3 透き通った冬の空、その色をそっくり映す金縁の瞳の真ん中を、二対の翼が入り乱れる。 突き刺さんばかりのツーの警戒音は、結果的には杞憂に終わった。しばらく牽制しあったあと、一定距離を置いて旋回しはじめた二羽の姿は、慎重に言葉を交わしているかのようである。やがてピジョンのツーは、その一羽を隣に連れ立って降りてきた。進化したてで種の基準値よりは小さい、けれどポッポ時代の倍ほども大きくなったツーの、その更に倍はあろうかという巨大な翼の持ち主である。 逆光に包まれた威風堂々たる全貌に見惚れられたのは一瞬だけ。羽ばたきと共に襲ってきた思いがけない風圧に、ミソラは危うくハガネールから転げ落ちるところだった。 ぽん、と大きな手が背を支えてくれる。寝床のボールから放り出されているノクタスのハリ。バラバラにしたその寝床をほとんど元に戻しかけていたトウヤも、空からの来訪者に感嘆の息を漏らしている。 「凄いな……ここまでの個体はヒガメでもなかなか見られないぞ」 「当然よ。レンジャーユニオン本部付きのエリートピジョット様ですもの」 あたかも自分のことであるかのように声は得意げだ。着地し、クルルと喉を鳴らしつつ恭しく頭を垂れたピジョットへと、アズサは手早くキャプチャ・ディスクを放った。ライン一周で形式的なキャプチャを完了させ、ディスクを回収して敬礼する。 「ココウ駐在所のサダモリです、ご無沙汰しております。このような僻地まで出動していただき本当にありがとうございます」 「敬語なんだな」 「先輩ですから」 「ユニオンから飛んできたんですか? 遠いんですよね」 「レジェラさんに飛ばせれば朝飯前。ですよね?」 レジェラと呼ばれたピジョットが鳩胸を張った。足元でそれを見上げるツーが、こっそり真似して鳩胸を張った。 右足に括り付けられているアルミの小筒の蓋を外し、丸められた通信文を取り出す。レジェラはポケモンレンジャーの中で『伝書係』と呼ばれる仕事に就いていて、電波の通じづらい荒野や山岳で活動するレンジャーが本部との通信や物資輸送に利用しているのだそうだ。ポケモンレンジャーの飛行移動手段と言えばムクホークが有名だが、人間を伴わない長距離輸送の速度と安全性で言えばピジョットの方が適性があるとのこと。リューエルがココウで特別作戦を展開すると分かった時点で、砂漠地帯への逃走を見越してあらかじめ派遣を要請していたらしい。 アズサが開いた通信文を覗き込んで、トウヤもミソラも目を輝かせた。 「暗号文か」「おお、すごいっ!」 「万が一輸送事故が起こっても、スタイラーに内蔵されているツールを使わないと解読できないというわけ」 「かっこいいな……」 子供じみた感想を素直に述べるトウヤが妙に面白い。待ってて、と笑いながら、アズサはスタイラーを操作し始めた。 ぶあぶあと羽毛を膨らませているツーが、くちばしを懸命に空へ向けしきりにさえずりをあげている。悠然と翼を繕いながらそれに応える先輩鳥のまわりには、ハリやリナも集まってくる。かなり向こうで見張りを続けているハヤテまで、羨ましげに振り向いては首を伸ばしているようだ。素人目にも立派なポケモンは、同じポケモン視点で見れば一層立派に見えるらしい。 すると、その華やかな視界の隅っこ、映り込むそれの身動ぎもしない疎外感が、やはり気になって仕方ない。 「タケヒロ」 少しばかり勇気を出して、ミソラは呼びかけてみた。 膝を抱えて塞ぎ込んでいるタケヒロは動かない。 「すごいよね、ピジョット。ピジョンの進化系なんだよね。ツーも進化したら、こんなに大きくなるってこと……」 言いながら、反応の無さに、どんどん虚しさがこみあげてくる。せっかく嬉しげにしているツーの表情が陰っていることに気が付くと、ミソラは諦めて口を閉ざした。 ――心を許していい人だと、優しい姉のようだと思っていた女が、実ははじめから『仕事』で自分たちと付き合っていた。裏切り者、平たく言うなら、そんな風にも呼ぶことができる。アズサが明かした後、当のトウヤは笑い声をあげた。