ぼごんっ。
「いでっ」
 いかにも鈍い音を、ハリの剛腕が響かせた。殴られたトウヤは短く鳴き、素早い動きで後頭部を押さえた。

『ご両親がいっぺんに弟に殺されたなんて』
『……僕が殺したのか……!』

 トンチンカンなことを抜かすな。そう紙にしたためて顔に張り付けてあるかの如くである。ハリの発するあからさまな呆れと苛立ちに一同はひとしきり困惑したが、一同を困惑せしめた発端といえば、何もハリの行動がすべてではない。
「……はぁ?」
 随分と遅れて、ミソラが眉間に縦皺を浮き上がらせた。これはもちろんトウヤの発言に対してだ。
「もしかしてすっとぼける気ですか?」
「違うんだ、ちょっと聞いてくれ」
「嫌ですよあなたの言い訳なんか聞くの」
「言い訳というか」
「これ以上見損なう余地ないんですけど……」
「待って待って、どういうこと? お兄さん、心当たりがないの?」
 やはりアズサが仲裁に入った。あるわけないだろ、とトウヤが食い気味に頷くと、ミソラはいよいよ真っ赤な顔をして、
「今までは認めてたじゃないですか!」
 と甲高い声を轟かせた。
「認めてるけど私に殺されるのは嫌だから、あなた、私に散々意地の悪いことして、」
「それはその、そうだったんだが、僕もまさか親の話だとは」
「信じられるわけないでしょうがっ!」
 あんなに怯えていたのにバネが弾むように立ち上がった。やめろって! タケヒロも混乱気味にミソラを抑える。その腕の隙から腕を伸ばして、愛らしい容貌の美少年は鬼の形相で断罪を叫んだ。
「殺したんでしょ!?」
「知るかよ、僕に殺せるはずないだろ……!」
 そう強引に押し付けられると、一瞬前に認めかけていたのも忘れて、トウヤも躍起になりはじめる。
「いいか、よく聞け、僕はな十歳で実家のホウガを離れたんだ、それから親には会ってない、ホウガにも行ってない、一度もだ! 一度も会ってない相手を僕がどうして殺せるって言うんだ」
「だからそのご実家を離れたっていうのがご両親を殺したことが原因になってたんじゃないんですか」
「父さんも母さんも死んだのは四年前だぞ、それまでは生きてたんだ、適当なことを言うんじゃない」
「そっちこそ一度たりとも会ってないのに生きてたなんて適当も適当じゃないですか!」
 声が投げつけ合うたびにタケヒロの顔が左右に振れる。ほとんど罵り合いである。
「じゃあ四年前にぱったり止まった養育費のことをお前説明してみろよ」
「それはだから誰か別の優しい人が可哀想なおばさんのために――」
「誰かって誰だよ、そら言ってみろ」
「卑怯者っ! 殺人鬼っ!」
「おいおいそれで勝ったつもりか?」
「ほらやっぱり否定しないじゃないですか!」
「――うるさい!」
 ぱん! とアズサが両手を叩いた。
 二人ともさっと大人しくなった。
 ミソラとタケヒロとハリとを座らせる、飼い慣らした獣にするかの如き手つき。語気の荒いトウヤのこともひと睨みして牽制しておく。現在のメンバーの最年長はトウヤで、彼女はそれより五つほど下なのだが、それとまったく感じさせない面構えである。
 ふう、と長く溜息をつく。全員の顔をゆっくりと見渡して、一転、落ち着き払って話し始めるアズサの口調は、棘立ったそれぞれの間隙を自然と埋め合わせるかのようだ。
「ミソラちゃん。ミヅキさんに話を聞いた時は、ミヅキさんは相当取り乱していた様子だったのよね?」
「……はい」
「なら、ミソラちゃんがミヅキさんと話をしたのは、ご両親が亡くなった直後の出来事だと考えるのが自然よね。もしお兄さんがホウガにいた頃に亡くなっていたとしたら、それは十二年以上前のことよ。その時、ミソラちゃんは赤ん坊? まだ生まれていないかもしれない」
 整然と語りつつ、アズサはキャプチャ・スタイラーをトントンと示した。
「私はお兄さんをターゲットとしてココウに赴任してきたから、勿論お兄さんの家族についてもそれなりの情報は持ってるわ。レンジャーユニオンで把握している記録だと、ご両親は確かに今から四年くらい前、ホウガの研究施設での事故で亡くなった、とされている」
