9 ココウは『砂漠のオアシス』とまで称される町だ。南北に貫く商店街は、昼間であればかなりの賑わいを見せる。入り乱れる無数の足が石畳を踏み鳴らし、騒がしいほどの売り文句が絶えずうたわれ、誰かの談笑が賑やかに響き続け、大通りは平和そのもののような顔をして、人々を迎え入れる。その晴れやかな表情は、たちまちのうちに、どんな旅の人にもポケモンにも、この大通りこそがココウなのだと思い込ませる効力があった。 しかし、この町に住んでいる人間であれば、誰もが口を揃えて言うだろう――ココウの真の姿は、その一歩踏み入った先にしか、見ることはできないのだ、と。 十年以上ここに住んでいるトウヤでさえ、一本でも大通りを外れるときは、モンスターボールの確認を決して怠らない。 角を曲がればそこは――昼間でも十分に薄暗く、気味の悪い場所だった。踏みしめるのはむき出しの地面。鼻をつくのは腐乱臭か。両脇にそびえるのは木造の、しかし何の温かみもない煤けた家。そうでなければ土の塀。誰かとすれ違えば容易に肩をぶつけられるほどの路地の狭さが、一層閉塞感をにおわせている。どこからか飛び出した人間に身ぐるみを剥がされるか、また質の悪い輩に殺されて臓器を売り飛ばされたとしても、なんの文句も言うことはできない。そんな不穏な空気が、この場所には漂っていた。 賑わいさえ遠く聞こえるこの道が、あの人に溢れる商店街の、たった一本裏の路地だと、一体誰が分かろうか。いつものことながら積み上げられたゴミの山にトウヤは眉根を寄せて、それに群がっている痩せコラッタを片足で追い払った。 人と比べればかなりの頻度で行き来してはいるが、彼だって、好きでこんな場所を通るわけではない。仕方のない事情があるにしろ、裏路地を歩く理由を作らせている相手のことを、度々疎ましいとさえ感じていた。 町の中央西寄りの、やはり粗末な家のドアを、トウヤは断りもなしに押し開いた。 突如天から降り注ぐ弾けた笑い声に、トウヤは驚くこともなく顔を上げる。涼しげな色をした丸い何かが、額を掠るか掠らないかのところでぶらんぶらんと揺れている。大仰に腹を抱えて馬鹿笑いしているのは、尾のような部分を巻き付けて天井からぶら下がっている、そのひっくり返ったチリーンであった。 リンリンという甲高い鳴き声に交じって、薄暗い部屋の奥から女の声が聞こえる。 「だあれー?」 「僕だ」 それだけ返すと、トウヤは後ろ手にドアを閉めた。チリーンはドアが閉められると同時にぼとりと床に落ちて、そこでまた狂ったように笑い転げていた。 照明はなく、高いところにある窓からの光だけが室内を照らしている。 部屋の真ん中にあるテーブルと揃いのイスを引くと同時に、奥の部屋へと繋がる通路から現れた人間に、トウヤは黙って視線をやった。やってきたのは若い女で、体を隠すように黒いマントを羽織り、この町では珍しく目元を派手に彩っている。赤くラインの引かれた唇が紡ぐ言葉は、舞い遊ぶ蝶のように軽やかだった。 「いらっしゃい、痣のお兄さん。たった今お茶を入れたところよ、それも二人分」 「まるで来るのが分かっていたみたいな言い方だな」 ふっと妖艶な笑みを浮かべて、女はもう一度部屋の奥へと消えていった。 トウヤはイスに腰かけた後、トレーナーベルトに引っ掛かった三つのモンスターボールから、一つ目と二つ目を掴んでぽいと放り投げた。解放された二匹――ノクタスのハリとガバイトのハヤテは、揃ってチリーンの方を窺うが、その頃にはチリーンは床の上に伸びて、口元を緩ませて静かに天井を見つめているのみであった。ハリはチリーンの視線の先、何もない天井を見上げて、ハヤテは脇の棚にぶつからないように体を伸ばし、トウヤはそれらを大して興味もなさそうに眺めた。 戻ってきた女は机の上に二つの湯呑みを並べて、それから足元へ給餌用のトレーを持ってくると、大きめの袋から茶色い固形物をその中へと流し入れる。