「……姉ちゃん、本当に俺がいなくても大丈夫?」
 靴の爪先をトントン打ちつつ振り返るエトの向こうには、未だに雪が降りしきっていた。藍と灰色に霞む夜景。一面の銀世界に生まれ変わった街と丘とへ、少し想像を馳せてみる。だが、すっぽり夜闇に包まれても、雪化粧が色彩を奪い去ってしまっても、この場所のことを、相変わらず「どこか明るい」と感じるのだろう。――そんな予感を覚えながら、ゼンも背後へ視線を移した。
 橙色の玄関照明の内側で、「何言ってんの」とカナミは呆れ顔をした。その脇にちょこんと立っているハヅキはアチャモ柄の寝間着姿で、眠たげに目を擦っている。
「家出済みの分際で生意気なことを言うんじゃない。いい、今度こそ帰ってくんなよ」
「うわ、ひでー」
 返事をしたのはミヅキだった。けらけらと笑い声を立てる口から、火照った肺に温められた呼気が、白く煙って流されていく。つられて笑ったカナミの口からも、同じ白い息が生まれては消えた。
 泊まってけばいいのに、という申し出も受けたものの、手は煩わせられないと丁重に断った。任務中にターゲットの家で酔い潰れて寝ていましたなど言語道断だ、分隊を任せてくれたイチジョウの面に泥を塗りつけてはならない。小一時間も熟睡するミヅキを痺れを切らして叩き起こした頃には、日はとっぷり暮れていた。用意してくれていた夕飯はせっかくなのでご馳走になった。エトの素行についてひとしきり盛り上がり、二人でも十分かしましい女に両側から弄り倒された当人以外は、終始笑顔が絶えなかった。思いのほかに引っ掛かりのない、楽しい食事会だった。
 ばいばいは? と姉に促されたハヅキの前へ、ミヅキがひょいとしゃがみこむ。手を取って、両手でぎゅうと包み込んで、『それ』をしっかり握らせた。
 ふわりと開いたハヅキの小さな手のひらに、あのルリリ人形が、にっこりと微笑みかけていた。
 ぱあ、と日の差したように子の顔が華やぐ。体と、千切れた尾も健在だ。ふたつを繋ぐ黒いゴム紐の真ん中には、固結びの大きな『こぶ』をこさえている。
「ごめんね、おねーちゃんぶきっちょだから、蝶結びとかできなかったよ」
 ニシ、とミヅキは破顔した。ルリリかえってきた! と叫び、さっきまでのウトウト顔が嘘のように、ハヅキはおおはしゃぎして跳ねまわった。
 女二人が飲みに野原を去ったあと、ハヅキのたどたどしい説明から状況を察知したゼンは、手持ちポケモンたちを駆使して天からルリリ人形を取り返した。こなしてきた数多の例に比較すれば造作もない任務だったが、ここまで喜んでもらえると、大役を果たしたような心地もした。
「ミヅキちゃん、もう帰っちゃうの?」
「そうだよ」
「またきてくれる?」
「うん。また一緒に遊ぼうね」
「あのね、はあちゃんね、ミヅキちゃんのこと、すき」
 もじもじと遠慮がちな告白に、ミヅキはぱちくり目を瞬かせたあと、いつもの整った微笑を浮かべて、
「とーやくんに似てるから?」
 と、どこか自嘲気味に問うた。
 が、ハヅキはぶんぶんと首を振った。
「はあちゃんと名前がにてるから!」
 思いがけない回答に、一瞬、通りかかった沈黙は、ミヅキのどっとした笑い声に吹き飛ばされた。
 それから、その場の全員が笑った。

 三度目の乱入騒ぎが起こったのは、門扉まで出て見送ろうとするカナミを止めていたときのことだった。
  どたどたどた。そんな重鈍な足音が、坂の下から迫ってくる。いかにもどんくさい走り方は今は頼りなさげだが、新たな体に慣れてしまえば、見違えて軽快になるだろう。縦方向に引き伸ばされた体躯。鼠時代を逸脱した長い耳。比較して小さくなったように感じる水球。だが、彼にとって明解かつもっとも重要な変更点は、倍以上に成長した『体格』であるに違いない。
