13・僕にできること







「好きよ、王子様」


 ――果たして、その『王子様』にまつわる奇怪極まりない真相を、トウヤは知っているのである。


 瞬間。ひやり吹き込んだ外気と共に網膜を射抜いた眩しさに、思わず目をくらませた。
「――わあ、」
 ミソラの声。瞳も、頬も、実に久々に、子供らしいきらめきを帯びる。駆け出そうとして、ためらった。だが心は貫く冷気をものともせず、既に外へと飛び立っていた。
「これ、雪ですよね? 本当に積もってる……!」
 テレポート便ヒビ支店の重い戸を開けると、雪国とまでは言わないまでも、見事に白銀の世界だった。道がすっぽりと白かった。まだ灯のついている街燈が雪の傘を被っていた。先ほどまでいたキブツの風景からすれば、目に映る何もかもが異質だ。剥き出しの砂利道から雪化粧の舗道へ。トタンや木材の卑しさから、ぴっちり目の噛み合った灰の石材の外壁へ。
「なんだよ、『本当に』積もってるって」
「お、お伽話の世界みたいで」
「お伽話ぃ?」
「すごい、足跡がつく……! 面白い」
 戸口に立ったまま足だけ伸ばし、つま先でチョンチョンと雪面をつついている。その脇からトウヤは首だけ覗かせて、通りの様子を伺った。誰もいなかった。寝惚け眼のヒビ店店主へ丁重に謝罪と口止めをして、子供らの背を押し、内心では恐る恐る、トウヤは外へ歩み出た。
 やはり、リューエルらしい追っ手の姿は、どこにも見当たらない。
 逃げおおせた……のだろうか。
 見渡す。堅牢な石造りの家々の、締め切られた窓の寡黙なことだ。雪面は眩しいが、曇り空はまだ仄暗い。今もちらほらと白の舞うヒビ市街地の早朝は、のちの喧騒を予感させるような、物々しい静けさに満ちている。
 晩のうちに積もったのだろうか、何の足跡もない上へ、段々と調子づきはじめたミソラが乱暴に足踏みを繰り返している。いもしない追っ手にビクビクしているよりも、このくらいの度胸があった方が、人生やりやすいに違いない。だが性には合わないのだった。――開店前の特攻作戦はいささか無鉄砲すぎたと、トウヤは今更に肝を冷やした。
 生体転送の不正を受諾されなければ、一体どうするつもりだったのだ。アズサの機転とも呼べない強引さで命拾いした。だがキブツ支店の店主が転送先をリューエルに吐けば一巻の終わりだ。おそらくアズサがうまく時間稼ぎをしてくれるだろう、その間に、自分は、彼女の呼んでくれた助っ人と合流して、メグミに治療を受けさせてやらねば。リューエル実務部全部隊が現在ヒビにはいないことは、ユキからの通信文で分かっている。だが好ましい状況が長く続いてくれるとは思えない。
 早く動こう。どちらに動くか。左手、道の先に見える大通りは薄ら白く烟っていて、『除雪作業中』の襷をかけたブーバーが数匹、人間の作業員に背を追われながら、遅々とした歩を進めている。あっちは駄目か。右手。ミソラは疲れも見せずはしゃいでいる(むしろ疲れすぎているのかもしれない)。積もった雪を知らないのなら、このあたりの育ちではないと断言できよう。春から秋の入りまで一粒たりとも降らない癖に、ココウにもヒガメにもハシリイにも、砂漠だろうが森だろうが、冬になればドカドカ積もるのがこの辺の特徴的な気候だ。そういえば雨も体験したことのない様子だった、と、トウヤは晩秋のことを思った。雨も降らず、雪すら降らない場所というのは、人間の住める土地なのだろうか。
 いや、待て。そんなことを考えている場合ではない。
 かぶりを振った。ミソラからタケヒロへと視線を移す。とにかくここを離れようと言いたかったが、その顔を見て、言えなかった。また思考が余所へすっ飛んだ。こちらはこちらで、追われる身とは思えない内容で、頭をオーバーヒートさせているらしい。
「つ、つ、つうかさああ……」
