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 試合開始の合図と共に、二つのモンスターボールがフィールド中央に投げ込まれた。
 割れんばかりの歓声の間を、鋭い遠吠えが貫いた。フィールドに降り立ったノクタスを見てにやりと笑ったグレンとは対照的に、トウヤは相手のポケモンを確認して表情をきつくする。高く咆哮を上げるのは、漆黒の体に二本の湾曲した角が特徴的な、地獄からの使い魔のようななりのポケモンだ。


「グレンの一匹目はヘルガーか!」
 誰かの声を聞き取って、客席の最後列に座るミソラは慌てて鞄の中に手を突っ込んだ。
 詰め込まれた数冊の本の中から『ポケモン大百科』という背表紙のものを引っ張り出して、ばらばらとページをめくる。ダークポケモンのヘルガー――ノクタスの苦手な炎タイプで、草にも悪にも耐性がある。写真の中の不気味な視線と目下に見える黒いポケモンを見比べて、ミソラは身を固くした。
『――次は負けるだろうな』
 試合前のトウヤのそんな言葉が、何度も頭の中を反響する。
『あの男は海の向こうの地方の出で、ポケモンリーグとか呼ばれる大会への出場経験もある優秀なトレーナーだよ。こんな田舎町に拠点を構えてはいるが、頻繁に各地を飛び回っては腕を磨いている』
 客席の方へ上る階段の手前で、彼はミソラに上着と水筒を手渡した。
『フリーではトレーナーボックスがないから、見たいのなら客席から観戦しなさい』
『あの、フリーとはなんですか』
『試合形式のひとつで、道具を使う以外は何をしても許される。ポケモンの数さえ守れば、いつ出しても、出さなくても構わないし、故意に客席に飛び込んだり……そんな奴はなかなかいないが、トレーナーを攻撃したり』
 それを聞いてミソラは目をしばたかせて、危なくないのですか、と問うた。トウヤはその声に背を向けながら、他人事のように一言だけ返して、戦いの場へと向かっていった。
『あぁ、下手すれば死ぬかもしれないな――』
 フィールドの二匹が、間合いを取りながらじわじわと動き出した。
 知らぬ間に固く握っていた拳に何かが当たって、ミソラはふと視線を落とす。リリンと軽やかな音を立てたのは、鞄にくくりつけられた小さな鈴だった。エイパムに盗まれて、必死の思いで取り返した真っ白な鈴。日が暮れてから帰宅したトウヤに勇んで見せれば、いらないものだからと言われて、一緒に与えられた鞄に結ばれた。
 紐をほどいて、それを両手で握りしめる。不快感をもよおすほどの熱気を帯びた観客席の隅で、掌に心地よい冷たさを感じながら、ミソラは自分に言い聞かせるように呟いた。
「――お師匠様が、死んだりするもんか」


「ヘルガー、火炎放射」
 鋭く息を吸い込むと、ヘルガーは口内から赤いエネルギーを放出した。
 迫りくる火炎を易々と避け、ハリはちらりと主の方に目配せした。トウヤは頷いて返した。それを確認すると、ハリは表情を変えぬまま、高熱を発する火柱の根元の方へと走りはじめた。
 伸びてきた炎の頭が風圧に負け、フィールドの端に立つトウヤの随分手前で霧散していく。決して威力の高いものではない。眩しい太陽光線に手を翳(かざ)しながら睨む視界の先で、ヘルガーの喉が再び躍動した。二発目の火炎放射を危うくかわし、ハリは黒犬へ更なる接近を試みる。十メートルほどまで間合いを詰めたところでミサイル針を乱射させると、足踏みこそしたものの、ヘルガーは冷静な面持ちのままその場を動こうとしなかった。
