12・宿り木の縁







 三年と九ヶ月前。リューエル実務部隊がワタツミ市街で捕獲した『ラティアス』と呼ばれる準伝説級のポケモンが、何者かに盗難される事件が起こった。
 対とされている『ラティオス』から有用な研究成果が得られなかったこともあり、長らく忘却されていたこの一件。が、そのラティアスを所持する男がリューエルの前に姿を現し、今更に蒸し返されることとなった。男はヒガメの旅館にて実務部第一部隊長キノシタ、副隊長ウラミ両名の宿泊室内に侵入、交戦のち逃亡。実務部第七部隊員らの情報提供により、所持ポケモン等の特徴から、犯人を推定するに至った。――ココウ在住の青年、『ワカミヤ トウヤ』である。
 ラティアスを奪還する特別作戦の決行が本部に認められたのは、ほんの三日前だったろうか。本作戦を立案したのは第一部隊長キノシタであるが、情報提供者を擁する第七部隊にも、作戦に参加するよう通達が下った。
 第七部隊長イチジョウは、本作戦にあたり、第七部隊を二つの小部隊に分けることを決定した。ひとつは、第一部隊の指令通りココウに向かう、イチジョウ率いる本隊。もうひとつは――ターゲットの逃走先として有力視される場所に先回りする、分隊。この小部隊は、副隊長の『ワカミヤ ミヅキ』が率いることになる。実弟であるトウヤとの対面を望んでいたミヅキは猛反発したがイチジョウも譲らず、最終的にはバクフーンのアサギを本隊に同行させるという条件で折り合いがついた。
 ココウを追われたターゲットが潜伏先に選びそうな場所としてハシリイの地名を挙げたのは、分隊の先頭を黙々と歩く少年である。『フジシロ エト』、ハシリイにある実家では数年来トウヤと付き合いがあったのだと言う。匿ってくれと頼ってくるなら我が家ではないかという新米隊員の提案に、もう一人、賛同した人物がいる。『シマズイ ゼン』。
 二人の強い推薦により、分隊の行き先はハシリイと決まった。イチジョウも、ミヅキも、アヤノを含む他の第七部隊員たちも、トウヤがココウを脱出した場合はハシリイに向かう可能性が高い、と今も考えているだろう。
 だが、――ゼンとエトは、実は共謀者である。
 二人の考えはこうだ。トウヤの性格を鑑みるに、揉め事を背負った状態でフジシロ家を頼りにするとは思えない。即ち、『トウヤは絶対にハシリイには向かわない』。この意見を一致させたうえで、口裏を合わせ、あえて真逆に話を誘導した。つまり、トウヤとラティアスの逃亡に、こっそり加担したのである。
 決して小さくはない背信行為だ。乗っているのが泥舟なことを知る者同士、ゼンとエトの間に、妙な緊張感が漂っているのは言うまでもない。とにかく、事実としては、イチジョウ率いる第七の粗方の隊員はココウでの作戦に参加中。副隊長のミヅキ、ゼン、エトのたった三名の分隊が、テレポートにより遠路はるばるハシリイへとやってきて、エトの実家へと続く緩やかな坂道をのぼっていて――最後尾をダラダラとついてくる副隊長が、
「ねーゼンー今頃ドンパチ始まってるかなー。はあーつっまんない、サイッアク、ねぇなんで? なんで私がココウに行けないんだよー」
 緊張感の欠片もなく、ぶーぶー不貞腐れ続けている。そういうことだ。
「ホント面白くない、信じられない、トウヤが怪しいって最初に言ったの私なのに」
「イチジョウさんも考えがあってのことだろう」
「どうだか? 単なる嫌がらせかもよ、私が先に昇進したら困るから前線から外したーとか。まさかゼンまで私に嫉妬してる? ねー、えっちゃんは私の味方でいてくれるよねー?」
「なんすかその呼び方……」
 勘の冴えた女だが、今のところ二人の裏切りには気付いていない様子である。横柄に頭の後ろで腕を組み、文句を垂れ流しているばかりだ。
「そもそも相手は第一部隊でしょ、しかも事の発端って極悪非道のキノシタ隊長でしょ? トウヤみたいなボーっとした子が逃げ切れるはずないじゃん、無駄だって先回りとか、絶対無駄。隊長も分かってないなー」
 リードに繋がれて歩くマリルを見たときにぱっと喜色を浮かべただけで、それ以外はずっとこうだ。せっかく弟に再会できる機会を無下にされた気持ちは分からんでもないが、振る舞いの幼稚さにはほとほと参る。副隊長機嫌悪いっすね、と小声で投げかけてくるエトにも、肩を竦めて見せる以外に、ゼンもどうしていいものか。イチジョウとアヤノはゼンに対して『暴れ馬のお目付け役』を期待しているようだが、それはまことに分不相応な話である。
 そんなことより、とエトへ声を潜めつつ、ゼンは丘の上へと視線を投げた。
「本当にいいのか、お前。任務とはいえ、のこのこと帰宅することになって」
 ゼンも少年と同様に、親元を黙って離れた身分だ。気まずさは理解して余りある。
「どのみち、いつか連絡しなきゃとは思ってたんで」
