16



 三年前のことだが、と突然切り出したトウヤに、ミソラは口をつけていた銀色のカップを離した。
「僕は秋の終わりの頃から体調を崩し始めて、冬の中頃にはほとんど動けなくなっていた。嫌な熱が引かなくて、頭も働かなくて、延々と夢の中を彷徨ってるような状態だった。昼も夜も分からないような日がひと月ほど続いた」
 宵の口、乱雑に撒かれた星屑と月の下で、一行は煌々と燃えあがる焚火を囲んでいた。ガバイトのハヤテは丸まって寝息を立てており、ノクタスのハリは、めらめらと揺れる炎をじっと黄色の瞳に映している。
 ミソラは黙って、やや虚ろな声で語り始めた男の顔を眺めていた。
「ちょうど、僕の十九の誕生日のことだ」

 ――その夜更け、トウヤはふいに目を覚ました。
 いやに明るい夜だった。窓の外には大きな月が輝いていて、傍らにはそれよりも濃い色の二つの丸い瞳が、じっとこちらを見つめていた。その目に映り込む男の酷くやつれた様子に、トウヤは僅かに苦笑いを浮かべて、おはよう、と小さな声で問いかけた。若干の自嘲の込められた深夜の挨拶に、ハリはこくりと頷いて、すぐに立ち上がると部屋を出ていってしまった。
 ハリの座っていた場所には、まだ手のひらほどの大きさしかないフカマルが、すやすやと寝息を立てている。体を起こして右手で頭を撫でてやると、フカマルは幸せそうに口元を緩めた。
 泥のように全身に纏わりつく倦怠感も、痣の這う左腕の痺れも相変わらずだった。だがその日はひとつだけ、塞ぎきっていた心持ちだけは、普段より幾分軽い気がした。トウヤはよろりと起き上がると、薄暗がりの中、覚束ない足取りで窓の方へと向かった。
 トントンと階段を上る足音を聞きながら、窓を開け、空を見上げる。ひんやりした冬の夜風がくすんだ色の頬を撫ぜ、白んだ息を流していく。闇に呑まれてしまいそうなぼんやりした気分で、トウヤはしばらく外の世界を眺めていた。
 戸の軋む音がして、親しい気配が近づいてくる。突然の外気に目覚めたらしい幼子がもぞもぞと動き出す。二匹がその背中に目を留める中で、彼は抑揚のない声で、きれいだな、と呟いた。
 そこには月があった。不自然なまでに大きな満月が、眼下のココウの町並みと、その向こうに地平線まで続く滑らかな森林とを、冷やかに映し出していた。
 トウヤは窓を閉めると、振り返り、ハリの差し出した湯呑みへと手を伸ばした――その時、ピカッ、と閃光が差し込んで、部屋に光陰をくっきりと描き出した。
 何事かと窓の方へ向きなおそうとしたトウヤの腕を、何かが強く引っ張った。刹那、ぶつりと糸が切られたように、体中の力が抜け落ちていった。遠く地響きが轟いた。ハリの胸へと崩れ込みながら、トウヤは訳も分からぬまま、殴られたような衝撃を受けて吹っ飛んでいく意識の中で、窓枠の中の満月が、いつもと変わらぬ顔でそこに佇んでいるのを見た――

「……それからしばらくのことを、僕はいまひとつ覚えていないんだけど」
 トウヤはそこまで語り終えると、ふいに首を回して、背後に続く真っ暗な砂漠へと目をやった。
「ここからは聞いた話だ。雷のような閃光が走って、地鳴りが響いて、大地が揺れた。起きていた人は皆、森の奥に落雷があったものとばかり思っていた。日が昇って、事の次第が知れ渡った頃には、通りは本当に大混乱に陥っていて」
 
 森が黒い、と、そんな声が町じゅうを飛び交っていた。
 実際に外まで確かめに走った人も多かったが、そんなことをせずとも、事態がいかに深刻であるかは人々の間にすぐに浸透していった。
 家々の壁に、窓に、熱を受けたような痕跡はなかった、それなのに――鉢植えの花が、花壇の草木が、農地の野菜が、道端の雑草が、生きて呼吸をしていた全ての植物が、日の光の下で真っ黒な姿を晒していた。太陽の昇る方向も、また沈む方向でも、貧民の町を取り巻く全ての森の木々たちが、昨晩まで青々と茂っていた草花が、まるで炭のような何かへと硬変してしまっていた。触ると脆く、ぼろぼろと崩れ、その欠片は風に乗ってどこかへ飛ばされていった。