 『俺は動揺していませんよ』と言わんばかりに頭の後ろで手を組む仕草が、動揺を露わにしている。への字にしようと努める口がニヤけていた。頬はつやつやの真っ赤っかだった。
「お、おお『王子様』って……俺のこと……だよなあ?」
 チラリ、こちらを見上げる目が、雪などよりよほど眩しい。
『好きよ、王子様』
 ――最後の最後に放り込まれた、マルマインばりの大型爆弾。
 もう一度述べるが、アズサの言う『王子様』のあんまりに残念な正体を、トウヤは知っているのである。
「そうだと思うよ」
 と、ミソラがけろりとして言った。いつの間にリナをボールから出し、雪玉を丸めはじめている。
「タケヒロのことなんじゃない? 似てるって言われてたし、タケヒロ」
「そ、そうだよな? 俺……俺だよなっ!?」
「そうじゃなかったら、全員かな? みんなが王子様だって言ってたし……」
「それも、つまりは俺だよな……!」
 だが、この期に及んで、『正しさ』など何の意味を持つだろうか。当のアズサ本人でさえ、自分の発した言葉の意味を、正しくは理解していないのである。
 こちらに背を向けて隠れつつ、渾身のガッツポーズを決めているタケヒロ。元気そうでなによりだ。このヒビという街がタケヒロにとって重大な意味を持つこと、トウヤはアズサには伝えていた。少年へのエールとしてあえてマルマインを放って去ったと言うのであれば、その大胆な配慮にはほとほと恐れ入るばかりである。
 水を差すまい。僕が黙ってさえいれば、何も起こりやしないのだ。アズサだって永遠に知らない方がいい。黙っていよう。そうしよう。
 隣にしゃがみ、ざっくり両手いっぱいの雪を掻き集め、ぐしゃぐしゃ押し固めたトウヤを、ミソラはきょとんとして見やった。
「アズサは王子様が好き……王子様は俺……つまり、アズサは……俺のことが……!」
 ロマンチストの後頭部に、不細工なデコボコの雪玉が、べしゃっ、とぶち当たった。
 背中に当てるつもりだったのに。左腕の投球練習が必要だ。自分がなぜそんなことをしたのか、トウヤはそのときは分からなかった。後になって考えてみても分かるようで分からない。ミソラにぶつけられたものだと思ってタケヒロは怒ったが、ミソラもリナもそれを否定し、隣の保護者を指差すと、しばらく場に沈黙が降りた。
 それからすぐに開幕した早朝路上の雪合戦は、思わぬ盛りあがりを見せた。やはり皆疲れすぎているのだ。一緒に遊ぼうとボールから出したハリが雪より冷ややかな目で窘めなければ、もう小一時間はそうしていたに違いない。



 ……と、このように、自分は何か、明らかに異常な精神状態にあるのである。
 トウヤは自問自答した。疲れすぎているとはいえ、追われる身であり、命まで落としかけ、あまつさえ保護すべきポケモンをひっつけている状況で、呑気に雪合戦をしようなどと、正常な自分が考えるだろうか。昨日だって、ツーの足に掴まって空を飛ぶなんて企むことすら若干理解に苦しむし、実行に移したとなれば尚更だ。水に落とされてびしょ濡れになったあと、人前で平気で裸を晒し、ハヤテと組み手までしたという事実は、最早自分の所業とは思えない。精神状態に計測器があり、その針が状況に応じて陽と陰とに振れるとして、普段は中央値の左右で小さく揺れるばかりのそれが、今は些細な刺激で端まで一気に振り切れてしまう。原因は分からないが、不気味な状態なのは確かだ。トウヤは人混みは嫌いだが、別に居ても立ってもいられなくなるほど苦手に思った記憶はない。朝のトレーナーショップの、混んでいるでもない店内に於いて、商品という商品を横薙ぎにぶちまけて叫んでその場を逃げ出したくなるような衝動に駆られることなんて、今まで一度たりともなかった。