ゆっくりした動作で振り返るハリの横で、ハヤテが落ち着きなく体を揺らした。 「もう一匹には?」 「結構だ」 トウヤの指示とともに二匹がエサに手を出し始めるのを見届けて振り向いた女は、湯呑みと引き換えに差し出された紙を受け取った。ポケットから取り出されたそれは、砂埃に薄く汚れている。 「キブツでの一件はそこにある通りだ。ターゲットはリングマ一匹、飼いきれなくなって外に逃がされたものが町に戻って暴れたそうで、トレーナーが一人死んでいる。連中の到着はその翌朝で、僕が着いたのはその昼だ。もう事は済んでいた。リングマは捕獲されて連中が持ち帰ったらしい。例の薬との関連性は低いように思うが」 その間、女は黙って資料に目を通し続けていた。固化餌がぼりぼりと噛み砕かれる音だけが響く。トウヤは口をつけた湯呑みを置くと、更に言葉を継いだ。 「付け加えるなら、使用されたポケモンはニューラが二匹、チルタリスが一匹」 「その情報はいらないわ」 ぴしゃりと言い放った女にも構わず、トウヤは続けた。 「それはそれは見事な捕獲劇だったそうだよ。あっという間の出来事だった、麻酔銃も網も使うことなく、建物に被害も出さずに、あんなに上手くポケモンを操れるなんて、トレーナーとして見習わなければいけない、やっぱりポケモンのことは『リューエル』に任せておけば安心だ」 「へぇ、うらやましい話ね」 手元に視線を落したままの女の冷めた声に、トウヤはもう一度湯呑みに手を伸ばしながら、全くだ、と呟いた。 「しかし遅かったわね。キブツまでの移動時間を考えても、五日もかかる内容じゃないわ」 「あぁ、これを手に入れるのに苦労していた」 そう言ってトウヤが机に置いた小瓶に真っ先に飛びついたのは――他でもない、先ほどまで床に寝そべっていたチリーンであった。 女の制止も聞かずに、チリーンは眼球が飛び出そうなほど目を見開きながら念力を使って小瓶の蓋を吹き飛ばし、中身をテーブルの上にぶちまけた。給餌トレーから視線を放したハリとハヤテが遠巻きに見つめる中で、チリーンは狂喜的な笑顔で撒かれた乳白色の液体に顔を突っ込んだ。 テーブルから転がり落ちた褐色の小瓶は、ハヤテの足に音もなくぶつかった。鼻を近づけようとするハヤテにトウヤが釘を刺す間に、体中を液体まみれにしたチリーンはふと顔を上げ、急に現実に引き戻されたかのように真顔に戻って、よたよたとテーブルを降りると、そのまま力なく床に転がってしまった。 ふいに訪れた静寂の中に、立ちあがったトウヤが小さく吐く息の音と、イスが引かれる音が吸い込まれていった。 「残念、またハズレみたいね」 その間に奥の部屋から布巾を取ってきた女に笑われて、トウヤは渋い顔で巻きっぱなしの紺のマフラーを鼻の頭まで持ち上げた。テーブルを適当に拭いた布巾をチリーンの方へ投げると、女は棚の引き出しの中から茶封筒を取り出して、給餌トレーを片づけたトウヤに手渡す。 「それ、今回の報酬ね。ご苦労様」 「……あぁ」 奥の部屋へと下がる女の背中を確認した後、トウヤは茶封筒の中身を引き出して、収まっていた紙幣の枚数を確認する。それを元のように戻してから、隣のポケモンへと恨めしげな表情を向ける主に、ハリは小首を傾げながら黙っていつもの笑顔を返した。 手を洗って出てきた女に、顔の下半分を隠したままのトウヤは、視線を合わせないままで呟くように言った。 「……もう少し出ないか」 「え?」 「次の分を先に出してくれて構わない」 一瞬だけ、薄暗い空間に沈黙が走った。 ふと真意を悟った女は声を上げて笑って、不敵な笑顔で男の表情を覗き込んだ。 「なんで? 普段はそんなこと言ったりしないわ」 頭一つほども小さい相手から逃れるように、トウヤはモンスターボールを構えて自分の従者たちへと向き直る。 