皮肉や自棄の笑いではなく、友人からの思わぬサプライズを心底喜んでいるような、あるいは仕掛けられていた手品にまるで気づかなかった自分自身に呆れるような、そんな笑い方だった。ミソラもそれを聞いていると、彼女がトウヤに仕掛けたのはエンターテイメントのマジックショーだったのではないろうかという気がしてきていた。でも、あらためて振り返ってみれば、あれは異様な光景にも思われる。 『なんで笑ってんだよ』 あのとき、ミソラたちの背後から、鋭利な刃物のように声は突き刺さった。 タケヒロは、まったく笑ってなどいなかった。巣穴から外を警戒するようにじっとこちらを窺う目は、俯いた顔の影にあって、薄ら冷たく光っていた。 『騙してたってことだろ、ずっと、俺たちのこと』 ミソラはそのとき、タケヒロが何故そんなに薄情なことを言うのか理解できなかった。けれど冷静になってみれば、タケヒロの言っていることももっともだ。タケヒロはアズサのことを誰よりも信用していた、だからこそ、その裏切りに誰よりもショックを受けることができた。それを薄情だなんて、どうして言えようか。 タケヒロに、誰より先にトウヤが振り返る。 『仕事をさせられていたんだよ、タケヒロ。レンジャーは被害者だ』諭すような、言い聞かせるような物言いは、若干高圧的にも思われた。アズサを傷つけたくない、傷つけてくれるなというニュアンスが、その口調に滲んでいた。『命令だからって、付き合いたくもない奴に付き合わされて。その制約の中で、レンジャーは僕らによくしてくれていたじゃないか』 『それだって仕事だったんだろ』 案の定、反抗的な態度。ミソラは不安に思って隣を見上げた。トウヤは、僅かに言い淀んだ。それから次に向けた声は、諭すでも、言い聞かせるでもなく、満杯になった器から自然と溢れたかのようで、ほとんど独り言にも近かった。 『騙してるのも、辛いんだ』 その言葉を、彼は一体、どんな気持ちで零したのだろう。 庇うのかよ、と吐き捨てて、タケヒロはまたすっかり顔を伏せた。言葉を探すアズサに対して、気にしなくていい、とトウヤは言った。 無駄に波風を起こさないためにも、アズサの気持ちを慮った方がいい。でも、トウヤの側にもタケヒロの側にも、ミソラは立つことが出来る。孤立するタケヒロをどうすればいいのだろう。イズがいなくなったタイミングでのアズサの告白は、彼にとっては、酷い追い打ちになってしまった。 「とにかく、メグミちゃんを治療するためにそれなりの医療施設がある街に向かわないといけない。リューエル実務部、特に第一部隊と第七部隊の直近のミッション予定地を避けるとして……」 ミソラが考え事をしている間に、解読が終わったらしい。アズサは若干黙考してから、ミソラもよく知っている街の名前を挙げた。 「ハシリイ……あるいはヒビね」 夏の匂い、水に揺らめく光の気配が、硝煙のように鼻腔によぎる。 「ハシリイに向かうんですか?」 「そうする? ハシリイには頼るあてがあるのよね」 あの町でトウヤが見せていた柔らかな仕草や表情を思うとき、ミソラはほろ苦い気持ちになる。だが、カナミやハヅキ、あそこの人たちの無遠慮なまでの親愛は、傷ついた心身が求める拠り所としては理想的とも思われる。行きたがるだろうな、と踏んだが、予想に反して、トウヤは迷いもしなかった。 「ハシリイは避けてくれ。迷惑は掛けられない」 「じゃあヒビね」 「ヒビか……」 彼はちらりと捨て子を見やる。 「問題がある?」 「いや。でも、かなり遠いな」 「ヒビって、遠いんですか」 「案はあるわ。とりあえず、ハガネールにはキブツに向かってもらう」 言うと、アズサは暗号文を裏返し、小筒に入っていたペンを手に取った。 翼を打つ一陣の風圧ののち、ピジョットの巨大な鳥影が空に舞い上がる。続けてツーも。隊列を組むように追従して飛んでいく二羽だ、指導でもつけているんだろうか。