『ハリが、従者をやめたいって。だから、ボールから逃がしてくれって』
 メグミのテレパシーが、ハリの代わりに伝えてくる。
 ……その瞬間、特別これといって、トウヤは何も感じなかった。頭が理解を拒むとか、思考回路が麻痺しているとか、そういう訳でもない。すとんと理解出来た。『辞めたい』。従者を。それからどう気持ちが動いたかと言えば、『なるほど』と、少し感心はした。それから気付いた。あの試合の直後でなければ、お互いに、こうは考えられなかったかもしれないな、と。
 トウヤは殆んど表情を変えず、向かいの従者を観察する。雪が湿らせていく冷たい石畳の上、無関心が行き交うココウ中央通りの真ん中、佇んでいるハリは、佇んでいると言うが、よく見ると立ち尽くしているようでもあった。仏頂面に見える顔はどことなく思いつめているし、笑った形の口元は、いつもより引き攣っているような気がする。
 見つめ合いながら、ふとトウヤは破顔した。
「……嫌だと言ったら?」
 そして悪戯っぽく笑って見せる。
 今度は案山子草の方が、目を瞬かせる番だった。
 表情の変化に目聡く気付くと、トウヤはちょっと得意になる。道行く人の、誰にも分からないだろう。この愛らしい表情が、ノクタスの驚いた顔だってことは。
 どれだけ動揺したらそうなるのか、ハリはぴくりとも動かなくなった。思う存分そうさせてやってもよかったが、迫りくる夜は耐えがたく寒い。帰るぞ、と言い放って、トウヤは南方へ踵を返した。やはり少し遅れて、足音はのそのそとついてきた。
「お前の考えてること、当ててやろうか。ボールの中に閉じ込められてると、色々と不便だ。例えば、昨日の晩みたいなことがあった時には、そもそもボールから出されてないと何も出来やしないもんな。僕が殺されたり、勝手に死んだりするのが嫌なんだろ。だからボールに入っていないといけない『従者』じゃなく、常に外にいられる『野良』として、僕をミソラから守ろうとしている。違うか?」
 ひとりよがりな解釈だ。だが何故かトウヤの中には、根拠不明の自信も満ち溢れているのだった。
 ハリは、断られるだなんて思ってもみなかったのかもしれない。今朝までの自分だったとしたら、本当に受け入れていた可能性もある。受け入れられると確信してこんなことを言い出すのであれば、不甲斐ないやら、悲しいやらだ。だが、それほどの覚悟を決めてくれたことに関しては、若干嬉しいような、むず痒い心地もする。
 当たり前だが、返事はない。ハリが鳴き声で返事をしたことなどない。いつだって背後から、雰囲気で圧をかけてくるだけなのである。その雰囲気がいくらか刺々しくなったのを、トウヤは今日も、背中越しに感じる。これは、おそらく、あっさり看破されて恥ずかしいから、照れ隠しに怒っているのだろう。グレンより長い、十四年だかの付き合いだ。酸いも甘いも、すべての苦楽を、共に越えてきたと思っている。
 物言わぬハリの代わりに、ふふ、と、メグミの笑い声が聞こえてくる。認めそうもないので、トウヤは更に続けた。
「逃がしてはやれないが、代わりに僕から頼まれてくれよ。しばらくボールに戻らずに、出しっぱなしにされててくれないか。お前が隣にいてくれたら、多少は眠れるかもしれない」
 歩き続ける。当然の無言。返事は? 問いかける。無言が続く。そして、メグミの含み笑い。
『通訳は、いらないって』
 すたすたと歩調を早めたハリが、トウヤの横に並び、顔を上げた。
 被り傘の影になっている表情は、やはり仏頂面で読みづらい。全部伝わる訳じゃない、通じ合っている訳じゃない、だが、共鳴して怒ってくれる、代わりに仇を討ってくれる。手持ちたちは、半身のような存在だ。全部は分からなくてもいい。ただ、不確かなこの世界で、傍に立っていてくれるだけで。
 棘の生えた腕を上げたかと思うと、ハリはどん、どん、と大きく二回、己の胸を叩いて見せた。
 ――任せておけ。そんなところだろう。
 いつだって自分を見守る月と、トウヤはまっすぐ目を合わせる。
「頼りにしてるよ、ハリ」
 頷きあって、軽く笑った。二つ目、三つ目のボールも確かめるように叩きつつ、トウヤは自宅へと帰っていった。
 ひとひら、ふたひらと。夕闇に溶け残る雪が増えていく。屋根が、石畳が、染まりつつある。到来した冬の色だ。やがて雪は、目の前のすべてを埋め尽くし、この町から何を奪い、そして何をもたらすのか。自分はその時、どうするのか。
 先行き不安の未来に於いて、確かに分かることが、一つだけある。
 ――もう二度と会わないと言ったが、また、どこかで会うだろう。だから、その時は今度こそ、完膚なきまでに叩きのめしてやる。そして、良い勝負だった、と、心の底から笑ってやるんだ。
 そのために、この冬を、まずは戦い抜かなければ。





