12



「――いつになったらましに戦えるようになるんだ、お前は」
 人波の絶えないココウの中心街を、トウヤとミソラ、それにガバイトのハヤテが歩いていた。
 連れていけと言って聞かないミソラをくっつけたままトウヤがスタジアムに入ったのは早朝のことであったが、予告通りグレンに敗れてその円形の建物を後にする頃には、太陽は西に傾き始めていた。賑やかな商店街の中、腹が減ったとは言えないまま歩き続けるミソラの前で、試合中は外していたマフラーでやはり顔の下半分を覆ったトウヤが、その後ろをついていくハヤテにぶつぶつ説教を垂れている。
「普通にやればあのドラゴンクローでヘルガーは落とせていたはずだ。どうせスモッグに気を散らされでもしたんだろう」
 ハヤテは返事をしない。こちらを振り向きもしない主人の足元に目を落としながら、その声に暗い表情で耳を傾けている。ミソラはガバイトのしょげた顔を心配そうに見上げてながら、黙って自分のすきっ腹をさすった。
「昔から言ってるけど、その試合中におどおどする癖、そろそろなんとかしてくれないか。進化したら少しは集中できるようになるものかと思っていたが……勝てる試合だったんだ。カバルドンはあの時点でもう動けはしなかったろうし、ヘルガーだって砂嵐で十分疲弊していて、なのに」
 ミソラはそっと、足取りの重い師匠の背中を見据えて――自分でも気付かないほどの、ほんのわずかな嫌悪感を顔に滲ませる。
「……あの時、とっさに息を止めることができなかった僕も悪かったけれど、ハヤテがちゃんと仕留めていれば問題はなかったし、こっちを気にして敵にむざむざ背中を見せるなんて――」
「でも、でもハヤテはあの時、お師匠様をかばおうとしたのではないのですか?」
 ミソラは思わず口を挟んだ。情けない顔でハヤテがその子供を見下ろすが、目の前の男は振り返ることさえしない。
「ハヤテがかばおうとしなければ、お師匠様はヘルガーに襲われていたかもしれませんし、その、ハヤテは十分頑張ってて……だから……」
 だんだんと語気の弱まるミソラの前で、トウヤはようやく立ち止まり、鋭い視線で後ろの子供のことを見た。
「……相手が野良なら、全員死んでいた」
 ミソラは俯いて、下唇をきゅっと噛んだ。
 浅く息を吐くと、トウヤは向き直って歩き始めた。一人と一匹は浮かない表情のまま、黙ってその後に続いた。

 昼過ぎの商店街には、一体どこから沸いてきたのかと思うほどの数の人間が溢れかえっている。店先で客寄せに躍起になっている売り子や、妙な商品を携えて練り歩く行商、煌びやかな衣装をまとって店主と談笑する女の向こうには、ボロボロの着物に骨と皮だけの体を包み込んで、ぎょろりと目玉を動かす子供が見える――様々な社会の入り乱れる喧噪の中には、ポケモンの姿も少なくはない。さっきまで落ち込んでいたミソラは、いつの間にやら嬉しそうな顔になってあちこち首を回していた。
 連なる屋根の上には、騒々しい下界を馬鹿にしているような顔をしたオニスズメがとまっている。人々の足の間をかいくぐって、小さなチョロネコとニャースが競い合うように駆けていく。母親に手をひかれる男の子の頭の上に、まぬけ面のビッパが乗っかっている。怪しげな店の暗がりから、大きな鳥ポケモンがこちらを窺っている。あれはドンカラスだ……歩くごとに高鳴る胸は、とどまるところを知らないらしい。与えられた『ポケモン大百科』を読み込んで、この辺りに棲むポケモンについては随分分かるようになっていたことが、その気分を更に上まで押し上げていた。
 酒場の近くまでさしかかった時、泳ぎ回っていたミソラの視線はある一点に釘づけになった。
 人混みの中にひとつ、丸く人だかりが出来上がっている。その中から、淀みない高音の歌声が聞こえてくるのだ。
(……あれはなんだろう)