「殊勝なことだ」
「姉ちゃんは大丈夫だと思うんすけど、問題は爺ちゃんで。絶対ハシリイで就職しろってずっと言ってたんで……」
「鬱陶しいだけだな、家族なんてのは」
「……ゼンさんみたいにドライにはなれそうにないです、俺」
 整った顔を憂いを帯びるのも知らず、ミヅキの下手糞な鼻歌は刺々しく響いてくる。
 緩やかに波打つ上り坂を歩いていく。枯色一面の丘は冷風にさめざめと揺れ、ツンと澄み切った青空は付け入る隙もなく晴れ渡り、どことなくつれない様子である。街並みは喧騒とマリルの鳴き声の渦中にあったが、この丘には、風と靴の音以外には、何も気に触れるものはない。ココウの本隊は交戦のさなかであろうに、呑気なものだった。
 ココウという町には、ゼンも多少の思い入れがある。
 飢え、渇き、土埃。中央通りの雑多な往来、トタン屋根が継ぎ接ぎ並ぶ裏路地のスラム街。怒号の飛び交うスタジアム。遠い情景に目を細める。『ドライ』に見えているなら喜ばしいが、情も捨て去れないものだ。ハシリイの空を余所余所しく感じるのは、思い出深い町の空に想いを馳せてしまうからかもしれない。
 辿り着いたエトの実家は、ココウにありがちな狭小ボロ屋とは似つかぬ、実に立派な家だった。
 エトに倣い、門扉を過ぎる。左手に目をやる。広い庭。常緑の葉の固そうな庭木。吹き込んだ枯葉が積もっている。視界の端で、エトの喉元が、上下にごくりと動く。覚悟を決めたか、よし、と一人で呟いた。少年は勇んで呼び鈴を鳴らした。
「鍵は」
「癖で持って出てたんすけど、リュックと一緒に焼けちゃって」
「ああ……」
 すぐに、はぁい、と中から声が返ってきた。
 ゼンがちらりと背後を伺ったとき、ミヅキは「うわーでけー」と感想を漏らしながらようよう敷地内へ踏み込もうとしていた。が、「ん?」と呟いて身を返した。去っていく。他人と初対面する時くらい、常識的に振る舞えないものか。咎めようとした矢先に、錠が回った。
 玄関へ向き直り、ゼンは目を丸くした。
 そこに立っていたのは、己と同世代と見える、地味ではないが飾り気もない顔をした、長く伸びただけの黒髪の、それを頭の後ろできゅっと纏めた髪型の――ではなく。
 極めて明るく染められた茶髪の。それもボーイッシュに切り詰めた短髪の。両耳に、大振りのピアスを揺らしている、眉はきりりとして、唇の赤い、……随分と、見目も華やかな女性だった。
 端的に言って、驚いた。事前情報とまるで違う。だが別人という訳ではない。
「は?」
 エトが動揺をそのまま口にした。その途端。
 ピシャンッ、と、とてつもない速さで、戸が元通りに閉められた。
「――帰れ!」
 そしてヒステリックな声が叫んだ。
「帰ってくんなって言ったよねッ!」
 絶叫と呼ぶに相応しい迫力。これがポケモンの『技』だったなら、相当の威力は有しているだろう。いや、敵を追い払おうとしているのだから、攻撃技よりは『吠える』が近いかな――厄介ごとには首を突っ込まぬが吉だ、ゼンは即座に他人事スイッチに切り換えた。隣で「ね、姉ちゃんがグレた……」とエトが放心気味に呟いた。
 どっ、と戸が揺れる。続けて大きな溜息。戸に背をつけた彼女の憤慨がすりガラス越しに窺える。朗らかな性格できょうだい関係も良好と聞いているのに、雲行きは「怪しい」を飛び越えて、出会い頭の開戦だ。
 妊婦らしいが、動揺させて大丈夫だろうか。何とも言えず、エトを一瞥。動揺はこちらも尚更である。
「姉ちゃんあの、ごめ、これには色々訳が」
「分かってる、分かってるよわがままだって分かってる。別にエトが出てったこと責めてるんじゃないんだよ」それでも責めるような口ぶりで、女は止め処なく言い募る。「エトがずっと家を出たがってるの知ってた、外の世界で勉強したがってるの知ってた、でも家族のことがあるから、エトは真面目だから放り出せなくて、我慢してたのも知ってたよ。だからエトが出てったのを責めようなんて思わないし、自由に生きろって、頑張ってこいって、姉ちゃんなりに背中押して見送ったつもり」
 言葉は次々と飛んでくる、当人にとっては『嫌な音』とでも言ったところか。防戦一方の弟は苦し紛れに反撃を講じようとした。
「うん、あのな、姉ちゃん実は」
「エトが出てったあと、キレた爺ちゃんがヤケ酒をして肝臓をやって入院した」
「へ?」
 『嫌な音』で『防御』の下げられた弟に、見事な一撃がヒットした。
「ちょ、入院?」
「しかもあのクソジジイ、お母さんの病院と一緒は嫌だとか言ってわざわざ遠くに入院した。お婆ちゃんが行きたいって言うから毎日お見舞いに連れてってたら今度はお婆ちゃんに疲れが出て、なんもない場所で転んで骨折して入院した」
「マジかよ」
