ココウ、この場所に残された日々





 それでも、それでも、それから少しの間だけ、日々は当たり前のように過ぎていった。

 初雪が降った次の日の朝、ヴェルが血を吐いた。ココウにポケモンの医者はいない。『ヒビ』というポケモンの医療が発展した街へ連れていくことをトウヤは懇願したが、ハギは首を横に振った。自然なまま最期を看取ってやりたいという思いは、トウヤが何を主張したって、到底動かせそうもなかった。
 ヴェルは昏々と眠り続けた。夢と現を彷徨うような、比較的穏やかな顔をしていた。だが時折、その顔をぐしゃりと歪ませて、細くて悲しげな声を漏らす。そのたびにトウヤは強く背中をさすってやった。ヴェルがトウヤを見守ってきた長い時間、ポケモンのことばかり、あんなに勉強してきたのに、背中をさすってやることくらいしか、トウヤに出来ることはなかった。
 二階に上がってこなくなったトウヤの代わりに、タケヒロが、トウヤの部屋に居候を始めた。何故そうすることに決めたのか、タケヒロは本当のことをミソラにだけ話して聞かせた。当のミソラは、きょとんとして、小首を傾げるばかりだった。にこにこと無邪気に微笑みながら、僕があの人を殺さないように見張るなんて、何言ってるか分かんないよ、と、とぼけた返事ばかりをした。
 稽古と呼んでいたことを、ミソラはしなくなった。熱心に読み込んでいたポケモンバトルの教材に見向きもしなくなった。破けたドールからあふれでる綿みたいにふわふわ笑い続けて、自分がいつか弾けることなどまるで知らないシャボン玉みたいに、ふらふらと外を遊び回る。以前のようにゴッコ遊びなんかをタケヒロに求めて、タケヒロはあまりそれに応じなかった。二人で寒空の下に出て、ピエロ芸やダンスをして、投げ賃を稼いで、その金でおやつを買って食べる。同じことを数日繰り返した。アズサの家に行こう、という話には、一度もならなかった。彼らの遊び場にアズサが顔を見せることも、一度もなかった。
 同じ屋根の下にいて、トウヤとミソラは、目を合わせることがなかった。
 避けようとしているのはどちらかと言えばミソラだったが、そうするまでもなく、トウヤの従者たちがミソラを拒んでいた。トウヤが立ち歩く時、いつもハリが控えていて、ミソラが通りかかる時、間にすぐさまハリが入った。ボールに戻らぬまま目を閉じてハリが休んでいる時は、ハヤテが警戒に当たった。トウヤとミソラの間には、日常の光景とはほど遠い緊張の糸が、常に張り巡らされていた。ミソラは何も言わなかった。トウヤも何も言わなかった。
 晩飯を食う時だけは、ポケモンを介さずテーブルを囲まなければならない。ハギがいる空間では、トウヤもミソラも、徹底して芝居を打った。ますます仲の良い兄弟のように会話をして、互いの言うことで笑ってみせたりもした。だが、目だけは、頑なに見ようとしなかった。彼らが隠そうとするぎこちなさを感じるほど、タケヒロは口数を減らしていった。ハギも薄々察し始めていたかもしれない。
 ハギ家だけでなく、ココウの町の中で、ミソラは笑顔を見せながら、ずっと俯きがちに過ごしていた。






 誰も遊びに来ない家で、女は一人、黙々とショートケーキを口に運ぶ。
 皆に振る舞いたかった贅沢品だ。以前四人で集まった時に、トウヤがここのケーキを持ってきた。全く同じ商品のはずだが、幸せの味はしなかった。淹れた紅茶もどことなく不味い。生クリームの重さを飽き飽きしながら喉奥へ通して、残り三つを箱のままゴミ箱に放り込んだ。期限は昨日で切れている。
 玄関の傍にぶら下がっているチリーンは、来客があれば驚かそうと考えているのかもしれない。ずっと沈黙したままだが。彼の脇、高い位置にある窓から、うっすらとした陽がテーブルを濡らす。花瓶の代わりのグラスの縁が、つやつやと場違いに光っている。今にも千切れそうな頼りない光を、アズサはじっと見つめた。そして徐にそれを持ち上げると、まっすぐ流しへと向かっていった。
 捨て子の彼は、花を贈るのが好きだった。野花と一緒に、少し眩しすぎるくらいの笑顔を、この暗い家に届けてくれた。冬が迫って、花が少なくなって、それでもどうにか新しいのを見繕おうとしていたのを、アズサはよく知っている。そんな言い訳などしなくても遊びに来れば嬉しかったのだが、照れくさくて、いつも厄介ぶってしまった。
 その花も、今は、冷たい水の底に、色褪せた花弁を沈めるのみ。
 水を捨て、枯れあがった雑草をそれもゴミ箱に捨てながら、女は思う。
 ああ、私は――