大なり小なりの振動の中、スタイラーと交互に目を移しながら綴られるアズサの文字は、やはりミソラには意味が分からず、空に円を描く彼らの動きを追う以外に、やることもなくなってしまった。 「そういえば、リューエル、追ってきませんよね」 上空を見上げながら、手持無沙汰に問うてみる。 「ハガネールで移動してるのも分かってるでしょうし、居場所もすぐバレそうなのに追ってこないってことは、もうメグミのことは諦めたのでは……」 「楽観視しないことよ」 筆先から目を移さず、アズサは苦笑を浮かべた。 「第一と第七は今日は休養日のはずだけど、明日にはAランクのミッションが組まれているから、そっちに移動しているかもね。テレポートを使っての生体輸送はおおっぴらには出来ないから、どうしても移動に時間は掛かるし」 来るとしたらハンカ側から第四部隊、とアズサが何の気なしに言う。他にも敵がいるのか。ミソラはげんなりした。 「まあ、とりあえず、今は出来ることは何もない、かな」 「そうですか……」 トウヤはハリのボールの改造を完成させて、左腰に移動させたホルダーへと引っ掛け、外す動作を何度か繰り返した。それからリュックサックを引き寄せて、それを頭に敷くようにしてごろりと寝転がってしまった。 大小の翼が、ひらけた空の真ん中を、くるくると楽しそうに回っている。のびやかな光景だ。眩しげに目を細めたトウヤを見ても、その横にぺちゃんと腰を下ろしたハリを見ても、しきりに耳を掻いているリナを見ても、追われて逃げているのだという実感は、次第に和らいでいくばかり。 空を飛ぶ手持ちのことを見やりもせず、友人は、未だ膝の向こうに顔面を隠している。先ほど無視されたことを思うと気掛かりも萎えてしまう。タケヒロの心が今どのくらい痛いのかなんて、ミソラに分かるわけもなかった。 手紙をしたため終えたアズサが、くうっと伸びをする。「何か話す?」と気を遣ってきてくれた。 「あ、じゃあ、ポケモンレンジャーの仕事の話聞きたいです。暗号文みたいなかっこいいの」 「ないわよ、普段は地味な業務ばっかりなんだから」アズサは肩を竦めて見せてから、ひょいと瞳を覗き込んできた。「私はミソラちゃんの話が聞きたいんだけど」 「私の話、ですか」 「色々と思い出したんでしょ?」 思わずトウヤの方を窺う。彼もミソラの蒼穹を見ていた。目が合うと、別に焦るでもなく、からかうように嫌味な含み笑いを寄越して、のんびりと本物の空へ視線を移した。 「……そりゃあ、まあ、はい」 「色々聞いてみたいなあ。どこに住んでたのかとか、どんな暮らしをしてたのかとか……」 てっきりトウヤとの関係性を聞き出されるものだと身構えたので、アズサの質問は予想外だった。 「私はどこかの国の王族の末裔とかなんじゃないかと踏んでるんだけど」 お伽話か、とトウヤが茶々を入れる。「夢見る乙女で悪うございましたね」なんておどけて返すアズサ。話を軽やかに進めようとしてくれているみたいだ。彼女の気持ちに応えられないことが、なんだか申し訳ないような気もした。 「思い出したと言っても、この人を殺さないといけないことを思い出しただけなんです。自分のことは何も……」 「あれ、そうなんだ」 「ご期待に沿えずすみません」 「謝らなくてもいいんだけど、そっか。私こそごめんね。でも残念、『ミソラバリア』の秘密が分かるかと思ったのに」 唐突に命名された技名があまりにもダサいので、ミソラは一人で噴き出した。 が、トウヤは、眉をひそめた。 「ミソラバリア?」 「『守る』みたいな技が使えるのよね」 ざっくりとしたアズサの説明に、トウヤは起き上がる。そういえば、この人には見せたことがないのだった。 みたいな、じゃなくて、『守る』なんですけど。ミソラの返事に、今度はこちらへ目を向ける。お前、知らねえのかよ。背後からのぶっきらぼうな呆れ声はタケヒロで、トウヤはそっちへ振り向いて、タケヒロまで知ってるのか、と声をあげた。いつも一歩手前を行くような彼が一人ついてこないのが愉快なので、ミソラはさっさと話を進めることにした。 