「お母さんの病状は相変わらず良くない。姉ちゃんは悪阻を押して二つの病院を行ったり来たりさせられてる。はあちゃんは文句も言わず毎日幼稚園に行って帰って、なのにマリーときたら、なぜか突然まあちゃんを虐めるようになって、まあちゃんを泣かせたと思ったら街に飛び出してって色んなマリルに喧嘩をふっかけて回ってて、夜も帰ってこないことさえある。フジシロ家のグレマリルって話題になってる。何回か謝りにも行った」
「なん、だそれ」
 さながら怒涛の『バークアウト』。混乱気味の弟は既にオーバーキルの様相だが、攻め手は緩まない。「だからって」と矢継ぎ早に、女は捲し立てる。
「家のこと、看病、マリーのこと、誰も手伝ってくんない。なんで今なのって正直思うよ? でも別に不平不満を言うつもりはない、エトがいなくなったからこんなことになったなんて本当に少しも思ってない! エトがどっかで頑張って夢を叶えてるんなら、私だって頑張らなきゃ、ちょっとぐらい嫌なこと続いたって仕方ない、我慢しなきゃ、母親になるんだからって、気張っていこうって……! でも、でもッ、」ますます白熱する声が、ここにきて、本日一番の威力を発揮した。「――今更になって家出はやめにしましたなんてのこのこ帰ってくるようなことだけは、やっぱり絶対に許せないッ!」
 『爆音波』! 決まった。平手で頬をぶたれたように、エトの背がビクリと揺れた。
 ……はあ、はあ、と興奮を押さえつけるような息遣いが、戸の向こうから聞こえてくる。愚痴と説教は終了らしい。すべての攻撃をものの見事に食らい尽くしたエトの表情は、戦闘不能、による思考停止、完全に固まってしまっている。
 厄介ごとには首を突っ込まぬが吉だ、だが、このままでは敷居を跨ぐことすら叶わなさそうだ、それでは任務に支障が出る。顎のざらつきを掻きつつ、ゼンはしずしずと声を発した。
「あー、そのだな、カナちゃん……」
「あれ? とーやくん?」
 そのとき背後から、いたく幼気な声が聞こえた。
 『とーやくん』だと? ぎょっとした男共は即座に振り向く。門扉の足元で目にしたのは、しゃがみこんでいるミヅキの姿。その手にうっとりと撫でられる、マスカットを思わせるエメラルドグリーンの毛色をした――色違いか、これまた珍しい――小ぶりでまんまるとした一匹のマリル。……そして、声の主は、二者の向こうにちょこんと立っている、六つ七つほどの女の子だった。
 真っ黄色の帽子を乗せ、幼稚園のそれと思しき水色のスモックに着られている。ひょいと視線をあげたミヅキに対し、その子はワッと飛びあがると、慌てて横を駆け抜けた。エトとゼンの脇も素通りし、丁度のタイミングで開け直された玄関へ駆け込み、姉の背中へと一目散に逃げ隠れる。そうしてこちらを伺いつつ、「おんなのこだった……」と呟いた。
 『フジシロ ハヅキ』――エトと半分だけ血を繋げているという、三人きょうだいの末っ子だ。
 おにいちゃんもいる、と、まるで告げ口をするような口ぶりで、ハヅキは女にささやく。その頭を抱き寄せつつ、女の視線は、エトの肩向こうに見えるミヅキの存在を、そのタイミングでやっと捉えた。
 ゼンは、もう一度驚いた。
 その時の彼女の目は、まるで、この世にあってはならないものに、魂を奪われたかのようだった。
 熱を感じた。それまで彼女が帯びていた怒りとは、まったく別種の、したたかな熱。青白い炎を思わせた。一瞬表に現したそれを、彼女はすぐに隠そうとした。が、初対面の相手に向けるとは到底思えぬ苛烈さが、しんと広がりゆく瞳孔の奥を、ゼンが見逃すことはなかった。
「……あの、突然すみません」
 一声目は平穏だった。
 弟と同じく、ごくりと喉を上下に鳴らして、彼女は恐る恐ると問うた。
「もしかして、あなたがミヅキさん?」
「はい?」
 ミヅキは目を瞬かせる。何故『ミヅキ』だと見抜かれたのか、まったく分かっちゃいない顔で。
「……そうですけど」
 一時、止まっていた風が、気まぐれに彼らの間を吹き抜ける。まるで、この出会いの理由を既に知っているかのように、飄々と。
「やっぱり!」
 ぱっ、と女は表情を変えた。先までのバリケードを微塵も感じさせない笑顔だった。あまりにも目まぐるしく表情が変わるので、どれが基本の顔なのか、ゼンにはさっぱり見当がつかなくなる。
「わあ、すごい、お会いできて嬉しいです。ミヅキさんに、私、ずっと会ってみたいと思ってて」
「私に? なんで?」
「あの、……ふふ、ごめんなさい、これ、恥ずかしいんですけど。その、私、」
 少し言葉を詰まらせながら、笑い交じりに、彼女は零した。
「……似てるって、言われて……ミヅキさんに」
 緑マリルの額にぽんと手を置いたミヅキが、澄ました顔で立ち上がる。傾ぐ首筋に、黒髪が艶めいて流れる。対して、こみあげてきた笑いの衝動のおさまらない様子の彼女――『フジシロ カナミ』、分隊の任務内容で言えば、我々のターゲットであるとも言える――は、不思議そうに見上げる妹の体を抱きしめつつ、片手で口元を抑えた。徐々に姿勢を前傾させる。
