10

 黎明に、四人は向かい合わせて立っている。

「チーム名決めませんか?」
「は?」
 突拍子もないミソラの提案に、トウヤが即座に顔をしかめる。これか、あるいは逆のパターンというのが、一昼夜四人で過ごしてみてのハギ家元師弟の定番だ。ミソラはトウヤに対して嫌な遠慮をしなくなり、逆にトウヤはミソラに対して、嫌に子供っぽくなった。雨降って地固まるとは言うが、仲良くなったとは口が裂けても言えないのに、妙な安定感が生まれつつある。二人の関係性の変遷を、内心で楽しんでいる観衆の二人だ。
「ふざけたことを言うな、こんな時に」
「でも楽しいじゃないですか」
「いいじゃない、私は賛成」
「タケヒロは?」
「え、アズサが賛成なら俺も……」 
「ほらぁ」
 でもどうやって決めるの? というアズサの疑問に、俄かに沈黙が降りてくる。それぞれがそれぞれのモンスターボールに収まっている互いの手持ちたちを思った。名付け親のセンスの存分に発揮されたポケモンの中に、格別イケていると言えるニックネームの者は見当たらない。
「なんか案出せよ」
 膠着を嫌ったタケヒロが顎で促す。「僕が?」トウヤはまた露骨に眉根を寄せた。
「乗り気な奴が決めればいいだろ」
「リーダーだろうが、お前」
「リーダー? 冗談だろ」
 思い出したようにしゃがみこんで靴紐を結び直しはじめる姿は、逃避行動そのものである。「お前なあ」とこちらも露骨な呆れ顔を滲ませながら、タケヒロは背負ったナップサックを重そうに揺すった。
「お前、僕が悪い僕が悪いって、いつも口で言うだけじゃねえか。言うだけなら誰でも出来んだよ、本当にそう思ってんならちゃんと責任取れよな」
 不意を討たれた間抜け面を年少へとあげたトウヤに、「痛いとこ突かれたわね」と茶々を入れるアズサはしたり顔。責任、とおうむ返しに呟いたきり言い返せない最年長者は、一度結んだ靴紐を、ぎゅっぎゅっと固く締め直した。多少時間は掛けたが、比較的綺麗な蝶結びだ。右手を動かしづらい状況に対する順応の早さは、流石の器用貧乏と言ったところか。
 立ち上がり、腰に手を当て目を閉じてそれっぽく思案した男が、いくらも勿体ぶってから、
「『チーム・はぐれもの』」満を持して発表したチーム名を、
「だっさ……」タケヒロが顔面中央を梅干しのようにして全否定し、
「絶対嫌です……」ミソラが綺麗な顔を隙なく整わせたまま却下した。
「文句言うなよ、リーダーの決定だぞ」
「誰もリーダーに全権持たせたとは言ってないわよ」
「ていうかよくもまあそんなダサい名前を堂々と発表できるよな」
「私でももうちょっとまともな名前つけられますよ」
「そこまで言うならミソラが考えろよ」
「えー」
「これはリーダー命令だ」
「リーダーリーダーうるせえなリーダー剥奪するぞ」
「うーん、じゃあ……」
 暫し口元に当てた人差し指を、ミソラはぱっと前へ出す。
「『ココウ組』でどうでしょうか」
 残る三人が一瞬閉口した。安直を通り越した捻りのなさは、いかにもニドリーナを『リナ』と名付けた人間らしい。
「なんか……輩みたいだな」
「お前のも十分ダサいじゃないか」
「チームナンチャラより百倍マシだと思いますけど……」
「じゃ、ココウ組で決定ということで」
 終わりそうもない無駄な議論にアズサが両手を合わせて終止符を打った。そのとき、彼女の顔の後ろから、何かがきらっと目の奥を射貫いて、三人は思わず目を細めた。
 仰ぐ東の地平線。闇と光の境界を跨ぐ美しいグラデーションの彼方から、夜を食い破るかのように、日が鮮烈に迸る。放射状に冴え返る輝きが空と薄雲と大地と木々と北方の町並みと我らとへ、分け隔てなく、固有の色彩を与え直していく。
 タケヒロの泥に汚れた頬の色が。