 いや、人混みが嫌なのではない。狭いのだ。狭い場所に、たくさんの物が所狭しとひしめき合っているこの空間に、酷い不安を覚えている。――助っ人との待ち合わせ時間までの退避場所として、トレーナー向けのグッズショップを選んだのはトウヤ自身だ。ここなら朝早くから開いているうえ旅のトレーナーが頻繁に出入りするし、汚れた格好で入っても怪しまれることはない。が、そうして入店しておいて、数歩もいかないうちに違和感を覚えはじめ、今は一刻も早く出て行きたくてたまらなくなってしまっている。これはどうしたことだろう。
 店内での時間潰しをトウヤが苦行に感じていることに、ミソラもタケヒロも気付いていない。何か安いものを買って出よう、という入店前の言葉に従って、店内をあれこれと物色している。トウヤは背中に嫌な汗をかきながら店内を右往左往した。衣服。進化石。何らかの牙。巨大な林檎。銀色の円盤。籠の中に、おびただしい量のモンスターボールが積まれていた。ボールはみな好き好きの方を向いていた。店内照明を浴びてぬらぬらと輝く赤と白と黒縁が重なって途切れてごちゃごちゃと綯交ぜに織りなす無秩序で出鱈目で意味不明な色彩が、理解できなくて、恐ろしかった。上下と向きとを正しく直して整然と並べてみたい。欲求は頭の裏側を焦がしはじめる。ボールを手に取り、赤い上蓋を上に、開閉スイッチを手前にして、籠へ戻した。次々とそうした。だがキリがなかった。直したボールは、他のボールを手に取ろうと触れた拍子に、下に重なるボールの曲面を転がって傾いて、また元の意味不明な模様の一片に戻ってしまう。肌が粟立つ。あのおびただしいゲンガーの赤。混沌。それでいて神経質な曲線の美。その小ささ。恐ろしいが魅入られていた。訳の分からぬ光景が迫ってきて自分はどんどん小さくなって身ごと魂を吸い寄せられていく錯覚が妙に平衡を狂わせる。それを錯覚だと分かっていた。錯覚を意識の外に追い出すために、ボールを取ったり戻したり、同じことを繰り返すのに、次第に熱中していった。知った声に話し掛けられるまで、自分の行動の異様さに、トウヤはまるで気付かなかった。
「ボール買うの?」
 はっ、と現実に引き戻される。
 まんまるい目でこちらを見上げるタケヒロは、様子を不思議がりはしても、不審とまでは思わなかったようだった。
「これ、どう? 飴なら安いだろ」
 日焼けの裏白の手のひらに、青い包装紙に包まれた大きな飴玉が三つ、ころりとしている。いいな、そうしよう、と上滑りの取り繕いで、トウヤはそれをひったくった。ボール売り場を視界に入れぬよう意識を払わなければ足が行かない。足元を睨みつつレジカウンターへと急いだ。
 若い女性の従業員が提示した支払い金額を聞き、開いた口が塞がらなかった。
「ぼったくりだろ!」
 隣で聞いていたタケヒロが叫ぶ。向こうで餌を見ていたミソラ、近くにいた別の客までもが、何事かと目を向けた。
 店員が示してきたのは、一般的な飴玉なら千個くらいは買えるのではないかというとんでもない金額だった。
「なんでただの飴がそんな値段で売ってんだよ」
「いえ、でもこれただの飴じゃなく、食べさせるだけで強くなるっていう意外とすごい飴なんですよ。カントーなどでは既に製造販売が禁止されている商品なんですけれども……」
「ゴタゴタ言ってんじゃねえっ」「あ、すみません間違えました、ええとこっちで」
 食い下がろうとするタケヒロの襟首を引き、適当な商品と交換する。『不思議な飴』と呼ばれる道具の噂は聞き齧ったことがあった。値札も見ずに持ってきたのかと責任転嫁をしかけたが、そういえばこの捨て子少年、文字も碌々読めないのだ。品探しを頼んだ方に非があるのは明白である。
 代わりに購入する羽目になったのはボールシールだった。ボールに貼ると開放時にエフェクトが出るというオモチャだ。明らかに無駄金を使ってしまった。冷静になって考えれば、消耗した薬の類や、そうでなくても朝飯などを調達するべきだった。逃げるように店を後にしながら、自分という保護者の覚束なさに、トウヤは早速辟易する。子連れの逃亡生活は今始まったばかりだと言うのに。
