10



 網膜を焼く赤光の一矢、続く爆発的な突風が渇いたフィールドを、観客席を、そしてトレーナーボックスへ繋がる通路に立っていたミソラまでにも襲いかかった。
 気を抜けば足元をすくわれそうな爆風の奔流、共に真っ黒な粉塵がバトルフィールドの緑色のサイドを覆い尽くし、鋭い日差しが遮られていく。霞んでいく視界と反比例して客席は烈々とヒートアップしていく。その期待に応えるがごとく、赤サイド側のフィールドに立つドンメルが背から火を噴き大気を焦がす――一触即発の緊張感が突き刺さるのを、ミソラは肌で感じていた。
 ミソラから見た手前、緑サイドの煙幕の中の人影が、トレーナーボックスから身を乗り出すようにして叫んだ。
「毒針!」
 瞬間、立ちこめる煙の中から、黒紫色の毒矢がひゅんと放たれた。
 一矢報いる形のそれは、避けるまでもなくドンメルの二メートル右手に突き刺さった。警戒し身を固くするドンメルの後ろ、高く聳える赤のトレーナーボックスの中で、若いトレーナーが淀みない声を張り上げる。
「見えてないぞ、飛んできた方向に火の粉だッ……!」
 指示の後、トレーナーの顔つきがぐっと険しくなる――火の粉を放ったのとは全く別の場所から、二度目の『毒針』がすっ飛んできて、今度はトレーナーボックスの足元へと音を立てて転がった。
 どこ狙ってんだ、と上がった野次はどちらを指したともとれなかったが、赤サイドの彼は悔しげに拳を握りしめた。次の火の粉を放つと同時に、また見当違いな方向から『毒針』が飛んでくる。当たりこそしないが、三メートル左手、一メートル右手――次の攻撃がドンメルの体を掠め通る。「遊びやがって、」トレーナーは唸り奥歯を噛み、苛立った右拳を前方へと振り抜いた。
「もういい狙うな、煙幕の中に『弾ける炎』を落とすんだ!」
 コォッと短く吠えると、ドンメルの背のこぶの噴火口から一閃、後ろ足を蹴りそれを突き出すと同時に赤い塊が飛び出した。
 高く放物線を描き、赤がフィールドを横切っていく。熱の滴を撒き散らしながら黒煙の方へ吸い込まれていく一塊は、地に落ち割れると広範囲に炸裂するマグマの爆弾だ。片サイド、バトルフィールドの半分くらいなら確実に攻撃は到達する。まして視界も悪い今、空を飛ばないポケモンならば、飛来する炎を回避する術はない――はず、と汗を垂らした彼の耳に、無情なほどに冷静な声が敵対する方向から飛んできた。
「上空に『わたほうし』、後ろに引いて」
 ふっ、と煙の流れが僅かに乱れ、飛び込む灼熱球を包むようにそれが動くと。
 次に、ごう、と火柱が上がった。
 歓声が立った。まばらに拍手さえ起こった。俄かに沸き立つ客席の錆びれ曲がった鉄のパイプに、何事かと見開かれたトレーナーの焦げ茶の瞳に、刹那燃え盛る赤光が映え、黒煙を残し幻のように掻き消えた。一瞬内から照らされた煙幕の中に、人型の影が跳躍した。
 どうして落下する前に燃えあがってしまったんだ! ――ぱくぱくと口だけ動かす彼の疑問の答えは実に単純、宙に放たれた大量の可燃物に破裂するはずのエネルギーが反応してしまっただけの話だったのだけれど、そこに思い至るまでもなく、
「回り込みながらミサイル針」
 淡々と続く向かいの指示にフィールド中を篠突く弾丸の針の群れ、大したダメージは受けずともドンメルがびくりと身をよじらすのを、噴煙の中を飛躍する月の両目は見逃さなかった。
「くそっ怯むな、マグニチュード!」
 その声を聞いて、ドンメルが技の発動のために両前足を振り上げる――その足元に、カカカッと立て続けに土色の針が突き刺さった。
「今だ、」敵側の声に、男はくっと息を呑んだ。