 アズサの廉潔に燃える服の色が。
 ミソラの天風に棚引く髪の色が。
 トウヤの未だに褪せぬ痣の色が。
 それぞれの胸に、飛び込んだ。本日付で、一度解散だ。チームメイトの顔つきを目の裏にしかと焼き付けると、朝日を浴びる円陣の中央に、掴んだそれぞれのモンスターボールを、突き出し、突き合わせた。
「ココウ組、出陣だ」
 ――新しい一日は、そうして今日も、力強く産声をあげる。



 キブツという小さな町は、荒野に取り残されているという意味でも、ココウと似たような趣の町だ。地理的にもココウから最も近い町であるが、徒歩数日はかかるうえ道も整備されておらず、旅人以外で来訪経験のある者は少ない。『死の閃光』で植生が消し飛んで以来ココウは砂漠のオアシスとして興隆を迎えつつあるが、閃光の影響の届かなかったキブツが恩恵に預かることはなかった。人間目線で言えば、干涸びた死骸の如くに魅力の見出しにくい場所。だが、大方の野生ポケモン目線で言えば、草木の存在するキブツ近郊の方が生息地として好ましいのは言うまでもない。
 耳触りとしては『金属音』と言う他にないが、技名としては『嫌な音』になるのだそうだ。ハガネールの顎の軋みから生み出される、鳴き声とは一線を画す不快極まりない大騒音。木陰で朝を迎えようとしていた野良たちは、たまらず一斉に飛び出した。
「出ました!」
 耳を塞ぎつつミソラが叫ぶ。移動時とは異なる揺れ方をするハガネールの背から見たのは、野生のピジョンの大群だった。二十、三十はいるだろうか。昔ココウ近郊で撃退したようなピジョンの群れがこのあたりを寝床にしているはずだ、というトウヤの推測は見事に的中していた。
「やるじゃん!」
「伊達に放浪してないもんでな」
 止まない大音響の中で軽口を怒鳴りあったアズサとトウヤが、ほぼ同時に、緊張しきった少年の背中をばしんと叩いた。
「さ、出番よ!」「頼んだぞ」
「い、いけっ! ツー!」
 手の中で割れた紅白球より、先駆けの一羽が高らかに発った。
 ハガネールの放つ異音が弱まれど、ピジョンたちの動きは未だ蜂の巣を突いたように慌ただしい。そこへ弾丸よろしく飛び込んでいったツーは、動揺するピジョンたちの視線を攫いつつ素早く周囲を旋回したあと、北東、こちらから見る向かいの方角へと、舵を切って飛翔していく。
 すると、それに糸を引かれるようにして、野良ピジョンたちは次々とツーを追いかけていくではないか。
「ツー……!」
 ハラハラと口をわななかせるタケヒロだが、ボールに呼び戻すようなことはしない。ピジョンたちはツーを敵と認識して追いかけはじめたのではないはずだ。仲間が移動した方向へ追従するという野生の反射行動を利用して、ツーに群れを先導させているに過ぎない。
 実際、ピジョンとして経験の浅いツーが追いつかれることはあっても、突っつき回されるようなことはなかった。群れはツーを群れの一羽と誤認して、その動きを追っているのだ。必死に翼を打ち加速したツーが再度群れの先頭へ躍り出て、暁の明暗の凄絶な空へ大きな半円を描きあげる。三十の鳥影が軌道を追う。軍隊の如く均整のとれた美しい動きで、群れは引き伸ばされ一本の長い隊列となった。その形を崩さぬまま、今度は南西の方角――つまりこちらを目掛けて、まっすぐに突き進んでくる。
 ちりーん! と、アズサの肩で、スズが威力を発揮した。
 光の渦を帯びはじめたディスクを最大出力まで引き上げて、アズサは右腕より撃ち放った。
 ピジョンの翼よりも遥かな速度で、ディスクは空へ突き進む。チリーンの念の助けを受け重力に逆らうディスクの軌道は、空中に巨大な輪を作り上げた。その円心へ向け、ツーは最高スピードで猛進していく。
 まず、先頭のツーが、何の抵抗もなく輪を抜けた。