「ミソラバリアっていうか、モモちゃんバリアですよ。私じゃなくて、モモちゃんが使うので」 だが、話を進めた瞬間に、ミソラ以外の全員が話についていけなくなった。 「……モモちゃんって誰?」 「アチャモですね」 土色の肩掛け鞄から、その鞄の容量の大部分を占める物体を引っ張り出す。へしゃげた丸みがふっかりと元に戻る。持ち歩いて乱暴にしたりと大事にしているとは言い難いので、肌触りの良い生地にはところどころに汚れがある。頭の三枚の飾り羽は、ミソラがひとつ引きちぎってしまったので今は二枚しかないが、最後の一枚も鞄の底にしまっている。 アチャモドールだ。ミソラのもう一匹の相棒とも言える。 「この子がモモちゃんです」 抱きかかえて紹介すると、場に奇妙な沈黙が流れた。 ……眉間に皺を寄せて凝視するアズサが、生き物の波動ではない、と呟く。ぬいぐるみですからね。言いながらミソラも、この相棒の存在をまったく他者に説明できない自分に気が付いた。困って視線を動かせば、トウヤもまた、強い困惑を露わにした表情で、じっとアチャモドールを見つめている。 「……モモ……」 「このアチャモドールが、『守る』を使うの?」 「いえ、これは、依り代で」 「依り代?」「依り代……」 アズサにもタケヒロにも問い返されて、閉口せざるを得なかった。自分で言っておいて、自分でも初耳だ。 依り代。このアチャモドール、モモちゃんの依り代だったのか。 「このあたりにいます」 言いつつミソラは胸を押さえた。手のひらが示した心臓の動きは、別の小さな生き物が体の内側に息づいているようでもある。膝に乗せているアチャモドール諸共、今までなんでもなかったことが、生恐ろしく思われてくる。 「……いたんですよ、最初はいたんです。でも、今は、いるのかいないのか……あ、頼めば『守る』は使ってくれるんですけど……」 もごもごと口ごもるミソラを、トウヤもハリもアズサもタケヒロも、黙りこくって見つめている。リナだけは相変わらず、あまり興味もなさそうだ。 ピョー、ピョロロロ、というような、のどかな鳴き声が聞こえてくる。大きな岩でも踏み越えたのか、二度三度、尻が跳ねるような振動があった。 「……あの、私、おかしいこと言ってますよね……?」 「今に始まった話じゃねえけどな」 タケヒロの皮肉に反論することが出来ない。 アチャモも『守る』覚えるっけ、とスタイラーに搭載された検索機能をアズサが起動する前に、ハリがゆっくりと首肯した。そもそもアチャモドールはアチャモドールで、アチャモじゃねえだろ。まっとうなタケヒロの指摘。怨念のこもったぬいぐるみから生まれるって記録のあるポケモンがいて、と女は口を継ぐが、ミソラの経緯を鑑みるに、それはそれで、何とも洒落にならない話である。 僕は、モモのことを、何者だと思ってきたのだろう。心に語りかけてくる、技を発して守ってくれる存在を、疑問に思わなかったことすら不気味だ。 「……ミソラ、その……」 長く沈黙していた人がためらいがちに口を開いて、一同はそちらへ目を向けた。 「お前がモモと呼んでいるものは、姉さんとは関係があるのか?」 トウヤは、何だろう、ひどく血の気のうせた顔をしている。 「それは分かりませんけど……記憶を失う前からモモちゃんとは一緒にいたはずです。モモちゃん、私のことを『兄弟』と呼んでいましたから。そうなら、ミヅキちゃんもモモちゃんのことを知っているかもしれません」 というか、モモちゃんのこと馴れ馴れしく呼び捨てしないでくれませんか。ミソラが声を尖らせると、あー……、と言葉を濁らせながら、言うか、言うまいか、とでもせんばかりに、トウヤは視線を泳がせた。それから、すまん、と薄煙のような声で謝る。 「お兄さん、何か気になる?」 「……いや……」 トウヤは額に手をやった。出しかけた言葉を詰める、苦渋の浮いたその表情を、どう捉えればいいのか分からない。だが、単に事を隠そうとしているだけならば、彼はもっと軽快に嘘を吐ける人だ。 この期に及んで、彼がミソラに言い淀むもの。