 誘っている。早々に二つ目のモンスターボールを握りながら、トウヤはヘルガーから目を離さなかった。グレンという男は各地の様々な種族のポケモンをボールに従えているが、あのヘルガーは昔からの「お気に入り」の一匹で、何度か手合わせしたこともある。その度に攻撃の型を、それこそ軸となる主砲でさえころころと変えて挑んでくるから、馴染みの相手であれ完全には読めないが――肉薄するノクタスに姿勢を下げるヘルガーを見、トウヤは弾かれたように声を上げた。
「ッ、『わたほうし』!」
 打撃を加えようと引いていた右腕を、ハリは大きく横に薙いだ。
 ぶわっと撒かれた白雲のような塊がヘルガーの顔面を覆い尽くした。たじろぐような短い悲鳴、『カウンター』の姿勢が崩れ、ぐっと悔しそうな表情を見せる向かいのトレーナーを一瞥して、トウヤは更なる指示を飛ばす。後ろを取れ、という声に、ハリは踊るように体を振ってヘルガーの背後へ回り込む。吐かれた火砲が刹那の前のノクタスの影を通過する。視界を遮っていた白の群雲を焼き払おうが、ヘルガーの眼前に敵影はなく、
「ニードルアーム」
「いかん、走れ!」
 焦るグレンの声にヘルガーはいち早く反応するが、焼き切れなかった綿に足を取られてもたつく間に、今度こそと振りあげられたハリの右腕が横腹に強く叩き込まれた。
 鈍い衝撃音。歓声の雨あられの中をヘルガーの体が吹っ飛んでいく。追撃のミサイル針を浴びながらも、グレンの右手で上手く受け身を取ったヘルガーは、すぐさま体を翻した――打点は悪くなかったが相性が今一つ、大したダメージは与えられなかったか。次の一手を探る隙に、ヘルガーは火の粉で綿を焼き切り、弾丸のようにフィールドを駆け抜けていく。無表情のままハリは身構えた。ヘルガーが跳躍した。
「『炎の牙』だ!」
 カッと剥く赤熱の犬歯、手前に注がんと来るヘルガーに、撒菱(まきびし)、と短い指示。ミサイル針の細長いのとは違う三角錐状の固い得物をばら撒いて、ハリは後ろ飛びにその場を離れた。
 着地したヘルガーは若干苦痛の色を浮かべ、すぐさま後方に退いた。『炎の牙』の起動が外れた。ぴょんぴょんと手前まで戻ってきたハリに、トウヤは小さく耳打ちした。
「宿り木、」
 頷き、お手玉でも回すように軽く腕を動かす。いくつかの若緑の種子がふわっと舞う。体を屈め、ぽんと真上に飛び上がる。眼下、『撒菱』のトラップを飛び越えて、もう一度牙を剥いたヘルガーに、ハリは両腕を向けた。
「ミサイル針!」
 声と同時に、嵐のような無数の針が打ち出され――落下してきた宿り木の種を上手く引っ掛け、共々直線的にヘルガーの頭へと突っ込んでいく。
 咄嗟にヘルガーは口を開き、エネルギーを破裂させた。
 今度はトウヤが舌打ちする番だった。既(すんで)のところで放たれた火炎竜が針の大群をゆうに飲み込み、紛れ込む宿り木の種を焼き払った。ミサイル針自体はそれを貫通して黒毛の体に爪を立てるが、ヘルガーはそんなもの存在していないかのように正面切って走り抜け、
「効かんぞ!」
 高揚したグレンの声に応える咆哮を上げながら、再度ハリへと踊りかかった。
「炎の――」「不意打ち!」
 落下点、ヘルガーの打撃射程圏内から僅かに体を逸らしたハリは、しなやかに着地し即攻撃体勢へ移る相手の隙を読み、空いた体側へ左肩からタックルを仕掛けた。
 決して軽くはない一撃。真に受けフィールド中側へ転がっていく、かに見えたヘルガーは、寸秒の後には落下と同時に四肢を気張り、反動的に後脚を蹴った。
 ――速い!