 ほらな、と言いたげに背筋を伸ばしたトウヤへ、「但し」とアズサは釘を刺す。
「不自然には感じていたわ。実験方法は確かに危険を伴うけどかなり旧式のもので、ホウガでは長らく行われていない内容だった。事故原因は詳しく究明されることもなく、直後にホウガの研究施設は閉鎖された」
 レンジャーユニオンの得た情報と言うのは、ホウガの研究施設からリューエルの科学部へ、そこから本部へとあげられたとされる報告書の内容だ。どこかの段階で事実が捻じ曲げられた可能性は否定できない――アズサからの情報開示に、トウヤとミソラは互いの訝りを交差させる。死因の隠蔽。これが一体何を指すのか。
「……こっそり会いに行って殺したんじゃないんですか」
 いくらかトーンダウンしたミソラの横で、そのとき、黙って聞いていたタケヒロが、
「そもそもさ、理由がねえんだよ。こいつが親を殺さなきゃいけねえ理由」
 ぼそりと、しかしはっきりと言い切った。
「……俺みたいに、捨てた親を恨んでるんなら、まだ分かる。けど、こいつ、俺に家族の話するとき、すげえ嬉しそうにするんだもん。俺にはその気持ち分かんねえけど……、捨てられたからってこいつは親を恨んでないし、仮に恨んでたとしても、はいそうですかって殺せるような、そんな薄情者じゃない。……ミソラだって知ってんじゃねえのかよ」
 トウヤはうっすらと唇を引く。
 それを見もせず、知ってるよ、と、口の中でだけ、ミソラは返した。
 自室の棚、いつも伏せられている写真立てに、家族写真があった。トウヤによく似た男の人と、気の強そうな女の人と、二人に手を取られて間で笑っている九歳の彼。照れくさそうに、でも少し弾むような声で、一度昔話をしてくれた。話してよかった、と最後に言った彼の優しい顔色を、ミソラだって覚えている。実家に帰りたいか、と問うと、帰りたいよ、と素直に答えた、あのどこか幸せそうな声のことも、そう聞いた時の切ない胸の痛みまで、ちゃんと覚えている。
 知っているからこそ、ひどく裏切られたように感じたのだ。


 トウヤはそっとハリを見やった。ハリはトウヤを見ていない。先ほどの威勢のいい呆れ顔はどこへやら、ちらちらと反射するハガネールの背の光沢を、興味もないだろうにじいっと睨み続けている。
 タケヒロに庇われた。
 なんだか、夢でも見たのではないかというような、信じられない心地だった。腕を組み、小難しい顔をしている少年は、頑なにこちらを見ようとはしなかったが、彼の顔、昨日声を殺して泣きじゃくっていたまだまだ幼い横顔が、トウヤにはそのとき随分と老成して見えた。先の発言は確かに、トウヤの立場を回復しようとしての発言だろう。トウヤの人間性に懸けての発言。昨日、昨晩、碌でもないことに巻き込んで、手持ちをこれ以上ないほど酷い目に遭わせ、そのタケヒロの傷心をまるで優先しもしない、自分の、その腐りきった人間性に。
 思いがけなさは、心に張った防護壁の罅入り緩んだ隙間へめがけ、的確に刃を差し込んでくる。
 ――違うんだ、タケヒロ。それは違う。
「実は」
 それでも言うまいとする相反する部分から、絞り出すようにして、トウヤは話しはじめた。
「第七部隊のアヤノさんが父の死について話しているのを盗み聞きしたことがある」
 アヤノという男は元は科学部の人間で、ホウガの工場町に配属されており、それもトウヤの実家の向かいの家に住んでいた。家族ぐるみで親交があった。彼が父親を語るならば、信憑性は高い。
「僕も、両親が死んだと連絡を受けたときは、死因は研究中の事故だと聞かされていた。けど、アヤノさんが言っていたのは、父は、実の子供に殺されたんだと」
「実の子供!」
 ミソラが身を乗り出す。今度はタケヒロも止めなかった。
 姉のミヅキとは、二人きりのきょうだいだ。トウヤはそれを聞いたとき、だから姉を疑った。父を殺したのは姉だったのだという事実に本気で傷つき、どうしてそんな真似をしたのかと本気で思い悩んでいた。