 続いて飛来した野生のピジョン軍団が――キャプチャ・ラインにより生み出されたサークルの、念の『アシスト』能力による拘束に、次から次へと捕縛された。
 一羽たりとも取り逃がさなかった。見えない巨大な仕掛け網が、輪の内側を通ろうとしたピジョンを尽く掬い上げ、制空を奪う。ミソラが歓声をあげ、トウヤがひとつ手を叩いた。『アシスト』機能から通常のキャプチャシステムへ切り替えたアズサは、自動制御を解除して腕を振った。宙に縫い留められたかのようにばたついているピジョンたちの外周を、キャプチャ・ラインで取り囲んでいく。一周、二周――三周目で、スタイラーの液晶表示が変化した。
 大量の個体情報が一気にモニターを流れていく。滞空するピジョンたちは、今や一羽も暴れることなく、キョトンとこちらを見つめている。
「すごい!」
「やるな、レンジャー」
「伊達にお仕事してないもので」
 アズサが小さく胸を張る。ディスクと共にひらりと戻ってきたツーを、よくやった! と叫びながら、タケヒロは全身で抱きとめた。



 ――リューエル実務部、第四部隊。キブツでの任務を終えた面々に「その場で待機せよ」との指令が下ったのは、昨日の日の出前のことだ。指示元は本部ではなく第一部隊。ココウで遂行された特別作戦のターゲットがキブツ方面に逃亡したのを迎え撃って捕らえよとの仰せだが、翌々日にハンカでの任務を控えている第四部隊としては、移動日もとい休日が潰され傍迷惑な話である。本部を介さない私的な依頼である代わりに、成功した暁には第一部隊長キノシタより破格のポケットマネーが振舞われるという条件でなければ、誰もやる気を起こさなかったに違いない。
「あれが報告にあったハガネールか」
「デカイな」
 情報どおりに現れた要塞のような鋼蛇に、眠い目を擦り擦り隊員たちが立ち上がる。生まれたばかりの朝日を浴びて鈍く輝いているハガネールだが、そのまま町へ突っ込んで破壊の限りを尽くす無茶は流石に犯す気もないようだ。南方より土煙をあげて進行してきたハガネールは、町の手前、数キロに渡る低木林帯に接近したところで、そこに棲むピジョンの群れを脅かし、自分で脅かした鳥ポケモンを嫌がるかのように減速し、右手へとやや進路を取ったあと、少し前から停止している。
 と、ハガネールの尾の付近――東側から、粒のようなものがいくつか離れていくのが見えた。数名の隊員が双眼鏡を手に取る。
「飛んだな」
「ピジョンか? ラティアスか?」
「判別できん、逆光だ」
「何かぶら提げてるな」
「おい、緑色に見えないか」
 ターゲットはノクタスを連れてたろ、と誰かが言い、場が俄かに色めき立った。空から町に入ろうという算段か。空を飛ぶポケモン、地を駆るポケモン、めいめいの移動手段を繰り出して、目に金のマークを映した隊員たちは次々野営地を離れていく。荷の見張り番として残された下っ端だけが、テントの出口に寝そべりながら、暇潰しにスコープを眺め続けていた。雲に朝日が隠される。すると、逃走中にしてはやけにのんびりとした飛行体が、よく視認できた。
「あれは、どう見てもマスキッパだけどな……」
 ピジョンと、大口を開けて提げられて蔓をくねらせているマスキッパという、謎めいた光景がそこにある。
 ピジョンがマスキッパを捕食するなど聞いたことがないが、巣材にでもする気だろうか。ともかく先走った部隊に無線を入れようか、テントの内の荷を取るため目を外した視界の名残に、何かが映り込んだ。男はもう一度外へ向き直り、朝日とは別方向へとスコープを構える。
 ハガネールの、尾ではなく、頭の方角だ。これ見よがしに空に発つのではなく、滑り降りるように、いくつかの影が動いた。森に紛れてこそこそとしている。