 フジシロ家のグレマリル――いや、マリルリに進化を果たしたマリーは、エトやミヅキには目もくれず、脇を駆け抜けて、一目散に、主人の足へとタックルをかました。
 力も体重も倍増だ。スキンシップの手加減は、そのうちにちゃんと覚えるだろう。危うく倒しかけたカナミを支えて青い顔は輪をかけて青ざめたが、すぐに晴れ晴れしさを取り戻した。踊るように揺れる長耳に一瞬戸惑った様子のカナミは、しゃがみこみ、まじまじと顔を観察して、「マリーだよね?」と改めて問うた。頭と胴の境目のない体をくの字に折り曲げて頷く動きも、マリル時代には不可能だった。
「進化したんだね、おめでとう。他のマリルと喧嘩ばっかしてるから、こんな強くなっちゃって……」
「――そういうことか!」
 大きくなった体を触りつつ皮肉を垂れかけたカナミを遮って、エトが突然手を打った。
「分かった、姉ちゃん、そうじゃないよ」
「へ?」
「喧嘩したから強くなったんじゃない、強くなるために喧嘩したんだ。マリルのままじゃ持てないものや届かないとこがたくさんあるから、マリルリに進化するために、バトルふっかけて回ってたんだ、こいつ」
 エトの気づきに、ゼンとミヅキは、目配せをして微笑み合わせる。
 ポケモンをペットとして育て、バトルに意義を見出さない環境で暮らしているカナミには、突然グレたようにしか見えなかったに違いない。エトだってほんの少し前まではそうだった。リューエルに加わってバトルの稽古をして、ポケモンのことをペットではなく『共に戦う者』として認識しはじめたからこそ、ポケモンの視点に立って、結論を導き出すことができたのだ。
「進化して、体が大きくなれば、もっと姉ちゃんの手助けができるから!」
「……私のために?」
 マリーは再び、自慢げな首肯をしてみせた。
 しばらく、カナミは放心したようにじっと手持ちと見つめあっていた。マスカが羨望の眼差しでぽよぽよと近づき、るっるっと跳ねる。次いで、目の前の大きなポケモンが同居人であることを理解したらしいハヅキが、マリー、おかえり! と叫んで、ふくよかな胴へと抱きついた。
 その様を見て、唐突に、ぱんぱんに膨れ上がった風船が前触れもなく破裂するように、カナミはわっと泣き声を放った。
「マリー……!」
 がばり、マリーと、マスカと、ハヅキとを、まとめて両腕に抱き寄せる。
 驚く一人と二匹をぎゅうぎゅう抱きすくめ額を寄せて顔を埋めて、ごめんね、ありがとう、とカナミは泣いた。子供みたいに泣いた。子供の方が、困ったように、小さな手のひらで背中を撫でた。ゼン、ミヅキ、エト、今度は三人で目配せをして、ほろ苦い笑みを向けあった。
 一礼をして、ゼンが踵を返す。頭の後ろで手を組んで、どことなくせいせいとしたミヅキが続く。頼りなくも、逞しくも見える、残していった家族たちの姿を、エトは目蓋に焼き付けた。それから名残惜しさを断ち切って、先輩二人を追いはじめた。
 おそらく、しばらく戻ってくることはないだろう。積もりかけた雪が靴裏で軋む一足ごとに、心は身震いを繰り返す。月も街灯もない坂道は暗かった。暗いが明るい夜だった。眼下に落ちる己の影は、生家から遠ざかっていくにつれ、長く伸びて広がって溶けて、やがて見えなくなっていった。視界は朧でも、先輩たちの颯爽たる輪郭は、クリアに捉えられていた。
 そのとき、待ってください、と丘の上から飛んできた声が、三人の足を止めさせた。
「トウヤは……来ないと思います、ここには」
 下り坂のはじまりまで、カナミは追って出てきていた。
「夏だって、何かと言い訳をつけないと来られないような人なんです。お祭りの設営の手伝いだとか、家のポケモンのためにカイスを買いに来ただとか……だから、揉め事を起こしてうちに頼ってくるようなことは、多分……いえ、絶対……ありません」