 だが、姉という人間の性分を考えれば考えるほど、『姉が父を殺した』という話は、いかにも馬鹿らしく思われてきた。トウヤの知っているワカミヤミヅキは、決して、そんなことをしでかしそうな野蛮な人ではなかったのだ。姉さんはきっと犯人じゃない。そう思い直したトウヤが『実の子供』が示す人物について検討し直すことがなかったのは、そこに含まれうるもう一人、残るたったの一人の可能性――つまり、自分自身について、まったくもって、なんの心当たりもなかったのだから、当然と言えば当然である。
 身を乗り出した体勢で、ミソラはしばらく言葉を詰まらせていた。その発言に嘘がないのか、トウヤの表情を、眉の曇りのひとつまでくまなく見極めようとしていた。
「……ふたつ、可能性を考えていました」
 と、ミソラは切り出した。
「あなたが、ご両親を殺したことを隠して私たちに振る舞っていること。もうひとつは……」
 次をいくらも勿体ぶる。とっておきの切り札を披露するかのように。
「殺したことを、忘れている。記憶喪失です」
「……ミソラみたいにか」
 砂漠の真ん中でまっさらになっていた異邦人は、青い目を光らせて頷いた。
 アチャモドールを脇に寝かせ、肩掛け鞄から本を取り出す。十ほどの子供には到底似つかわしくない、お堅い表紙の学術書だ。ヒガメの本屋で買っていたらしい。ポケモンがもたらす記憶障害の事例を紹介する本だが、無学だと思って対峙していた子供がそんな知識を得ていた事実にトウヤは少なからず舌を巻いた。
「ご両親があなたに殺されたことを都合が悪いと思う人がいて、その人があなたの記憶を消した、という可能性は考えられませんか」
「記憶を操作できると言われてるポケモン、確かにいるわよ。でも、そういうポケモンって、エスパータイプでしょ」トウヤの背後に控えているものを、アズサは視線で示す。「お兄さん自身はともかく、ハリちゃんは悪タイプ。相性的にも有利だし、そう簡単にいくとは思えないけど……」
 小槌のようにハリがコクコクと頷いた。だがトウヤ自身は、ミソラの示した筋書きに、得体の知れない気味悪さを覚えずにはいられない。
 確かにハリは強い。が、ハリがトウヤと二十四時間つかず離れず共に行動していたとはとても言えない。そもそも記憶喪失なら、ポケモンの技が原因であるとも限らない。『親を殺してしまった』というショッキングな出来事の記録を、脳が拒絶することもあるのではないか――そのあたりを契機に、トウヤの思考が、段々と「自分が」という方向へ転がり出していったのは、ある男の放った一言が、脳裏にちらつきはじめたからだった。
『第一、お前が綺麗さっぱり忘れちまうから、こんなことになったんだろうが』
 グレン。――お前、一体、僕の何を知っていたんだ?
「……あっ、あーっ!」
 こわばった空気を押し破り、突然、タケヒロが大声で叫んだ。
「分かったぁ!」
「なに、タケヒロ」
「おっ、お前、そのミヅキって人は、『弟が両親を殺した』って言ったんだろ?」
 ものすごい剣幕にミソラが引き気味に頷くと、タケヒロはまるで金銀財宝の山でも掘り当てたかのようにつやつやと頬を紅潮させた。上擦りきった声に曰く。
「『弟』、ってなら、こいつのこととは限らねえじゃねえか!」
 指さされたトウヤと、ミソラが揃って目を丸める。
「二人きょうだいって言っても、トウヤにいちゃんは捨てられたあとのことはなんにも知らねえんだから、もう一人生まれてるかもしれないし……あっ、あと、」
 タケヒロが言わんとしたことに、トウヤは真っ先に勘付いた。だが興奮しきって回る口は皆目止める暇もなく、
「隠し子とかがいるかもしれない、俺みたいに!」
 勢い余って付け加えられたあまりにも余計な一言を、
「『俺みたいに』?」
 ミソラが耳聡く拾いあげた。
「隠し子ってどういうこと?」
「え」
「タケちゃんって隠し子なの……?」
「あ、その、今のは……」
 空気を仲介していたアズサが空気を読まずに加勢したのは、『夢見る乙女』好みのロマンスを図らずも嗅ぎ取ってしまったからなのかもしれない。先までの高揚を通り越え、熟れすぎて潰れかけた果物みたいな顔をしてこちらへ目を移すタケヒロの救難信号へ、トウヤは当然助け舟を出そうとした。
