2 目を覚まして、まず、こう思った。――ここはどこだっけ。で、僕は誰だっけ。 天に広がる青空と千切れ雲を見ながら、それから、こんなことを思った。前にも、似たようなことがあったんじゃないか。何もない場所に倒れていて、空はすかんと晴れていて、そこは砂漠の真ん中で。緑色の顔をした人がぎょろりと覗き込んできて、『ポケモン』という生き物のことをその時僕は知らなくて。それと、大人の男の人がいて、左腕にぐるぐると包帯を巻きつけているところで――。 その人を探して顔を動かすと、見つかる前に、「みゃっ!」という声が視界の裏から飛び込んできた。 「ぐえっ」 可愛げのない悲鳴が響く。トウヤ、アズサ、タケヒロの三者が、それぞれに顔をあげた。 声と一緒に突っ込んできたのはリナだった。腹にダイブし、そこで背を見せ腹を見せ無邪気にはしゃぎまくるリナは、次に顔面をべろべろ舐める。そうされていると何故だろう、自分が一体何者であるのか、ミソラはすとんと了解した。するとなんだか無性なおかしさがこみあげてきた。こんな風にリナがじゃれついてくるのも、けらけら笑い声をあげるのも、随分と懐かしい感覚だった。 「ミソラ、大丈夫か」 立ち上がってトウヤがやってくる。アズサまで。タケヒロは向こうに座りっぱなしだが、こちらへ首を伸ばしている。ミソラの顔を覗き込む彼らは、揃いも揃って、妙に心配そうな顔をしている。 どうして彼らが辛気臭くしているのかを一瞬だけ考えて、やっとミソラは思い出した。――そういえば、リューエルに追われていたんだった。僕はメグミに乗って空を飛んで、『破壊光線』の指示をして、すべてを焼き尽くす光の先に、紫色の二股の獣と……そうだ、リナが……。 ……返事をしない主人に、リナが不思議そうに首を傾げる。せっかくの笑顔を煙らせて黙り込んだミソラの前で、トウヤとアズサは、ちらりと視線を合わせた。トウヤはわざわざしゃがみこんで、 「僕が誰だか分かるか」 そんなことを聞いてきた。 よく澄んだ空色の瞳を、ミソラははしはしと瞬かせる。何を言っているんだろう。 「おし……」 言いかけて、飲み込む。ああ、思い出してきたぞ。その呼び方はやめたんだった。けど、「僕は誰でしょう」という問いに、じゃあ何と答えたらいいだろう。 ミソラが困ったように口ごもるので、年長二人は一層のこと心配面を色濃くした。だから、散々迷った挙句、 「……名前を呼びたくないのですが」 などともごもご不機嫌に答えると、トウヤはどっと溜息を吐きかけてきた。驚かすなよ、と文句を言う顔には、大袈裟な呆れの色が滲んでいる。 発言意図すら読めないのに、その憎たらしい面がミソラの苛立ちを更に上塗りする。どうして起きがけ早々腹を立てなければならないのか。 「なんなんですか、一体」 「お前がまた記憶喪失になってたらどうしようって、さっき話をしてたんだよ。でもその調子なら大丈夫そうだな」 なるほど、それを期待していたのか。トウヤを殺したがっていたことをミソラがもう一度忘れてしまえば、そりゃ都合がいいに違いない。僕だって、可能ならさっぱり忘れたいわけだし。――そう理解したミソラが「残念でしたね」と皮肉を言うと、すっかり気を抜いた表情になっていた男は、どうしてそんなことを言うんだ、と苦笑した。 「逆だよ。ホッとした。なあ?」 振り返り同意を求められたタケヒロが、すっと顔を伏せた。それから頷く。うん、よかった、と返事をしたのはアズサ。ああ、本当によかった。トウヤもしみじみと声を零した。どうもそれらの口ぶりは、皮肉を言っているようではない。 「……よかった、って……」 立ち上がりかけたトウヤが、声に再び視線をくれる。 なんだか、猛烈に恥ずかしいことを言おうとしている気がしてきて、ミソラは目を逸らしてしまった。 「よかったんですか、私が記憶を失ってなくて」 トウヤは一瞬、怪訝としてから、ふっと呆れ笑いをした。 「何言ってるんだ、当たり前だろ」 丸くて、穏やかで、優しい声。とん、とその声に押された心臓が、顔面から耳の先まで、一気に血流を送り込む。 トウヤはすぐ元の場所に戻ったから見なかったが、何度も目をぱちくりして、言われたことを反芻して、真逆にそっぽを向くミソラの顔を、アズサがしっかり見届けていた。