「厄介者がいるんだ。長居をさせるつもりはないが、おばさんにはいつもより多めに納めないといけない」 「それが噂の、誘拐してきたっていう遠国のお姫様ね?」 浮き立ったいたずらっぽい声に、トウヤは思わず肩を落とした。 二匹をボールにしまって女の方に向き直ると、彼女は瞳を意地悪そうに輝かせてこちらを眺めている。先程までのきりりとした表情は微塵も残っていなかった。 「……どうして知ってるんだ」 「道化の彼が騒いで回ってたわよ。酒屋の化け物が、外人を連れて帰ってきた! ってね」 「迷惑な話だ」 「もう町中の噂の種って感じね、おめでとう」 トウヤは黙って彼女に視線をやった後、今度は大げさに溜め息をついて、もう一度イスに座りなおした。 「そう今日は、そのお姫様の話が聞きたかったのよ、私」 「お姫様なもんか。……あれは獣だ」 その言葉に、ひょいとテーブルに腰かけた女はにやりと口角を上げる。 「へぇー、気に入ってるんだ」 「どうして」 「事あるごとに、人間にはうんざりだ、ポケモンの方がよっぽどマシだ、みたいに言うじゃない」 「それは……」 トウヤは言い淀んで、右腰のボールへと目をやった。 それから、再びマフラーを首まで下ろして顔を上げたトウヤは、先ほどまでより幾分強い声色で、目の前の女へと投げかけた。 「それは、君だって同じだろう、レンジャー」 ククッと肩を揺らして、女はまた奥の部屋へと戻っていく。 『レンジャー』と呼ばれた鋭い顔つきの女の、その翻るマントの下には、目を覚ますような赤色の制服が隠されていた。 * 商店街を駆け抜けたミソラはふと足を止め、荒い呼吸を整えながら振り返った。 元来た方にはたった一本の通りがあった。しかし人波の向こう、酒場のあの朱色の屋根は遥かな彼方、もうどこにも見えやしない。 額に滲んだ汗をごしごしと拭う。ひしめきあう家々の屋根を飛び越えていくエイパムだけを視界に入れ、無我夢中で走ってきた。見知らぬ道を考えなしに突っ切ってきたことを思うと、背筋を逆なでされるような気味悪さがある。確かに砂漠で気がついてからここまで、全部が全部見知らぬ場所ではあったけれど、それでも今のように、自分一人きりではなかった。 急に溢れだした不安が、子供の小さな胸を圧迫し始めた。迷子になったとして、どうやって彼の元まで帰ればいいのだろう。道を尋ねても、見ず知らずの自分に優しく教えてくれる人なんているのだろうか。確かに大きな一本道を来たはずだけれど、でも、もしかしたら……。 そこまで考えた時耳に飛び込んできた短い悲鳴に、ミソラはぱっと現実に引き戻された。 急いで路地の中に入り込んで、声のした方を、そっと覗きこんで――ミソラは目を丸くした。 拳が注いだ。あの禿げのあるエイパムが、グーでごちんと殴られた。キッともう一度鳴いて姿勢を低くするエイパムを見下ろすのは、五、六人の薄汚れた服をまとった子供たち。エイパムも貧相な見た目だが飼い主らしいその彼らも、やはり総じて骨の浮いた体つきをしている。 そのリーダー格らしい一番背の高い少年が、指にぶら下げたものをエイパムの耳元で揺らした。 「バカか! せっかく上手く忍び込めたのに、こんなもん盗んできてどうすんだよ!」 「こんなんじゃちっとも金にならねぇよ、使えねぇ奴だな」 「今度失敗したら、煮て食べちゃうって言ったでしょ!」 そうしてまた叩かれて、エイパムはギギッと悲鳴を上げる。その拍子にリリンと鳴った、背の高い少年の指に引っ掛かっているものは、まさしくエイパムが盗み出した真っ白な鈴であった。 ――取り返さないと。その湧き上がる衝動の正体は、単に褒められたいが故の子供らしい発想でもあったけれど、それに勝るのは世話になった人の役に少しでも立ちたいという当たり前の思いだった。ミソラはきゅっと口の端を結び、拳を固く握りしめ、子供たちのいる路地へと飛び込んだ。 