 動揺し完全にタイミングを見失ったドンメルは、立ちあがった姿勢のままぐらりとバランスを崩した。煙幕を破って迫りくる影に、視線を動かすことしか叶わず、トレーナーボックスの彼もまた、柵から乗り出し上ずる声を漏らすだけにとどまった。
「ひっ火の粉――」「不意打ち!」
 被さった緑サイドの鋭い声に押されて、人のような植物のようなポケモン――ノクタスは、姿勢を落としぐんとスピードを上げると、口から火の粉を溢れさせるドンメルの腹へと、鮮烈な一撃を叩きこんだ。
 鈍い音が響いて、ドンメルがフィールドへと崩れ落ちる。
 外から一陣の風が吹き込み、噴煙を空へと押し上げる。咳き込む音のざわめく中、動くことのできないドンメルを見て、審判は緑の旗をさっと掲げた。
「ドンメル、戦闘不能! 勝者、緑サイド!」
 野次に近いような歓声が沸き、一筋の光線がドンメルの体を包み込んだ。
 ゆっくりと視界が晴れていく。緑サイドのトレーナーボックスに立つトウヤは、何事もなかったかのような表情でこちらを眺めるノクタスの姿を見て、ふうと息を漏らした。
「――戻れ、ハリ」





「お師匠様!」
 高く澄んだその声が、幾重も遠く反響した。
 ココウスタジアム屋内の、トレーナー控室前廊下。従順らしく駆け寄ってくる子犬のようなそれを見て、トウヤはやや気まずそうな表情、そしてその隣の男はニヤリと意地悪げな笑みを浮かべた。
 二人の前にぴたと立ち止まり、ミソラは空色の双眸を上げる。もう一人の方は、先程のドンメルのトレーナーだ。まだまだ青二才といった雰囲気を漂わせてはいるものの、自分よりは明らかに年上だろう。先に手の中のものを渡すかどうか迷って、結局渡せないままミソラは頭を下げた。
「こんにちは」
「おぉ、こんにちは。ちゃんと挨拶ができる子なんて久しぶりに会ったよ……この子だよな、今の話の」
 トウヤは一端目をくれると、そこからは意識的に視線を落とさなかった。
「どうにかならないか」
「いやぁ、見りゃあ分かるだろ? こっちも財政難だよ、ハハハ。子供を養う余裕なんてあったもんじゃない」
 じゃな、と男は右手を上げ、背中を向けて歩き出した。
「悪いな。まぁ頑張れや、『お師匠様』!」
 四方コンクリートで固められたひんやりと寂しい長廊下に、男の笑い声がこだまする。
 小さくなっていく彼の姿と、どことなく恨めしそうなトウヤの横顔を交互に見てから、ミソラはあの、と茶色のボトルを差し出した。
「お疲れ様でした。これ、頼まれていたものです」
「……あぁ、悪かったな」
 それを片手で受け取り、先程の男とは反対の方向へと歩き出すトウヤの背中を、ミソラはぱたぱたと追いかけた。
「あの人と私の話を?」
 よそへ視線を送りながら首元のマフラーに触れようとして、トウヤはそんなもの端からしていなかったことに気付いた。
 テンポの違う足音だけが、しばらく廊下に渡っていく。
「……それより、どうなんだ。初めて見る対人戦は」
「あ、はい、とっても面白いです! たくさんの種類のポケモンがいて、それぞれ違う技を持ってて、えぇと作戦のこととか、よく分からない所もあるんですけど」
 そうだ、言われてたルール覚えました、と興奮気味に言いながら、ミソラは肩に掛けたカバンの中から薄い本を取りだした。『初心者トレーナーの基礎知識』、古ぼけた表紙には、そんな文字が躍っている。
「手持ちポケモンは六匹まで、戦わせるポケモンの数をより少なく制限する場合も多い。それぞれのポケモンを一匹、または複数で戦わせて、先に全てのポケモンが戦えなくなった方が負け。バトルタイプの相性に合わせたポケモン交代のタイミングが重要である……と書いてありました。負けた方が、勝った方に賞金を支払う賭けバトルが一般的とも」