 店を出る頃には、街並みは既に目覚めつつあった。
「朝早いのに、人が多いですね」
「都会だからな……」
 田舎者の三人を、雑踏と喧騒が歓迎する。
 灰色に統一された石造りの、端的に美しい街並みだった。外装に西洋風の趣向を凝らした建造物が、真っ直ぐに敷かれた舗道の両端にどこまでも行儀よく整列している。その膝元を、上等なコートに身を包んだ人々がぞろぞろと歩き過ぎていく。整備された用水路を従順に流れていく小川のようだ。その流れの淀みであるトウヤは、きょろきょろとせわしないミソラの頭をいつだかのように抑えて歩いた。痣に、金髪に、怪訝の視線をこれでもかと浴びる。憂鬱だ。これは今日に限った話ではなく、この街に来ると、トウヤはいつも「ここに僕の居場所はない」と感じて、勝手に居心地を悪くする。
 ヒビという街は、ココウから見ると北西に位置する。ハシリイから、更に北方へ数十キロの地理だ。港町であるワタツミに隣接しており、砂漠も海も遠くない。歴史あるワタツミの都市機能を移すようにして開発された後進地だが、トウヤの知る限りでは、このあたりで最も都会的な風情を有している街である。
 メインストリートにやってくると、大方の除雪作業は終わっていた。濡れた石畳を苦にするでもなく、大荷物を担がされたバンバドロが、がぽがぽ蹄を鳴らしながら通り過ぎていく。モダンな装いの貴婦人の肩にシュシュプが一匹留まっている。残雪を被った植え込みの根元でフラベベがこぢんまりとして震えている。対して元気いっぱいのエモンガが、電柱から電柱へ、頭上をすいっと滑空していく。ココウではあまりお目にかかれない華やかなポケモンたちの存在も、ここが遠方の地であることを否応なしに感じさせた。
 花に誘われる蝶のようにフラフラ歩くミソラとタケヒロそれぞれの肩を、突然トウヤが引き寄せる。
「何すんだ――」「ぎゃあっ!」
 二人の目の前を、巨大な鉄の塊が、煙を吐き散らしながら行き過ぎた。
「なんだあれ!?」
「サイホーンかな、でもあんな形じゃなかったような」
「人が食われてなかったか」
「ほ、ほんと? ねえ、さっきのポケモン、家の図鑑には載ってませんでしたよね?」
「まあ、ポケモンじゃないからな……」
 赤が点灯している信号機の存在意義も教えてやると、好きに歩いてもいけないのかと、ミソラもタケヒロも素直に驚いた。二人にとって、今日一日は、未知の出来事ばかりだろう。自分も最初に来たときはそうだった。
「ここが……俺の……」
 首を回すタケヒロの口から漏れた声が、ふと痩せ我慢を匂わせる。
 住み慣れた場所を唐突に追われ、傷つき、一昼夜冷風に晒されながら満足に食うことも寝ることもできず、見知らぬ街に放り込まれ。自分の半分かもう少ししか生きていない子供たちにとって、それは、どれほどの苦痛だろうか。今、自分は二人の指針なのだ。精神状態が云々と甘えたことを言う暇はない。リーダーだろうが、と叱られたことを反芻し、漠然とした不安の塊を、漠然とした決意で奥へ押し込んだ。……しっかりしなければ。





 鼠色の壁に、半円形の屋根。その色が臙脂色とくれば、何を模してデザインされた建物であるのかは、トレーナーであれば容易に想像がつく。――その出入り口の上方に『ポケモンセンター』という施設名が据えられているのだから尚更であろう。
「何の店なんだ? ポケモンセンターって」
 アズサの言っていた世話役のポケモンレンジャーとは、この施設の前で落ち合わせることになっている。立派な建造物の多いヒビ市街地の中央部にありながら、大きさでもデザインでも、一際目を引く建物だった。「レンジャーの基地なのか?」タケヒロの問いに、トウヤは首を傾げる。この地区の開発は日進月歩の勢いで進んでおり、来訪するたび、覚えのないスポットに呆けねばならない有様だ。街の全容を把握出来ているとはとても言えない。
「つまり、知らないんですね、ポケモンセンターのこと」