 一人で捕らえれば褒賞も独り占め、という小賢しい発想が、男の頭にふと浮かんだ。――地面が突き上げるようにして揺れたのは、ちょうどその時だった。



 マスキッパを囮に仕立て、敵の注意を引いている間にサンドたちの『マグニチュード』で混乱を誘う。新しい友人に依頼した少々物騒な作戦をミソラはかなり案じていたが、馬鹿でもポケモン違いだと気付けるし野良を人質にするメリットも感じないはずだというのはトウヤとアズサ共通の見立てだ。キャプチャの繋ぐ絆の一時性くらいのことは、リューエルも弁えている。洗脳状態から解放(リリース)されれば、野生ポケモンの方もこちらに対する情は無くなる。そう説明されれば一層辛い気もしてくるが、今はまったく、他人のことを心配している場合ではないのだ。
「ありがとう、ハガネール! 元気でな!」
 全身が、明け方の冷風にダイブする。
 鋼の目蓋に覆われた巨大で優しい瞳に向かい大きく手を振るトウヤのようには、やはり手を 離そうと思えない。ミソラの両肩を鷲掴みどんどん速度をあげていくピジョンは、だって、赤の他人なのだ。レジェラとの安心安全な遊覧飛行で喚き散らしていたのを謝りたい。今度こそ醜態を晒さないように、ミソラは歯を食い縛った。
 木々の上にそびえているハガネールの顔はものすごい勢いで遠ざかっていった。植生が密になる地点から、町の目的地までは数キロある。リューエル第四部隊がキブツで待ち伏せているというのはユキの通信文からのタレコミだ。記されていた敵方野営地予想箇所の精度を信じ、マスキッパたちが撹乱してくれるだろう時間を加味しても、徒歩では撒き切れそうにない。四人一斉に移動できるより良い移動手段として、野生ポケモンの翼を借りた。発案者は無論ポケモンレンジャーのアズサだ。
 自己紹介すら終えていない見知らぬピジョンに体を託して、一同は空中を、キブツへ向かって邁進する。
 キャプチャの効いているうちは言うことを聞いてくれるので、ツーが先導する必要もない。先頭を行くアズサの指揮に従って、タケヒロ、ミソラ、しんがりをトウヤが警戒する。早朝の仄暗さに反して一帯を賑やかに感じるのは、四人を掴んで飛んでいる以外にも、手ぶらのピジョンたちが隊列をなして追随してくるからである。
 景色は高速で視界の両脇を流れ去り、上から見たときは広く感じた常緑帯を、あっという間に切り抜けた。
 町並みへ突入する。道幅が広い以外はココウの裏路地と似た景色だった。剥き出しの地面、散乱する塵、継ぎ接ぎのトタン屋根。痩せたエイパムが数匹、驚いた顔をして逃げていった。朝方だからか人影は見えない。
「キャプチャの効力が切れるわ。リリースする」
 アズサが振り向いて叫ぶ。三人が頷いた。
「サン、ニ、イチ――!」
 ぱっ、と肩に掛かっていた圧が消えた。
 一気に重力に引きつけられる。地面が近づく。目は閉じなかった。墜落する先で光が弾け、形を成したガバイトのハヤテが、ミソラを背中で受け止めた。
「走れ!」
 ツーに掴まれているタケヒロは飛び続け、アズサはスズの念力で着地の衝撃を吸収する。慣性に倣う体の速度に足を縺れさせ、思わず右手を突こうとして更にバランスを崩したトウヤは、後から出現したハリに腕を引っ張りあげられて持ち直した。
 ピジョンたちは鋭い鳴き声を幾重にも響かせながら、次第に彩度を増していく朝焼けの空へ飛び立っていく。
 キブツの町を駆ける一行が、地獄の底から捲き上げるような不気味な風を感じたのは、それからすぐのことだった。
 美しい、歌声――に似た、羽音だ。年長者たちはすぐさま刺客を理解した。
「――フライゴン!」
「おいなんか強そうなの来たぞ!?」