 身を乗り出す。注意を引くように声を張る。
 ――そのとき、先立ったのは、自分を庇おうとした少年を庇わなければという気持ち、そうに違いなかった。だが、話せば話すほどに、気後れしていた口先がみるみる軽くなっていくのを実感した。長年抱え込んでいた重石を次から次へと放り出していくような。空へ、と背中を蹴飛ばすものは、昨日最後に見たおばさんの顔、ヴェルの死に顔で、キノシタとの応酬で、ゲンガーの笑い声やクチートの生温かな顎の感触、アサギのしたこと、タケヒロの嗚咽、目覚めないメグミ、僕の右腕、アズサの告白、ミソラからの当然の糾弾、モモ、姉さん、父さん、母さん――とにかく、確かに目の前に実在する、ありとあらゆる非日常的な事象の数々。
 幾重にも蹴りつけられてボロボロになった内心の装甲。守りを諦めれば呆気ない。軽々と突き飛ばされ、丸裸になってどこだかへ墜落していくこと、その叫び出したいような自由さを。恐れていたにも関わらず、そのとき、不思議と、なんの抵抗も抱かなかった。
「アヤノさんは、父に対して『実の子供』と言ったんだ。母方ならともかく、父方に僕より下に子供がいるとは考えづらい」
 タケヒロに向けられていた注目が、一斉に自身へと戻ってくる。
「……なんでそう思うの?」
「ああ、これは、身内の恥を晒すようだが」
 一旦覚悟を決めてしまえば、堰を切った言葉は、考えるまでもなく喉から溢れかえっていく。
「僕の父親は性嗜好異常者だ。具体的には、人間よりもポケモンに欲情する性嗜好の持ち主だった。こういう人は、一般的にもそうだろうが、特にポケモンを稼業にしてるリューエルの中では当然忌み嫌われて迫害を受ける。父はこれを周囲に隠しながら研究活動を続けるために、母とは所謂『偽装結婚』をした。母も仕事人間だから子供はまるで望んじゃいなかった。世間体のために、一人目は仕方なく作ったんだそうだ」
 皆の顔を見ていたはずだが、そのくせ、誰がどんな顔をしているのかはまったく意識の外だった。虫けらにすら聞かせた経験のないことを知人に打ち明ける興奮に、トウヤは次第に夢中になっていた。
「二人目の僕が生まれたのも、両親にとっては、事故みたいなものだったと聞いている」
 確かに。
 確かに、自分の記憶は、錯綜しているところがあるように思われる。
「父も母も育児にはとことん向かなかった。幼少の僕らは母の手持ちのバクフーンにほとんど育てられていた。第一部隊に所属していた母は遠征続きで家を空けがちだったし、父はだいたいホウガにいたけど、研究室にこもりきりで母よりも顔を見なかった」
 愛されていた記憶がある。だが蔑ろにされていた記憶もある。ろくに家にいなかった記憶と、毎晩決まった時間に帰宅する父と遊んだ記憶が共存している。
「父は、家に現れると、僕にポケモンの話を聞かせた。ポケモンがいかに魅力的で、人間がいかに醜い下等生物であるのかを、まるで友人にするかのように息子の僕に説き続けていた。そういう態度を咎められて、ヒトの子なんざ作るもんじゃなかったな、とぼやいているのを聞いたこともある」
 ホウガを離れようとしているとき、連れていかれる自分を追い、必ず迎えにいくからと、迎えにいくから待ってろと、父は必死に叫んでいた。考えてみれば不自然だ。後から誰かに作られた記憶か、自身の願望が生み出した歪なまぼろしだという方が、よほど説得力がある。だって、実際、自分は望まれていなかったのだから。
 誰も迎えに来なかった。それが、何よりの証明だ。
「長いこと会っていなかったと言え、あの性分が、そう簡単に変われるとは思えない。だから、父親の血筋で言うなら、姉さんが『弟』と呼べる人物は僕以外にはいないはずなんだ。これで納得してくれるか」
 心臓がばくばくと高鳴っている。全身をかけめぐる血流は狂ったように沸き立っているのに、一方で恐ろしく冷ややかにも感じられた。自分の放った音が、血の管に交じって流れるほどに、内側の部分が、急激な速度で凍てついていく。