 その晩から猛烈な雨が降り、本物の雷が轟いた。嵐は三日間ココウを暗黒の世界へ陥れた。
 四日目の朝、人々が朝日の中に見たものは、雨風に打たれ粉々に砕け、『灰』と化した植物の残骸が広がる、どこまでも黒ずんだ平らな大地であった。
 建物にまで粉塵のこびりついた町で、人々はただただ茫然と立ち尽くしていた。
 やがて灰の多くが飛ばされてしまうと、ココウ周辺の森林は一面、白けた地盤の露出する岩石砂漠となった。しばらくの後、つい先日まで自然の営みが繰り返されていたその場所には、飢えて死んだポケモンたちの死骸だけが、ぽつんぽつんと残されてしまった。

「……それで、あの光のことを、町の人間は『死の閃光』と呼んでいる」
 彼にしては随分長い話を終えて、トウヤはうんと伸びをするとそのまま仰向けに寝転んだ。
 ぱちぱちと火花の爆ぜる音が、しんとした空気を彩っている。ミソラは口をつぐんだままちらりとハリを見た。草色のポケモンは相変わらず焚火を睨み続けている。
「僕らは明日、その光の起こった所を見に行くんだ」
 男の言葉に、ミソラは控えめに声を発した。
「そこには一体何があるのですか?」
「分からないから行くんだ。きっと面白いものが見れる」
「いつもこんな風に、何か珍しいものを見るために旅をされているんですか?」
「……いや」
 トウヤはその問いかけに一拍詰まってから、はぐらかすような口調で答えた。
「まぁ、それはお前には関係ないかな。なぁ、ハリ」
 二人が視線を移す。ハリは小さく頷いた。
 彼らのやりとりを見たミソラの頭の中で、昼間のタケヒロの声が反響する。『なんか、ポケモンだけが気の置ける相手、って感じだよなぁ、あいつ』……。
「……でも、危ないのではないですか?」
「危ない? あぁ、危ないようなら、すぐに引き返すよ」
「いえ、何があるのか分からないというのもそうなのですが……お師匠様がその頃体調を崩されていた原因は、『死の閃光』にあったのではないでしょうか。だとしたら、時間が経っているとは言えあまり近づかない方が……」
 その時、赤く照らされた男の顔が険しくなって見えたので、ミソラは言葉を紡ぐのをやめた。
 寝ぼけたような唸り声がして、ハヤテの尻尾がごそりと動いた。渇いた地面がざりざりと鳴った。子供の双眸から逃れるように、トウヤは体を横に向けた。
「……どうだろうな。いや、そうなんだ。光が直接どうだかは知らないが、『灰』とか言われている残留物には、少なからず人体にも害のある物質が含まれている、らしい。僕はその、それに……少し過敏な体質、というか」
 歯切れの悪くなった男の左腕に、ミソラは目をやった。彼の顔の前方に投げ出されているそれには、およそいつだって怪我人のように包帯が巻いてあって、中身は赤黒く変色していること、そして彼が左頬にまで侵食したその痣をしきりに気にしていることを、ミソラはよく知っていた。
「でも今はもう、その灰もそれほど飛んでいないらしいから、ミソラの体には大丈夫だろう。不安ならハヤテを連れて先に帰ってもいいが」
「お師匠様は大丈夫なのですか」
「……平気だよ」
「本当ですか」
「……、どうして、それがお前に何か関係あるのか?」
 ハリが僅かに顔を上げる。語気は弱くとも若干棘のある物言いに、ミソラは何も言えなくなった。
 トウヤはモンスターボールを取ってハヤテを戻すと、ミソラから顔を背けたまま、早く寝なさい、と呟いた。ハリは何度か瞬きを繰り返すと、ふいと炎へ視線を戻した。
 『ポケモンだけが、気の置ける相手』
 一体、『関係』ってなんだろう、とミソラはじっと考えた。