 タケヒロが目を見開いて叫ぶ。ハヤテの背から背後を仰ぎ、ミソラはモンスターボールを構えた。マスキッパの茶番では流石に誤魔化しきれなかったか、だが敵手が一体ということは多少は功を奏したらしい。それに、いくら相手がドラゴンとはいえ、こんな町中で派手な技は……と、各々の思考に過ぎりかけた甘い打算は、何もない空に突如湧き出た大小様々の岩石によって、脆くも打ち砕かれることとなる。
「危ない……っ!」「ハリ、『ニードルガード』ッ!」
 当たり前の顔をして生活道に降り注ぐ『岩雪崩』を、薄緑の防御壁が迎え撃つ。
 『嫌な音』とは別種の凄まじさだ。体ごと揺すぶられるような轟音にミソラが目と耳を塞ぐ間に、ハヤテはトウヤの傍へと身を寄せていた。アズサとスズも、ツーとタケヒロも。
 『ニードルガード』の堅固な棘はいくつかの疑似岩石を粉砕して塵と化させたが、技の目的は殺傷ではなかったようだ。背後――つい先ほどまでの進行方向を、岩山が塞いでしまっている。使い手を戦闘不能にしない限り、この障害物は一定時間消えることはない。
 音が止み、防御壁が霧散し、空が見える。菱形の翼を広げた竜は、羽ばたきごとに砂塵を高く巻き上げている。
 背に主人らしき男が乗っていた。スッと長い首をもたげて吸い込んだ息を、フライゴンは号令とともに吹き降ろした。
「モモちゃん、守って!」
 両手を突き出して叫んだミソラを中心に、次は透明の防御壁が展開する。『竜の息吹』か、オレンジ色の光線が目の前で見えない壁にぶち当たり、脇へ流れ去っていく。トウヤは息を呑んでミソラを見たが、ミソラはそれに構わなかった。
「このままじゃ埒が明きません」
「お兄さん、どうする? 追手が増えたら厄介よ」
 ハヤテが鼻息荒く主張をする。その背が乗せたままのミソラへも、トウヤは一瞥を配った。
「最終進化系のドラゴンと言え多勢に無勢だ。ミソラ、弱点を突けるな」
「はい!」
「よし。ハヤテがサポートする」
「トレーナーを乗せてるのが鬱陶しいわね」
「――ドラゴンか、任せろ!」
 行くぜ、ツー! 『守る』が途絶えた瞬間に、ツーがタケヒロ諸共飛翔した。
 あまりにも咄嗟で、誰もが見届けることしかできなかった。人間をぶら下げた鳥が飛んでくるのに、フライゴンは驚いて空を後退し、だが、威嚇せんとばかり口から漏れた『竜の息吹』のオレンジ光が、
「いけぇっ、『電光石火』あッ!」
 放たれる前に、先手を取れる新技を、繰り出した。
 目にも止まらぬピジョンの早業に、フライゴンは反射的に身を守ろうとした。だがピジョンの狙いが端から自身ではなかったことに、彼が気付けるはずもない。
 フライゴンの頭のだいぶ上を翼が突っ切っていったあと――その鷲爪に掴まれていた人間の子供が、両手両足をばっと開いて、フライゴンに騎乗するトレーナーに抱き着いた。
 電光石火のスピードとタケヒロの全体重をもろに食らったトレーナーは、簡単にフライゴンの背から引き剥がされた。
「タケヒロ!」「バッカが――」「スズちゃん『念力』っ!」
 ツーの足からも振り払われ、抱き合って自由落下していく二名を、スズの念力が受け止める。受け止められながらタケヒロは叫ぶ。
「ツー、『竜巻』だ!」
 一瞬呆気にとられていたトウヤの集中が、叩かれたように戻ってきた。『竜巻』が飛行ではなくドラゴンの技で、同じドラゴンタイプによく効くのだと、昨日タケヒロに講釈したのはトウヤだ。
「ハヤテ!」
 ハヤテの背からミソラが飛び降り、代わりにボールから解放されたリナがしがみつく。一歩、二歩助走をつけ、ハヤテは雄叫びをあげ跳躍した。
 小さな『竜巻』の渦にぶつけられたフライゴンに、そこまでのダメージは通らなかった。だが、空を移動するポケモンを一瞬怯ませたというだけで、十分すぎる功績だ。