 圧倒的な切り返し。指示を出す余裕もなくトウヤは二つ目のボールをフィールドへ投じた。
「――牙ァ!」
 頭から随分遅れた技名が通って、ヘルガーは火の粉を顎から滴らせながら、『不意打ち』の姿勢から直ったばかりのハリの右腕へと情け容赦なく牙を立てた。
 赤光が迸った。苦悶の声は上がらなかった。代わりと言うように歓声が沸いた。続いてフィールドに刺さったボールから白い光が弾け、負けじと哮り立ちながら青色の小竜が現れた――繰り出された二体目、ガバイトのハヤテは、目の前で絡みあった二匹へと狂気的な勢いを持って飛び掛かる。
 その音を聞き、ヘルガーはすぐさま牙を抜き、素早い所作で場を離れた。一瞬遅れてハヤテの右鰭(ひれ)がひゅんと空を切る。腕を庇うような動きを見せて立ち上がったハリへハヤテが何か鳴き声を掛け、ハリは一つ首肯した。
 くるりとターンしてこちらと向き合うヘルガーに、未だ目立った疲労の色はない。二歩三歩前へ進み出たハヤテは、煮え滾(たぎ)る戦闘意欲を発散するように体を揺り動かし、太い尾を地面へたんたんと叩きつけている。
 即座に手負いの一匹のものへとボールを持ち替え、トウヤは努めて冷静に声を発した。
「ハリ一端下がれ、ハヤテは……」
 少し落ち着け、と言う間に青竜はフーフーと鼻息を荒げ、血走った目で敵方を睨むと、臨戦態勢のヘルガーへと真っ直ぐ突進を開始した。
「ハヤテ!」
「いいぞ、引き付けて、『噛み砕く』で迎え撃て」
 遠い男の大声がフィールドの向かいまで届いてくる。唸り姿勢を下げるヘルガーに速度を増して迫るハヤテ、見とめるグレンはにやりと不敵な笑みを寄こす。読まれているか。しかし、だからと言って他に講じる策はない。
 グレンが二つ目の、この辺りでは見慣れない青白のボールを掴み取った。構わずトウヤは声を荒げた。
「ハヤテ、『穴を掘る』!」
 幾分厳しくした声色が功を奏したか、聞く耳持たない様子だったハヤテもびくりと体を反応させて、一鳴きするとぱっと地面を上へと蹴った。
 水への飛び込みと全く同じ要領で、小竜の姿は尾先まで地中へ一気に飲み込まれていく。砂しぶきの中に標的を見失ったヘルガーの双眸がハリに向けられ、トウヤがそれへモンスターボールをかざすと同時に、逆サイドに立つグレンが、己の足元へ二つ目のボールを叩きつけた。
「出てこい、カバルドン」
 ――その宣告も『ハンデ』の一環か、とトウヤはふいに顔を歪める。
 赤い光が案山子草を包み込み収縮し、相対して白い光がグレンの影で炸裂する。瞬時肥大する光球にグレンは迷いなく飛び乗った。瞳を焼く一閃、光が弾けるように拡散したその瞬間、目を覆いたくなるほどの大量の砂塵が巻き起こって、フィールドを、客席を叩き始めた。
「戻れヘルガー!」
 続けざまに構えたボールから伸びる光線が、ハリと同じようにヘルガーの体を覆っていく――その僅かの空白、ヘルガーがボールへ吸収され、完全に姿を現したカバルドンの嵐のような鳴き声が終わるまでに、トウヤはボールをベルトへ引っ掛け、右脚で地面を一度踏み鳴らした。
「ここだ!」
「地震!」
 グレンを乗せたカバルドンの、巨体に似合わぬ豪快な挙動、立ち上がるように両前足を振り上げ、振り下ろすその動きによって、フィールドに猛烈な地響きが起こった。
 獰猛な攻撃であった。轟音、放射状に広がるエネルギーに大地が揺れ、地表が砕け、粉塵が高く舞い上がった。大きすぎる地震の波動は観客席をも巻き込んで、至る所から悲鳴が聞こえた。叫喚のフィールドに一人立つトウヤは、目に見えて凶悪な地震波を前に、すっと両手を足元につけた。
 そこから間欠泉が突き上げるように、青い影が飛び出した。