 思わずぴたと立ち止まった。多くの背中に阻まれて窺い知れないが、群がる彼らの表情は、一様に感心したような笑顔。流れる旋律は舞い降りるチルットなんかを思わせて、道行く人を引きつけていく。
 まるで、そこだけ別の世界みたいだ。ミソラは興味深々と首を伸ばし、大して意味を成さない背伸びまで試みるが、その前を行くトウヤは、群衆を一瞥だけしてさっさと通り過ぎてしまった。ハヤテによじ登れば見えるかもしれない、と考えた途端にハヤテまで歩きだしたので、ミソラは名残惜しそうにその場を後にした。
 ドアチャイムを雑に鳴らしながら自宅である酒場に入ると、トウヤはまっすぐ店内の木製のベンチへと向かって、そこに寝ているビーダルの尻尾を枕にしてぐったりと横になった。
「……少し休んだら、特訓だ」
 疲れを滲ませる主の声に、ハヤテはギャッと返事をして、自らモンスターボールの中に戻っていった。
 そうして、店は静かになった。
 昼間の大衆酒場には客はおろか、トウヤの叔母であるあの女店主の姿さえない。隅にあるベンチの上でぴくりとも動かなくなったトウヤと、尻尾をいいようにされたまま丸くなっているビーダル――確かヴェルと呼ばれたそのポケモンの、ゆっくりと上下する背中を見ながら、ミソラは完全に暇を持て余してしまった。
 閉まった扉の向こうから、賑やかな笑い声がやけに遠く聞こえてくる。ここにやってきた昨日もそうだったけれど、今日もココウの空には雲ひとつなく、窓から差し込む日差しは穏やかで暖かい。
 急に訪れたのんびりした空気の中で、ミソラはそわそわと店内をうろついて、カウンターの奥に並べられている酒の類の、呆れるほど長い銘柄を覚えてみたりした。柔和な日の光に誘われて、いつの間にやらトウヤは寝入ってしまったようだったが、ミソラはちっとも寝る気になどなれずにいた。
 何よりも空腹が堪(こた)えた。カウンターの裏を探ると食べられそうなものはたくさん見つかったが、黙って口に入れるのはなんだか気が引けて、空っぽの胃に水道水を詰め込んで気を紛らわした。
 ……水を飲むと、なんだか勇気が湧いてくる。
 トウヤはぐっすり眠っている。やはり黙って出ていくのは気が引けたけれど、とうとう暇に耐えきれなくなって、ミソラはそっと酒場の入り口に向かった。やかましい鐘が鳴らないよう、ゆっくりゆっくりと扉を押し開いて、ゆっくり閉めるのも億劫になったので開けっぱなしになるようつっかえを掛けて、ミソラは胸を躍らせながら人波の中へと紛れていった。





 先程の場所に、人だかりはまだあった。
 道行く人がもの珍しい金髪碧眼を何度も指さしたが、そんなものミソラの眼中には入らない。ふらふらと人山に近付いていくその姿は、甘い蜜に誘われる一匹の蝶さながらだ。
 その時、足首になにかふかふかしたものが触れて、ミソラは驚いて視線を下げた。
「……ついてきちゃったの、ヴェル」
 トウヤの頭の下に尻尾を敷かれていたはずのビーダルのヴェルは、いまいち感情の読めない顔でこくりと頷いた。仕方なしに、ミソラは大きなビーダルを従えて人々の中を割って入った。
 きれいな歌声が聞こえて、どっと観衆が沸く。ミソラは僅かの隙間から、なんとか向こう側を覗き見ることができた。
 それでミソラは、ふっと目を丸めた。
 取り囲まれていたのは、ミソラと同い年くらいの痩せた子供と、二羽のポッポたちだった。
(……男の子だ。高いきれいな声だから、女の子かと思っていたけど)