 思わずゼンはミヅキを盗み見た。エトも顔を窺った。『トウヤはハシリイに来るはず』と出鱈目を主張した二人の緊張に、勘のいい女は、けれどこのときは気付かなかった。ミヅキの双眸には、遠い玄関灯の橙の光ばかりが、埋み火のように揺れていた。丘の上に立つたったひとりの相手だけを、じっと、見極めるように見つめていた。
 やがて、息を抜いて、彼女はからりとした顔で笑った。
「なあんだ、ハシリイは空振りかあ」
 邪気のないミヅキの声に、ほっとしたように涙目を細めて、カナミは頷いた。
「ミヅキさん。私……前から、よく考えてたんです。もし、あのとき、トウヤが別れようって言い出さなければ、一体どうなってたんだろうって」
 風は止み、闇に溶けきらない大粒の雪は、しんしんと流れ下っていく。瞬きも躊躇われる静謐の中に、彼女の告白は、厚い雪空を一条の光が孤独に進んでいくかのように、三人の元まで響いてきた。
「あなたと私が似ていなければって。トウヤがちゃんとお姉さんと仲直りしていれば、って。
 ……今、こういう状況になって、旦那も出てって、誰を頼ればいいのかも分からなくって、傍にいて欲しいのに、いないし、連絡すらつかないし……でも、私、そのことで、トウヤを責めようと思ったことは一度もなかった」
 玄関灯に僅かに照らされた頬に、つうと流れていく涙を、語る間、カナミは拭いもしなかった。
「トウヤがいてくれないことを、無意識に、ミヅキさんのせいにしようとしてたんだと思います」
 語尾が、こみあげる嗚咽に震えた。
 ぐしゃりと歪んだ顔が、膿を振り絞るようにして続けた。
「本当に、嫌な女です。私」
 頷いたのかどうなのか、遠目には判然としなかったろう、ミヅキは僅かに顎を引いた。それから、否定とも肯定とも取れない仕草で、小さく首を横に振った。
 何か言おうとして、何度も喉につっかえさせるカナミの元に、背後から別の影がやってきた。長い耳を揺らめかせながら寄り添うマリーが見下ろしてくるのは、どこか睨みつけるような目つきだった。その額を撫で、己の胸に手を当て、空を仰いで、カナミはひとつ息を吸った。それからこちらへ顔を戻した、オレンジがかった玄関灯に縁取られた彼女の姿と言葉のすべてに、この地に根付いた両の足で、長い冬を歩いてゆくための、静かな覚悟が宿っていた。
「トウヤが本当に悪いことをしてるなら、私、皆さんに協力します。だから、トウヤと……エトのこと、私の弟のこと。どうか、よろしくお願いします」
 深く、深く、頭を下げる。
 空白が舞い降り、地や草や服の上に、暫くの間停滞する。美しい結晶だった。黙って唇を引き結ぶ弟の、眼鏡の奥の目の縁に、ゼンは気付かないふりをした。
 少し長い沈黙のあと、ミヅキの口元に、ぽつんと、一輪の笑みが灯った。
「ありがとう、弟のこと、たくさん教えてくれて」
 その笑顔に、ゼンは、確かに見た気がしたのだ。
 十数年も前。二人がまだ、ありふれたきょうだいだった頃、泣きじゃくる弟の頭を撫でながら、彼女がした――花の綻ぶような、ひどく優しくて愛らしい、ゼンの大好きだった、あの頃の笑顔の面影を。





「……――ええーっ!?」
 二人分、驚きと非難の入り混じった絶叫が、深夜の砂漠に響きわたった。
 相も変わらず絶え間ない揺れだ。ヒビという目的地への中継点、キブツの町を目指して夜通し進むハガネールの上。昼間と違うのは、声がはっきり聞き取れる距離に集合しているということだった。人間たちもそうだし、順に仮眠を取り終えてボールを出されたポケモンたちも、全員が輪に加わっている。
 大事な話がある、と勿体ぶって切り出したアズサの一言目に、ミソラは自分でも思いがけないほど強烈なショックに打ちひしがれた。タケヒロなんか、湯たんぽ代わりにしているツーをひっしと抱きしめ、早速両目を潤ませている。そんなに悲しんでくれるなんて嬉しいじゃない、と、犯人のアズサは楽しげだ。