「うわぁーッ!」 突然の叫び声に、エイパムを取り囲んでいた子どもたちは一様に驚いて振り返り、そして金髪碧眼の子供を見て更に目を丸くした。それでも一番反応の早かった背の高い彼は、即座に右手を振ってエイパムに指示を出す。 「ロッキー、スピードスターだ!」 キャキャッと返事をすると、エイパムは軽く飛びあがって宙返り、その反動で勢いよく振り下ろす尾から星型弾を打ち出した。光り輝く『スピードスター』は走り込んでいったミソラの体に直撃した。前進する勢いがはね返されたと思うとすぐ、ミソラは数メートル向こうまで吹き飛ばされた。どしゃ、と地面に落ちた瞬間、スピードスターの衝撃と相まって、鋭い痛みが貫いた。 大通りを裏返した様相の薄暗い路地の先、さまざまな表情でこちらを見ている子供たちと、くりくりした瞳を向けるエイパムが立っている。歯を剥きフゥフゥと威嚇するその小さな薄紫を見て、急に膨張する恐怖に思わず体が震え、逃れるようにぎゅっと目を閉じる。 ――あぁ、でも、 ミソラはふっと目を開けた。 次にエイパムを視界に捉えた時には、一瞬前に体を支配した感情は、不思議なほどに消え失せていた。 ずんと掴むように片腕を付き、ミソラはふらりと立ち上がった。ポケモンの技を食らってもなお尻尾を巻かない異邦人に、子供たちは怖気づいて後ずさりした。獣の光を帯びた空色の瞳が彼らに向いた。その目に、明白に怯える少年少女の形が映った。 自分でも何か分からぬことを叫びながら、ミソラは再び彼らに体当たりをかまそうと駆け出した。エイパムがくっと姿勢を下げ、背の高い少年が震える右手を振り上げて怒鳴った。 「もう一度スピードスター!」 キキャッと返事を返したエイパムが、視線を合わせ、スピードスターを繰り出すためにとんっと飛びあがった――その刹那。 「吹き飛ばし!」 甲高い声とともに、狭い路地を猛烈な突風が駆け抜けた。 風切り音が耳を叩いた。路地に転がる雑多なごみ屑が一気に煽られ様相を変えた。ミソラと子供たちは一斉に足を踏ん張ったが、空中のエイパムは成すすべもなく吹っ飛んだ。 「ロ、ロッキー!」 足元に転がった薄紫の細い体を抱え上げたと同時に彼らの前に滑り下りたのは、茶と白の毛並みを持つ取り小鳥ポケモン――一羽のポッポだった。ポッポが翼をふるうと、子供たちは見かけにそぐわぬすさまじい風圧を受けて吹き飛んだ。ミソラはその様子を、ぽかんと口を開けて眺めていた。 突然の敵襲に慌てた子供たちは、エイパムを抱えたまま走り去ろうと背中を向けた。そこにもう一羽、天から颯爽と現れたポッポが背の高い少年の頭をつつきまわし、少年は何かわめきながら手の中のものを放り捨てて逃げていった。 一瞬の喧噪の後で、ミソラはへたりとその場に座り込んでしまった。ポッポの一羽がやってきてそのくちばしからミソラの足先へ、コトリと何かを落とす。赤い紐のくくられた白い鈴が、涼やかな音を立てて転がった。 「ツー、イズ、戻れ!」 その声に一瞬遅れて、背中の方向から真っ赤な光が走り、瞬く間に二匹のポッポを飲み込んだ。ポッポの影が崩れていく、モンスターボールの光だ。惚けていた意識を急いで引き戻して、ミソラは立ち上がり振り返る。 突き出した両手に一つずつボールを構えていたのは、先ほどの子供たちと似た薄汚いなりをした、ミソラと同じ年頃の少年であった。 「あっ!」 その顔を見て、ミソラは思わず声を上げたが、その時には既に少年は走り去っていた。追いかけて大通りへ戻ると、そこには流れ続ける人波がある。必死に目を凝らせど、あのボサボサ頭の少年の姿は、どこかへ消えてしまっていた。 ミソラは肩で息をつく。 その少年は、最初にトウヤのおばの酒場に入った時に、突然飛び込んできて、嵐のように去っていった、あの甲高い声の少年だった。 |