくなったビッパの背中を撫でながら、ヴェルにも会わせてやりたいですね、きっと喜びますよ、とミソラが何の気なしに言った。五匹のビッパに群がられているヴェルの姿を想像した。愛らしい光景だった。タケヒロもそれを見たいと思った。だが、トウヤは、言葉に詰まる様子を、僅かに見せた。それから、ゆっくりと頷いた。
「ああ、会わせてやりたかったな……」
 その、彼の発言の、ミソラのそれと比較した微妙すぎるニュアンスの差異に。
 タケヒロは気付いてしまった。
 そして、察してしまった。
(ああ)
 ひたりと、心臓を、冷たいものが包み込んだ。
 気分が高揚するのは鈍く、下がるのは、いとも容易かった。
(ヴェルが)
 あの日。
 イズだけではなかったのか。
 芽吹きかけた幸福感は一気に急激に萎びていった。両開きの扉が音も立てずに閉じていき、光は細まり、頭の中は真っ暗になった。昨日、言ったこと、言われたこと、声、顔、感情が、次々頭に鳴り響く。ああ。嫌だ。眩暈がする。逃げ出したい。逃げて耳を塞いで眠りたい。頭をどこかへ打ち付けて、全部忘れてしまいたい。トウヤは、柔らかく目尻を下げ、口元を緩めて黙り込んでいた。安らかな幸福の膜を帯びていた。それはまったく、化け物じみた、嘘みたいな顔だった。その嘘みたいな彼の顔から、気付けば目を逸らしていた。
 闇の中に、一点、ぽつんと灯っている標がある。
 ――アズサ。
 アズサ、と、心の彼女に呼びかける。
 支えてあげてね、って、言ったよな。こいつを支えてあげてねって。
 なあ、アズサ。ごめん、どうしよう。俺、無理だよ。俺、自分の荷物だって、自分で背負いきれねえのに。こいつが何をどんだけ背負ってるのか、俺ぜんぜん分からねえんだ。教えてくれねえんだ。でも、教えてくれないままで、よかったなんて、思っちまった。
 振り向くな。誰も振り向くいてくれるな、と願う。
 ビッパを見つめる三者の後ろで、タケヒロはじっと俯いて堪えた。
 なあ、アズサ。
 俺なんかがさ、何ができるって言うんだよ?





 
 
 <月蝕 TOPへ>
<ノベルTOPへ>