嫌な予感がしてならない。 トウヤがうまく誤魔化して続きを言わなかったので、ミソラはこっそり安堵した。黙っていてくれ、と、胸中で願ってしまった理由が、そのときは釈然としなかった。ただ、騙しているのも辛い、と、彼が先程零した、あの物寂しいような後味が、仄かに蘇るだけだった。 何故だろう、トウヤの横にいるハリは、まるで親の仇でも睨みつけるかのような面持ちで、アチャモドールを見つめている。 * ……死者が蘇っていたとしたら。 まさか。そんな話があるはずがない。だが、話を総括してみれば、どうにも、突拍子もない話なのに、得体の知れない空恐ろしさが付き纏う。だって、突拍子もない、空恐ろしい、非現実的な出来事というのは、本当に起こり得るのだ。今ここにあってはならないはずの自分の右腕が、ほら、きちんと証明している。 だが、それでも、トウヤの事象とそれとの間には、絶対的な隔絶がある。『生体』と『死体』。覆しようのない不可逆の変容。 モモが生体から死体へと変わる、その瞬間に、トウヤは確かに居合わせていた。 群れからはぐれたような雲が、ゆっくりと視界を流れていく。時期外れの青空の中で、太陽はじりじりと天へ昇りつめようとしていた。相変わらず揺れの酷い鋼蛇の背の上でまた仰向けに寝転がり、利かない右手をひさしにして、トウヤは思索に耽っていた。 モモは、死んだ。それは流石に疑いようがない。ミソラの言っている『モモちゃん』というのが赤の他人であるとするなら話は簡単だが、にしては、不気味な一致が多すぎる。アチャモという種。『守る』が使えること。ワカミヤミヅキという人の存在……。 「そっか……辛いわね、好きな人の泣き顔しか思い出せないって」 必死に状況を整理するトウヤの至近距離で姉を語るミソラとアズサ。いっそこちらの思考を掻き回そうとでもしているかのようである。 「辛いですよ。笑顔の似合う人だって分かるのに、その笑顔が思い出せない」 「切ないなあ。私は逆で、笑った顔しか思い出せないんだけど。なんか恵まれてる気がしてきたな」 「アズサさん、好きな人がいるんですか?」 にこ、と笑って、アズサは露骨にはぐらかした。 「ミソラちゃんにとって、ミヅキさんは、本当に大切な人だったのね。ミソラちゃんにとってお兄さんが大切な人であるように」 「大切なんかじゃありませんし比べ物にもなりませんっ!」 ムキになって子供が叫ぶ。確信犯めいて女が笑う。明るい会話で雰囲気を和ませ、ミソラの憂さ晴らしを手伝いつつ、トウヤが聞くに聞けないことを代わりに聞き出してくれているようだ。野外にも関わらず狭所に押しやられた現状に於いて、アズサという存在はいよいよ、女神か何かのようにすら思える。 「はいはい、分かった分かった」 「どういう関係だったのかは思い出せません、でも、すごく素敵な人だったんですよ。それだけは絶対に確実なんです。私にとっては、まさに太陽のような人でしたから……」 太陽。眩い光に手を翳す。力の込もらぬ右手の指の隙間から、それはきらきらと零れ、かと思えば責め立てるように網膜を射貫く。 他人同士がする姉の話に黙って耳を傾けているのは、背中のむず痒いような、その痒みを誰かに撫でられているような、もどかしくて心地よい、不思議な感覚だった。 眩さから目を逸らす。傍らに腰かけているハリは、景色を楽しむでもなく、トーンの高い声がああだこうだと言いあうのを聞くでもなく、目と口とをぽっかりと開けっぱなしにして、どこだか分からない場所にじっと視線を落としている。 姉の話を、モモの話を。あの日から、ハリと、一度でも面と向かって交わしたことがあっただろうか。 その顔を見ていると、次第に決意が固まっていった。やはり、モモのことを、ミソラにきちんと説明するべきだ。きっと何か行き違いを起こしている。トウヤにとってモモのことは、許されるなら墓の下まで持ち込んでしまいたい出来事だった。だが、避けて許される理由など、実は端から存在していない。 長い旅路を共にしてきた案山子草。