「だいぶミッション逸脱してるし、リューエルにもまあまあ喧嘩売っちゃったし。一旦ユニオンまで飛んで報告して、多分だけど始末書も書かなきゃ」
 つまり、一行がヒビへ向かうのを見送ったら、後はついていけないと言うのである。
「そんなあ……」
 しょぼくれ果てていることを隠そうともしないタケヒロは、手元に握りしめている雑草の花束と同じく、しわしわにうなだれてしまっている。「ミッション自体が終わったわけじゃないから、済んだらまた戻ってくるわ」というアズサの励ましも、あまり心に響かない様子だ。ハヤテも、その隣に陣取っているリナも、人間の数倍大きな瞳をどことなくしょんぼりさせている。ハリの顔色が普段通りの仏頂面なのは、おそらくは、トウヤと共に先に聞かされていたのだろう。
「それまではホシナっていう子が面倒見てくれる手筈になってるわ。レンジャーで、私の同期生。しっかり者だし世話焼きだから、頼りになると思う」
「でも、アズサさんがいないと……」
「不安だな」
「しっかりしてよ。ほら、いるじゃない、保護者が」
 目線で示された方向を、ミソラとタケヒロもちらりと伺う。ミソラたちが仮眠を取っている間に見張り番をしていたトウヤは、脱いだコートを頭から引っ被って今は横になっている。見張りを交代した直後、強い眠気を引き起こすという例の薬を服用していたが、たまにもぞもぞと体勢を変えているから、多分起きてはいるのだろう。
「いい? お兄さんの言うこと、ちゃんと聞いて……」説教でも垂れるのかというニュアンスで始まったアズサの言葉は、一旦途切れ、寝相すら心許ない男の背中を一瞥して、語気を穏やかに改めた。「出来れば、二人で支えてあげてね」
 タケヒロが毒も吐かず、それどころか大きく頷いて見せたので、ミソラは少し驚いた。さっきまで情けない顔をしていた彼は、途端に口を引き結んで、気負いのようなものを纏っている。
 湖畔での休憩が終わる前。景色が暮れなずみの色に変わり、その暮れなずみの空へレジェラが飛び去っていく直前まで、ツーはレジェラに稽古を乞い続けていた。ミソラがアズサとレンジャーごっこの続きをする間、あんなに嫌っていたはずのトウヤと真剣に話し込んでいたタケヒロも、きっと何か指導を受けていたに違いない。昼間の一件のあと、タケヒロの表情が、見るからに変わっているようにミソラは感じた。己の正義を信じて疑わない猪突猛進な明るさは、今はない。藪の中に息を殺して潜んでいるものを、目を鋭くして、じっと睨み続けているような。凄みのある表情は、明るいよりはいっそ暗かった。暗いが、鈍い光だった。
 愉快でかわいい友人像を描いてきたミソラにとって、それを好ましい変化だとは言い切り難い。対等に接していた――トウヤを殺さなければと思い始めた頃には、おめでたいまでの善良っぷりを見下すようなところさえあった――友人を、実際の目線と同じように少し見上げなければならないことに、正直戸惑いはある。が、寄りかかれるものを欲している己の幼稚な依存心は、それをどこかで歓迎もしている。
 ならば、自分はどうだろう。
「私たち、これからどうなるんですかね」
 ぽつり、気がつけば呟いていた。どうしたいとかはあるの? と、アズサが快調に問い返した。
「お兄さんはメグミちゃんを治療するのがひとまずの目標だろうけど、二人は何がしたいとか」
「俺は、修行する」
 子供じみた表現も、今のタケヒロが言えばまるで地深く根差す大樹のようだ。対してミソラは、迷った挙句、視線をまた背後へと逃がした。横倒しになっているトウヤは、微睡みの中で、ミソラの言葉に耳を傾けているだろうか。それとも本当に眠ってしまったか。
「……私は……他に行く場所、ありませんから」
「それはミソラちゃんの意思じゃないでしょ」