 首へしがみついた主が背中に落ち着くのを待たず、ハヤテは地面を蹴り上げる。『疾風』の名の如く地を駆り風を越え砂塵を抜け、襲い来る破壊の雪崩に向かって一寸の躊躇いなく突進し、
「――飛び越えろッ!」
 背中のトウヤが叫ぶのと同時、ハヤテは一瞬腰を下げ、一気に空へと跳躍した。
 跳躍した。すさまじい跳躍だった。それはまるで、斜め上方へ放たれたロケットのようだ。熱くなったトウヤの耳に会場のどよめきなど入りはしなかった。全ての景色が目下に見えた。青竜の尋常でない脚力がもたらした高度の元、ばりばりと崩壊していくフィールドの上を滑るように飛んでいく中、筆を擦るように色が、音が流れていく。ほんの一瞬、場の全てを掌握した、そんな気さえ彼に起こった。
 風が火照った頬を切った。ハヤテの破裂しそうな高揚が手に取るように感じられた。前方、大技を軽々かわされ唖然としているカバルドンの上で、グレンは呆れたように笑っていた。心底バトル好きの男だった。


「ハンデをやろう、トウヤ」
 試合前、フィールド上で向きあった時、彼が掛けてきたのはそんな言葉だった。
 期待に躍っている観衆の騒音が掻き消えていくようだった。トウヤは薄く笑いこそしたが、その目は穏やかでない光を湛えていた。
「……馬鹿にするな」
「まぁ少し聞け、手加減するとは言ってない」
 ぷらぷらと手を振ってみせると、グレンはもう片方の手に、青い彩色のモンスターボールを取り、それを転がすように弄んだ。
「二匹目に、出せばそっちの場が確実に優位に傾くポケモンを選ばせてもらおう」
 ぽんと高く上げられる傷の少ないボールを見、トウヤは怪訝そうに眉を顰(ひそ)めた。構わずグレンは続けた。
「実はな、今回の遠征は特別なものだったんだ。どんな結果が得られるか、全く未知数と言ってもいい。これが本当に、こいつにとって……俺にとっても、有益な期間であったのか。是非、お前のポケモンで確かめたい」
 そう言いながら取り出した、紅白の、かなり使い込まれた様子のモンスターボールを、トウヤに向かって差し向ける。
「なあ、俺は手持ちを多く持ってるから、こいつの中身がお前には分からんだろう。けれどそっちの手の内は俺に全部知れている。俺達の喧嘩は元から不公平だ」
「それを僕は」
「今回はそこに気兼ねなく本気を出したい。これまで何度もやりあってきたお前だからこそ、こいつを試せるってもんだろう? 本気でやりたいんだ。分かってくれ」
 発言を阻まれて沈黙したトウヤに言いたいだけ言って、グレンはくるりと背を向けた。そっちも本気で頼むぞー、と片手を上げるのも忘れずに。
 一人楽しそうに去っていくグレンから視線を外し、トウヤはぐるりと観客席を見渡した――普段より見物が多い。目の前の男はココウ屈指の名トレーナーで、攻撃的な彼の試合はいつだって観衆に人気がある。本能のまま快楽を求める獣のように、薄汚れた鉄柵の前には、刺激に飢えた住民たちが群がっていた。
 その一角、汚らしい狂気の渦にまみれながら、ここからは窺い知れないどこだかに、ミソラは小さくなっているのであろう。ポケモンの、教えを煽るあの子の前で――そんなことが頭を掠めて、しかしそれは瞬きする間に、シャボンのようにぱちんと弾けて消えてしまった。
「やっぱり馬鹿にしている」
 先刻より強い語気に、グレンは渋々と振り返った。
「なかなか頑固だな」
「ハンデがないと、僕相手じゃ本気を出せないってことだ」
 そう真っ直ぐ言い切ったトウヤに、グレンはいくらか言葉を失ってから、大口を開けて笑い始めた。
「ガッハッハ、そうだそうやって怒れ怒れ! 怒って本気でかかってこい!」
 ――あぁそうだ、僕だって、血気に渇いた醜い獣に違いない。


「宿り木!」
 手中で解放したボールから再びハリが飛び出し、眼下の巨体へ若緑の種子を投げつけた。