 トウヤとタケヒロと別れてから、アズサはすぐに裏路地へと向かっていった。
 ココウスタジアムから目的地はそう遠くない。表情を陰らせる黒いフード、赤い隊員服を包み隠す黒のマントを翻らせながら、淡々と歩き続ける。ミソラを探す、と言ってはおいたが、どこにも立ち寄らず、他の物に目もくれなかった。足早に自宅まで戻ってきた。戸を開ける。誰も迎えない、真っ暗な家。中に入り、後ろ手に、戸を閉める。
 ――その場で、女は膝から崩れ落ちた。
 冷え切った身体を抱く。全身の震えが止まらなかった。よくここまで戻ってこられたと自分を讃えたい。床板の間から不気味な悪寒がせりあがってくる。早鐘を打つ心臓は今にも口から飛び出さんとしているようだ。浅く何度も息をつき、整える。冷静になれ、冷静になれ、と自分に言い聞かせても尚、絶望的な恐怖感が無情なまでに膨張していく。肩に手を置かれ、背後から、じっ、と見つめられているようだった。顔のない、得体の知れない何者かに。
 グレンがリューエルの団員だったとトウヤが言った。
 いつから知っていたのかと問えば、随分前から、と彼は答えた。平然と。半分笑ったような顔で。
 彼の言葉がアズサの中で『別の事象』と繋がったとき、一斉に血の気が引いていった。悔しげに顔を歪めたタケヒロの隣で、一刻も早く会話が終わることを祈っていた。表情は悟られなかったろうか。変な事を言わなかったろうか。奥歯が震え合わさって鳴る音を、耳の良い彼に、聞かれなかっただろうか。
 どうして今日まで気付かなかった。自分は、なんと愚かなのか。
(……ユキ、ホシナ)
 よろりと立ち上がる。机に腕をつきながら、部屋の向かいの電話機を目指した。何を話せばいい。どう報告すればいい。考えを遮断するように、乱雑に散らばった幾多の記憶が、無造作に脳内を掻き回していく。
 グレンのことは、アズサも少し前から怪しんでいた。少なくともリゾチウムを常用している疑いは強い。薬を入手することのできる一般人なのか、リューエルの関係者なのか。トウヤやタケヒロと親しい彼を追及するのは憚られ、様子を窺うに留めていた。だが、彼に最も近しい人物であったトウヤが、知らぬ存ぜぬのふりをして、長いこと彼を泳がせていた。
 では、――自分は。
 受話器を取る。震える指がひとつずつ、記憶した番号を打ち込んでいく。
 夏の終わり頃、この家で、ハシリイで掴んだと言う『リューエルを見分ける方法』のことを、アズサはトウヤから聞き出そうとした。トウヤはそれをはぐらかした上で、アズサに妙なことを言い出した。
『君が僕に名前を教えないのは、僕のことを信用していないからだ』
『僕は君のことを、信用してもいいのか?』
 あれは、だとしたら、あれは――一体、何だ?
 最後の番号を打ち込みかけた指を止め、受話器を元に叩きつけた。
 蹲り、顔を覆う。
 ダメだ。連絡して、どうなる。自分の『失態』を本部にしらしめて、自分の評価を下げて、それで状況は改善するのか。
 信用していいと、あの時、アズサは答えられなかった。何を言うこともできなかった。トウヤの方から、今のは無しだと、信用してるよ、と返されただけだ。その補填は何もしていない。
 クオンのキャプチャに挑んだ時、アズサは彼らを頼っていた。トウヤは身を呈して尽力して、一瞬恋人のふりをして、挙句恋のような真似までした。何故あんなことが出来たのだろう。恋心のようなものを無下にされ、本気で怒り、チリーンを投げつけ、喧嘩みたいに言葉をぶつけ。ああ、何故、あんなことをしてしまえたのだろう。何がビジネスライクだ。すいませんでしたと謝られた時、それを気にしていないと言った時、彼とのそんな関係性を、確かに真実だと感じていたのだ。口では仕事と言いながら、この人は私の友人なのだと、心の底から思っていたのだ。だからあの日、皆で笑いあって、一緒に写真を撮って、アズサはあの時、なんだか本当に幸せなような気がして、この空間の幸福さが、本当の本当に、『本物』なんだと感じてしまって――、その間、もしかしたら自分はずっと。
 『泳がされていた』のだとしたら。
 何かにすがりたくて、ボールを解放した。涎を垂らしたチリーンの目はどこにも焦点が合っていない。頭上窓の外では、雪がちらつき始めていた。凍え縮こまった心は、冷たいポケモンを抱きしめたところで、ますます冷え切っていくだけだった。
「怖い」
 ぽつりと呟いた声は、そのまま静寂に呑み込まれていく。
 怖い。怖い。怖い、怖い、怖い。そして、この感情は、誰に受け止められることもない。
 身内と隔絶された町で、孤独が襲いかかってくる。
 信用されていたのではない。信用されていると、信じていただけ。信用させようとして、信じさせられていたのが、自分だったのだろうか。本当に。
 私が、信じてしまっていたものは――