 不用意な卑屈を一刀両断される。逃げ場を探して目を泳がせた場所に、リナがこちらを見上げていた。小さく首を傾げている。意思のない主人に捕まえられて連れ回され、リナも不憫な身の上だ。
「分かりません、自分が何をしたいのか」
 ミソラは、ココウを離れてトウヤについていくということすら、言われてそうしただけだった。
 拾われて、居候生活を満喫している間、何も考えていなかったように思う。誰かを殺すという目標を見つけ、それに向けて鍛錬を重ね、遂に標的を見つけたが、その人を殺すことはできなかった。トウヤを殺そうと言う気は、今は口ばかりで、本心は萎みきっている。衝動が消え失せたわけではないが、当面諦めておくとして、なら他に埋め合わせの夢や目標があるのかと言われると、これだと胸を張って言えるものは、ミソラはなにひとつ持っていない。
 いっそ本当にポケモンレンジャーでも目指してみる? と軽々しく言うアズサは、夢を立派に叶えたから、隊員服に腕を通すことができるのだ。雲が出はじめ、月のない真っ暗闇なのに、その赤はやけに網膜を刺してくる。
「アズサさんって、スズちゃんのことがあったからレンジャーになるって決めたんですよね」
「んー、まあ、ざっくり言えばそうなるわね」
 名前を呼ばれたスズが、アズサの膝の上でぱかっと口を開ける。かと思うとぱくっと閉じて、もぐもぐと虚空を咀嚼している。
「ざっくりって?」
「他にもあるんですか」
 ツーの頭に乗っけた顎を興味深げに突き出したタケヒロに、ミソラも追従して問うた。やりたいことを見つけるきっかけがあったのなら、参考に話を聞いてみたい。
 アズサは照れくさがってなかなか話そうとしなかったが、夜明けまで、また目的地の到達までにかなり猶予があると見るや、観念して、こんなことを語り始めた。
「あのね、王子様がいたの。その人に憧れたから、ポケモンレンジャーを目指そうと思った」
 飛び出してきたのは、思わぬメルヘンチックな言葉だった。
「昔ココウに住んでたって、話したことあったっけ?」
 子供二人はそれぞれ頷く。それを聞いたのは彼女からではなく、彼女の父親からだったが。
「リューエルに誘拐されたあと、スズちゃんひとりで逃げ帰ってきたんだけど、もう完全におかしくなってて。父とクオンはキャプチャを試みて、それは成功したはずなのに、洗脳の効き目は皆無だった。心を壊されるってそういうことなのね。で、父が言ったのよ。この子のことは諦めようって」
「諦める、って」
 具体的な表現を、彼女は苦い微笑に濁した。
「私は猛反対したんだけど、寝てる間にどこかに連れていかれちゃった。追いかけて探したけど見つからなかった。それで、そのとき彗星のように現れたのが、私の王子様だったのよ」
 真夏の烈日が、思い出の真ん中にある彼の顔を、影に隠してしまっている。
 随分年上だと思ってたけど、あのときは五歳だったから、もしかしたら大人に見えていただけかもしれない。斜め上へと視線をやりながら、彼女は追懐に目を細める。大丈夫。僕たちがなんとかする。彼はそう言って去っていった。そのあとどうなったのかは覚えていないが、今スズがここにいるということは、彼は本当に取り返してくれたのだ。大事な友達を収めた生まれてはじめてのモンスターボールを、誰にもバレないように、机の引き出しの奥に長いことしまい込んでいた。母にバレて、父に大喝を浴びせられて、スズは狂ってはいたが生きていた。
「それっきりその人には会わなかったけど、なんか、凄くかっこよく見えたのよね。私もその人みたいに立派になって、ポケモンを助けられるようにならなきゃと思った。王子様に憧れた結果、身近で手っ取り早い選択肢として、ポケモンレンジャーを目指したんだろうな」
 ココウに来たら再会できるかと思ったけど結局できなかったなあ、とわざとらしく肩を落とす仕草は、照れ隠しに違いない。ぱく、ぱく、としきりに何かを食べようとしているスズの顔は、これはミソラの色眼鏡なのかもしれないが、なんだか幸せそうだった。