 自分と彼とは関係がある。あるに決まっている。ミソラが記憶している、まだ短い過ぎた時間の、一番多くを共有したのは、自分を拾った彼であった。流れてココウに暮らし始めて、ハギのおばさんを好きになったし、タケヒロとも友達になって、ポケモンのことも知ってきた。けれど、どれだけ世界が広がったところで、誰が視界の中央にいるかは全くぶれてこなかった。タケヒロに、当の本人にさえ何を言われたところで、トウヤを慕う一途な思いは、盲目なまでに溢れ続けた。
 その時ミソラは、不安とか悲しみとか、そういう類の感情は、あまり感じていなかった。ただ、関係ない、と突き放されたのは少し堪(こた)えた。ぎゅうと心臓を締めつけるような落胆があった。こんなに見つめているのに、相手に相手と思われないのが、目の前にあるのに、爪が掠りかけるのに、いっこうに手の届かない遠く遠くの何かのようで、なんだか虚しくて、どうしようもなくもどかしくて――なのに不思議と、昼の怒りに通じた方向へは、ミソラの感情は行かなかった。
「……お師匠様」
 なんだ、と大儀そうに返された声に触発されるように、ミソラは急に姿勢を整えた。きりっと正座をして、ハリを一瞥して、まっすぐ男に向き直って、それからすんと透き通った声で言った。
「お師匠様。私をモンスターボールに入れてください」
 ハリがもう一度顔を上げ、トウヤが浅く息を吐いた。
 しばらくの間、妙な沈黙が流れた。ミソラはごく真剣な表情で、男の背中を見つめ続けた。
「私に、お師匠様の手持ちの一匹として接して欲しいのです。ハリやハヤテと、ポケモンたちと同じように接して欲しいのです」
 気を許して欲しい、という意味で放たれたその言葉は、しかしトウヤの中でもっと別の意味合いで咀嚼されたようだった。
 長い長い静寂があって、遠くでポケモンの遠吠えが聞こえた。
「……あまり困らせないでくれ」
 相当言い淀んでからそれだけよこすと、トウヤはもうこれ以上何も言うまいと決め込んで目をつぶった。
 ミソラも何も返さなかった。焚火の前に座りなおすと、リリン、とひとつ鈴が鳴って、冷たい三日月の方へと消えていった。三角座りの膝に顔を埋めて、ミソラはそのままの体勢で眠り始めた。
 ノクタスが二人のことを見守る中、威勢の悪くなった炎は夜明けまでぐずぐずと燻(くすぶ)り続けていた。





 東の空がうっすらと青ざめはじめた頃、一行は適当に食事を済ませ、日が昇る前にその場所を後にした。
「お師匠様」
 早足に歩いていくトウヤの背中を、ミソラは時折小走りになりながら追いかける。
「お師匠様、なぜ人とポケモンは同じものを食べないのでしょうか」
「……なぜ?」
「不思議ではありませんか。ハリとハヤテはいつも同じようなものを食べているのに、人は毎日違うものを食べますよね。ポケモンにはあまり調理されたものを与えません。人が食べるようなものでも、ポケモンに与えられた瞬間に、食事は『エサ』と呼ばれます」
「もしハリが肉しか食わないと言えば毎日肉を食わせるけれど、そうじゃないだろう」
「でも、ポケモンはものを言いません」
「それはそうだが、ちゃんと見てればそのくらい分かるだろ。それに、固形飼料はポケモンに必要な栄養がちゃんと取れるように作られているんだ。大丈夫だよ」
「ポケモンたちは満足しているんでしょうか。固形飼料って、私には、とてもおいしいもののようには思えないのです」
「そんなに不味いものでもない。食ってみるか?」
「い、いえ……」
 トウヤは肩越しにミソラの引きつった顔を見て、もう一度前を向きなおした。
「ハリは昔からこいつが好きなんだ。ハヤテはたまに生肉をやると凄く喜ぶ」
 メグミは辛いものが苦手なんだよ、と言いながらトウヤはトレーナーベルトを二度三度叩いた。