拗ねた素振りを取り繕った色白な頬が、火照って真っ赤になっているのを、勿論すぐに見抜いていた。 「当たり前……当たり前なんですか……」 いじけ声で呟くミソラに、耐えきれず、ぷっと彼女は噴き出した。 * ミソラが気を失っている間に、色んな事が起こったらしい。 殺したかと思ったロッキーはどうも生きているようだ。でも、イズがいなくなった。トウヤの右腕がなくなって、また生えてきた。何を聞いても曖昧で現実味に欠けるのは、四方八方から攻撃を浴びていたあの時間と、間抜け面をしてぼーっと座っているこの時間が、一本の延長線上にある、という事が実感しづらいからなのだろう。昨日会えたかもしれなかったミヅキへとそこまで気持ちが焦がれないのも、他のことで頭が満杯だからかもしれない。すっかり塞ぎ込んでいるタケヒロを見て、最後に楽しく遊んだのはいつだったろう、なんて、そんなことばかり考えてしまう。ずっと昔だった気がするのに半月ほどしか経っていないなんて、とてもじゃないが信じられない。 とてもじゃないが信じられない、と言えば、ぼーっと座っている、今の状況だってそうだ。 尻を下ろしている岩肌を擦る。細やかな粒子の光沢を帯びる鋼色。前方には同じ色の岩がいくつか連なっているのが見えて、後ろを振り返れば、やはり同じ色の岩が一列に並んで続いている。そして周囲に目をやれば、景色が、後ろへ後ろへと、勝手に流れ去っていく。ミソラは座っているだけなのに。――座りっぱなしの尻の下は、延々と前後左右に揺れ続けていて、その揺れが時折酷くなるものだから下手をすれば転げ落ちかねない。好きでぼーっと座っているのではなくて、そうしていなければ怖いから、そうせざるを得ないのだった。 ミソラたちは今、巨大なハガネールの背に乗せられて、ココウ近郊の岩石砂漠を北東へ進行しているのだ。 「……このハガネールがあの時のハガネールだって、本当なんですか」 未だにそれを信じられないミソラが問うと、『あの時』の当事者のトウヤより早く、アズサが振り向いて答えてくれた。 「そうよ。春先にお兄さんとミソラちゃんが見つけたっていう、特大サイズのハガネール」 見つけた、というよりは、知らぬ間によじ登って踏んづけてしまった、と言う方が正しい。岩山だと思って登頂した直後に仰天させられたのは、ミソラがトウヤに拾われた翌日のことだ。まだココウにすら辿り着いていなかった。 「話を聞いてから、そんなに巨大な個体がいるならと思って、念のためにキャプチャしてたの。悪意がなくたって町の下まで巣穴を掘って陥没させられたらたまらないでしょ?」 「こんな大きな個体でもキャプチャできるんですね」 「ここまでのサイズだとなかなか友達も出来なくて、ずっと孤独に思ってたみたい。だからかすぐに受け入れてくれたわ。友達になった印に、と思って『レンジャーサイン』の契約も交わしていたんだけど、まさか本当に助けてもらう日が来るとはね」 キャプチャ・スタイラーを使って『レンジャーサイン』と呼ばれる信号を送れば呼び出しに応じる約束を、ポケモンとレンジャーは結ぶことができるのだそうだ。とはいえ、食べられても腹の足しにすらならなさそうな体格差のポケモンを『友達』と呼ぶ感覚は、ミソラにはなかなか理解しづらい。 ちゃんと仕事もしてたんだな、とトウヤが呟くと、失敬な、とアズサが笑う。タケヒロは抱えた膝に押し付けたまま顔をあげない。四人同じ巨石の上だがばらばらの位置に座っているから、ハガネールの移動する地響きめいた騒音で、声も掻き消されそうだった。 「名前は?」 「ハガネールの? さあ、そこまでは。そもそも名前も持ってるかどうか」 「勝手につけたら怒るかな」 「お兄さんのネーミングセンスなら、怒るでしょうよ」 「君に言われたくないよ」 互いに短く失笑しあって、会話が途切れる。ごごごご、ずずずず、という音に常に満たされているとはいえ、沈黙はなんとも気まずかった。 ハガネールの頭部側ではハヤテが進行方向を伺い、ピジョンのツーは、悠々と空を飛行しながら周囲の警戒をしてくれている。砂漠は白く広大で、恐れているのか野生ポケモンは見えないし、旅人の姿も見えないし、追ってくるかもしれないリューエルの姿もまったく見えない。