 ――俺が、信じてしまっていたものは。
 一体、何だったのだろうか。俺が必死に守りたがっていたものは。皆で明るく、呑気に楽しく笑ってるような毎日を、ずっと守りたいと思っていた。ミソラが誰かを殺すだなんて言い出して、トウヤが加担しようとして、その日常が脅かされていくのが嫌だった。だから抗おうとしていたのだ。だが、結局タケヒロはミソラを止められなくて、しかもミソラの殺したがっていたのはトウヤで、その上、トウヤが殺したのは、彼の両親だったのだと言う。じゃあ、トウヤと知り合ったばかりの頃、雛鳥みたいについて回っていたタケヒロに、嬉しげに両親の話をしていたあいつは、何だったのだ。タケヒロが慕っていた家族思いのあいつは誰だったと言うのだ。更に、その横でいつも馬鹿みたいに笑っていた男が、――、だとしたら、
 俺の守ろうとしていた日常というのは、一体、何だったのだろう。
 ミソラを探してたはずの足は、ある家の前で止まっていた。
 今にも崩れ落ちそうな、古めかしい一軒家。「もっと良い場所に住めばいいのに」と、捨て子の身でありながら何度か言ってみたことがある。そのたびにいつも、笑って流されていた。「俺はこんな町に定住する気はないから、仮の住まいはこれでいいんだ」なんて言って。
 タケヒロは子供だし、ずっとこの町に住んでいるから、余所のことなど分からない。だが、十何年も拠点にしている家を「仮の住まい」と言えてしまうのは、今になって振り返れば、確かに普通ではないだろう。グレンという呼び名自体が偽名という話も聞いたことがある。グレンにとれば、この町での暮らしも人付き合いも、ほんの仮初にすぎなかった。そういうこと、なのだろうか。
 ツーとイズには別のところを当たらせていて、ひとりきりだった。寒さには強い方だと言う自負があるが、その時ばかりは、北風の冷たさがやたらと骨身に沁みて感じた。戸を叩く勇気を出せないままタケヒロはしばらく立ち尽くしていて、少し経って、勝手にその戸が押し開かれた。
 小さな戸口から慌て気味に飛び出してきた大男が、目の前の障害物に気付いて、うおっ、と立ち止まる。それが誰なのかすぐに気付いて、おお! と顔を華やげる。さっぱりとした声、明るい表情、大袈裟な身振り。どこを取ったって、そこにいるのは、疑いようもなく、いつも通りのグレンだった。
「坊主! 丁度よかった、お前に用事があったんだ」
 ニカッ、と昼間の太陽みたいな笑顔を浮かべたグレンは、大荷物を抱えていた。その向こうに垣間見える家の中は、普段は常識を疑うほどとっちらかっているというのに、妙に殺風景になっていた。
 それが何故なのかなど、本当は、タケヒロは知りたくなんかない。
「……どこ行くんだよ」
 ふてくされた少年に、男は普段通りの陽気な声で答える。
「お前にこの家を譲ってやろう。見てみろ、中も見違えてるぞ。本当は掃除も出来るんだ」
「いらねえよ」
「ハハ、家なしピエロが遠慮するな。もう暫く……、いや、もう戻らんからな、この家には」
 そう言うグレンの左腕に、いつか見たものを見つけた。
 特別に劇的な瞬間ではなかった。ただ、それが何なのか、記憶のとある一場面と照合し終えた段階で、重くて冷たい鉄の泥みたいなものが、心臓のあたりに広がっていった。じっと一点を見つめるタケヒロが何を見ているのか、グレンはすぐに気付いた。わざとそんなことをするのだろうか、それを見やすいように、ほれ、と左肩を押し出してくる。
 深い緑に、豪奢な金の刺繍。
 ぐったりと頭垂れるエイパムを摘み上げた、あの大人たちと同じ印――グレンの腕に巻き付いているのは、リューエルの団員であることを示す腕章だ。
「お前は、俺たちのことが嫌いだろう」
 見せつけるグレンの声と表情には、少しの陰りが含まれていた。少ししか含まれていなかった。
 リューエルという小汚い大人の集団が、タケヒロは大嫌いだ。だからグレンがあいつらの仲間だなんてトウヤが言った時、タケヒロはすぐには信じなかった。いや、本当は、どこか腑に落ちたような気もしたのだ。けれど理屈などではなく、どうしても、納得してしまいたくなかった。好きだったものが、見えなかったところで、嫌いなものと交わっていただなんて。そうしながら、それを黙って、自分と付き合っていたなんて。