 こんなことは、リューエルから掠め取った報告書には載っていなかったに違いない。アズサ含め、聞かされた誰もが何も反応できずにいるのは、無理もなかった。知り合いの品性下劣な家庭事情など、必要に迫られていたとしても、聞かされたくなんかないだろう。
 三人は、あたかも脅されたかのような顔をして押し黙っている。ああなるほどこうなんだな、とトウヤは妙に納得した。これが、自分に向けられるべき、当たり前の反応なのだ。
「……でも、それって……」
 言いづらそうに、アズサは唇を濡らした。ミソラも、タケヒロも、誰かが言葉を発するのを待ちわびていたようにして、少し表情のこわばりを緩めた。
「ミヅキさんが『弟』と呼ぶのは自分しかいないってことは、じゃあ、自分がやりましたって、言ってるようなものじゃない」
「そうだな」
 あっさり頷くと、アズサは戸惑いを色濃くする。
「僕か、姉さんか、で言うなら、まず間違いなく僕だろう。僕がやったと言う方が、僕自身、遥かに信じられる気がするんだ」
 背後の気配が身動ぎした。トウヤはそれに構わなかった。
 ツーとレジェラが、高い高い空の中を、まだくるくると回っている。ふと錯覚する。凍えた身体を抜け出して、自分の魂は、今、あのあたりを飛んでいるのではないか。米粒のように動かない不自由な人間たちの肉体を、手の届かない場所から俯瞰しているかのような。酷い虚脱感だった。頭の芯まで冷め切っていた。
「話が戻るが、ミソラ、僕も『モモ』というニックネームのアチャモを知ってるんだ。丁度お前のアチャモドールと同じかそれより少し大きいくらいの、小ぶりなメスのアチャモだよ。その子は姉さんの手持ちだった。でも、僕の知っているモモは、十三年前に死んでいる」
「……待ってください」
 怯えた目をしたミソラの頼みを、トウヤは首を振って拒絶した。
「聞いてくれ。僕も姉さんとモモとよくバトルをしてたんだ。これが強くて、何度やっても僕は勝てなかった。何度も何度も挑戦して、そのたびにコテンパンにされていた。学校じゃ上級生のやつらにも何連勝もしていたのに、モモにだけはどうしても勝てなくてな」
 淡々と続ける。さっさと話し終えてしまいたい。
「勝てないことが理解できなかった。負けるたびに苛々した。それであるとき、ついに腹が立ってどうしようもなくなって、腹いせをすることを考えた」
 口が急いている。意識的に息を継ぐ。
「僕は姉さんのいない隙に、モモのおやつに毒を混ぜて、それを知らん顔をして食わせた」
 息を継ぐ。
「そしたら死んでしまった」
 ふわり、と見開いたミソラの、清冷に澄みきった空色の湖面に、自分の顔が映っていた。
 痛みも、悲しみも、後悔の欠片も見受けられない、ひどく淡白な顔。罪状を叩きつけられたように痣の残る頬の、その、なんと無感動なことだろうか。
「だから実家にいられなくなって、ホウガも出ざるをえなくなって、ココウのおばさんの家に引き取られたんだ」
 他人のようにその男と向き合って、トウヤは目を細めた。
 ――ほら、見たろ。
「僕は、そういう人間なんだよ」





 大人の気を引くための『いたずら』は、無自覚のうちにエスカレートしていた。父に連れられて何度も出入りしていたので、ホウガ中央研究施設内の大体の構造は把握していた。ポケモン保管庫の鍵を盗んで隠し、慌てふためく大人たちを見ているのは、愉快で愉快で仕方なかった。気の狂った実験体のサナギラスを逃がし、それが逃げ込んだ森へ向かってわざと危険な目に遭って、それでも、欲しかった父母の視線は、自分よりもポケモンへと明らかに注がれていたように思う。いつまでも癒えない渇き。いつまでも満たされない器。その余白に、腐敗した心から発生した無色の気体が蔓延し、次第に圧力を高めていく。
 でも、そのことを、トウヤが理解していたとは言い難い。認められたかった、形のないものを欲して喘いでいた、その息苦しさにさえ、少年はまったく無自覚だった。
 開いた薬品棚からは、かすかな異臭が漂っていた。危ない薬とそうでない薬の判別は、ラベルを見れば無知でも出来る。十歳の誕生日を半月ほど後に控えた、初冬の夜のことだった。していいこと、悪いことの分別が、つかない年齢とは、とても言えない。傍らにハリはいなかった。トウヤが一人でしたことだった。