「そもそもヒビに来たのも三年以上ぶりだからな……」
「偉そうに都会人ぶってるくせに、大したことねえじゃねえか」
 今日の行動のどこを取ったら都会人ぶっているように見えるのだろうか。自分より苛烈な田舎者コンプレックスをタケヒロが抱いているらしいことを、そんな発言で推し量る。と、三人は一斉に息を止め、一斉に潜水するかのように、さっと頭を縮こめた。……正真正銘の都会人が『ポケモンセンター』の扉を開けて中へ入っていくのを、植え込みに潜みながら見送る。どこにリューエルがいるとも知れないが、これでは完全に変質者だ。
「でも、どんな人なんでしょうね。ホシナさんって」
 縮こまったままのミソラが何気なく放った名前に、トウヤは目を瞬かせた。
「ホシナ?」
「え、ホシナ……って、言ってたよね、アズサさん」と、タケヒロに目を向けるミソラ。タケヒロは眉をひそめて頷いた。「お前起きてたんじゃなかったのかよあのとき」
「いや、ウトウトしてて……」
 本当にホシナって言ったのか、とトウヤがしつこく確認する。子供たちが同時に頷く。アズサの連れてきた助っ人の名前が、ホシナ? 一体どういうことなんだ。一人混乱するトウヤをよそに、でもさあ、とタケヒロが夢見がちに頬を緩める。
「ホシナちゃんって、かわいい名前だよな」
 あ、なるほど、下の名前か。
「きっとかわいい子なんだろうなー」
「名前がかわいいからって、顔もかわいいとは限らないじゃない」
「でもさあ、アズサもかわいいし、ユキもまあまあかわいかったじゃねえか。その友達のホシナちゃんも、かわいい可能性は高いだろ」
「ばっかみたい」
 ミソラが取り合わないので、タケヒロがこちらに矛先を変えた。
「お前はどっちに賭ける? かわいいか、そうでもないか」
 地に足つかぬ緊張をくだらない話題で紛らわしたい気持ちは、察して余りある。トウヤは渋々妄想してみた。スレンダーで綺麗目のアズサと小動物系の愛らしいユキ、そこに並び立つ三人目の『ホシナちゃん』。
「……まあ……そうだな……」
 ――ふんわりした桃色の、真綿のような女の子だ。癒し系の。ちょっと夢見がちな感じの。柔らかいが、簡単に千切れずしなやかで強い。うん、それがいい。やはり癒しが必要だ。
「かわいいんじゃない、か」
 接近に気付かなかったのは、馬鹿な妄想をしていたからなのだろうか。
 息が詰まる、物理的に。首を絞められていた。真綿で首を絞めると言うが、絞めているのはマフラーだった。背後から斜め上へ引っ張られ、顎の下にめり込んで、ぐんと持っていかれかけ、トウヤはたたらを踏みながら殺される前に立ちあがった。
 掴んでいたマフラーを、さも汚物にするように払う。
 見慣れた真っ赤な隊員服に身を包んだ若者だった。身長はそう高くない。トウヤからなら見下ろす角度だ。コシのある黒髪。瑞々しい肌。整った綺麗な面立ち。密度の高い睫毛の下に、やや伏せがちな大きな瞳。……正直に言おう。
 『ホシナちゃん』は、まったくもって、ひとつもかわいくもなんともなかった。
「金髪碧眼、頬に痣……」
 眼下のミソラ、仰ぐトウヤとを、舐め回すように見やる。アズサやユキに引けを取らない文句なしの美人でいて、なんとまあふてぶてしい顔なのだろう。癒し系ではない。夢見がちでも更々ない。『強い』だけしか合ってない。強いて言えば、後ろに侍らせている従者らしき物体は、ふんわりした桃色だった。惜しかった。誰かに似てるな、と、一瞬、トウヤの頭に閃きが過ぎりかけた。だがそれを精査できるだけのスペースは脳に微塵も余らなかった。
「……てめえが『ワカミヤ トウヤ』だな?」
 目の前のレンジャーは、どこからどう見ても、『男』に他ならないのである。
「は、はい……」