 継ぎはぎだらけの派手な服、鮮やかな緑のブーツ。目の周りを黒色で縁取り、鼻の頭を真っ赤に塗り潰したおかしなペイント、そしてボサボサの黒髪の少年が、天使のような高らかな歌声を響かせ、ひょいとモンスターボールを放り投げる――そのボールを、滑空してきたポッポが背中で受け止め、更に地の方へと滑り下りる。少年の股の下をくぐる間にポッポは体を傾け、転がり落ちたボールを、そのさらに下に滑り込んだもう一羽の背中が受け止めて、二羽は交差しながら急上昇する。一羽が宙返りしながらボールを落とすと、今度はくるりとターンした少年が、後ろに振り上げた右足のかかとでそれを受け止め、ふらふらと体を揺らしてみせる――おぉっ、と見物客が歓声を上げ、誰からともなく拍手を送る。ミソラはその道化師の姿を、目を輝かせながら眺めていた。
 しばらくの演舞の後、きれいな高音が伸び終わると、少年は爪の先まで洗練された動きで、両手をすっと伸ばした。そのそれぞれにポッポを止まらせ、足をクロスさせながら深く一礼。彼を取り囲む輪の中からまばらな拍手が沸いた。ミソラも夢中で手を叩いた。
 しばらくして、ぱたぱたとポッポが飛び立っていくと、少年は石畳に膝をつき、額を地面に擦りつけて急に土下座の体勢になった。それからポッポが戻ってきた。少年の頭の前に降り立った二羽がくわえてきたものは、薄汚れた緑色の紙箱である。
 その中にぱらぱらと投げ込まれる紙幣を見て、あっ、とミソラは声を上げた。人だかりの輪が崩れ、見物客たちはそれぞれ元の生活の中へと戻っていく――どうしよう、お金を持っていない。完全に観衆が消え去った後も、ミソラはヴェルをつれたまま、小さな道化師とポッポたちの前に突っ立っていた。
 小さな溜め息が聞こえて、少年は顔を上げる――どこか焦ったような表情で目の前に立っている長い金髪の子供を見つけて、一瞬の間の後、少年は急激に顔を赤らめた。
「あっ、お前! ……あー、えー……っと」
 ――間違いない。ミソラは目の前でぼりぼりと頭を掻く少年を見つめた。この男の子は昨日、何か喚きながら突然酒場に飛び込んできて、すぐに出ていった彼で……そして、あの禿げのエイパムを追いかけていたときに、颯爽と現れて助けてくれた彼だ。
 黙りこんでいるミソラを前に、少年はポッポたちに見上げられながら、えっと、えっと、と言葉を繋いだ。
「……っと……その、あっあれだ、お、おーけーおーけー! べりーさんきゅー!」
 ミソラとヴェルとポッポたちは、一様に目をぱちくりさせた。
「えっと、なんだっけ、いえす……えっと、その、い、いえす……?」
「……あの」
 えっ、と初めて視線を合わせた少年の目をじっと見ながら、ミソラは申し訳なさそうに言った。
「あの、ごめんなさい、私、外国の言葉は分からなくて……」
「あ、そ……な、なんだ喋れるのか」
 それだけぽつりと呟いて、不意に自分が耳まで真っ赤になっていることに気付いた少年は、慌てて視線を下げて、紙箱に入り損ねた紙幣を集め始めた。
 沈黙した二人と三匹の後ろを、ぞろぞろと人波が過ぎていく。
 紙幣を集める手の動きが明らかに動揺している少年を見下ろしながら、ミソラもおろおろと視線を回した。ばちりと目があったヴェルは、後押しするように顎を上げる。ミソラはそれに頷くと、両手を胸の前で組み合わせ、少年の頭に向き直った。
「えっと……あの、あの時、助けてくれてありがとうございました」
 別に、と恥ずかしさのあまり無愛想に言ってみる少年のことを、ポッポたちは面白そうに眺めている。
「それで、さっきの歌と踊りも、なんていうか……本当に素晴らしかったです!」
 ……別に、と繰り返してみながらも、少年はもう口の端が緩むのを抑えきれずにいた。
 手の動きが止まった。拾い集めるべき紙幣は、もうどこにも見当たらない。しかし、顔は真っ赤だし、にやけているしで、どうにも顔を上げることができなかった――頭上から注いでくる声は、この世のものとは思えないほど涼やかで、鈴を鳴らすように可愛らしくて、酒場で初めて見た時から、ずっと気になっていたけれど……もう、惚れ惚れしてしまう!