 とめどなく溢れる涙を拭う。滲んだ視界の真ん中、手のひらにつつみこまれた、おそろしい小瓶の縁が光る。それはまさしく、救世主の光に映る。
 これで、なにもかも、救われるはずだと。
 純真だった。本気で信じ込んでいた。
 




 ハシリイに到着した、翌朝のこと。
 ミヅキの元に、イチジョウから作戦結果の一報が届いた。報告が遅れた原因は、その内容の不可解さで十分に察せられるところだ。
 果たして、トウヤは見事に逃げおおせた。ラティアスも捕まることはなかった。
 が、第一部隊長キノシタが、一般民家の納屋の奥で、血塗れの状態で発見された。
 四肢を包帯で拘束され、中身入りのモンスターボールは一つも身に着けていなかった。
「――それ、それ本当にトウヤがやったんですか? 本当にトウヤなんですか? だって、あのキノシタ隊長でしょ?」
 無線機越しに何度も何度も確認するミヅキの声も表情も、興奮と喜びをまるで隠そうともしない。意外とやるなあ、さすが私の弟、なんて、嬉々とするミヅキに肩をどつかれながら、ゼンは内心で溜息をついた。この女には危機感や恐怖心が欠落しているところがある。
 血塗れとは言うが、キノシタ自身はほとんど無傷で、今もぴんぴんしているという報告だ。誰の血であるかは想像に難くない。
 これは本部に上げないまま闇に葬るつもりらしいが、キノシタは、「正当防衛を以て卑劣なターゲットの右腕をクチートに食い千切らせた」と証言している。納屋内外に残っているおびただしい量の血痕の先に発見こそされなかったが、常識的に考えれば、どこかで行き倒れていても不思議はない――と、イチジョウは苦々しく語る。ほー、といかにも興味なさそうに聞き流すミヅキとは対照的に、真人間による当然のリアクションとして、ゼンは軽く眩暈を起こした。
 だが、死体は見つかっていない。ラティアスも連れているようだ。あいつのことだから、しぶとく生き延びていることだろう。
 両手両足が使えても、死んでくれるなと、遠くから祈ることしかできない。己の無力さを思い知る。
 さて、肉親の行方などいざ知らず「キノシタさんいい気味だねえ」なんてミヅキは呑気に笑っているが、状況はそう簡単には済まされない。血塗れで拘束されているキノシタを発見したのは、不運にも、納屋の異変に気が付いた家主の一般市民だったのである。
 その時には既にキノシタも意識を戻しており、家主に現場の復帰を約束して足早に立ち去ったのだが、当然不審に思った家主は、リューエル本部に即座に電話してこっぴどいクレームを入れたのだそうだ。そうなると、本部としても、始末をつけざるをえなくなる。
「キノシタ隊長更迭とか? やっぱりいい気味じゃん、元から評判良くなかったんだし」
「阿呆か」
 横で思わず額を押さえるゼンに、ミヅキはきょとんと目を向けた。無線越しにイチジョウの溜息が聞こえてくる。
 第七は、実務部の中でも末端部隊だ。昨日の作戦に於いて、花形の第一部隊の補助要員であったと言えば、まだ聞こえがいい。『トレーナーからポケモンを奪う』といういかにも反社会的な本作戦だ、何らかの問題が発生する状況は容易に想像がつく。そこで、キノシタが第七部隊に見出した役割は、言わば『スケープゴート』だった。
『隊長を下ろされるのは俺だろうな』
 イチジョウの声は、流石というか、声だけでそうと知れる程度には落ち着き払ったものである。
『実力もあるが、それ以上に他人を蹴落とすことでのし上がっていった男だ。そうすることに躊躇がない。責任の所在を下になすり付ける程度なら、あの方には造作も無いことだろう』
 まだ状況を呑みこめない――いや、呑み込みたがらないミヅキが押し黙る。『ミヅキ、聞こえてるかい?』と電波越しにアヤノらしき声に促され、やっと彼女が吐き捨てた声は、厭に冷徹にも感じられた。
「なんで? 隊長は、それを受け入れてる。この秋に昇進したばっかじゃないですか、信じられない、人が良すぎる」