 こんな助っ人推参があろうか。全身の穴という穴から放つ高圧的なオーラというのは、『プレッシャー』という特性で表すのもまだぬるい。明らかに『敵愾心』、それも露骨な、明け透けの、と言うよりはもう見せびらかすと言う方が正しい程度に見え見えの。いっそ殺気じみている。理解の追いつかない状況に思わずハリへと手を伸ばした。だがそこにハリはいなかった。あ、左だ、左だ。いつになったら慣れるのだろう。
 だが、左手がボールを掴むには、残念ながら至らなかった。
 こちらの顔を睨んだままあからさまにも程がある舌打ちを披露し、『ホシナちゃん』は、一歩、大きく右足を踏み出した。美麗な顔面に引くほどの憎悪を刻み込んでいた。たじろぎ、たじろぐだけで、迫りくる危機を、トウヤはなす術もなく一部始終見届けた。二歩目の膝が、素早く振り上げられた。レンジャースーツの膝頭は、まっすぐ、したたかに、無情なまでに、己の、右足と左足の間へと



「――――ッ……!」
 声にならない声をあげてその場に崩れ落ちたトウヤを見、茂みに隠れかけた体勢のまま、ミソラは自身の臓器がひゅっと縮こまるような感じを覚えた。蹲って股間を抑えて悶絶している男を、ハンと鼻息を鳴らして、侮蔑で見下ろす膝蹴りレンジャー。なんだこれは。意味が分からない。出会い頭の光景としてあまりにも不適切すぎる。
 膝蹴りレンジャーの背後に控える超巨大タマゴ型の薄桃色の物体が、はっぴー、と人間みたいな発音で鳴いた。この状況の何をどう捉えたらハッピーと形容できるのだろうか。
「てめえよおそのだらしねえツラでよくもまあ俺たちの大事な大事なアズにゃんをたぶらかしてくれたな、ああん?」
 レンジャーと言うよりはチンピラだ。ミソラにも、隣で我が身を抱いて青ざめているタケヒロも、言う意味がよく分からなかった。だが当人には分かったようだった。「そ、それは……」と蹲ったまま弁明しようとする声は、嘴に挟まれた状態から命乞いを試みる芋虫みたいな声だった。
「当事者の間で解決済みなんです……」
「いいか二度と阿呆なことを考えんじゃねえぞ身の程知らずが。次は使えねえようにしてやっからな、それ」
 後ろ結びにしているマフラーをむんずと掴み、もう一度引っ張り上げた。「ぐえっ」と漫画みたいな声があがった。真っ赤にしているトウヤの泣きっ面へ、ぐいと、彼は怒気に満ち満ちた顔を寄せた。
「言え、アズのどこに惚れたんだ」
「は?」
「俺はな」
 突飛すぎる問いに、一秒たりとも返事を待たない。に、と口の端を上げ白い歯が見えると、怖いその顔が俄かに少年らしさを帯びて、あれ、誰かに似てるな、と、ミソラも一瞬考えた。
「才能に惚れたんだ。あいつの、才能のすべてに惚れたんだよ」
 ミソラたちの大好きな彼女を賞賛する、自信たっぷりな彼の笑顔。
 あ、悪い人ではなさそうだ。アズサを語る途端の豹変ぶりに、ミソラはちょっと安心した。掴み上げられているトウヤも、苦悶の表情をちょっと緩めた。タケヒロだけは、両腕で自身を抱きしめたまま、まだちょっと何が何だかという顔をしていた。
 『保科 晴臣(ホシナ ハルオミ)』。それが、この膝蹴りレンジャー、あるいはチンピラの名前である。





 ポケモンセンターというのは、ポケモンの医療研究機関なのだそうだ。バトルで傷ついたポケモンや病気のポケモンが運び込まれ、ポケモン専門の医師や看護師が二十四時間駐在して最先端の治療を行う。ポケモンバトルを奨励している遠く海の向こうの地方では既に各街に建てられつつあり、トレーナー免許を持つものなら誰でも無料で治療を受けられる制度も検討されている、らしい。
「んでこれが、ポケセンの肝になる装置。お前らにも分かるように言ってやりゃ、『ポケモン専用超ハイテク高速回復マシーン』だ」
 トウヤから受け取ったメグミのボールを、ハルオミがその何とやらにセットする。渾名は陳腐だが、容姿はかなり大仰な機械だった。トウヤの背丈ですら見上げねばならない全貌は、天井まで到達している。