もう少し首を伸ばすと、まるで遥か彼方に見えるハガネールの尾の先に、砂漠を左右にぱっくり半分こする一本の線が伸びている。ハガネールの行き過ぎた轍だ。その先にあるはずのココウの町はとっくの昔に見えなくなってしまった。 「私たち、どこに向かってるんですか?」 ふと思いついたままに尋ねたとき、よし、外れた、というトウヤの声が重なった。 彼は背の向こうに視線を落としている。気になって、でも立つのは怖いので、ミソラはへっぴり腰で近づいていった。向かいにいたアズサはひょいと立ち上がり、平然と歩いて、トウヤの傍へと屈み込む。 彼がいそいそと分解していたのは、紅白のモンスターボールだった。 「うわっ」「ちょっと、これ誰の?」 「ハヤテのボールだよ。部品がなくなったら困るから触るなよ」 そもそもこんな不安定な状況で分解するべきではないのでは。窪めたリュックの真ん中で、米粒ほどのサイズの螺子が振動でころころ遊んでいる。 「ホルダーからボールを外すのに、後ろから手前には外れにくいように改造してたんだ。僕は手前から後ろに向かってボールを取るんだが、相手に開放前のボールをホルダーから弾き飛ばされるようなことが何度かあったから、弾かれにくいようにと思ってな。この先ボールを左手で投げるのに、ホルダーを左側に回すことになるだろ、だから反対向きに調整しないと爪がスムーズに外れない」 「それ、今する必要あります……?」 「こんな状況でボールを落としでもしたら危ないだろ」 こんな状況で分解する方が危ないのでは。言いかけたが言わなかったのは、彼は作業をすることで沈黙の埋め合わせをしているのだと容易に察せられたからだった。 前向きなのね、左投げに、と、気遣わしげな声でアズサが言う。現に、彼は難しそうに左手でドライバーを握り、基部を抑える右手にはあまり力が入っていないようだった。ちらりと見やると、トウヤは不味い料理を作り手の前でなんとか褒めようとしているみたいな顔をしていた。アズサが声色を優しくしたことを、どうも気詰まりに感じたらしい。 「……それで?」 問いかけの意味が分からず、ミソラとアズサは互いの目を見合わせる。トウヤは手元へと落としている視線を、探りを入れるように、僅かばかりアズサへ向けた。 「ハガネールに、どこへ向かうよう指示をしたんだ」 トウヤも知らされていないのか。てっきり一行を仕切っているのだと思っていたから、ミソラには少し意外だった。 向こうに暇そうに伏せていたリナが、ちょこちょこと近づいてくる。それが上下バラバラになったボールへ目を白黒させて鼻先をやるので、だめだめと慌てて押し留めている間だけ、アズサは言い澱み、そして、表情を引き締めた。 「爆心の近くよ。レンジャーキャンプがあるわ」 手を止めたトウヤが、刹那、虚空に視線をあげる。 「『死の閃光』の爆心だな」 「ええ」 「春先にレンジャーユニオンが調査していると言っていた」 「そうよ。規模は縮小されてるけど、今も継続して行われてる。そのキャンプ地に、本部から視察が入ってるの」トウヤは僅かに眉根を寄せる。アズサの口調が厭に業務的に思われたのは、ミソラだけではなさそうだった。「トップレンジャーではないけれど、それに匹敵する優秀な先輩も来てる。保護を要請するわ」 リューエルとポケモンレンジャーの間にある、相互不可侵の不文律。その存在をアズサは何度か口にしてきた。リューエルが手の出せないポケモンレンジャー、それも優秀な人物に任せれば、確実に安全が得られるだろう。――と、諸手を上げて喜ぼうと思えないのは、何故なのだろうか。胸にはびこる靄の正体に、ミソラはすぐに気付いた。安全策を提示されたトウヤの表情にはじわりと懐疑心が息吹いていたし、そもそも提示した側のアズサすら、相手の出方を伺うような気配を漂わせているのだ。 一行をなぶり続ける強風に黒マントが暴れる様は、まるでその黒が彼女の身ごと飲み込もうとしているかのようにも見えた。賛同を得られないアズサは、はぐらかすような笑みを浮かべて、前方へ顔を逸らそうとした。トウヤはぺんとリナの鼻っ面を叩いたあと、工具を持ち直し、ボールの上蓋の内側へと差し込んだ。 「それで君の『ミッション』は完遂するのか?」 彼が慎重に放つ一手は、ドライバーの先端のような鈍い鋭さを帯びている。 