 させるか、と同じように放たれたヘルガーの吐いた炎が宿り木の種を焼き払った。そのままカバルドンへ攻撃を仕掛けたハリの胸元にヘルガーが飛び込み、二匹はもつれるようにフィールド中央へ転がっていく。
 打撃型だ、ならべく距離を取れ、と振り向き怒鳴るトウヤに向かって、牽制するようなグレンの声が厳しく刺さる。
「余所見してる場合か!」
 ずんと衝撃を吸収して、ハヤテが地面へ降り立った。その鼻先のカバルドンが、人をも飲み込むような大口を解放している。顎を使った技の挙動か、そこへ突っ込もうとする惰性の力を押しとどめ、ハヤテはぐっと上体を反らした。
「怯むな、竜の怒り」
「ならば砂地獄!」
 光熱のエネルギーが発される直前、ず、と右足が地面に取られた。
 姿勢を崩して放たれた光線は壁面へと命中した。ぐらりと背中が傾いて、トウヤはそれにしがみついた。足元、地震によって崩された地面が柔らかな砂へと変貌し、口を開けたガバルドンへと流れていく。蟻地獄から逃げ出そうと砂地を蹴るハヤテに、跨るトウヤは従者の意思とは逆向きの力を肩に加えた。
「無理するな、カバルドンに突進だ」
 短く応答し、ハヤテは流れに乗って砂河馬(かば)へと突進していく。尖った黄色の双眸が、敵の血色の瞳を睨め付ける――そこに僅かな悪寒を嗅ぎ取って、やめだ、と叫びトウヤは重心を傾けた。
 暗い喉の奥から鋭い光彩が瞬いた。敵の右手へ飛び込んだハヤテの尾をぎりぎり大顎が掠め通った。ガキッと噛み合わせた歯の髄から凛とした冷気が飛び散った。氷の牙、食らえば致命的なタイプ相性の一撃を、かなり危うく免れて――トウヤはくっとグレンを睨んだ。グレンは嬉々として、いいぞ、と吠えた。
 そのまま砂地へつんのめったハヤテの首を後ろから強引に持ち上げ、鼓舞するように高く命じる、
「竜の息吹(いぶき)ッ!」
 得意なその技名に、ハヤテは鋭く鳴き返し、すっと息を吸い込んだ。
 半ば倒れ込みながらも放たれたオレンジ色の光線は、カバルドンの巨体に横からずんと突き刺さった。
 野太いうめき声が会場に響き渡り、カバルドンは大きく体をよじった。その上に立っていたグレンが向こう側へと転げ落ちるのと同時に、ハヤテは砂流を泳ぐように蹴りあげ、蟻地獄から脱出する。やっと一息、する暇もなく、砂塵飛び交う頭上を大きな影が横切った。続けて二つ。その前方は人型で、空いたカバルドンの背へと落下していく。
「ハリ、カバルドンに宿り木だ!」
 今度こそ火炎の妨害は間にあわなかった。三度目の『宿り木の種』がざくざくと大きな背中に突き刺さり、一斉に発芽伸長を開始した。絞り出すような聞き苦しい鳴き声、すとんとそこへ着地したノクタスへ、浮上したエネルギーの光が我先にと吸収される。間髪入れず、逃げろ、こっちだ、と出された指示に、ハリは膝を曲げ瞬時に飛んだ。入れ替わりに頭上から、口内に業火を煮やしたヘルガーが着地した。
 火の玉が飛んできて、かなり見当違いな方向へと抜けていく。
 ハリと入れ替わりに前へ出ようとするハヤテを、それに乗ったままのトウヤは黙って制した。
 『台風の目』にいるときは殆んど分からなかったが、ガバルドンから距離を置くと、吹き荒ぶ砂嵐が痛いほどに感じられた。じわじわと体力を消耗していくフィールド上、奥の方へ逃げていったハリの姿は霞んでしまって見えないが。向き直る敵方、カバルドンの背から飛び出したヘルガーの姿は、砂塵の向こうにもはっきりと視認できる。
 呻り今にも飛びかからんとする従者を諌め、トウヤは迫り来る敵手を睨み続ける。カバルドンの繰り出した『砂地獄』の域を抜け、こちらにめがけ急接近するヘルガー、の、目が、ふっと驚きの色を浮かべた。