 ごうんごうんと起動音を立てはじめた機械の奥へ、ちっぽけなボールが呑み込まれていく。そのあとは何も見えない。
「ポケモンの自然治癒力ってのは人間よりも抜群に高い、『自己再生』中のポケモンから発見された特殊な波長を再現してその治癒力を一時的に向上させるっつう装置だ。将来的にはもっと小型化して、センターのエントランスでボールを受け取ったらその場で回復できるシステムを作りたい。それも六匹同時に、一瞬で、だ」
 ミソラにはあまり理解できなかったが、とんちんかんに口を挟んではいけない気がした。低い起動音を唸らせている機械の周りでは、白衣を着た大人たちが、みな真面目な顔をして忙しそうに働いている。
 分かっているのかいないのか、それは、凄いな、と呟いたトウヤは、ボールが向かっていった先を不安げに覗き込んでいる。と、屈んだ彼の頭の上で、ブン、と低い音が鳴った。
 画質の荒い液晶に、無機質な空間が映し出された。その真ん中にいる赤と白のドラゴンは、外傷らしき外傷は見当たらないものの、正気なくぐったりと横たわっている。
「メグミ」
 トウヤが液晶に触れた。無論本物には届かなかった。「話には聞いてたが、こりゃ確かに酷いな」と、別のモニターに映った文字の羅列を睨みながら、ハルオミが険しい顔で鼻を摘まむ。
「『癒しの願い』を十回も連続使用したらしいな。んな馬鹿げた自己犠牲を働くポケモンは見たことも聞いたこともねえ」
「メグミはどのくらいで回復しますか」
「手持ちをここまで追い詰めといて、回復すると決めつけてんじゃねえよ。ポケモンは確かに頑丈だ、だが死ぬときは死ぬんだぞ」
 ぴくりとも動かないメグミの姿を、トウヤは食い入るように見つめていた。一度失い、犠牲を払って与えられた右手が、液晶の上で、音なく握り込まれていた。
 そんなことを、この人に言ってやらないでくれと、ミソラは何故か庇いたくなる。ポケモンも死ぬ。この人はちゃんと知っている。彼の姉の手持ちのアチャモを、子供の頃に、彼は出来心で殺してしまった。
「ま、普通のポケモンなら十日くらいはかかるかも知れねえな。俺も準伝説級のポケモンを診るのは初めてだ、どうなるか分からん」
「よろしく、お願いします」
 トウヤが頭を下げる。ミソラが慌ててそれに続き、それらを見て、タケヒロもつられるように低頭した。「いいよ、そういうの。鬱陶しんだよ」唾を吐くように言い捨ててから、何を思うか、三つの頭をしげしげと見つめる。そしてワントーン下げて続けた。
「まあ、アズ……サダモリの頼みだからよ。悪いようにはしねえって」
 続いた声が、優しかった。
 はたとミソラが顔をあげたとき、目の前に残っていたのは、薄桃色だけだった。はっぴー、と平和そのものな鳴き声を奏で、肯定的な笑顔のままでハピナスは三人に道を譲る。ハルオミは背を向けていた。歩き去ろうとしていた。「ハルさん、昨日話していたウツボットのデータなんだけど」と近づいてきた研究員を「後にしてくれ」と遮りつつ、突っ立ったままの三人へ顔を戻す。そのときには既にイライラした元の彼だった。
「早く来い。ラティアスが回復するまでの隠れ家をわざわざ用意してやってんだ」
「助かります」
 メグミの映像をもう一度だけ見て、トウヤが歩きはじめる。ミソラもタケヒロもせっつかれるように早足で追った。ぽっぽっと不思議な足音を立ててハピナスが後を続いてきた。離れていく装置の付近で、これがラティアスか、面白そうだ、と知らない声がいくつか聞こえた。
 それ以上特に説明もないまま、どこかに連れていかれていく。
「なんか、あいつ……偉そうだよな」
 友人のぼやき。悪い人じゃないよ。小声で返した。でもさ、とタケヒロは顎をやる。先を歩くハルオミに、そのやや後ろをついていくトウヤ。年長者であろうトウヤを低姿勢にさせているのが気に食わないのか、トウヤが低姿勢にしているのが気に食わないのか。気持ちは分からないでもなかった。