 地平線が眩い光を帯び始める。朝焼けが空の紺碧を侵していく。淡い日差しに滲んだ荒れ地の真ん中で、目の冴えるような赤色の花が、駆ける涼風にささやかに揺れている。借りっぱなしのコートの前をいそいそと閉めると、ミソラはふと顔を上げた。
「お師匠様」
「……なんだ」
「人間はモンスターボールに入りませんよね」
「そうだな」
「なぜですか?」
 ミソラの視界に入っていないことを意識しながら、トウヤは若干顔を渋めた。
「なぜだろうな」
「モンスターボールに入る生き物のことをポケモンと言うのでしょうか。ならば、ポケモン以外のすべてのものは、モンスターボールには絶対に入れないのでしょうか」
「さぁ、どうだろうな」
「お師匠様はモンスターボールに入ろうとしたことがありますか?」
「いや」
「……もしかしたら、入れるのかも」
 そんなミソラの呟きに、自分もこういう風に考える頃があったろうか、とトウヤは一瞬思いを馳せる。
「入れないんじゃないか?」
「そうでしょうか」
「あぁ。そういうものだよ」
「そういうもの……」
「人がボールに入れないことよりも、僕にはポケモンがどうしてボールに入れるのかの方が分からない」
 深刻な問題でも抱えているかのように顔を曇らせたまま、ミソラはひょいと振り返る。人のような植物のような、けれど人とはとても呼べない緑色の生き物が、てこてこと後をついてきていた。
 金色の頭が三つ揺れ、鈴が三回鳴るごとに、男が二回砂利を踏み、緑が四回地を跳ねる。
「何が違うんでしょうか……」
「え?」
「人とポケモンは、何が違うのですか?」
 喉から出かかった言葉は声帯を震わせることなく、胸の奥へと落ち込んで消えてしまった。
 その問いへの答えが見つからないことが原因なのだろうか、トウヤの中で、言いようのない不快感が渦を巻きはじめた。何が違うんだろうな、とひとりごちるミソラの声が、遠い異国の響きに聞こえた。従者の気配が微かに乱れる。意識の霧散するような、地に足のつかないふわふわした感覚が不安を駆り立てていく。妙な気分だった。丸腰でふらついているような、それなのに何かにつけられているような――囲まれているような。
 ざく、と踏みしめるように、ひとつの足音が止まる。続いてトウヤが足を止め、物思いにふけっていたミソラはあやうく背中にぶつかりそうになった。
「お師匠様?」
「静かに」
 ワントーン低いその声にミソラはわたわたと足踏みして、リリンと鳴った鈴を慌てて握りしめた。
 ノクタスが振り返り、笑ったような顔のまま、ゆっくりと姿勢を下げる。ミソラを挟み込む形でハリと背中を向き合わせ、トウヤは腰のベルトにひっついた、二つ目と三つ目のボールに手を掛けた。
「迂闊だった……お前が妙な話をするからだ」
「え? あの……」
「ミソラ、ハヤテに乗るやり方は覚えてるな」
「あ、はい」
「なら大丈夫だ。しっかりつかまっておきなさい」
 それだけ言うと、トウヤはミソラの足元へとボールの一つを落とした。
 白光の一閃。瞬間、明け方の不明瞭な世界を、鋭い遠吠えが貫いた。近い。首を回し、先の岩影から躍り出た無数の影に驚く前に、ミソラの細い体は、何者かに突き上げられて宙を舞った。
 されるがままのミソラを背中で上手く受け止めると、ガバイトは夜明けの方角へと走り出した。
 ミソラは小竜の首に無我夢中でしがみついた。二つ三つと黒い影が跳躍する。襲い来るポケモンの剥く牙に、ミソラは思わず目をつぶった――ギャン、と短い悲鳴がいくつか重なって、続いて何かが地に打ちつけられる音が背中の方に鈍く聞こえた。
 目を開くと、その翼で野良ポケモンを弾き飛ばしたオニドリルのメグミが、ものすごい速さで黎明の空を旋回していく。
「いいぞハヤテ、そのまま東だ! 絶対に奴らの顔を見るなよ!」