 本を開かず抱えたまますらすらと暗唱するミソラに、トウヤはようやっとまともに視線をよこしはじめた。
「あぁ、でもココウのスタジアムでの場合は、少し違う」
 錆びた鉄製のドアを押し開ける。
 薄暗い控室は天井が低く閉塞感があり、コンクリート張りの四角い空間にずらずらと褪せた水色のベンチが並べられているさまは、何となく憮然として見えた。点々と腰かけている数人のトレーナーの顔は、どれも奥に備え付けられた液晶に釘付けとなっている。小さなモニターには、屋外のフィールドで展開されているバトルの様子が、かなり遠巻きに映し出されていた。
 モニターから一番離れたベンチに腰かけると、トウヤはボトルの口を開け、中身の水を一口飲む。ミソラはその隣にちょこんと座り、カバンを膝の上に置きなおした。
「ここでは、週末の大会中は、金を取られるのは入場する時だけだ。負けても賞金を払わなくていいから、下手でもそれほど損する心配がない。勝てば運営から賞金が入る。三回勝ちさえすれば元が取れる、どちらにしろ賭け金も小遣い程度のものだけれど」
 モニターに付属しているスピーカーから、一段と派手な音が響いた。トウヤはそれをぼんやりと見ながら続けた。
「ただし、一度でも負ければ即退場で、その日の再入場は許されない。薬を持って入るのも禁止だ。ポケモンを治療することができない状況で、いかに連勝するかが鍵になる。まぁ、だいたいが娯楽施設だから、ポケモンを遊ばせに来ているような連中も多くて……」
 ふとモニターから視線を外すと、ミソラは横でかりかりとメモ帳にペンを走らせている。
 勤勉だな、と感心した後、その手元を見やって、トウヤは僅かに驚きの色を浮かべた。『三回 くすりなし ちりょうできない』……隣の子供が綴るのは、ココウを含むこのあたりの、黒髪と茶色の瞳を持つ人間が住む地方の文字だ。金髪碧眼の人間が使うものであれば、自分に理解できるはずがない。そういえば与えてやった本もここの言葉で書かれているが、苦にすることもなく読み切った様子ではないか。
 もしかすると育ちはこの辺りなのかもしれない、などと考えている間にミソラがひょいと顔を上げたので、トウヤは慌ててモニターの方へと視線をそらした。
 小さな画面の中に、審判が赤い旗を掲げているのが見える。試合は終わったようだ。早かったな、と室内の誰かが呟くが、モニター越しには勝者の顔は見えなかった。
「……でも、スタジアムでポケモンたちに無理な戦いを強いるよりも、一般的な対人戦を回復しながらこなしていく方が、確実にお金が稼げるのではないですか?」
 その声を聞いて、試合終了と同時にモニターから視線を外した控室内の男たちが、一斉にミソラに注目した。このところ、こんな賭博場に出入りする十いくつの子供はいない。加えてそれが外人ときている。気付いた誰もが、面白いように目を白黒させた。
「な……なんだ、あれ」
「あれが噂の……」
 内心溜め息をつきながら――昨日の晩、自宅である酒場で酔っ払いに延々といじられたせいで、その手の反応にはもういい加減慣れてしまっていた――、トウヤは土埃しか映さないモニターを見つめたまま答えた。
「他の町のことは知らないが、この辺りのトレーナーはたちが悪いのが多い。負けて素直に金を払う奴の方が少ないよ」
「そうなんですか」
「真っ向からは勝負を挑んでこない輩も多い」
「――ハッハッハ! それは自分のことを言っているのか?」