『末端の宿命だ、抗えるものではない。今回は運が悪かった』
「運が悪かったで済まされる話じゃないでしょう」
 俄かに怒気を混ぜるミヅキへと、仕方なかったんだよ、とアヤノの温和な声が割り込んできた。
『ミヅキ。イチジョウくんは、ミヅキを見殺しに出来なかったんだ』
「……は?」
 ゼンは大きな手のひらで、絶句するミヅキの肩を叩き返す。
「庇われたんだぞ、お前」
 ココウでの作戦に参加せず、ハシリイに移動したミヅキ率いる三人の分隊。これはキノシタの組んだ特別作戦中には想定されていない行動であり、イチジョウは秘密裏にこれを決行した。彼がミヅキを頑なにココウに同行させなかったのは、分隊の結成に『先回り』以上の意図があった――すなわち、ミヅキをココウに入らせないことそのものが、分隊の存在意義だったからだ。型破りな出世を果たした女性であるミヅキを第一の連中がよく思っていないことを、イチジョウは前々から見抜いていた。ラティアスに関する情報提供者である点も、濡れ衣を着せるには都合が良い。
『いくら第一部隊と言え、ターゲットはヒガメの件では逃げ延びている。我々第七部隊も、キブツで一度彼を取り逃がしたことがある。そのうえ舞台は相手の庭だ。今回の作戦は、分の悪い賭けだと分かっていた』
「……こうなると知ってて私を作戦から外したってこと?」
 イチジョウの笑ったような気配がした。
『安心しろ。ラティアスの所在を特定してみせた手柄はお前のものだ。作戦失敗の責任は、隊長である俺が取る』
 ミヅキの茶褐色の双眸が、それに被さるような睫毛が、悔しげに震えているのをゼンは見た。彼女の中に備わっている人間らしい感情を、こっそりと喜ばしく思う。
 通話を切ったミヅキに、惚れたか? とおどけて問えば、出世欲のない人嫌い、とドスの効いた低音で返された。それからまっすぐ胸に飛び込んできた。ゼンは黙って抱きとめる。
「ゼン、あれ、持ってたでしょ、記憶消せるポケモン。あの子でなんとかしてよ、早く」
「関係者全員か? 無茶言うな」
 豪壮な振る舞いがこれのどこに収まると言うのか、小さな体に、小さな頭。子供のように縋りつくミヅキのすべてを受け入れるだけの包容力を、イチジョウはどうだか知らないが、ゼンは持ち合わせていないのだ。

 ――というホテルでの顛末を、(無論余計な部分は省いて)伝えると、エトはいかにも真人間らしい反応として、顔色をはっきりと青褪めさせた。
「あの……それで、トウヤは無事なんすか……」
「さあな」
「さあな、って……」
「とにかく、秘密にしとけよ」
 家の奥へと顎をやる。エトはぎくしゃくと頷いた。
 フジシロ家。庭を臨める部屋に通され、それぞれに腰を下ろしている。昨日訪れたときにはカナミが体調を崩したので、エトを残してゼンとミヅキはすぐに家を離れた。
 まだ朝も早い時間に再訪した家の広間で、ミヅキはけろりとして機嫌よく子供と遊んでいる。最初は遠巻きに窺っていたハヅキの警戒を一瞬で解いてみせ、緑色の小マリルも呼び寄せ、ポニータになったりおままごとに付き合ったりと、もうすっかり『友達』だ。案外子供の扱いに慣れてるな、と見守るゼンの横で、エトも同じことを考えていたらしい。
「小さい子と接する機会あったんですかね」
「聞いたことないが、あるんだろうな」
「ゼンさん、ミヅキさんのこと何でも知ってそうなのに」
「勘弁してくれ」
 ただの腐れ縁だ。接してきた時間で言えばアヤノの方がよほど長かろう。その証拠に、盆にお茶を乗せてやってきたカナミからミヅキが目を逸らす理由など、ゼンにはまったく読めないのである。
 昨晩ホテルで、あの子なんか苦手、とカナミのことをミヅキがぼやいた。たった数分のやりとりで何が分かろうかというものだが、それよりも、いつも人を『嫌い』と撥ねつけはするものの、『苦手』と言って接触を渋る様は一度も見たことがなかったような。物憂げにするミヅキの姿は非常に物珍しく映る。
 カナミが現れても、キャッキャと笑っているハヅキの相手をミヅキがやめることはない。どことなく逃げているようにも思える。副隊長の代わりに一般隊員のゼンがかしこまった。