語気に何かを察したのか、ぴん、とリナが片耳を震わせた。 「ココウで言ったな。ラティアスがリューエルの手に渡らないよう阻止することが、君のミッションだと」 「……そうね」 「お役所付きの組織とはいえ、レンジャーユニオンも研究機関だ。準伝説級と呼ばれるほど希少価値のあるポケモンなら、まず放っておかないだろうな。昔の話になるが、ミソラがリナを捕まえた時、『タイプ欠損』というリナの特異形質の希少価値に触れ、君は『ユニオンなら高く買い取ってくれる』と言った」 「おい、お前、助けてくれてる姉ちゃんにそんな言い方――」 いつの間に顔をあげていたタケヒロの声が飛んでくるが、それを遮るように、すっ、とひとつの手のひらが向けられた。 アズサだった。自分を庇おうとした言葉を、アズサは自ら制止した。タケヒロのそのときの表情は、信じ切っていた彼女にまるで石でも投げつけられたかのようだった。 「ええ。言ったわ」 「……『あなたを騙していた』と君が言ったから、色々と考えたよ。ふざけた妄想だと笑われるなら、その方がいいが」 細工の複雑なボールの内部へ集中するトウヤの横顔を、アズサはじっと見つめている。 「例えば、君が課されたミッションの最終的な到達点が『ラティアスをレンジャーユニオンで確保すること』だとしたら。トレーナーの僕から『奪う』ではなく平和的に『引き渡す』という選択肢を取らせる為に、リューエルに狙われるタイミングを待っていた、と考えることもできる。味方であるように振る舞って、リューエルに消耗させつつ逃亡を支援する。『メグミを安全に保護するためにはポケモンレンジャーに預けるしかない』と僕に思わせるような状況を作るんだ。最悪僕が抵抗したとしても、『灰』の影響の強い死閃の爆心の方向に連れていっておけば、取り上げるのは容易いだろうな」 彼の抑揚の薄い声が、ハガネールの背の上を、一層冷たくするようだった。 ……ミソラはアズサの顔を伺った。今度こそ逃げることなく男を見据えている彼女の、思いつめたような顔の向こうで、タケヒロがこちらを見ていた。 「……姉ちゃんも、裏切り者なのか?」 縋るような、助けを求めるような声。 アズサは少しだけ目を伏せた。 「そう思ってくれてもいい」 ボールを弄り続けていた手が止まる。一瞬の途方に暮れたような表情を瞼の裏に仕舞い込んで、トウヤは唇をぐっと締めた。 ついに顔をあげる。隣にしゃがみこむアズサへと、薄ら冷たい視線が移る。二者の間に、攻撃的に張り詰めた糸が目に見えるかのようだった。 背の棘を震わせ、リナが低く唸りをあげる。トウヤが、わずかにためらって口を開ける。その視界の端で、 「――はい!」 ぴっ、と、白い手が挙がった。 緊張がぶちんと引き千切れる爽快な音すら、聞こえたような気がした。二人が揃って顔を向けてくる。リナも鋭くしかけた赤目を、すぐに元の愛嬌に戻した。 それらの見る先で、ミソラは形のいい眉を吊り上げ、綺麗な半目でむくれていた。 まったく、みんな僕より年上の癖に、本当に手の掛かる人たちだ。 「全然違いますよ。ふざけた妄想だと思うなら偉そうに披露しないでくれませんか」 トウヤの言葉を引用して突き返す。きょとんとしているアズサの隣で、当人は思わず笑いを堪えた。 「それは失礼いたしました、ミソラさん」 「いいですか? あなたと別れた私たちがリューエルから逃げていた時、私は自分が囮になって、アズサさんにメグミを連れて逃げてもらおうとしたんです。にもかかわらず、アズサさんは『サイドチェンジ』という技を使って今度はアズサさん自身が囮になって、私をメグミと逃がそうとした。アズサさんがメグミを手に入れることが目的だったのなら、私なんか放っておいてさっさと飛んで逃げればよかったじゃないですか」 「確かにな」 「それとあなた、肝心なことを忘れてますよね。自分が血塗れで死にかけてるところを、アズサさんがわざわざ探しに来てくれたこと」 「いや、それは忘れてない」 「は? 忘れてなきゃそんな恩知らずなこと言えないでしょうが。さっきの話だとあなた完全に厄介者ですから、見つけた段階でトドメ刺しとけばよかったですよね? でも、あなたはこうしてのうのうと生きている。