 腕章から目が離せない。突きつけられた現実に、どうやって立ち向かえばいいのか分からない。掴みかかって餓鬼みたいにわめきたい衝動を必死に堪えながら、タケヒロは小さな拳を握りしめた。
「……ロッキーのこと、知ってんのか」
「ロッキー?」
「エイパムだよ、春先に、リューエルたちに連れていかれた」
「ああ」
「どこにいんだよ、帰ってくるのかよ、あいつら、皆、ロッキーを待ってて――」
 精一杯凄んだはずのタケヒロに、
「……そうか。可哀想になぁ……」
 グレンは、ありきたりな苦笑を浮かべた。
 彼の返事に、全身を燃やそうとしていた熱が、すっと冷めていくのをタケヒロは感じた。
 声色は、恐ろしいほど普段通りで、言葉とは完璧に裏腹だった。だから、その声が、何もかもを物語っていた。
 明るくて、自由奔放で。頼れる兄貴肌で、強くて、優しくて。タケヒロの抱いていたグレンという、あまりにも大きな人物像。罅が入る。音を立て亀裂が広がっていく。じきに崩れ落ちてしまうだろう。その様を見ていたくない。自ら破壊したくなんて、尚更ない。
 嫌だ。こんなの、嫌だ。言い聞かせるように、崩れ落ちそうになる自分自身に楔を打ち込むように、タケヒロは必死に捲し立てた。
「俺、お前がリューエルだってだけで、嫌いになれねえよ。トウヤ兄ちゃんと一緒に俺の世話してくれたこと、俺、絶対忘れねえから」
 守りたがった日常。愛していた日常。今、切に戻りたがっているその景色を、根底から覆される。そんなの駄目に決まっていた。信じていたもの、慕っていたものが、実は、まるきり、嘘だったなんて。認められる訳がない。
 振り翳していた正義の剣が、実は、ハリボテだっただなんて。
「……そいつに伝言を頼んでいいか」
 タケヒロの言葉を、グレンは聞くだけ聞いて、ちっとも答えようとしなかった。
「三匹目をそのまま匿っているつもりなら、相応の覚悟をしろと。そう伝えといてくれ」
「なんだよそれ」
 訳分かんねえよと、吐き捨て、悔しさを瞳に滲ませる。
 大人は卑怯だ。大人は狡い。グレンという奴は、そんな『大人』の一角だ。そしてタケヒロは子供だ。どれだけ強がったって、それは揺るぎない事実なのだ。子供には、力がない。崩壊していく日常は、非力な自分の腕などでは、欠片もとどめることができない。
「自分で言えばいいじゃねえか」
 どうしようもなくこみあげる怒りは、半分以上の虚しさも孕んでいた。
「なんでだよ、分かんねえよ、なんでグレンは逃げるんだよ、なんで一緒に戦ってくれねえんだよ」
 どんどん吐き出した。だが、真正面から顔に吐きかけることができなかった。掴みかかって強く揺すれば、少しは何か変えられるかもしれない。けれど仮に、そうしたところで、何も変わらなかったら? タケヒロの無様な悪あがきなんかで、そんなちっぽけな力なんかで、何一つ変えられないという、どうしようもない現実が、遂に目の前を塞いでしまう。ずっと見て見ぬふりをし続けてきた諦観を、直視するためだけの勇気を、どうしても、振り絞ることができなかった。
「戦えって、戦うしかねえって、俺に言ったじゃねえか!」
 顔も見ず、叫ぶしかないタケヒロに、
「悪いが、仕事が入ってな」
 冷たくも、温かくもない、それまでの延長線上の調子の声で、グレンが返した。
 崩れ落ちる。止められない。
 何を言っても無駄だと、とっくに、分かってしまっている。
「グレンはそんな奴じゃねえ」
「買い被ってくれるな」
「アズサの時は助けてくれたじゃねえか」
「あのルカリオと戦ってみたかったからなあ。こう言っちゃなんだが、俺は遊んでいただけだぞ」
「嘘つくなよ、なんでそんな嘘つくんだよ!」
「……タケヒロ」
「お前は良い奴だって、俺は、俺は知ってるんだからなッ!!」
 全身全霊の叫び声は、暮れゆく町に、虚しく、霧散していくだけだった。
 ココウの上空を覆う雲は、ぴったりと切れ間を閉じていた。元からそうであるかのような、青空なんか最初から存在しなかったかのような、一面の寒々しい灰の色。欠片が剥がれて、ひらりひらりと運ばれてくる。