「でも、ちっとも似てない」
「ですねー」
「似てないですよね。ああ、びっくりした。まさか、こんなに綺麗な人だとは……」
 そして、満開の花が萎れる様を早回しするような様相で、よろよろとその場にへたり込む。慌ててエトが支えに入った。
 無理に口角を上げるカナミと、特に戸惑うでもなくそれを見下ろすミヅキの顔を、ゼンはそれぞれ見比べてみる。髪を切り、染め、ばっちり化粧をした彼女は、なるほど確かに、似ているとは言い難い。





 雲間に見えるのは心許なく欠けた月で、それも酷く濁っている。少し前の大雨で岩盤表層が蝕まれ、強風に舞い上げられた砂塵が夜空を覆っているのだ。輪郭を霞ませている下弦の月は、見えない明日の行く末を、暗示しているかのようでもあった。
 目を閉じていると、あの男の亡霊が、不意に襲い掛かってくる。
 片手で締めた首筋の、柔らかな皮膚の感触。内部に蠢く血管の拍動。悪霊の呪いめく哄笑が聞こえるのは、幻聴なのか残響なのか、それとも。周囲に満ちた影のどこかから、あの幾千の眼球が、まだ、見つめているような。涎を垂らした大顎が、食い損ねた獲物を探す、その足音が聞こえる、ような。
 ……眠ろう、眠ろう、と考えるほどに、眠れない苛立ちは毒液と化して体中に蓄積していく。瞼の裏の茫漠よりも、砂漠の夜闇の方が、まだいくらもましに思えた。早々に諦めて、トウヤは身を起こした。
 白い岩山が砦のように周囲を高く囲っている。風が避けれるのは幸いだが、にしても寒い夜だった。暗所に慣れた目が、少しだけ景色を捉える。膝を抱えて眠っている子供が見える。痩せた手足、乾いた黒髪。その姿の哀れさは、親の帰らぬ巣に残された孤独な雛鳥を思わせる。
 数時間前、迎えにきたハリと共に、トウヤはタケヒロとこの野営地を目指していた。寂寥とした岩石砂漠を進む間、殆どは押し黙っていたが、ある時、唐突に、タケヒロはトランシーバーの話を持ち出した。
『皆で集まって、作戦立ててた時にさ』
 急に無線通信が聞こえてきた。タケヒロがグレンの家で見つけたのだと言う、リューエルの小型無線機。
『トランシーバーの使い方、お前が教えようとしたんだよ。知ってた方が良いって。でも俺、そんなのどうでもいいと思って遮って、結局聞かなかった』
 ハリに肩を支えられてようやく歩くトウヤの後ろを、足音は健気についてきた。普段通りか、それよりも少し柔いくらいの、軽やかな口調のように聞こえた。トウヤは振り返って姿を映した。気怠げに振るわれたつま先が、小石を蹴飛ばしたところだった。小石はまっすぐ飛んで、跳ねたところで方向を変えて、岩盤の亀裂へと転がり落ちた。タケヒロは構わず、次の小石を、雑な身振りで蹴飛ばした。
『あの時、ちゃんとお前の話聞いてれば、助けを呼べてたかもしれないよなー、って』
 子供の柔い声が、言う。
『だから、イズを殺したのは、俺なんだよ、なっ』
 足を振るう。もっと大きく。三つ四つの小石と砂塵がぱっと舞って、ひとつはトウヤの踵に当たる。タケヒロは気付いていないようだった。ただ、目の前の小石を蹴りたいだけで、その行方には、まるで関心がなさそうだった。
 こんな時に、何も言えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。
『そのくせ、逃げてさ。助けにも行かなくてさ』
 薄汚れた靴が岩盤を蹴る。削ぎ取る。月夜に土埃が光る。
『薄情だよな、俺』
 何度も何度も、何かを訴えるかのように、タケヒロは小石を蹴り飛ばし続けた。
『トウヤ兄ちゃんも、そう思うでしょ』
『……何も悪くないよ。タケヒロは』
 苦し紛れだった。本当にそう思うのに、発した声は、恐ろしく薄っぺらだった。
『何も悪いことしてないじゃないか』
『そうだ。何もしてない』
 少年は顔を上げる。
 向き合った目が、遠かった。まるで月影を映さない蝋のような両目の穴が、今にも、何かを葬り去ろうとしていた。だが、そのうんと遠くにあるような瞳が、トウヤの表情を、面と向かって映した瞬間、――きっと自分はどうしようもなく惨い表情をしていたのだろう、ぶわっ、と水気を孕んで、堪える間もなく、大粒の涙が零れ落ちた。
『何もできなかったんだ。……俺、後悔でいっぱいだよ』
 声を殺して泣きながら、斯くも冷酷な砂漠の夜を歩み続けたタケヒロのことを、トウヤはどうしてやることもできなかった。