「どんな人か覚えてるんですか?」
「それがね、残念なんだけど。顔を見ても分からないかも。日に焼けてて、歯が白くて、笑顔で、頼もしくて……」
 曖昧な情報を一枚一枚言い並べながら、ふと、アズサは口を止めた。
 訪れた空白に、ごごごごご、と低い音が満ちるのに、ミソラは耳を傾けた。静かな夜に聞こえる気がする自分の血潮の音のようだと思った。昼間はよく意識していたハガネールの這う地鳴りを、喋っている間、ほとんど気にすることがなかった。慣れるものだな。騒音にも、この揺れにも。だが、へっぴり腰にならないと立ち上がれもしなかった大岩の上で、あまつさえ仮眠を取ることができるというのは、流石に慣れすぎではなかろうか。いつの間に、不安定なこの場所が、安心できる場所と化している。
 ――みんながいるからだろうか。
 『王子様』の回想から戻った彼女は、ミソラの隣の人物を見て、何やらにやりと口の端をあげた。
「今思うと、タケちゃんみたいよね。その人」
「なっ」
 ぴんっ、と背筋を伸ばしたタケヒロの腹で、締められたツーがじたばた暴れる。この寒いのに、不意打ちを喰らった友人の顔は、みるみるうちにのぼせていく。純情なリアクションはなんだか懐かしくて、そういうところは変わらないのだなと、ミソラは笑いながらほっとした。
 こんな風な、何でもないような時間を、アズサの家の一階で当たり前のように過ごしていた。あの日々は、ひどく贅沢だったのだと、今のミソラには思われる。
 タケヒロが変わったと感じたが、では、今日一日であらゆる打ち明け話を聞かせてくれたアズサが変わったのかと言われれば、変わっていないのではないかと思う。これはミソラの心象の話だから、本人の内心には変化があるのかもしれない。だが、昨日の今日でいち早く通常運行に戻ったアズサがいたから、波立っていたたくさんのものは、次第に落ち着きを取り戻していった。彼女のいる、ココウ裏路地のあの家に、それこそ避難場所のようにして、それぞれが勝手な都合で足を延ばしていたように。
 甘えを出せる人。適度な距離にある受け皿。そうか、と不意に納得した。安らげる場所として存在し続けてくれたアズサが、いなくなってしまうから、ミソラはショックを受けたのだ。
「俺みたいな小汚い捨て子が、王子様なもんかよ」
 ツーの後頭部へと口元を押し付けながらブツブツと照れ隠しするタケヒロを、アズサはひょいと覗き込んだ。
「いつもお花を摘んできてくれて、嬉しかった」
 え、と顔をあげたタケヒロの真っ黒な目の中に、今は空に見えない星が、きらと光ったのを、ミソラは見つけた。
「覚えてる? スタジアムでバクーダが暴れてた日、タケちゃんが私の、ここに」髪の毛、左耳の上を指差し、「わざわざお花を差しにきたの。赤い大きな花。で、私に言ったのよね。『笑ってる方が可愛いんだから笑ってろ』って」
「なんでそんなこと覚えてんだよ……」
 タケヒロがいよいよ茹で上がっている。茶化して笑っているミソラへと、ミソラちゃんも、とアズサは優しい眼差しを向けた。
「いつも二人で遊びに来てくれて、たまに邪険に扱っちゃってたけど、本当はすごく嬉しかった」
 とんっと胸が跳ねた。タケヒロがしたように背筋を伸ばして、ミソラもアズサの顔を見た。きっと、今は自分の瞳にも、たくさんの星が光っているに違いない。
「レンジャーさん、レンジャーさんって呼んで、ただの不良娘の私を、みんなが『ポケモンレンジャー』にしてくれた」
 パートナーをしっかと胸に抱きながら、アズサは、頬を幸せに色づかせていた。
「私、いつの間にか、王子様と再会していたのね」
 ――僕たちが、ココウの町で、彼女をポケモンレンジャーたらしめたのだ。
 まんまるにした両目同士を、ミソラとタケヒロは突き合わせた。