 足が竦むぞ、という男の声は、風に流されてほとんどミソラの耳には届かなかった。ハヤテはひとつ返事をして地を駆る速度を上げる。酷い振動の中でミソラは何とか振り向こうとしたが、諦めて進行方向を向きなおし、ほとんど締めつけるような勢いでハヤテの首を抱いた。
 メグミに乗っているトウヤは、左手はメグミの肩を掴んだまま、右手で一つ目のモンスターボールを握りしめた。ガバイトを追わんとする何匹かをもう一度翼でけん制すると、メグミは急激に天へと上昇する。それに野良ポケモンが気を取られる間に、トウヤは右手を下へ突き出し、ボールの開閉スイッチを押した。地上で数匹を引きつけていたノクタスが、瞬く間に赤い光となって手のひら大の球の中に収納された。
 急激に旋回し、東へと進路を取る。光の方へ疾走するガバイトと、朝日に煌めいている金髪の頭が確認できる。
 切りつける冷風を全身に浴びながら、トウヤは後ろを振り返る。いくつか鳴き声が聞こえて、ひと際甲高いものが吠えると、足音が一斉に動き始めた。黒い影が追ってくる。ひとつ舌打ちしてから、主は従者に速度を上げるよう指示を下した。
 滑空してきたオニドリルが、並走するようにガバイトの隣へとつける。
「ミソラ、平気か」
 その声に、ミソラはいっぱいいっぱいの様子で返事を絞り出した。
「はい!」
「奴らしつこいな。相当腹を空かせてるみたいだ」
 若干青ざめた顔のミソラは、ハヤテの背中にぴったりとくっつけていた顔を僅かに横へと向ける。
「あれは確か、グラエナというポケモンですよね」
「あぁ、本来は草原生のポケモンなんだが、この辺りでは砂漠にも見られる。骨まで砕いて何でも食べるぞ」
 ミソラは怖気づいた様子でもう一度ハヤテの首に顔を押しつけた。
 初めてハヤテに乗った日、ハガネールに振り落とされたあの日の倍近いスピードで、景色が目まぐるしく流れていく。獰猛な声が迫ってくるように感じる。硬い地面を蹴り飛ばす音がミソラの焦りを駆り立てる。
 トウヤは後ろを一瞥し、ノクタスの入ったボールに再び手をやった。
「いいかいミソラ、旅の途中で野生のポケモンと戦う上で、大事なことが三つある」
「は、はい」
 ミソラにものを聞く余裕がないことは分かっていたが、トウヤは頻繁に後ろを振り返りながら話を始めた。
「まずは敵をよく知ることだ。頻繁に出くわす野生ポケモンの生態くらいは、頭に叩き込んでおかなくてはいけない」
「はい」
「グラエナは十匹程度の群れを作って暮らす。各個体は貧弱だがそこそこ頭の切れるポケモンで、チームワークでもって優位に狩りを進めるんだ。逆に言えば、群れていなければ全く恐れるに足りない」
 吠え立てる声がだんだんと近付いてくる。トウヤは構わずに続ける。
「この辺りに居着いているのは、だいたいがクランとか呼ばれる母系の群れだ。クランのリーダーは決まってメス、グラエナのメスはオスより体が大きい場合が多い」
「とすると」
「中央後方を走っている大きいのがリーダーだろう。あれを叩けば群れは崩れる……ハヤテ、もう少しの間そのスピードを保ってくれ」
 ギャッと声を返すハヤテの息遣いが荒れているのを、ミソラは間近に感じていた。慣れのためか若干気持ちに余裕が出てきて、締めつけていた腕を僅かに緩め、もう一度隣を飛んでいるメグミの方を見る。トウヤは右手に掴んだボールを軽く握りなおした。
「次に、こちらの指示を手持ちのポケモンに正確に伝えること。特に数で不利な状況の場合には、僅かな意思のすれ違いが命取りになる。ボールを開くタイミングひとつで、戦況が大きく変わる時だってあるんだ」
 ミソラの視界の中で、トウヤはハリのモンスターボールに向けて何かを呟いた。
 オニドリルの肩を掴んだ左手を軽く引く。ハヤテと並走していたメグミが急に失速し、後ろの方へと流れていく。ミソラは体勢を崩さないように慎重に振り返った。薄茶の翼とグラエナとの距離が、じりじりと縮まっていく。