「体の方はいかがですか」
「昨日は驚かせてしまいましたよね、すみません。ええと……お名前が、確か」
「ゼンさんだよ」
「ゼン、さん?」
「いや、こちらこそ急におしかけてしまいまして」
 差し出されたカップを前に、ゼンはでかい図体を意識的に恐縮させる。
「リューエル実務部第七部隊所属のシマズイと言います。この度、我が部隊でエトくんを預からせて頂くことになりました」
「わざわざ挨拶にお越しくださるだなんて……」
「隊長が伺えず申し訳ない」
 来ている副隊長でさえ、この有様で申し訳ない。言外に気持ちを示すようにゼンが視線を向けた先で、ハヅキを腹に乗せ笑っているミヅキが、あ! と言って真上を指した。
「マリルだ! マリルの模様!」
 顔をあげると、そこには白い天井に浮く模様が不規則に波打っているだけである。
「マリルどれー?」
「えーっ、見えないの? あれだよあれ」
「わかんない、これ?」
「違うよ、こっち! すごいっ、マリル、マリル。はあちゃんもまあちゃんもちゃんと探して、ほら」
 ころりと横に並んで仰向けになったハヅキが、きょとんとして指の先を見上げる。緑マリルが肉厚の耳を振る。ゼンにはまだマリルの模様が見えなかった。ハシリイって天井の模様までマリルなんだねえ、と、ミヅキの声がはしゃいだ瞬間、それに紛れさせるようにして、ぷっ、と誰かが吹き出した。
 カナミだった。彼女が笑いはじめると、普段ほとんど笑顔など見せないエトまでもが、整った容姿をくしゃっと崩して、笑い声を響かせるではないか。
 意味が分かるのか分からないのか、それらにつられるようにして、ハヅキも足をどたどたと鳴らしながら笑い転げる。けらけら笑う三きょうだいに取り残され、ゼンはミヅキと目を合わせる。
「あの、すっげぇ、やっぱきょうだいだからですかね」
 エトが言葉足らずな説明をすると、腹を労わるようにして笑いながら、カナミが続けた。
「トウヤが、毎年、酔っぱらうと決まってそう言うもんだから」
「え?」
「ここで宴会をするんです。で、べろんべろんに酔っぱらうと、天井を指さして、得意そうに言うんですよ。ここにマリルがいるじゃないかって。でもそのマリル、トウヤ以外には誰にも見えたことがないんです。だからあの人ムキになって、なんで見えないんだって、いつもしつこくて」
 ゼンはもう一度天井を見上げた。やはりマリルはどこにもいない。
 ふうん、とミヅキが言う。冷や水をかけるような興味の失せた声だったが、三人分のおかしさが、その声に冷やされてしまうことはなかった。あれかも、これかな、と天井を指さしはじめたカナミとエトをよそに、ぱたりと手を下ろしたミヅキは、ぼーっと天井の一点を眺める。ゼンはその様をなんとなく見ていた。
 不意に、何かが光る。
「……あれ?」
 声に、カナミとエトが顔を向ける。
 未だ仰向けに寝そべったまま、ミヅキは両手を、今度は顔へとやっていた。ごしごしと顔を拭うようにしてから、その手の中を開いて見た。
 広々とした窓辺から差し込む光を、手のひらがぎらぎらと反射している。
 何が光って見えたのか、ゼンはやっと理解した。その小さな光の破片は、ゼンの目の奥にも飛び込んできた。ちくりと、かすかな痛みが走る。
 幾度も目を瞬かせる、その目尻から、また光をひとつ溢れさせながら、ミヅキはひとりごちる。
「……なんで私泣いてんだろ……?」





 あれ、何?
 立ち上がったアズサが呟いたのは、昼もかなり過ぎてしまった頃のこと。
 進行方向地平線に、強く光っているものがある。
 光は生き物のように揺れ、誘うように瞬いている。ハガネールは恐れもせずまっすぐに光へと向かっていく。不安げに見つめていた一行がその正体に気付いたのは、光の周囲を取り囲む、岩石砂漠に浮かぶ緑のもやのようなものがなんなのか、誰ともなく、見当をつけはじめたからだ。





 
 
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