 驚いていたのは、ミソラとタケヒロだけではなかった。ハリは目の満月を膨張させて、リナは右耳をぱたぱたと振り、ハヤテはぱちぱちと瞬きしている。嘴の奥でツーは小さく喉を鳴らした。皆、一番最初から、アズサのことをポケモンレンジャーだと思っていたろう。きっとキャプチャされていたのだ。あの家にいた全員が、見えないキャプチャ・ラインに知らぬ間に取り囲まれたあと、キャプチャ完了したスタイラーの持ち主に、それぞれが考えて判断した末の、肯定の心を届けていた。僕たちの考えるポケモンレンジャーとは、あなたなのだという、その存在の肯定を。
 夢に導いた人を王子様と呼ぶのなら、だから、ここには、たくさんの、アズサの王子様がいる。
 ふわり浮き上がり、尾を首へ巻き付けたスズと共に、アズサは彼らをひとつずつ眺めた。
「みんな、私と友達になってくれてありがとう」
 そう言って、彼女ははにかみ笑いをする。
「離れ離れになっても、みんなと過ごしたココウでのこと、私、ずっと忘れないから!」

 そのとき。
 その言葉を食べた胸から、一斉に生まれた、ある思いが、砕けて弾けて、無数の光の粒になって、体を埋め尽くしていった。

 ココウにいたこと。
 そこで自分になったこと。
 あの場所に日常が流れていたこと。
 その日常は、自分にとって、かけがえのない宝物であったこと。

 ――宝物みたいな、あの日々に、もう戻れないのだということ。

 襲い掛かってきた実感が、刹那のうちに溢れかけて、ミソラは急に息苦しくなる。喉のてっぺんまでせりあがってぶるぶる震える感情を、もう何度も見れないかもしれないアズサの笑顔を消さないように、必死になってこらしめた。下唇を噛んで空を見上げた。雲に覆われた寒空はびっくりするほど真っ暗で、月も、星も、見えなかった。夜という世界の途方もない広さ。見れば見るほど怖くなった。お腹を空かして帰れる場所のないことが。当たり前の日々の来ないことが。色んなことを知って、知られて、逃げ出して、たくさん失ってきたことが。みんなで笑いながら集合写真を撮っていたあのほっとするような瞬間が、本当の意味で、もう二度と、戻ってはこないのだということが。……隣で同じに顎をあげたタケヒロが我慢しているのが痛いほど分かった。だから我慢しなければと思った。我慢しようとした。懸命に懸命に我慢した。が、我慢しきれなかった声がひとつ、誰かの喉から、ついに漏れた。
 真後ろだった。
 振り返った目下、潰れ出たような変な呻きをあげた人は、ずずっと洟を啜って、それから、せっかく隠している顔を、コートの上から、ぐしゃり、と覆った。――ほら、やっぱり起きてるじゃないか。
「なんでお兄さんが泣くのよ!」
 アズサが声をあげたのが、完全に皮切りとなった。あ、泣いてもいいんだな、と勝手に判断した涙腺のダムが、一挙に放水を開始したのだ。つい数時間前に二度と泣かないと誓いを立てたばかりである。どばあと漫画みたいに溢れだした涙にへしゃげた視界の左側で、天へと喉を突きだしたタケヒロが、吠えるような怒涛の男泣きをしはじめた。ちょっと待って、なんなのあんたたち、と姿勢を崩して馬鹿笑いをするアズサへと、アズサ! アズサさあん! ミソラとタケヒロはべしょべしょのまま飛びついた。リナが、それからハヤテまで、なんだなんだ楽しそうだぞと続けざまに跳びかかり、騒動に苛立ったらしい背中の主が、ごおおおおおおおおおおおお、と、雷鳴のような怒号をあげた。もみくちゃにされて、ミソラは何度も泣き笑いをする。みっともない、甘ったれのまま、ずっと子供でいたかった。
 夜が明けなければいいのにと、こんなにも、強く願っていたことはない。





 
 
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