 メグミが滑空する。地を舐めるように、グラエナの目線とほぼ同じ高さを飛びながら盗み見る後方、先頭との距離は数メートル。血走った数十の瞳が、一人と一羽を真っ直ぐ捉えている。
 一度開閉スイッチを押し、すっと右手を下ろすと、トウヤはそのままボールから手を離した。
 コツンと軽い音とともに紅白の球が地面へ転がる。その上を、何匹ものグラエナの足が駆け抜けていく。グラエナをぎりぎりまで引き付けた状態を保ちながら、トウヤは首を回した。最後尾の一匹が、赤い点の上へ差し掛かった。
「今だ!」
 その声とほぼ同時に、派手な音を撒き散らしてボールが解放された。
 最後のグラエナが急ターンする。白光が弾かれ、ノクタスの左足が大地を踏む。グラエナが激しく吠え立てる。ハリの黄色い瞳が、赤い瞳の向こうを捉える――その視界の中で、急上昇していくオニドリルに乗ったトウヤが大きく右手を上げた。
 鳴き声につられて他のグラエナたちが足を止め、振り返る間に、ハリは右足を振り下ろし、そこに転がっていた自らのモンスターボールを蹴り飛ばした。
 飛びかかってくる一匹の顔の横を、紅白の弾丸が突き抜け、吸い寄せられるようにトウヤの手中へと収まった。
 一匹目の攻撃を後ろへ、二匹目、三匹目の攻撃を右へ飛んでかわす。四匹目、他より体格のいい一匹が飛びかかってくる。それを見据えながら、ハリは両腕を構えた。
「ミサイル針!」
 上空からの指示を受けて、ハリは突きだした両腕から無数の針を発射した。
 グラエナの灰色の腹へ、ミサイル針が次々と突き刺さる。荒野に短い奇声が響く。
 どさりと岩盤へ崩れ落ちるリーダーの姿に一瞬たじろいだグラエナ達だったが、すぐに姿勢を下げて唸り声をあげ始めた。十数匹のグラエナに取り囲まれたハリは、しかし微塵も動じる素振りを見せることなく、ゆっくり直立の姿勢に戻ると、僅かに顔を上げた――刹那、ノクタスの体は赤い光に飲み込まれ、グラエナの視界から瞬く間に消え去った。
 群れの視線に一瞥をくれると、トウヤは右手のハリのボールをベルトに引っ掛けて、メグミの背中を叩いた。
 力強く何度か羽ばたいて、オニドリルが飛び去っていく。グラエナたちは鳥影を目で追いはしたが、呻くリーダーの傍を離れようとはしなかった。
 先刻より幾分落ち着いた様子で走るハヤテに、再びメグミが接近する。
「……最後に」
 一連の出来事に目を輝かせているミソラへは顔を向けずにトウヤは言った。
「無駄な体力を使わないことだ。長い道中、持ち歩ける薬は限られている」
「最低限しか技を使わないのもそのためですか?」
「そうだな……トレーナーのマナーとして、むやみに野良を傷つけないということにも繋がる。変なことばかり気にしているようだが、お前が知らなければいけないのは、もっと実用的なことだろう?」
 ぼそぼそとそう言うと、ミソラとは対照的にどこか疲れたような面持ちのトウヤは、メグミの背中の体毛へと顔を埋めた。
 早朝の向かい風が、耳元でごうごうと音を立てる。目指す東の地平線から、目を背けたくなるほど輝かしい火の玉が、明け方の空を焼きながら昇ってくる。
 規則的な振動にもすっかり慣れてしまったミソラは、睡眠時間の不足もあってか、ハヤテにしがみついたままうとうとと目を細め始めた。
 一段と強い風がメグミの翼を煽る。細やかな粉塵の吹き荒ぶ中で、ぐったりとメグミに体を預けるトウヤは、ふいに何かをこらえるように、ぎゅっと薄茶の体毛に覆われた肩を握り直した。
 メグミが顔を上げ、つられてハヤテが主を見上げる。細いハヤテの鳴き声に、トウヤは微かに首を振って答えた。
「……大丈夫だよ、行こう」
 鮮やかな朝焼けの空の下、急激に色を取り戻していく荒野の上を、二つの影が並んで駆け抜けていく。





  
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