 野営地にはアズサが待っていて、そこにミソラが寝かされていた。リューエルと交戦したときにエテボースに腹を殴られ、それから目を覚まさないのだと聞かされた。長い金色の睫毛は、現実を網膜に映すことを拒絶しているかのように、一縷の隙もなく閉じられていた。傍に寄り添うように眠っているニドリーナのリナも、ぼろぼろに傷ついた片耳をぐったりと伏せていた。そして、アズサに預けていたボールから解放されたメグミ――ラティアスのメグミは、トウヤがあの場所に捨ててきた右腕の先を目の当たりにして、悲鳴をあげた。硝子の砕け散るような、長く、壮絶な悲鳴だった。
 逃げると言う選択をした以上、守れなければならなかった、たくさんのもの。何一つ守れなかったと、そう言ってもいい。トウヤは、月が雲間を傾いて西の地平に沈むまで、これからのことを考えた。何を考えようとしても、けれど、駄目だった。ただ、ただ、悔しかった。悔しい、という感情が、こんなにも苦痛を伴うものなのだと自分はこれまで知らなかったし、眼前を塗り潰すその苦痛をどこかにぶつけて紛らわす術も、持ち合わせていなかった。何かを殴り蹴りすることも、目を閉じることも、叫び声をあげることも。
 迷惑は最小限に留めたい。そう考えながら、それが出来るという慢心も、どこかにあったのだろう。大丈夫、なんとかなる、とメグミに見得を切っておいて、結果はこのざまだ。実際の自分の力量と言うものは、想像を遥かに、屈辱的なまでに下回っている。
 くだらないほど、無力だった。
「……眠れない?」
 ふと問われた声に、顔を向ける。
 ミソラの傍に座り込んでこちらを見ているアズサは、キャプチャ・スタイラーに備え付けられた液晶の光に、ぼうと顔を浮かべていた。
「少し休まなきゃ、明日が辛いんじゃない」
「……そういえば、第一部隊の連中が来るまで、昼寝してたんだったかな」
 適当な嘘をついて、トウヤは目を逸らす。何に対してだろう、漠然と怯えのような感情があった。
「起きとくよ。ハリが見張りをしてるし、君ももう少し寝たらいい」
「眠れなくても、目を閉じて横になってた方がいいわ。酷い顔してる」
「顔が酷いのは元からだろ」
「冗談を言う余裕があるなら、ちょっとは安心なんだけど」
 アズサは小さく息を吐いた
「……そうね、元からよ。一度レンジャーユニオンに行って、帰ってきた頃には、もう様子がおかしかった。……うまく説明できないんだけど、生気に欠けているような……」
 青白く照らされている頬が、緩く笑んだ。その柔らかな、疲れ切ったような表情に、少し違和感がある。普段の彼女から受ける印象とは微妙に噛み合わなかったが、それが何なのかは釈然としない。
 『お兄さん。私、確かに、ずっとあなたを騙してた』。ココウの町で、彼女はトウヤにそう放った。
 あの思いつめた言葉の意味は、トウヤは想像しているだけで、まだ明かされないままだ。マントの下に何かを隠されている。トウヤは知らずに『ずっと』彼女と付き合ってきた、グレンにそうされていたのと同じように――という事実だけが、漠然と存在しているだけ。
 少し悩んでから、トウヤは考えていたことを問うてみた。
「……波動が見えるのか」
 ほんの僅かに、アズサは口元を強張らせる。
 疑わなくとも、分かりそうなものだった。レンジャーユニオン幹部である教育長官のサダモリは、名うてのルカリオ使いとしても知られる。そのルカリオが当代きっての強者と呼ばれるのは、トレーナーの技量の高さの所以でもあろう。相棒の能力を極限まで引き出すためには、ルカリオの代名詞でもある『波動』の力を使いこなすことは必要条件と考えられる。彼女はその血を引いた娘だ。
 『波動』、という力が何なのか、入門書を流し読みしたことがある程度で、トウヤは正しく理解していない。一口に『波動』と言っても、使用者の力量や適性の如何で、その効果範囲は多岐に渡るそうだ。例えば、ルカリオのような波動の扱いに長けた生物であれば、波動を見ることは『心を読む』という行為にも等しくなることがあるのだという。
 自分に見えないものが見えるとして、そのこと自体は別に構わない。が、あらゆる内心がみな筒抜けになっていたとしたら、それを黙っていたことは、確かに『騙した』と呼べるかもしれない。ビジネスライクだ、と幾度となく言われてきたが、『対等』を意味しているのだと思い込んでいた。明確な優劣が彼女の中に存在していたとするならば、それは少し耐え難い。
 やがて、アズサはまた微笑を浮かべた。どこか諦めを匂わせるような、婉然とした笑みだった。
「あなたの、右腕」己のものを擦りながら、肩に引っ掛けたコートの下に隠しているトウヤのそれへと、栗色の視線が落ちる。「波動の流れがおかしい、肘のあたりで混濁してる。ポケモンの技を使って治療したからだと思う。うまく動かないのはそれが原因」
「放っておけば治るか」
「分からないわ。ごめんなさい、私専門外だから。……でも、少し面白い。色が違うの。それぞれのモノに波動の色、っていうのがあるんだけど、今、よく似た二色の波動が混じってる。このあたりで」