「でも、私、あの、お代を持っていなくて……助けてまでもらったのに、ごめんなさい」
 しょんぼりした声色を聞くと、幾分優位な気になって、少年はなんとか立ち上がる余裕を取り戻した――やはり先程と全く同じ位置に、異国のお人形のような可愛らしい顔をした『女の子』が、ちょっと泣きそうな顔で立っている。外の子はなんてきれいなんだろう、とどこまでも舞い上がっていきそうな心を、がっしり底に抑え込んだ。そうだ、男はクールな方が、カッコイイに決まっている。
「そんなんいいよ。今日はいっぱい貰えた方だし……あ、えぇっと、」
 もじもじと視線を動かすと、地面に止まっているポッポ二羽が、二羽ともこちらを見て笑っている。それらにぶすっとした表情を向けながら、少年はもう一度ぽりぽり頭を掻いた。
「……あと、タメ口でいいよ」
 えっ、とミソラは声を上げた。少年は照れくさそうな顔で、ポッポたちを片足でちょんちょんとつついている。暖かい日差しの中で、ミソラは嬉しそうに、金色の髪を揺らしながら頷いた。
「……うんっ」

「――男なのかよっ!」
 渇いた砂埃の舞う裏通りに、少年の大声が轟いた。
 空は夕日に赤く染まり、少し肌寒さも覚える。荒んだ雰囲気の砂利道の上、民家の長く伸びた影の中で、ミソラは若干むっとした顔を見せた。
「皆間違えるんだ。どうしてだろう」
「そりゃあ、そんなん、女にしか見えねぇっつーの……」
 苦悶の表情で頭を抱える少年のことを、ミソラは不思議そうに眺めている。少年の隣に止まっているポッポたちはお互いの顔を見合わせて笑い、ヴェルはミソラの足元で、地面に残る僅かな日の温もりを楽しんでいるようだった。
 彼の名前はタケヒロ。親はおらず、さっきのように曲芸でお金を稼いで暮らしているのだと言う。記憶を失ってしまったミソラは自分の年齢も正確には覚えていなかったが、同年代のタケヒロが一人で生きているという点に、妙な親近感と、憧れに近い感情を抱いていた。
「しかし、変な話だな。気が付いたら砂漠の真ん中に突っ立ってて、自分が誰かも分かんなくて、あいつに拾われて、そんで今ハギのおばちゃんのところにいるってわけか」
「ハギのおばちゃん?」
「ほら、あの酒場の」
「タケヒロはおばさんと知り合いなの?」
「まぁな。俺らみたいな『捨て子』の連中に、すごく良くしてくれるんだ……でもそうか、あいつに拾われたのか……なんというか」
 何か考え込むようなそぶりを見せるタケヒロの顔を、ミソラは覗き込むようにして尋ねた。
「それじゃあ、タケヒロはお師匠様とも知り合いなの?」
「は? ……あ、もしかして、『あいつ』のことか?」
 頷くと、タケヒロは露骨に嫌な顔をした。
「知り合いというか、腐れ縁というか……師匠って、なんつー悪趣味な呼ばせ方を……」
「僕に、ポケモントレーナーの稽古をつけてくれるんだ」
 ふうん、と呟いて、タケヒロは棒きれのような足をぶらぶらと揺らしてから、腰かけていたドラム缶から飛び降りた。
 遠くから不気味な遠吠えが聞こえてくる。見える範囲には自分とタケヒロと、それぞれのポケモンしかいない。夕刻とはいえ、大通りを外れるとこんなにも景色が違うものか、とミソラはそわそわ首を回した。
 タケヒロはぎゅっと腕を組むと、何やら口を尖らせる。
「……それにしても、お前、運が悪かったな」
「え?」
「あんなやつに拾われてさ」
 ミソラは首を傾げる。あんなやつ、とは、もちろんトウヤのことだろう。
「……そうかな」
 優しい人だよ、と喉まで出かかった言葉を、数時間前の記憶――敗因の全てを押し付けるかのような口ぶりでハヤテに当たっていた彼の後姿が、いとも簡単にかき消してしまった。
 閉口したミソラの前で、タケヒロは興奮気味に続ける。
「そうだよ! このへんはよく旅のトレーナーも通るのに、あんなのに拾われるなんてなぁ。あいつ、ポケモンばっかり構ってて愛想わりぃし、全然仕事に就こうともしねぇでふらふらしてるって話だし、養ってもらってんのにおばちゃんに迷惑ばっかりかけやがって」
 ――自分は、運が悪かったのだろうか?