なかなか顔色を窺わせてくれない彼女が、今、明らかに元気がない。原因は分かっていた。 右手を伸ばし、つんつんとその腿をつついた。ハリがこちらへ向いたのを見てから、ぎこちないリズムで、夜明け前のお返しをする。 『宿り木の種』 ハリは数度瞬いて、その黄色い目を猫のようにすっと細めた。無言で技名を告げられる。 『ニードルガード』 防ぎやがった。 は、とトウヤが短く笑ったので、ミソラがこちらを不審そうに一瞥した。そしてアズサへと力説を戻した。 「私、ミヅキちゃんの笑顔が見たくて、それだけがずっと、自分の使命のように思っていたから……」 左手を腰へと滑らせる。三つ目のボール。コンコンと叩いても、いつものようにテレパシーは戻ってこない。早く目覚めて安心させてくれよ。念じても、やはり反応は無し。 姉のことより、ミソラのことより、自分たちのことよりも、優先すべきはまずメグミのことだ。そこは絶対に履き違えない。 トウヤは今まで、大方のことを理解して動いていたつもりだった。が、『モモちゃん』の話も『ミソラバリア』の話も、アズサの打ち明け話もそうだ、未知の事柄は当然ながらいたるところに散らばっている。目に見えている範囲だけで把握した気になってしまうのは、己の途方も無い甘さの所以だ。メグミを無事にヒビで回復させるためにも、この先火種を産みそうな齟齬は今のうちに潰しておかなくては。 足を軽く上げ反動をつけて、トウヤは勢いよく身を起こした。被り傘に隠れていた双眸が、のろりと持ち上げられてくる。 トウヤは頬を緩めて見せた。心の中で呼びかける。 ハリ、大丈夫だよ。任せておけ。 悪いのはすべて僕なのだから、お前が気に病むことはないんだ。 今、それを皆に話すからな。 「――ねえミソラちゃん、ミヅキさんが、お兄さんを殺して欲しいって」 腹を括ろうとしたところで、耳に突くワードが飛び込んでくる。 「敵討ちをしてほしいって、お兄さんを殺したら笑顔になるって。ミヅキさんが言ったの?」 「言いましたよ!」 「本当に言ったの? それを聞いて、ミソラちゃんは、ミヅキさんのことを『素敵な人』だと、本当に思ったの?」 幼子に言い聞かせるようなアズサの態度に、ギャンギャン吠えていたミソラがうっと怯んだ。肩を縮こませる。しおしおと膝先に落ちていく視線が、なんとも素直だった。 「……思い出せている範囲では、殺してくれとは、ミヅキさんは言ってませんが……」でもきっとそうです、とミソラは髪を振り払うように顔をあげた。「記憶を失う前の私は、そのことしか考えてなかったんですよ。この人を殺して、ミヅキちゃんを笑顔にするって、そのことしか!」 「確証はないんだ。もしミソラちゃんの勘違いだったら、ミヅキさん悲しむかもね、たったひとりの弟を殺されて」 「でも、でも、ミヅキちゃんは、本当にあのとき壊れたみたいに泣いていて」 ミソラは必死に食い下がる。当事者がすぐそこにいるとはまるで思えない口ぶりで。 「許さない、絶対に許さないって……素敵な人だからって、あんなに泣くくらい辛い目に遭わされたら、弟だって殺したくもなりますよ」 それは承知済みだが、ミソラ越しにとはいえ直接突きつけられると、多少は胸も痛む。踏み込みすぎたと思ったのか、ゴメン、と言いたげな視線で、アズサがトウヤを見た。トウヤは首を振った。いつか聞かなければならなかった言葉だ、二人きりで対峙するよりはよほど良いだろう。 だが――飛び出してきた『いつか聞かなければならなかった言葉』は、トウヤにとってみれば、まさに思いもよらない内容だった。 「だって、大切な家族をなくしたんですもん。ご両親がいっぺんに弟に殺されたなんて、そんなの、誰だっておかしくなるに決まってます」 そこからの数分間で。 トウヤは、自身の考えが想像を遥かに凌いで甘く、いかに間抜けな勘違いを犯していたのか、ようやく思い知ることになる。 そもそも、ミソラの放った言葉の違和に、トウヤはすぐには気付かなかった。がばりと立ち上がったのはハリだった。