 並々ならぬ若竜の脚力が、砂漠の精霊の高度を捉える。鼻先に移動したニドリーナが、かぱり口を開け、喉奥から青いギラつきを迸らせた。
「『冷凍ビーム』ッ!」
 甲高いミソラの指示と同時に、光線は矢のように、フライゴンの中心を射貫く。
 みしみしと凍り付いていく体躯へ、一発、二発と、駄目押しの『ダブルチョップ』が炸裂した。制空を失ったフライゴンがどしゃんと地面へ落下する。背後を埋め尽くしていた岩山が幻の如くに消え失せた。
 縺れ合っていたリューエル隊員の腕へがぶりと噛みついて振りほどかせ、タケヒロが絶叫しながら転がるように戻ってくる。血相を変えた男が次のボールを手に取ったとき、タケヒロを背後へ逃がしたトウヤが、脇に立つハリとともに、敵を返り討ちに――
「『ミサイル針』」
 ――しなかった。冷酷無比な狙撃手は敵の手中のモンスターボールへ、ついでに腰にひっついている残り三つのボールへと正確に針を命中させ、四方八方へと弾き飛ばした。
「『わたほうし』だ」
「吹き飛ばせ!」
 気合の入りすぎたハリの綿が、岩山と同等の質量ほどに膨れ上がっていく。それを波とばかり押しやった風に振り向けば、「ほら行くぜ!」と少年は拳を突きあげ、相棒と共に目的の方角へと走りはじめた。
 頼もしすぎるのも困ったものだ。ハリの仏頂面と苦笑を合わせ、綿の海の向こうに消えた追手の来ないのを確認しつつ、トウヤも後を追っていった。



 ――ドン! と、『営業終了』の札の扉を、容赦なくアズサがぶん殴る。
「開けなさい!」
 何時だろう。少なく見積もっても開店まで三時間以上はあるはずだ。迷惑千万なレンジャーの奇行を見守っているのがオニスズメやヤトウモリだけで助かった。
「いるんでしょ、分かってるのよ! 早く開けなさい! さもないと念力で鍵ごと破壊するわよ!」
「てめぇ何時だと思ってるんだ!」
 寝癖に寝間着の店主が怒号をあげながら戸を開けると、待ち構えていたガバイトに、あれよあれよと屋内へ押し切られた。
 突然のドラゴン登場にひいぃと尻もちをつく間にも、あとからあとから、人とポケモンが雪崩れ込んでくる。最後の一人が戸を閉め鍵を掛ける間に、ずかずかとやってきた脅迫主が、右前腕のキャプチャ・スタイラーを示した。
「ポケモンレンジャーです。ココウ駐在所のサダモリと言います」
 液晶に表示された免許証へ店主が鼻先を寄せるが早いか、その右手で、女はびしりと『荷物』を指す。
「この人たちをヒビへ転送してください」
「はあ?」
 店主は零れ落ちるほど目を丸めた。そのときにはアズサ以外の全員がポケモンをボールへしまっていた。トウヤ、ミソラ、タケヒロの三人が、固唾を呑んで話の行方を見守っている。
 ――テレポート便、キブツ支店。調教したケーシィの『テレポート』を利用して、物資を別支店へ瞬間輸送するサービスを営んでいる店だ。
「人間に限らず生き物は送れない決まりだよ、転送事故の危険があるから緊急時以外の人間のテレポートは商売でなくとも規制されてる。レンジャーなら知ってるだろ」
 へたり込んだままの男が至極まともなことを言っても、アズサは取り付く島もない。
「緊急時ですのでご協力願います、責任は私が取りますので」
「いやあ、でもな嬢ちゃ」「早く!」
 奥には、薄暗くて殺風景な小部屋がひとつ構えられていた。ガラス越しに窺える別室で、生白いようなケーシィが一匹、うつらうつらと船を漕いでいる。
 ボールも、荷物も、持っていくべきものはちゃんと身に着けている。あとは転送されるのを待つだけだ。ここまでの出来事による高揚と、場の異様さがないまぜになり、ミソラとタケヒロは『保護者』へと無意識に身を寄せた。ブースの外ではアズサが、まだ店主と問答している。どうなってもうちは知らんぞ! それで結構!