 もう一度、アズサは己の肘の内側を指し示した。静かな口調だが、饒舌だった。誰かに喋りたかったのかもしれない。
「混じってる、っていう言い方は違うか。切り替わるの。波動は全身を巡るものなのに、片方の色は右腕の中だけで回ってる。まるで、他の生き物がひっつてるみたい」
 そうか。トウヤは他人事のように笑う。
「興味深いな。僕はキメラになったのか」
「医療に詳しい同期がいるの。今度紹介するわ」
「恩に着るよ」
 膜を隔てて喋っているような、腫れ物を避けて通るような互いのぎこちなさが拭えない。黙したトウヤに、また厭に優しげな笑みを見せてから、アズサは手元の液晶へと視線を戻した。
「……お兄さんの選択は、間違っていなかったと思う」
 独り言のようなその声は、本当に、慰めじみていた。やはり、トウヤの胸を食う後悔という感情を、彼女は見透かしているんじゃなかろうか。
「タケちゃんが発信機を持っていくって言い出したのを許したことも、足の速いハヤテくんを使わせたこと。ゲンガーに見つかった時に裏路地に入ったこと、囮になって私たちを逃がしたことも。注目を集めて時間稼ぎをしてくれたから、逃げ切ることができた。お兄さんが部隊長を引き受けたから、こっちを追いかけてきた連中は統率が取れていなかったわ。メグミちゃんが『破壊光線』を撃ったときも、駆け込んだハリちゃんの『ニードルガード』が間に合わなければ、リナちゃんはどうなっていたか分からない。ハリちゃんをこっちに寄越してくれたのはあなたでしょ?」
 気遣わしげに並べられる一言ずつは、確かに優しさだったろう。それを素直に受け取れない自分にまた嫌気が差してくる。傷口に塩を塗り込んでいると、波動で読むことは出来ないのだろうか。それとも分かってやっているのか。僕はあのとき、ひとつの判断ミスで犠牲が出ると分かっていた、分かりながら選んだ道は、決して最善ではなかった。慰めるのはよしてくれ。昨日犠牲にしたすべてが、必要な犠牲だったとは思いたくない。――言えなかった、顔も見れなかった。メグミにだってよく心を覗かれていたのに、彼女にそれをされると思うと、まるで感情に制御が効かない。
 立ち上がると少し眩暈がしたが、少しだけだった。自分が引き受けた傷と言うのは、その程度のものだった。あっちで寝てみるよ、と立ち去りかけた時、頷いたアズサの表情が、やはり引っかかった。女と言うか、一層年甲斐の少女のような。どことなく静けさを帯びた微笑みは、そのまま寂しげとも言い換えることができる気がした。キャプチャ・スタイラーの液晶を見ていると思っていたが、それは勘違いだった。液晶の上に被せるようにして、別のものが乗っかっていた。
 手鏡だった。彼女は自分の顔を見つめていたのだ。
 鏡の向こうにいる彼女のことを、トウヤはこれっぽっちも知らない。
 なぜだか不安がこみあげた。
「……左は?」
 アズサはきょとんと顔をあげた。そのあどけない表情に、不意を突かれた心臓が跳ねる。トウヤは誤魔化すようにして、左手――夜陰に溶ける痣の色をした左手で、同じ色が這う左頬を指して見せた。
「波動と言う観点で語ると、僕の左腕は化け物か」
 ああ、と彼女は顔を綻ばせる。
「残念だけど、そっちは、ガックシするほど、ただの人間」
 アズサは悪戯に科学者じみた言い方をした。喉につっかえた気詰まりが、その瞬間だけ、すうと溶けた。にっ、と不器用に破顔して、トウヤは踵を返した。『波動』なるものを見られるにしても、哀れみや慰めを向けるより、好奇的な目つきで観察対象にして欲しい。その方がいくらか気分が良かった。



 結論から言うと――トウヤの右肩からは、今、元通りに、人間の腕が生えている。
 納屋の中でクチートに食い千切られた肘の先には、きちんと骨があって、肌色の皮が張られていて、血管には血が流れていて、正常に脈も取れる。記憶の通りに皺の刻まれた手のひらから、五本の指が細長く生えていて、ご丁寧に爪まで生え揃っている。見えないが指紋も存在していることだろう。左手よりやや冷えがちな温度まで、きっちり再現されている。再現と言うか、自分の腕だと思うなら、まあ、当然のことなのだ。
 右腕を落としてやってきたトウヤを見るなり、悲鳴をあげて取りすがったメグミは、無くなったものへと狂ったように回復技をかけ続けた。メグミが覚えている回復技には二つ種類があることを、トウヤはこの晩はじめて知った。『癒しの波動』は代償なく相手を回復させることができる。だが『癒しの願い』と呼ばれる技は、比較して回復量が大きい半面、技の使い手に深刻な代償を及ぼしてしまう。