私が気失ってなかったらそうしてたのに、まったく惜しい話ですよ」 ――アズサだけではない、その向こうで、見たことのないミソラの姿に度肝を抜かれたタケヒロが、目を滑稽なほど真ん丸にしている。先ほどまでの死んだような様子とは大違いだった。それも少し意識しつつ、あとですね、とミソラは続ける。 「仮にあなたの言うとおりだったとしてもですよ、その人、泣いてましたから」 ミソラの毒牙が向かうのは何も元師匠だけではないのである。指差されたアズサが飛び上がるように背筋を張った。 「ちょっと!」 「逃げてる間ずっとめそめそめそめそ泣いてましたからね、私としては一緒に逃げてる身にもなって欲しかったですけれど。騙してたかもしれないけど、騙してることに罪悪感あったんじゃないですか? 責めるまでもありませんよ」 ……俄かに顔を赤らめ、膝に置いた指先をわななかせているアズサへと、笑っていいのかいけないのか、というようなニヤつき半ばの目をトウヤが向ける。アズサはその目も、ミソラのジト目も直視できず、右往左往と視線を泳がせ、そして「違うの」と否定した。策士などとは程遠い、か弱くまごついた否定である。 「罪悪感……はまあ、あったけど、泣いたのは、その、嬉しくて……」 「嬉しい?」 「……私を信用するって言ってくれたことが」 半笑いだったトウヤの顔が豆鉄砲を食ったかのようになる。 「色んなことがあって、せっかく仲良くなった皆と心が離れちゃったみたいで、すごく不安だったから。お兄さんが、ちゃんと信じてくれてるんだと思って……でも、そう、そうよね。私のやっていることが、信用してもらうに値しているかどうかは……。ごめんなさい」 女は消沈して頭を下げた。 ごごごごご。ずずずずず。足元から絶え間なく伝わる振動が、この沈黙の間にも爆心の方角へと確かに一行を運んでいく。蚊帳の外にはいるが明らかに怒っているタケヒロが黙ってトウヤを睨み、ミソラは黙ってトウヤの脇腹を小突いた。トウヤはきまりが悪そうに左手でぽりぽり頭を掻いたあと、その手に持ちっぱなしだったドライバーを、ボールの上蓋と一緒にリュックサックの真ん中に置いた。 「ミソラ、僕は、レンジャーに助けられた――いや、今も助けられている恩を、忘れて言った訳じゃない」 私に言うんじゃないですよ、と噛みつきたかったが、仕方ないので目だけで訴えた。無言の威圧に観念したか、アズサがそろりと顔をあげると、今度はちゃんと彼女へ向けて、トウヤは続きを話しはじめた。 「君がその『ミッション』という奴を、やりたくてやっているのか、それともやらされているのかと言うのは、まったく別の話だ。グレンは僕を騙してたが、あいつが騙したくて騙してたんじゃないだろうことは理解できているつもりだよ。君は、せっかく手に入れたメグミのボールを、わざわざ僕に返してくれたな」 まだ腰の右側に引っ付いている三番目のボールを、右手がぎこちなく触れた。 「思い上がりかもしれないな。けど、君は業務命令に逆らえず仕方なくミッションを遂行してるんじゃないかと、今のところは考えてる。違うか?」 「……だとしても、やっている事には変わりないわ」 「そうか? こっちの心象は全然違う」 男はふと表情を和らげた。 「君の父親がココウに来て、レンジャーを辞めるだの辞めないだのという話になった時に、君は『ポケモンが好きだからポケモンレンジャーになった』と打ち明けてくれた。 僕が君を信用すると言ったのは、敵か味方かという話ではなくて、地位や私欲の為よりも、あくまで『メグミの為になるように』動いてくれると信じたからだ。だから、騙されていようがいまいが、根本的なところで、君を信用していることには変わりない」 声を掻き消す騒音の中、トウヤは少し語気を強め、訴えかけるように言った。 「レンジャーユニオンに預けることが、メグミにとっての最適解だと思うか? そう判断できる材料があるなら、僕もユニオンに任せたい。君の考えを聞かせてくれ」 真正面から受け取ったアズサは、浴びた『信用』をぐっと嚥下するように、一拍だけ俯いた。 それから、すっと顔をあげる。 茶褐色に光る双眸から、先までのどこか迷子のような脆さは、今や完全に消え去っていた。 「メグミちゃんは、どこで捕まえたの?」 『業務的』ではなかった。