「さあ、行くわよ。覚悟はいい?」
 顔を出したアズサが、冗談めかして問うた。覚悟も何も、この期に及んで出来ることは何もない。けれど、男三人の胸には確かに、そこで決めるべき覚悟が、ひとつ存在するのだった。――アズサがいなくなるという覚悟だ。
「なあ、また会えるんだよな?」
「私たちのこと忘れないでくださいね」
「本当にありがとう」
 零した一言ずつを、アズサは笑った。今生の別れじゃないんだから、とひらひら手を振る淡白な彼女の振る舞いが、むしろ寂しさを増長させた。
「ほら、笑ってよ」
 黙り込む三人に向かって、彼女はいたずらに笑いながら、最後にこんなことを言うのだ。
「笑った顔の方が好きだって言ったでしょ?」
 タケヒロが、下唇を噛み締めたまま、変に歪めたような笑顔を作った。
 足元が、ふと光に包まれた。ケーシィが目を閉じたまま浮き上がる。目の前をふわふわと飛び交いはじめた緑色の光が、急激に濃度を増していく。光の向こうに、奪われるように、アズサは見えなくなっていく。トウヤの服と、タケヒロの服を、ぎゅうとミソラは掴んでいた。タケヒロの手が掴み返し、抱き寄せるように、背中にトウヤの手が回る。光の奔流に気持ちを押し流されないために、触れる二人分の感触に必死にしがみついていた。
 視界がなくなり、何も分からなくなりかける寸前。
 最後の最後のその声は、耳の中に、飴玉みたいにころりと転がり込んで、溶けた。


「好きよ、王子様」




















 ――さて、テレポート便店主のモーニングコールにはスヌーズ機能が付いていたようだ。ドンドン、とまたしても扉をぶん殴られ、開けないと鍵を云々、と聞いたようなことをどやしているのは、どうやら先程のフライゴンの主人らしい。他の隊員は不在であろうことを壁越しの『波動』に感知して、アズサは肩に留まっているスズを撫でた。始末書前の最後の仕事だ。
「オイッ! どこへ逃げッ」
 鍵を回した途端に怒鳴り込んできた男の腹へ、アズサは半身の姿勢から、ミドルキックを叩き込んだ。
 ごっふと唾を吐いて転がり伏した大の大人と、二十歳にも満たないような風貌のうら若い女を見比べて、店主が目を白黒させる。外では男の手持ちと思しき数匹のポケモンたちが、委縮――というよりは、チリーンの念が軽く行動を縛っているのだが――するだけで、まったく無抵抗だった。
「あなた……」
 詰め寄りながら、腹の底に力を込める。
「こんな町のど真ん中で、岩雪崩、竜の息吹……一般市民に被害を出すこと前提なの? リューエルってそんなに野蛮な組織なんですね」
 男は顔を顰めて立ちあがる。
 彼の全身を、血潮のように巡っている波動を見れば、その短絡的な思考回路など、アズサには一目瞭然だ。
 ――女ひとり。所詮子供だ。どうせ誰も見ていやしいない。簡単に切り抜けられる。なるほど、舐められたものだ。だが、女でも、子供でも、化粧などなくても、今は、誰にも屈しないという根拠不明の自信がある。
 アズサの黒マントを、朝風が膨らませて威圧を助ける。このマントの内側に隠すようにしてきた赤。一度捨てようとしたレンジャーの資格を、あの町で繋ぎ止められた。顔も、声も、思い出も、ちゃんと手のひらに握っている。髪を切ってやりながらトウヤがした『宿り木の種』の話のことを、アズサはふと思い出した。ハリのはじめた喩え話。知らぬ間に互いに植えつけた種。発芽した宿り木は、使い手がボールに戻っても、寄生の効力を発揮し続ける。あれは、生きようという気のある限り、そう簡単には切れない縁だ。
 なあ、離れていても、君のことを頼りにしてるよ。ミソラも、タケヒロも、きっとそうだ。もし僕らが役立てそうなことがあれば、だから、君も頼りにしてくれたらいい。離れていたって、繋がっている。
「自分が何をしたのか、分かっていらっしゃらないようですが」
 右腕のキャプチャ・スタイラーをかざし、液晶の免許証を提示する。長い尾を揺らすチリーンが、りんりんとけしかけるように笑った。
「恥ずべき歴史から生まれた相互不可侵の不文律を知らないとは言わせない。レンジャーの隊員服を着ていると知りながらあなた私を攻撃したわね。ただの田舎の駐在員と思った? 残念、私はレンジャーユニオン幹部、教育長官サダモリエイジの一人娘よ」
 高揚感に似た、もっと確かなエネルギーが、全身に熱く漲っている。
 嫌っていた波動の目も、頼りたくない親の名も。
 大事な友達を守るためなら、なんだって、今は力に変えてみせる!
「一体誰の命令で、ユニオン幹部の愛娘に堂々と攻撃を加えたの!? リューエル本部に申し立てられたくないならば、今すぐここを立ち去りなさい!!」
 恫喝の声は、華々しく、世界へ響き渡っていく。
 見上げたその日の朝焼けは、圧巻だった。アズサはあの空を一生忘れないだろう。狂おしいまでの絶景は、荒野へ町へどこまでも満ち、赤く、煌々と、戦う彼女の双眸に、光の剣幕を宿したのだ。





 
 
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