 タケヒロの話をぼんやり聞きながら、ミソラは一昨日の昼間の出来事を思い返していた。
 目覚めると、広い荒野のど真ん中に、ひとりぽつんと立っていた。
 あたりには何もない。誰もいない。……自分が何で、どうしてこんなところにいるのかさえ何一つ、たったひとつも分からない。
 甲高い鳴き声が耳をつんざいて、何かの影に飲みこまれた。頭上に大きな翼が見えた。鋭利な物が日光にぎらりと輝いた。突如、糸を切られた操り人形のように、無意識のうちに体が地面へと崩れ落ちていった。一瞬前に自分の頭があった場所を、巨鳥のくちばしが貫いた。
 急激に意識が遠のき始めた。その中で、誰かの怒鳴り声を聞いて、視界が真っ白の閃光に塗りつぶされて――、
 次に気がついた時には、人のような植物のような生き物と、一人の男が、傍にいてくれた。
「あいつ、なんていうか、自分が偉いとでも思ってんのか知らねぇけど、俺のこと馬鹿にしてきたし……性格悪いよ。友達もいないし、町中の人間に嫌われてるんだぜ」
 ――きっと連れが君を探して来るから、と自分の肩にコートを掛けて、一度は立ち去ろうとした。でも、振り向いて、困った顔をして、来なさい、と言ってくれた。
 めんどくさそうに、でもたくさんポケモンのことを教えてくれた。食べ物を分けてくれたし、夜には一枚しかない毛布を掛けてくれた。何も言わずに部屋に上げて、何も言わずに鞄と本を与えてくれた。二回目の夜には、自分を布団に寝かせてくれて、黙って同じ部屋にいて、壁にもたれかかって、いつまでも窓の向こうを眺めていた。
 そんな当たり前のことが、ミソラにとってはとても幸せなことだったのだ。
「しかも、あれだろ、あの気持ち悪い痣。きっと旅先でやばいことしてるんだぜ。俺なんかもう顔も見たくねぇよ、俺な、あいつのこと、酒場の化け物って呼ん――」
 ――突然右頬に加わった衝撃に、タケヒロはなすすべもなく吹っ飛ばされた。
 ポッポたちとビーダルが、揃って首を回した。地面に座り込んで、茫然とした顔でタケヒロが見上げる先には、頬を紅潮させ、獣のような光を宿した青い瞳にうっすらと涙を浮かべたミソラが、震える拳を固く握りしめて立っていた。





「――おい、ダメ息子」
 心地よいまどろみからトウヤを引きずり出したのは、そんな声と、きつい酒の匂いだった。
 揺れる視界の中で、二つの薄汚れた顔が、怪訝そうにこちらを覗きこんでいる――トウヤはしばらく状況を飲みこめないまま、夢と現実の間を行ったり来たりしていた。
「しっかりしろ、何こんな時間にこんなとこで寝てんだ」
「調子でも悪いのか? ん?」
 機嫌の良さそうな声が、綿毛のような意識の中を通り抜けていく。店内は薄暗く、窓の外から差し込む光は、淡いオレンジに輝いている――もう夕方か、すっかり寝入ってしまったらしい。
 店内の隅にあるベンチで丸まっていたトウヤがむくりと起き上がったので、男たちは慌てて顔を引いた。
 自分の頭があった場所には、ビーダルの太い尻尾の代わりに、折りたたまれたタオルケットが敷いてある。体を起こしたトウヤがいつまでもそれをぼんやり眺めているので、男の片方がもう一度ぐいっと顔を近づけた。
「おいおい、いつまで夢の中してるんだ。こちとら客だぞ、ん?」
 その顔は既に赤らんでいる。他の場所で飲んでから、こちらに梯子を渡してきたようだ。
 夕闇に飲まれそうな店内と、その奥の誰もいないカウンターを見て、トウヤはようやく事を理解した。店主である叔母は、まだ帰宅していないらしい。
「あぁ、すいませんでした……いらっしゃい」
「おう、早くしろ。酔いがさめちまう」
 立ち上がって、カウンターの奥の照明スイッチの元へと向かいながら、トウヤは自分の額をさすった。吐き気はすぐにおさまったが、全身の倦怠感は相変わらずだ。ずきずきと頭も痛むし、スタジアムの中ほどではないにしろ、左腕はいつもより熱を持ち、どこか動きに違和感を覚える。これもスモッグの症状だろうか、何かおかしい気がする……明かりをつけると、揃ってトウヤの方を見る常連の男たちの顔がはっきりと捉えられた。