 今だとハヤテの体側を蹴った。指示への反射は、緊張しきったゴム弾の如く。振り掛かってくるガバイトの腕に、慌ててヘルガーはブレーキをかける。
 まずは左腕、強くない一撃を何とか迎え撃ったヘルガーの脇腹を、『ダブルチョップ』の二度目、右の鰭が面白いように突き飛ばした。
 はやすような歓声の中、ハヤテが興奮に流されたまま次のステップを踏むのを、トウヤはもう怒らなかった。打ち続ける砂粒が知らぬ間に体力を削いでいくのと同様に、次第に冷静さを欠き始めていることに、彼自身は気付かなかったが――立ち上がったヘルガーがきょろきょろと首を回している。足音はあろうが、その視界に、接近するガバイトの姿は入らない。カバルドンというポケモンには気候によらず砂嵐を巻き起こす特性があって、その砂嵐を利用して敵の目を欺く方法を、ガバイトというのもノクタスというのも、生まれつき心得ているのだ――あんまりなハンデだ、という考えに及んだ時、身の内から溢れだした勝ちへの焦りが止まらなくなった。
 カバルドンの悲鳴が聞こえた。ハリが向かっているようだ。砂嵐に乱れが生じ、僅かに風の威力が弱まった。長くは持つまい。しかし、こちらに背を向け唸り声を上げるヘルガーが敵影を見とめ、遠近感覚まで取り戻すには、その程度の乱れでは足りない。
 鼻を使え、というグレンの声が飛んだが、もう遅い。ハヤテは右腕を掲げ、その爪と、斬りつけるために発達した鋭い右翼に、竜のエネルギーを集約する。はっと振り向いたヘルガーの赤い瞳に青竜の影が映り込む。目前。身を引くだけの余裕はない。
 この一撃で決める――主の高揚が伝わったのか、ハヤテは高く咆哮を上げヘルガーへと飛びかかった。
「ドラゴンクロー!」
「――スモッグだ!」
 熱狂するスタジアムの中央で、二つの影が交錯した。
 スモッグの発動が一瞬早かった。息を止める暇もなく、噴きだした紫煙にハヤテは頭から突っ込んで――その背に跨っていたトウヤが、思い切り毒ガスを吸い込んだ。
 刹那、裂くような耳鳴りが走った。会場のざわめきが戻ってきた。世界が急に眩しくなった。と思うと、砂嵐でなく視界が濁り始めた。残像のように流れるドラゴンクローがヘルガーの横腹にのめり込み、振り切ると、その場を離れんとすぐさまハヤテは駆けだした。その獰猛な息遣いが轟音となって頭に響いた。背後、ヘルガーの絞り出すような鳴き声を聞くと同時に、異様な悪寒が噴き上がった。締めつける頭痛と、吐き気と、全身を駆け巡るびりびりとした痺れと――特に左腕が、指先まで包帯に覆われた左腕が、炎のような熱を持ち、ぴくりとも動かない。
 仕留めきれなかったヘルガーに向き直るためにハヤテが急激にターンすると、従者の肩を掴み損ねたトウヤは、遠心力にならって後方へと吹き飛ばされた。


「――お師匠様ッ!」
 騒然とする客席の片隅で、小さな鈴を握りしめたままのミソラが立ちあがった。


「おいッ、ヘルガー!」
 グレンの上ずった声がフィールドに響いた。重い一撃で更に闘争心を燃えあがらせたヘルガーが、口内で強烈なエネルギーを輝かせながら走りだした。ハヤテは振り向き、そこによろよろと起き上がる青ざめた顔の主を見つけて、慌てて彼の方へと駆けだした。
 やめろヘルガー! そんな声が聞こえた。こちらに寄ってくるガバイトの後ろに、悪魔のような形相で迫るヘルガーが見えた。
「――背を向けるな!」
 その言葉に、ハヤテはぐるりと首を回した。
 ヘルガーの口から最大威力の火炎放射が放出された。ぎりぎりのところで放たれた竜の息吹がそれを相殺したかに見えたが、次の瞬間には、力で勝った紅の炎が、一人と一匹に襲いかかった――





  
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