 やや呆れたような、苛立った声で、何言っとるんだ、とグレンは返した。
「トウヤに聞かんかったのか? この町には端から仕事で来とったんだ。あいつの情報をリュエールに流して、ココウに留めておくのが、俺の『任務』だった。何も知らんあいつと黙ってつるんでいるだけで、金を貰っていたんだぞ、俺は」
 一言一言、重石を重ねていくように、男は子供に言い聞かせる。
「それでも俺は、『良い奴』か?」
 タケヒロは顔を上げた。
 見知ったグレンの顔は、少し怒っているようで、それに似合わぬ、何かを諦めたような哀愁を、霞みたいに纏っていた。
 その顔を見て、お前は、それでも良い奴だと、もう、返すことができなかった。
 グレンと知り合った頃、トウヤと三人並んで座って、毎日馬鹿な話をしていた。捨て子同士で閉じ籠っていた荒んだ世界に、大きな風穴を開けられた日々。彼らが楽しげに語ってくる知らない街の話を聞いて、世界の広さを想像した。胸が膨らんで、わくわくして、生きるっていうのも、なかなかいいもんなんじゃねえか、なんて。
 彼が与えたその世界が、薄い硝子みたいに、簡単に罅割れて、砕け散って、ゴミになって壊滅していく。
 それを、茫然自失として、ただただ見ているしかなかった。
 タケヒロの表情に、何を思ったのだろうか。グレンは小さく息を吐き、それ以上、何を言うのもやめたようだった。じゃあな、と一言残して、置いていた荷物を担ぎ上げる。ボールを一つ手に取った。その仕草を見て、トウヤの顔を、タケヒロはふと思い出した。グレンが溜め息を吐いている姿や、珍しく湿気た顔をしていた時のことも、立て続けに蘇った。グレンの家に、ミソラとトウヤと集まった夜。トウヤは酔い潰れて眠っていて、悪酔いしたようなグレンは、どこか自暴自棄になっていた。その彼が、寂しげな笑顔で子供に零した。
『友達だと思っているのは、俺だけかもしれんなあ』
 その声が頭によぎったとき、一瞬、目の前に光がちらついた。
 そんな光に、実を言えば、タケヒロはもう縋りたくなかった。それでも、言わなきゃ気が済まなかった。嫌がらせをするような気分だった。相手にも、自分にもだ。生々しい傷口に、触れれば痛いと分かっているのに、それでも触れてみたくなるような。自分が見ていたグレンと言う男が、果たして何だったのか、開けなくてもいい蓋を開けて、確かめるために。
「……でも、友達なんだろ?」
 小さく、タケヒロは問いかける。
 グレンは答えなかった。
 ただ少しだけ、肩を竦めて、苦笑を浮かべるだけだった。
 それがタケヒロが見た、グレンの最後の顔になった。大きな荷物を担ぎ直し、横を通り抜ける。去り際に、大きな手が伸びてきて、伸ばしっぱなしの黒髪を、がしがしと乱暴に掻き撫でた。
「トウヤとミソラのこと、頼むぞ」
 背中に彼が消えていくのを、タケヒロは最後まで振り返らなかった。
 ボールを解放するような音が聞こえた。何か声が聞こえた後にすぐ足音が消えたから、おそらくテレポートしたのだろう。
 一人になる。音が無くなった。世界は静かで、薄暗くて、寒かった。
 狂ったような風が、軽くてちっぽけな雪の粒を、足元で掻き回している。
 涙も出ない。怒るだけの声も出ない。ふと見上げる。タケヒロの前に残ったのは、開きっぱなしの扉と、その向こうの、知っているような知らないような、がらんとしたボロ家だった。びゅうびゅうと吹きつける北風に、トタンを打ちつけた釘が緩んで、ギシギシと不穏な音を立てている。今にも崩れそうだった。
 グレンの去った家を見上げながら、何かに似ているなあ、と、タケヒロは思う。
 一旦、周囲を見回した。いつも傍らにいるツーもイズも、どこにも見えない。そろそろミソラを見つけてくれただろうか。そうだったらいいのにと心の片隅で願う。見つけて、そっちで勝手に連れ戻してくれるか。或いは、――最後まで見つからないままで。
 今は、誰も、いないから、少しだけ、本音を零しても、許されるだろうか。
 もう一度、家を見上げた。
 見上げながら、少年は、ぼそりと呟く。