自信を伺わせる芯を得た声に、ミソラは安堵すら覚える。 「過去にリューエルがラティアスに接触しているのはワタツミ市街でのこと。リューエルはそこでラティアスを『捕獲した』と記録していて、直後に何者かに『盗まれた』と主張している。でも、お兄さんは正規店で買ったモンスターボールでメグミちゃんを捕獲したのよね。捕獲状態にあるポケモンを、通常のボールで重複捕獲できるはずがない。経緯を教えてくれる?」 「メグミを捕獲したのはワタツミだ」トウヤは腕を組み、記憶を辿るように視線をあげた。「三年、いや、四年前かな。三年と……九か月くらい前」 「リューエルの記録と一致するわね」 「あのとき、確かに、メグミはリューエルの腕章を付けた連中に追われていたよ。傷だらけだった。たまたま出くわして匿ったんだが、酷く錯乱していて、放っておけなくて」 「追われてたってことは、やっぱりまだ捕まえてなかったんじゃないですか」 ミソラが身を乗り出す。対してアズサは首を捻った。 「リューエルからは逃げていたのに、どうしてお兄さんには大人しく捕まったの?」 「さあ、ハリが説得してくれたんだが、詳しいことは……。でも、僕にもきょうだいがいるから」 右腰の二つの、沈黙するボールへと、トウヤは視線をやる。 「同調したのかもしれないな。メグミにも兄がいるらしいんだ。ワタツミで一緒に暮らしていたけど、喧嘩して置いていかれてしまったと言っていた」 「『ラティオス』ね」 呟いたアズサに、知ってるのか、とトウヤが目を瞠る。 「ニドランのオスとメスみたいに、ラティアスの対とされている種。同一個体かは分からないけど、ラティアスと同じでこの辺りでは確認例のなかったポケモンだから、メグミちゃんのお兄さんである可能性もあると思う」 そう前置きしてから、アズサはやや声を暗くした。 「リューエルに捕獲されたのよ。ラティアスの騒動が起きる少し前、ワタツミとヒビの間あたりで。……研究資料も流してもらったけど、色々な実験を施した挙句『利用価値無し』として片付けられていたわ。それ以降は分からない。逃がされたのか、それとも」 「『利用価値』か……」 苦い顔を浮かべるトウヤに、アズサも小さく頷いた。 その言葉を思う重い沈黙が、それぞれの間に流れる。かつて「金になる」と言われた手持ちポケモンへ振り向き、ミソラはそれを抱き寄せた。リナがきゅふきゅふと笑う。利用とか、金になるとかより、相棒はもっと大切なものであるはずだ。――でも、とこっそり、ミソラは考える。僕と言うのはリナを大切にできない最低最悪なトレーナーで、そのことにリナも勘付いていて、この騒動の前までは避けられたりもしているようで、凄く気まずい間柄だったのだ。挙句ミソラはメグミに『破壊光線』を指示して、リナを死にまで瀕させた。仲を戻すような出来事があったとも思えないが、リナはどうしてまた急に、懐いてくれるようになったのだろう。 一時流れた空白を破ったのはアズサだった。 「五歳の時、父にはじめてのポケモンをプレゼントされた。それがまだリーシャンだったスズちゃん」 唐突な思い出話に、全員の視線が集まる。 優秀な個体として選ばれた子だったのよ、と、キャプチャ・スタイラーと同じホルダーに収まっているモンスターボールを、アズサは取り出した。ひとたび開放すればどこに行ってしまうかも分からないようなポケモンだ。『狂った』、という表現が似合ってしまう挙動を示すポケモンだが、それがいざバトルとなると強大な念能力を発揮することも、ミソラは知っている。 「私に波動の才能があることには気付いていたみたいだけど、父は子供の頃波動が見えることを周りに知られて色々と苦労したみたいだから、リオルやルカリオみたいな『それらしい』ポケモンは与えたくなかったみたい。でも、優秀な血統の子を貰ってきてくれていたから、スズちゃんにも少し波動を感じたりするような力があったの。私もそれに感化されるようにして波動の使い方を覚えていった。賢くて、いつでも傍にいて見守ってくれている、優しい子」 ポケモンレンジャーって、普通はポケモンをモンスターボールに入れないのよね、と、手のひらのボールを転がしながら言う。 「父もそうだったから、スズちゃんもボールには入っていなかった。