「なんだ、やっぱり具合が悪いのか?」
 酔っ払いどもが気遣ってくるのに、トウヤは困ったような笑顔を浮かべた。
「……いや、平気です」
「ならいいが。しかし物騒だぞ、こんなご時世に表を開けっぱなしにして居眠りなんて」
「開いていましたか?」
「あぁ、扉のベルが鳴らなけりゃ、盗人が入っても気づかんだろうに」
 彼らが決まって頼むビールの栓を抜いて、トウヤはふと店内を見回した。……ミソラがいない。二階にいるのだろうか。これだけ暇にさせれば、出かけていても不思議ではない。
 がらんがらんと騒々しい鐘の音が鳴って、三人は一斉に店の入り口へ目を向けた。大きな紙袋を三つ四つ抱えた女店主が、片足で難しそうに扉のつっかえを外している。
「いらっしゃい。すまなかったねトウヤ、店番してくれたんだね」
「いえ、おかえりなさい」
「ハハハ、店番なんかしてねぇじゃねえか」
 ご機嫌そうに笑い出した男たちの間にお盆を置いてから、トウヤは入り口の方を振り返った。女店主が閉めようとした扉の隙間から、ぬらりと大きな影が店内に飛び込んできたのだ。
 大きな図体を揺らしながら足元まで駆け寄ってきたビーダルのヴェルに、トウヤはどうかしたのかと問うた。このぐうたらなビーダルが走っている姿なんて、年に一度見るか見ないかという程度だ。
「そういえば、ミソラちゃんはどうしたんだい? 姿が見えないけど」
 トウヤは顔を上げた。階上からは物音一つしない。ヴェルはしきりに、トウヤのズボンの裾を引っ張っている。
 女店主はその様子を見ながら、カウンターに荷物を下ろした。
「……そういえば、あの子ポケモンを持っていないね。一人で裏の方に行って、変な輩に絡まれていないといいけど」
 早速酒を煽りはじめた客たちでさえ、心配そうにトウヤの方を見始めた。
 ヴェルはしきりにトウヤの足に頭をこすりつけると、くるりと向きを変えて店の入口へ、勢いよく戸を押し開けて外へと駆け出していく。
 トウヤは溜め息をついて、ベルトにひっついた三つのボールを確認した。
「ちょっと行ってきます」
「あぁ、気をつけなさいよ」
 だるさを訴える体の要求を振り切って、トウヤはヴェルを追って夕方の商店街へと出ていった。

 見た目より随分機敏なヴェルの後について、商店街から細道へ入り、不穏な空気の漂い始めた夕刻の裏道を走り抜ける。昼間より随分下がった気温が、寝起きの肌を突き刺していく。
 しばらくすると、何やら甲高い怒鳴り声が聞こえ始めた。
 目的の場所は思ったよりも近くであった。曲がり角の前でヴェルが立ち止まって、男の顔を見上げる。辺りに響き渡る二つの声は聞きなれたもので、その主はもうとっくに分かっていた。トウヤはうんざりとした顔でその角を曲がった。
 裏道にしては幾分広い通路の真ん中で、お互い泥だらけになったミソラとタケヒロが、何やら喚きながら取っ組み合いの喧嘩をしていた。
 その喚き声の中身を聞いて、トウヤは呆れた様子でヴェルを見下ろした。ヴェルはのんきな顔で首を傾げた。
 先に気付いたのはタケヒロだった。向こうに立っている男を見つけたタケヒロは、途端に表情を強張らせて、掴んでいたミソラの肩を突き放した。それでも泣き叫びながら掴みかかってくるミソラを蹴り飛ばしてから、タケヒロはべーっと舌を出して(これは明らかにトウヤに向かって)、ポッポたちを連れて路地の奥へと一目散に逃げていった。
 ひっかき傷だらけのミソラはすぐに立ち上がって、泥と涙でぐちゃぐちゃの顔で、めいいっぱいの声を張り上げた。
「お師匠様を、馬鹿にするなーッ!」
 そうしてぺたんと座りこんで、わんわん泣きだしたミソラの後ろで、トウヤはどうすることもできずに、日が暮れるまでその場に立ち尽くしていた。





  
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