 木端微塵に。
 いっそ、面影も残らないくらいに、

「全部、崩れちまえばいいのに」





「忘れちゃった」

 リナの赤い目の中にいる、金髪の女の子みたいな少年が、ぽつんと呟いた。
 宝石のような灼眼と、対照的な、空を掬った美しき碧眼。穢れを知らない無垢な白、星屑をかき集めたような金。輪郭の曖昧になる闇の中で、二人は向かい合い、そして一人が、ふわり、と微笑む。持ち上がる柔らかな頬。あくまで穏やかなカーブを描く目元。

「――全部、忘れちゃった!」

 そう言って、ミソラはきらきらと笑った。
 段々と大粒になっていく、降りしきる灰色の雪の中で、ミソラは笑い声をあげた。無邪気な笑い声はしばらくやむことなく、その響きは、枯れた草原に、時期外れの花がちりちりと咲いていくようでもあった。それから、よいしょっ、と、大袈裟な掛け声をあげて立ち上がる。リナに噛みつかれた右足はずきんと痛み、滲む血の色も少しずつ広がりつつある。だが、歩けないというほどではなかった。だから平気だ。
 『家に帰って、あの人に、包帯を巻いて貰えばいい』。
 アチャモドールを拾い上げて、すっかり積もってしまった雪を払う。フーフーと荒く鼻息を立て、怯えたように竦んでいるリナを、ミソラは見下ろした。何故怯えているのだろう。考えてみる。そうだ、リナが怯えるのは、自分が怯えているからだ。あの人に、そう教えてもらったことがある。怯えていないことを示すために、小首を傾げて、ミソラはにっこりと笑って見せた。
「帰ろっか、リナ」
 僕は、そうすることが、当たり前だから。
 長く、長く、固まったあと、俯くようにして、リナは小さく頷いた。
 ミソラも笑顔で頷く。
 踵を返す。一面灰色の空の下に、取り残されたような土色の町。雪が舞い降りていく様は、なんだか埃を被っていくみたいにも見えた。冷たいドールを抱きしめ直して、あの赤い屋根の家を目指して、ミソラはずんずんと歩き始める。



 これでいいんだ。

 どうせ、この町は、嘘吐きだらけなのだから。





 
 
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