ポケモンレンジャーならキャプチャ・スタイラーにパートナーの所有情報を登録することが出来るけど、私はまだ五歳だから、それもなかった。人間と暮らしてるけど、実は野生のポケモンと一緒」 ココウの捨て子グループに使われていた頃のロッキーと同じだな、とミソラは思った。連鎖的に蘇るのは、そのロッキーがリューエルに追い回されていた日、非情な大人たちと対峙しようとした、あのときの毅然とした彼女の姿。 話の先が、不意に、はっきりと見えてしまった。 「ある日二人で遊んでいたら、知らない大人がやってきて、スズちゃんのことを捕まえて、勝手に連れていった」 ミソラが、トウヤが、タケヒロが、息を詰める。 「……まさか」 「ええ。リューエルよ」 彼女は迷いなくその名を告げた。 「念能力が強いからなのか、波動が扱えるからなのか、サダモリの娘の手持ちだったからなのか。分からないわ。でも彼らにとって、スズちゃんというポケモンはきっと特別だったんでしょうね。『野生』という名目で連れていかれたスズちゃんは、研究材料としてあの連中に拷問されて、帰ってきたけれど、もう私の知っているスズちゃんではなくなっていた」 薬漬けにして心を壊し、『懐き』という心の動きがトリガーになるはずの進化を無理矢理行わせる実験だ。そんな非道な実験を日常的に行っているのか、敵対するレンジャーユニオンに関連するポケモンだからそんなことを行ったのか。大人たちは何も教えてくれなかった。「まさかサダモリさんのお嬢さんの『お友達』だとは」と白を切るリューエルの連中を、『相互不可侵』というくだらぬ風習が、霧の奥へと逃したのだ。 「メグミちゃんには、絶対に、スズちゃんのような目に遭ってほしくない」 ボールは開放されることなく、ホルダーの中へと収められる。膝の上に添えられた少女の拳に、ぐっと力が籠った。 「ごめんなさい。立場上話せないことがたくさんあったわ。でも、メグミちゃんを守らなきゃっていう気持ちは、本当だから」 分かってるよ、とトウヤが首肯する。ミソラも。優しくて、人が良くて、でもほんの少し謎めいていた彼女という存在が、今はっきりと人肌の温もりまで感じ取れるようだった。 「その為には、メグミをレンジャーユニオンの保護下に置くのが、一番の選択だと君は思うか」 トウヤの問いかけに、悩んでいる、と、アズサは正直に白状した。 「お兄さんの言った通り、レンジャーユニオンも研究機関よ。あの時のリューエルのような残酷なことまではしなくても、メグミちゃんが少しも辛い思いをしないとは言い切れない」 顔を覆って、息を吐く。心底メグミの為を思って悩んでいるのだということは、仕草の端々から伝わってきた。 「……お兄さんは、メグミちゃんを連れて逃げた方が良いと思うのよね。それは何故?」 「性格だな」トウヤは失笑を浮かべて即答した。「僕も一端の研究員の息子だったから、研究施設のポケモンがどんな扱いを受けるのかも少しは見てきた。メグミは人見知りで、賑やかな場所や知らない人の大勢いる場所に連れ込むと極度にストレスを感じる子だ。加えて気分屋で、少しでも気に入らないことをされるとすぐにヘソを曲げる、興奮して暴発する『破壊光線』の力加減も下手糞ときている。僕でさえ何度背中から振り落とされたことか。……無理も実力不足も、昨日、身に沁みて感じたところだ。でも、その僕に出来るところまでは、悪足掻きをしてみたい」 「なるほどね」 軽快な口ぶりに、苦しみを帯びていたアズサの表情も、ほろりと解けて安らいだ。 瞼を下ろす。何か、祈りを捧げるようなその表情が、ミソラにはとても美しく思えた。一瞬ののち、ぱっと顔をあげ、笑みを見せる。不敵で、勝気な、ココウの女レンジャーらしい顔。 膝を叩き、跳ねるように、彼女は身軽に立ち上がる。 くるりと背を向けた。男三人が見上げた空には、その半分も雲はなく、遮蔽物のない壮大な蒼穹が広がっていた。 強風にばたばたと煽られる彼女の黒マントの向こう側に、青空と、真っ赤に冴えたレンジャー服とのコントラストが眩しかった。 彼女は軽く手を広げ、のびやかに叫ぶ。 「――ハガネール! 進行方向を北北西に変更して!」 声は、凛、と響きわたったが、騒音もあるしハガネールの頭部は遥か前方なのである。