 本音を言ってしまえば、もう、ウンザリだったのだ。
 正真正銘の『ピエロ』だ、俺は。虚ろの上に正義漢の面を被って、吠える声は、どうせ小鳥のさえずりで。滑稽以外の何と呼べる? グレンが「トウヤとミソラを頼む」と言った。アズサが「あんたは絶対に諦めない」と言った。あーあー、うっせえよ、あほらしー。皆、買い被ってら。俺はただの小汚い鳥なのに。日常とかいう得体の知れない幻想のために、どうして俺ばかり、戦わされなきゃならないのか。力なんてないのに。どうせ俺は、捨て子なのに。
 己の屈折を、タケヒロは誰にも打ち明けなかった。打ち明けて許されるとも思えなかった。抱えきれない諦念は、自分に期待する者たちとは、到底共有なんかできない。自分に期待する者とは、もちろん、二羽の手持ちも含まれる。
 デタラメな歌を適当に歌った。ミソラの踊りは観衆を沸かせた。歌なんてきっと、誰も聞いちゃいなかった。拍手喝采に包まれる。ミソラはきらきらとした笑顔で応える。だが、ふとこちらの表情を目にすると、一瞬だけ、夢から醒めたような顔をする。それからまた、寒々しい作り笑いに戻っていくのだ。
 ハギ家の扉をくぐる時、アレをしようよ、とミソラが言った。なんのことだか分からず黙っていると、分からないタケヒロを非難するようにミソラは口を窄ませた。呪文だよ、最強の呪文。二人の秘密の呪文だってば。
「美人で、スリムで――」
 カウンターの中で皿を拭いていたハギが、顔を上げる。 
「――あれ、なんだっけ。忘れちゃった。あはは!」
 思い出そうともしない早さで、こちらに振り向いて、ミソラはけらけらと笑った。
 言いようのない失望が、痩せた喉元をせりあがってきた。痛くてたまらなかった。友人に同調できない、愛想笑いもできない、卑屈な自分が、ここにいた。走って逃げ出して、自分だけの秘密基地へ飛んで帰ってしまいたい。だがそれを、一体、誰が許すだろうか。
 笑い続けるミソラを無視し、黙って脇を通り過ぎながら、少年は思う。
 ああ、俺は――