 技を使える回数には限度がある。『癒しの波動』を使い切ったメグミは、すぐさま使用技を『癒しの願い』へと切り替えた。技の代償として重傷を負いながら、更に『癒しの願い』を使おうとする。制止など聞かなかったし、無理矢理モンスターボールに戻そうとすれば、ボールを破壊してでも飛び出してきて治すと激昂された。その場にいる誰よりもメグミは強い力を持っていた。誰も止めることができなかった。
 瀕死の重傷を代償に受ける技を、十度も連続で使って、メグミはトウヤの右腕を本当に再生してみせた。
 無残な傷口が不気味な音を立てて組織を形成していく様は、心底おぞましかった。同時に、認めざるを得なかった。長らく匿っているこのポケモンは、狙われて然るべき超常的な能力を、本当に携えているのだと。
 トウヤが守るために連れ出したメグミは、トウヤを守るために、身体の内部に重篤な損害を負った。今は気絶してボールで大人しくしているが、素人目にもかなり危険な状況に見える。まともな医療機関で一刻も早く治療を受けさせたい。……更に言えば、そうまでしてメグミが再生したトウヤの利き腕は、見た目は完全に元通りだが、機能的には、まったく使い物にならなかった。最初は人差し指を曲げようとして小指が突っ張るような有様だった右手は、今は思った方向に動かせるようにはなっているが、それも僅かに曲げられる程度だ。痛みこそないものの、氷水に浸しっぱなしになっているように感覚は鈍い。モンスターボールを投げることはおろか、握ることすら碌にできない。
 こんなことなら治してくれなくて良かった、なんて不義理なことは、流石に思えない。ただ、自分の選択は正しくなかったのだという事実が、物証と化して、肘から先にぶら下がっているというだけだった。
 何も守れなかった腕だ。捨ててしまった腕。だが、そうしたことさえ間違いだった。捨てるだけの価値すらなかった。

 緩めの傾斜を選んで岩山を歩いていくと、ひときわ高い岩の上に、案山子草の丸い背が見えた。
 急勾配が行く手を遮る。両手が使えれば登れただろうが、片腕では。声を掛けようか迷っていると、右腰のボール、手前から二番目がカタカタと鳴った。わざわざ左手を右腰に回して、そのボールを開放する。なんとも不便なことになった。
 背に乗せてくれたガバイトのハヤテは、トウヤとアズサの手持ちの薬で多少治療することはできた。が、戦闘不能に至るまで焼き尽くされた火傷痕は、まだ痛々しく残っている。
 ハリが座っている場所からは、広く砂漠を見渡すことが出来た。掬い上げるような夜風があっという間に体温を奪う。トウヤはハリの隣に腰かけ、ハヤテもその場に寝そべった。被り傘の下の瞳は、ちらりと主人の顔を伺った後、前へと視線を戻した。今晩の見張りを買って出てくれた、南方の地平へ。
 ココウの町と思しき、小さな小さな光の粒が、手の届かない彼方にちらついている。
 甘えて腿に寄せてくるハヤテの頭を撫でながら、従者と共に、トウヤも小さな光を見つめた。
 あの場所に、姉さんはいたのだろうか。今となってはもう分からない。タケヒロとハヤテが交戦したのは、恐ろしく強いバクフーンだったらしい。アサギだったんじゃないだろうか、というのはあくまで想像の範疇を出ないが、不思議と当たっているような気がした。母さんが死んだと聞いて、そのパートナーだったバクフーンのアサギもおそらく、と、てっきり思い込んでいた。子供の頃、両親に代わって世話を焼いてくれていた、大好きなアサギ。彼が健在かもしれない、というのは、新鮮な驚きではあったが、同時に遣る瀬なさにも襲われた。――そのアサギが、今、敵になったのだ。いつだって心強い味方でいてくれたあの獣は、トウヤを捕えるために、タケヒロを追い回し、ハヤテを焼き尽くさんとして、そして、非力なポッポのイズを。
 ゆりかご代わりに揺すってくれた背中は、まだ温かいままで思い出せる。この目で見なかったが確かに存在した現実と向き合うのは難しいことだった。どうしてアサギまで敵に回さなければならないのだろう。どうして、大勢を傷つけて、こんなに寒い場所で一夜を明かそうとしているのだろう。子供じみた悲しみがふつふつと沸きあがってくる。父さんがあのとき『お前が悪い子だから』と言った、だから残酷な仕打ちに遭ったんだと。あれはいつだって正しかった。きっと、僕はまた、どこかで間違えてしまったんだ。
 あの光の中で、呑気に眠っている今も、選びようによってはあったのだろうか。
 ミソラがお前を殺したいなどと言い出さない世界。
 グレンと友人のままでいられる世界。
 レンジャーが裏切らない世界。
 タケヒロが泣くことのない世界。
 アサギを敵に回さない世界。
 ――ヴェルが、死なない世界。
 イズのことを話させた癖に、ヴェルのことを、トウヤは誰にも話さなかった。無力な上に、卑怯だ。でも、告白したところで、何が良くなるとも思えなかった。もうハギ家には戻れない。後悔したって何もかも遅い。取り返しのつかないところまで来てしまった。