先ほどまで朧月のようになっていた瞳は、今や激突間近の隕石ほどまで見開いている。トウヤはそれをなんだか分からずぽかんと見上げた。ミソラの主張を聞き流しながら、モモのことばかり考えていたのだ。 「ハリ、どうした?」 「なあ、それ、本当なのかよ」 真横から別の声が切り込んでくる。タケヒロだ。驚いたというよりは、知っているけれど到底容認できないという風の、怒りの込められた声だった。三角座りを威勢よくふりほどき、立ち上がって近づいてくる。 「俺、信じられねえよ、こいつがそんなことするなんて」 『こいつ』が明らかに自分を指している。怪訝とした。ミソラの言ったことを、もう一度反芻してみた。『だって、大切な家族をなくしたんですもん』――そう、そうだな。姉さんは大切な家族をなくした。『そんなの、誰だっておかしくなるに決まってます』――僕だってそう思う。何も間違っていない。『ご両親がいっぺんに弟に殺されただなんて』―― 「でも、ミヅキちゃんがそう言ったんだから」 ――ご両親が、弟に、殺されただなんて? 「……?」 その時のトウヤの疑問符は誰も聞かなかった。 「その記憶、正しいのかよ」 「ほんとに言ってたよ、私の父さんと母さんを弟が殺した、って」 「だからそれが正しいって証明できんのかよって」 「証明って言ったって、思い出したのは思い出したんだから――」 ハリがわたわたと腕を振り回し、ぶんぶんと頭を振っている。実に滑稽な動作だった。かわいいな、と視線を取られてしまうばかりに、耳の中に今しがた突っ込まれた、『父さん』『母さん』『弟』『殺した』というそれぞれの単語がめいめいころころ転がって、正しい助詞でなかなか結び付けられない。 「落ち着いて、二人とも」アズサが止めようとしてくれた。が、彼女がまた思わぬことを続けて言った。「私も信じたくないけど……、でも、お兄さんが否定してないってことは、認めてるってことなんでしょ」 認めている? 僕が? なんで? ……ああ、確かに、トウヤは、「ミヅキちゃんの許せない相手はあなただった、だからあなたを殺す」という単純明解な図式で殺意を剥いたミソラに対して、殺されてやりはしなかったものの、その主張自体を否定することはしなかった。別に、それは、消極的な意味で否定しなかったわけではない。理にかなっていたので、正しいと思ったので、否定できなかった、それだけ。 そう、それだけ、のはずなのだが。 「……おい、ミソラ」 タケヒロを睨んでいたミソラが振り返る。 癖で、右手で、その顔を指差した。指先が震えているのは、神経が麻痺しているからだけではない。 「姉さんは、僕が、親を殺したって言ったのか? それで恨んでるって言ってたのか?」 ミソラは綺麗な眉間にあからさまに皺を寄せた。即答。 「今更言い逃れするんですか」 衝撃だった。 だが衝撃があまりに強すぎると、何が起こっているのやら、むしろ咄嗟には理解しがたいものである。 「……いや、いや……待て……待ってくれ」 駄目だ。笑えてくる。相手の神経を逆撫ですると分かっていても歪む唇を堪えきれなかった。ミソラが久々に殺気立ちさえしたのを見たので、どうしようもなくて、トウヤは口を抑えてそれを隠した。 アズサの打ち明け話で衝撃を受けた、ミソラの口から平然と『モモ』の名前が出てきたことにも。だが、たった今受けたこの衝撃は、その遥か上空を突き抜けてなおのこと失速せずそのまま大気圏へ突入するほど、完膚なきまでに、意味不明である。 が、ひとつ、ひとつだけ、納得できることがあることに、不意に気付いた。気付いてしまった。 『あいつもまさか、実の子供に殺されるとは夢にも思っていなかったろうな』 アヤノが父を語った言葉。 ずっと心に絡まっていた。突然ゆるんで、するりとほどけた。 そしてあっさりと腑に落ちた。 「僕か」 ――目を見開く。 炎上しながら突破した大気圏の先に、一点の曇りなき宇宙の無限を目撃したかのような、奇妙な高揚感が脳の芯を貫いた。 「……僕が殺したのか……!」 |