 突然の豪快な笑い声にミソラはびくりと肩を震わせ、トウヤは静かに視線を動かした。
 現れたのは、随分大柄な男だった。若干の恐怖心さえ抱きながらミソラが眺める中で、男は戸をくぐりながら、しかし一片の陰りのない笑顔を満面に浮かべていた。よぉ、と若衆たちが挨拶をよこすと、彼も大きな掌を上げて返した。
「おい、見てたぞさっきの試合。トウヤは相変わらずコソコソ逃げ回ってチクチク攻める戦法が好きだな、なぁ?」
 いつの間にか、陰気の漂っていた控室が日の差したような明るみを帯びていた。同意を求められたトレーナー達は笑いながら顔を見合わせ、トウヤも嫌みのない苦笑を浮かべ困ったように肩をすくめる。昼間の太陽のような力のある人だ、とミソラは漠然と思い当たった。そんなふうに見ている頃には、最初の大柄への恐怖心なんてとうの昔に消え失せていた。
「いつの間に帰ってきたんだ、グレン」
 トウヤの声に、グレンと呼ばれた男は、凝視してくるミソラをさして気にする様子もなく、向かい側のベンチにどっかと腰を下ろした。
「昨日戻ったばかりだ。いやぁ、遠い地方でのトレーナー修行は実に有意義だったぞ。見たこともないポケモンや技を使うトレーナーから、いろんなアイデアを学ぶことができた」
「その割には、今の試合も攻撃一辺倒のスタイルは変わってなかったがな!」
 後ろからの茶々入れに、うるせぇ、と首を回してグレンは答える――その男のトレーナーベルトに、一瞬にしてミソラは釘づけになった。腰に二本取り付けられたベルトには、大量の、しかも赤と白だけではないモンスターボールがずらずらと連なっている。
 向き直ったグレンは身を乗り出し、年甲斐もなく悪童の人懐っこい笑みで言った。
「なぁ、今日は何戦したんだ」
「次で五回目だが」
「ならもう十分稼いだだろう。どれ、久しぶりに一戦しようじゃないか。お前と戦うために帰ってきたようなもんだ」
 最後悪戯っぽく声を潜めるのに対し、呆れた調子で何か言いかけたトウヤの前で、矢継ぎ早にグレンは続けた。
「二対二のクラシックなんてシケた真似ばかりしてるようだが、どうだ、三対三のフリーというのは。そろそろ、その『とっておき』を見せてくれてもいい頃だろう?」
 グレンはにやりと笑って、視線をその隣の子供へ移す。
「なぁ、お前だって、このモンスターボールの中身、一匹でも多く見たいよなぁ?」
 えっ、とミソラは顔を上げた。
 鈴なりのボールに魅了されていたのがあまりにも図星だった。夢中になりすぎてそもそも話も聞いておらず、唐突に心の内を見透かされたような恥ずかしい心地がして、ミソラはぴんと背筋を伸ばした。
「あ、えっと、はい!」
 控室の連中の、至る所から苦笑が聞こえた。
 それ見ろ、と得意そうにグレンはトウヤへと視線を戻した。わざとらしい溜め息をつきながら壁へもたれかかる彼の方に、いくつか好奇の眼差しが向けられる。トウヤはそれから目を逸らし、自分のトレーナーベルトに引っ掛かった、三つのモンスターボールの三番目――オニドリルのメグミが入ったボールを、指先で何度かなぞった。
「悪いが、『とっておき』は『とっておき』だ」
「ハハハ、そういうところも相変わらずだ。じゃあ、この次の試合にエントリーしておくぞ」
 準備しておけよ、と言い残して部屋から去っていくグレンの背中を見送ってから、ミソラはトウヤのトレーナーベルトへと視線を移した。三番目のモンスターボールの中身、『とっておき』と称されたオニドリルの姿は、今は赤い壁に阻まれて見ることができなかった。





 
 <月蝕 TOPへ>
  <ノベルTOPへ>