頭部付近で周囲を見張っている青竜が、こちらを振り返った。承知した、と言いたげに大袈裟な身振りで頷くと、前を向き直し、ギャオオオオオォ……、といかにもドラゴンらしい咆哮を轟かせた。 ゆっくりと、だが確実に、ハガネールは鼻先の方角を修正し始める。 もう一度振り向いたハヤテに対し、両手で大きくマルを作って見せる。それからこちらへ向き直った。 「言っておくけれど、茨の道よ。頑張ってよね、お兄さん?」 今度はニヤつきを堪えないトウヤ、同じように悪戯な笑みを見せるミソラ、どことなく困惑気味のタケヒロへ、順番に顔を向ける。彼女はさっぱりと笑っていた。 「クオンをキャプチャしたとき、みんなが助けてくれた。今度は私の番ね」 「大丈夫なのか、『ミッション』は」 分かって聞くような口調のトウヤに、「三年間ほぼお咎め無しに職務放棄してきた実力を舐めないでよね」とアズサは胸を張る。まさに『はぐれレンジャー』だ。声をあげて笑うミソラは、次に、でも、と首を傾げた。 「ハガネールみたいな危険なポケモンは、ちゃんとキャプチャしてたんですよね。職務放棄って言いますけど、三年間もなんの仕事を放棄してたんですか?」 ぺたんと尻を下ろしたアズサが、可憐に小首を傾げ返してくる。 「さっき話してたじゃない。ラティアスを保護することが私のミッションだった、って」 曜日を問われて答えるような切り返しの自然さに、ああそうか、と納得しかけた。が、納得しかけたミソラの横で、再びボールの上蓋に視線を落とそうとしていたトウヤが、ん? と眉間に皺を寄せた。 なんとなく噛み合っているような、でも、微妙なところで絶妙なズレを生じ続けていた歯車が、かち。と、最後に嵌り込んだ瞬間だった。 「……三年間?」 「え? そうよ」 その『三年』という月日は、アズサがポケモンレンジャーの本隊員となってココウに駐在赴任してきてからここまでの月日の長さを指すのである。 「まあ、正確には、『ラティアスを保護してるトレーナーを監視すること』が、私がココウに派遣されたそもそものミッションだったんだけど」 ごごごごご……。ずずずずず……。 ……トウヤが、『絶句』という言葉を絵に描いたような顔をして押し黙った意味が、アズサにはちっとも分からないようだった。あれ? と言いながら、助けを求めるような目をミソラへ向けてくる。え? あれ? ミソラちゃん、どういうこと? いやいや、待ってくださいよ。私だって今、呆気に取られていますから。 つまり、アズサは、こんなことになる前から、ずっとずっと前から、一番最初の最初から、『トウヤを見張っていることがミッション』で、そのためにココウに暮らしていた、と言うのである。 「……もしかして、お兄さん、気付いてなかった?」なんで? とでも言いたげな微妙に呆れた表情で、アズサは男を見やった。「グレンさんがリューエル隊員で、監視されてたことには、前から気付いてたんでしょ? だからてっきり私のことにも気付いてるのかと……」 『お兄さん。私、確かに、ずっとあなたを騙してた』――彼女は言い放つ前、こんなことを述べていた。『あなたが私のことを怪しむのは仕方のないことだと思う』。なるほど、正体に気付かれていると思っていたのなら、あの状況でそれを白状して、それでも信じて欲しい、と訴えることは、確かに正しいかもしれない。 ぽかんと口を開け、完全にフリーズしていたトウヤが、思い出したように瞬きをする。それから、あっ、と彼にしてはの大声をあげて、ぽんと手を打とうとして、打とうとした右手の握りは左手のひらの上でぺちゃりと崩れた。 「ビジネスライク……!」 トウヤの発した、彼女の常套句とも呼べるそれに、アズサは悪戯がバレた子供のような笑みを見せる。 「そう、ビジネスライク」 「ビジネスライクか!」 うまいこと言ったもんだな、と嬉々とした声で叫んで、何がおかしいのか、トウヤは痛快な笑い声を響かせた。その馬鹿笑いを聞いていると、ミソラも、アズサも、いよいよおかしくなってきて、声をあげて笑ってしまった。 進み続ける鋼の上で、三つの背が、賑やかに揺れる。 それらの向こうで、タケヒロだけが、大きな手のひらに握り潰されたかのように背を丸め、人知れず唇を噛み締めていた。 |