 メグミを連れて逃げ回って、それで、僕はどうするのだろう。
 消え入りそうな光の粒をじっと見つめていたトウヤの背を、その時、ぽん、と何かが叩いた。
 右隣から覗き込んでくる二つの大きな満月と、視線が合わさる。隣の従者が長らくこちらを見ていたことに、トウヤはちっとも気付かなかった。主人の意識が向いたのを確認すると、ハリは少し視線をずらしてから、ととっ、とんとん、と不規則なリズムで、軽く背中をノックしてきた。
 最初は意味が分からなかった。トウヤが困っていると、呆れたような顔をして、もう一度同じことを繰り返す。そこでようやく理解した。バトルの時に指でボールを弾くリズムで指示を送る、あの指示だ。ボール本体についている集音機と、ポケモンの耳の奥に引っ付いているボールマーカーのスピーカーが距離があっても連動することを利用して、行動や技の大雑把な指示を声を介さずに送ることができる。子供の頃にかくれんぼの為に開発した、トウヤとハリの姑息な十八番。
 退け、距離を取れ、身を守れ。ハリが背中に送ってきたのは、そんな意味合いの指示だった。理解したトウヤが笑って受け流していると、一旦手を止めたハリが、どん、どん、と強めに背中を殴ってくる。あからさまな苛立ちの表現。
「すまん、すまん」
 それでも笑っていたトウヤだが、ハリがそこで刻んだ指示を理解すると、はたと思考を止めた。
「……『宿り木』?」
 ハリは大きく首肯する。そして、満足した、と言わんばかりの得意げな無表情で、無人の砂漠へと向き直ってしまった。
「……宿り木の種……」
 何が言いたいのだろう。さっぱり理解できない。メグミが起きていればテレパシーで教えてくれただろうが、そう考えてしまうあたりが、言葉の通じないコミュニケーションを楽しむことをサボっている証だ。
 『宿り木の種』の狡さは好きだ。ハリの出す宿り木は発芽能力は逞しいが、やや出が遅く放物線状にしか飛ばせないから、読まれなくとも躱されやすい。種をミサイル針に引っ掛けて直線状に放つ奇襲作戦は、すぐグレンに看破されていたよな、と昔のことを考えた。大量の種をばら撒いて地雷にする、という奇天烈な作戦に打って出たこともある。あれは、アズサの父親のルカリオをキャプチャするために、ユキのバケッチャたちと一緒に戦った時のことだ……
 ……宿り木の種のことを真剣に考えている間、はたと気が付くと、泥沼に漬け込まれていた先までの思考は、隅の方へ置きっぱなしになっていた。
 ああ、なるほど僕という奴は、多くの気掛かりや悲しみよりも『宿り木の種』の方が重要なのか。なんだかトウヤは、自分のことが、救いようもなく馬鹿らしく思えた。干乾びた砂漠の如き非情さである。だが、ひとり苦笑いを浮かべた主人を見、ハリはまたご満悦に頷くのだ。確かに、ああしていれば、こうしていれば、とくよくよと悩んでいるよりは、まだ健全かもしれない。
 悔やんだって昨日は変わらず、生きている限り、どうやったって明日は来る。
 そうあってくれよと、従者がいじらしく望むなら、多少の努力はしようじゃないか。
「……なあ、ハヤテ。前から考えてたんだがな」
 鼻先を擽る。ぬるりと瞼が持ち上がった。額を大きく撫でつけると、心地よさそうに目を細める。喉奥からあげる甘え声は、いつもの元気印には程遠いが。
「『逆鱗』っていうのは、いまいち格好がつかないと思わないか」
 ハヤテが目を丸める前に、隣で、フッとハリが笑った。
 バクフーンとの戦闘中、使うなと言っていた『逆鱗』を放って自滅したのだろうことはタケヒロの説明から伺えた。指示を無視した訳ではなく、そうまで追い詰められたのだろう。追い詰められる状況を読めなかったのはトレーナーの責任だから、イズのことを、ハヤテが背負いすぎる必要はない。
「『ドラゴンダイブ』の方が、なんか、いいよな。前練習しただろ、形にならなかったけど。あとは『流星群』っていうのもある。名前もそっちの方が逆鱗よりかっこいいし、また一緒に練習しよう」
 な。ぽん、と額を叩くと、瞼が弾みで閉じられて、涙がひとつ、ぽとりと目尻から押し出された。鼠色の岩山に染みを作って、すぐに消えた。

 暁闇、克明に脳裏へ焼きつけた、南の地平線上の光。朝焼けに呑まれて消えていくのを、三人で最後まで見送った。
 行くか、と立ち上がる。故郷へ別れを告げる背に、不安がひとつもないとは言えない。
 ――それでも。
 どこまでも小心なこの胸に、せめて大きく、息を吸い込んだ。



 ひらいた睫毛の下から、鮮やかな虹彩が現れるかの如く、世界は色を取り戻していく。
 夜が明けようとしていた。






 
 
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