 円形の屋根に併設する別の建物に入った。道中、ハルさん、ハルさん、と、多くの人が気さくにハルオミに声を掛けた。どうやら顔が利くらしい。今忙しいとあしらう主人が通りすぎたあと、ハピナスがぺこぺこと会釈をしている。
「……それで、ユニオンにはこの話は」
「そこはユキがうまくやってる。いまんとこポケモンセンターは中立的な組織だ。回復してやるついでにユニオンに引き渡そうなんてことは考えてねえから心配すんな」
「ハルさん……は、」何度も耳にした呼び名を自然と口にしてしまい、トウヤは言葉を切った。そのまま続けた。「ヒビの駐在さんなのかな」
「いんや、ユニオンの衛生部ってとこに所属してる。今後ポケモンセンターとレンジャーで連携を取って活動していこうってことで、出向じゃねえが、橋渡し的な仕事をしてんだ」
「凄いな、若いのに」
「面倒なだけだよ、ヒビとユニオンを行ったり来たりさせられてさあ。駐在のサダモリが羨ましんだわ、あいつのが絶対ユニオン勤務向いてるっつうのに」ハルオミは顔をしかめている。謙遜ではなく、実に飾り気のない文句だった。「今回も仕事でこっちに来させられてる間に、あんたたちの話が舞い込んできたってわけだ」
「君がいてくれて僕たちは助かったよ」
「礼ならサダモリに言えよ。俺は使いっ走りだから余計な世話は焼かないぜ」
「ああ、感謝してる」
 な、とトウヤが振り向いた。ミソラとタケヒロが頷くのは借りてきた猫のようである。
「しかし、しばらく来ない間に、こんな大きな建物が出来ていたとは」
「二年前に建ったばっかだ。誘致するのにもだいぶん時間が掛かってるが、まだまだこれからってところだな」
「やっぱり、ヒビなら、ポケモン好きで有名なあの資産家が、一枚噛んでいたりするのか」
 ハルオミははたと言葉を止め、涼しい目でトウヤを見やった。
「一枚どころじゃねえぜ」
「そうなのか」
「なんせ相当の金が動いてるからな」
「それとレンジャーとの橋渡し役に、君みたいな若いのが、あえて抜擢されたんだ」
「なんだ、知ってんのかよ。サダモリに聞いたか?」
 話の潮流が急に変わって、子供二人はきょとんとした。目を据わらせるハルオミと対照的に、トウヤは苦笑いを浮かべている。
「いや、あの子には聞いてないよ。悪い、でも、ほら、苗字が」
「別に知りたきゃ教えてやるよ」
 機嫌の悪い声で、捲し立てるようにハルオミは語った。
「ヒビを実質支配してるホシナ組の跡取りとは俺のことだぜ。組でこの地方のポケモンセンター絡みの利権を牛耳る下準備として、ユニオンとのコネを作るためにポケモンレンジャーにさせられたんだ。まあ、俺は残念ながら本家じゃなくて、分家の人間なんだけどな。現在の代表にあたるジジイの次男の長男だ」
 べらべらと投げやりな早口は、ミソラの耳にも、タケヒロの耳にも右から左に抜けるだけで、ほとんど爪痕を残さなかった。『跡取り』という単語が、偉そうじゃなくて、この人本当に偉いんだな、というぼんやりしたイメージを、なんとなく植えつけていっただけだった。だが、トウヤにはその限りではなかったようだ。次男の長男。繰り返して、思考する。それから、顔をあげ、
「驚いたな……」
 と、若干声を明るくした。
 立ち止まる。急に立ち止まったので、背後をついてきたハピナスの腹が、ぽよんとミソラの背に当たった。石鹸のような良い匂いがした。狭い階段を何階分かのぼったあとの、無機質な廊下でのことだった。怪訝としているハルオミの顔と、ぽかんとしているミソラの――いや、タケヒロの顔とを、トウヤは一遍見比べる。どおりで誰かに似てると思った、と、ひとりごちてから、彼は今度こそ、タケヒロの前で視線を止めた。
「タケヒロ――」
 少し勿体ぶってから、とても突拍子も無いことを、彼は口にしたのだった。

「ハルさん、お前の『いとこ』だとさ」






 
 
 <月蝕 TOPへ>
<ノベルTOPへ>