 自分を騙そうとしていたのは、果たしてグレンだけだったのだろうか。
 最悪のケースなど、いくらでも想定できる。姉と繋がっている以上、ミソラがリューエルに情報を流している可能性も考えられる。アズサだって、自分などに接触してきた時点からして不自然な面は多く、タケヒロだって、近寄ろうともしなかったのが、この頃は部屋に居つくようにまでなった。どちらも買収されていないとは言い切れない。ハギだって、親族にリューエルがいるのだから――ああ、僕は、一体何を疑っていたのだったか? 自分が何に怯えているのか、考えるほどに分からなくなった。何のために欺かれるのか。信頼の置ける他者とは、何だ。
 ただ、今、ひとつ。信じられるものの少ない世界で、トウヤにはどうしても『嘘』であってほしいものがある。
 モモが死んでしまったこと、あの月の夜、それから父さんが言ったこと。ミソラが「誰かを殺したい」と言い始めた夕暮れ。夢なら醒めてくれと、この長くない生涯のうちに、幾度となく願ってきた。どれも無かったことにはならなかった。でも、今回こそは、本気なのだ。夢であってほしい。他のことは全部、紛い物だったって構わない。頼む。お願いだ。なあ、神様、そう呼ぶに値するものが、本当にこの世にいるならば。
 だがそれは、願えど、願えど、トウヤが何度目を瞬かせようが、頬を抓ろうが、頭を殴ろうが。必ず変わりなく、嘘偽りない、惨たらしい真実として、ありありと横たわっているのだった。
 ――大切な家族が、死んでしまうかもしれない。
 甘いと分かっている。だが、どうしても、ヴェルの傍を離れられなかった。
 隣でじっと俯いていたハリが、顔を上げる。常に緊張状態の手持ちたちの苛立ちは目に見えて酷くなっていく。近付く足音の主を、月色の目が睨みつける。トウヤも振り返った。まず、タケヒロが、辟易をべったり貼り付けた顔で、すたすたと歩き去っていく。待ってよぉ、と腑抜けた声をあげながら、ミソラが後をついていく。目の前の廊下を通り過ぎ、二人は階段をのぼっていった。一瞥たりとも、こちらにはくれなかった。
 ふっと警戒を解いたハリの吐く息を、背中に聞きながら、男は思う。
 ああ、僕は――





 タケヒロが遊んでくれないので、一人で外へ出かけようとして、ミソラはあるものを見つけた。
 寒さに耐える緑の中に、お星さまみたいに灯っている。美味しそうな紅色の実だ。軒先に並んでいるプランターの植物は、ヤヒという名前で、秋口から可愛らしい花をたくさん咲かせ続けていた。ミソラはいくつか実をもぎ取って、白い手のひらに包み込んだ。
 おばさんに見せようと家に戻ると、ハギはおらず、代わりにリナがちょろちょろと歩き出してきたところだった。
 ミソラの顔を見て、足を止める。それなりに距離も離れているのに、身を守るように首を縮め、おそるおそると見上げてくる。
 ミソラは腰を下ろした。それからヤヒの実をのせた手のひらを開いて見せた。
「リナ、おいで。お食べよ。きっとおいしいよ?」
 表情は笑顔で、努めて明るく。めいいっぱいの親しみを込めた。
 リナはかなり逡巡してから、そろそろとこちらに歩み寄ってきた。片方しかない耳を小刻みに震わせながら、鼻を鳴らしつつ近づいてくる。手の中を覗き込んだ。困ったような赤い目が、こちらを見上げる。食い意地の張っているはずの子だ。何故食べようとしないのだろう。自分の手からは、受け取れないとでも、言いたいのだろうか。
 表情を明るく保つのに、ミソラは必死になっていく。
 なんで、食べないの。なんで受け取らないの。僕はこうやってちゃんと笑顔で過ごしているのに。どうしてリナはそうできないの。そうできないくらい、リナは僕が嫌いだから? 手持ちなのに、あの人の手持ちたちと違って、リナは、僕を責めるから?
 ねえ、そうなの? ――そうなんでしょ。
「食べてよ」
 舌先が勝手に、凍りついた声を放った。
 しまった、と思った。こんな声を出すつもりではなかったのだ。リナはまたビクンと震えた。その喉の奥からねじれて歪んだ音がした。ぎゅうと赤い目が閉じる。ひくついていた鼻が固まる。それから意を決したように、実へ口先を近づけた。
 その時、一閃の咆哮が、空間ごと吹き飛ばすように貫いた。
 ミソラは飛び上がり、リナも飛び退いて、ばらっと散らばったヤヒの実を、駆け込む青い足が下敷きにした。捻り潰す。毒々しい色の汁が飛ぶ。リナとの間に割って入ったガバイトは、床を踏みしめ、大きな牙を剥いて、恐ろしい形相で唸っていた。あと一息で斬り込むことができる体勢で、真っ直ぐミソラを威嚇していた。
 ハヤテに『庇われて』、『向こう側にいる』、リナの悲壮な顔を見て、ミソラは思う。
 ああ、僕は――






 ――僕は、ひとりぼっちになったのだと。





 
 
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