眩しい世界


 それは前向きに解釈すれば、とても都合のいい機会だった。
 僕は引っ越しでもすることにした。廃墟となったお城の糸くずを丁寧に回収して、低木の根元に埋めた。これならだれも足を引っ掛けることはあるまい。荷物も未練も何一つ残さずに、僕は獣道を歩きだした。バタフリーは湿気の海をぷらぷらと泳ぎながらついてきた。
「好きなの、人間」
「なんで僕が人間を好きになるのさ」
「こっちが聞いてるの。だって、食べなかったじゃない」
「近づいてみたら、ちょっと臭かったんだよ」
「もしかして同情しちゃった?」
「するわけないだろ!」
「あー、怒っちゃって、かわいいー」
「哺乳類なんて血生臭いし、口に入れたくもないね」
「食べたことないくせに」
「ふんだ」
 そよそよ風が木の葉を揺らして、穏やかな昼下がりを演出する。これ以上にはない、絶好の引っ越し日和だった。
 バタフリーは茶々を入れてくるけれど、僕の足取りはどこまでも軽い。
 引っ越し先の目星はつけてあった。おいしい木の実で評判の、南の小川の手前のあたり。
 南の森と言えば、起伏の少ない地形に、性質として穏和なポケモンが多く住む、暮らしやすい地域として名高い。子育てのためにわざわざ南の方へ下る家族もいるくらいだ。
 しかも、その小川の河原は、森の生き物たちの憩いの場として大人気なんだとか。
 僕は想像する。優しい日差しの注ぐ午後、鳥のさえずる平和な森。甘い木の実をたらふく食べて、河原でぽかぽか昼寝でもして、幸せな気分でねぐらへ帰る――その帰路を僕が襲う。初めての巣を掛けた日より、僕は随分賢いのだ。計画は完璧だった。別に僕が木の実を食べるためでも、昼寝をするためでもない。
 幸いにして、僕が前から狙っていた木と木の間はまだ空き家のようだった。僕が立ち止まると、バタフリーは枝にとまってうーんと翅を伸ばした。
「へぇー、なかなか気持ちのいい所ね」
「気に入った?」
「うん、香りもステキ。何色のお花かしら、ちょっと行ってみましょうよ、イトマルちゃん」
「え、いや、だって、僕は巣を――」
 どこからか漂ってくる甘い匂いにつられるように、バタフリーはふわりと飛び立った。
 無視して巣作りを始めることもできたけれど、しばらく歩いて僕も少し疲れている。腹が減っては戦はできぬ、と言うけれど、疲れた体でいい糸が吐けた試しもない。僕はひとまず彼女の背中を追った。


 獣道の周囲の鬱蒼とした雰囲気と比べて、南の森は何となく広々としていた。乱雑に立つ木はむやみに身を寄せず、太陽の恩恵を分け合うように葉を広げている。ほのかに湿った地面には、くしゅっとした愛らしい花が歌うように体を揺らす。小川からの風は涼しくて、ポケモン達の声は賑やかで。バタフリーは顔を回して空気を嗅いで、せわしく翅を動かしている。すれ違ったナゾノクサにこんにちはと挨拶されて、僕はおどおどと会釈を返す。星のような赤い両目はどこまでもにこやかで、僕は地に足のつかない感覚を覚えざるを得なかった。
 道を尋ねたリングマの、その背中に隠れる小さなヒメグマと目があった。小枝を踏み折る音にも反応してホーホーが首を回すので、そうっとそうっと足を運んだ。風が撫ぜるたびに森全体が笑って、僕らを抱いて木漏れ日が揺れた。
 木々の間を抜けると、さっぱりと視界が開けた。と同時に強いきらめきが僕の目を襲って、僕はとっさに目を瞑った。もとから夜型の僕で、樹木の広げる手が空を覆わない世界で活動するには、随分と時間がかかる。
 僕はゆっくりを目を開く。
 ――きらめきの正体は小川だった。
 波打ち、時折白いあぶくを立てて、ゆったり流れるそのみなもに、日の光が幾重にも反射する。
 河原には子連れのポケモンや寄り添う二匹、腰を下ろして談笑する者たち。
 足元には咲き乱れる赤や黄、白、橙、宝石のように輝く若草、その空間すべてを包む、嫌味でない甘やかな香り。
 僕は思わず足を引く。――なんて、なんて眩しい世界なんだろう。
 バタフリーはひらひらと飛んでいって、楽しそうに花の匂いを嗅ぎ始めた。僕は木陰に座り込んだ。 目の前には、容赦のない太陽光が降り注いでいる。浴びればたちまちに体を焼き焦がして、本当の意味で色違いになれそうだ。もちろん、夜行性でない彼らには当たり前の光なんだろうけど。
「イトマルちゃん、おいしいよぉ」
 白と橙のまだらの花を手に笑いかけるバタフリーに、僕は目を細める。
 そのガラスの翅は、明るい日差しの下で、僕が今まで見てきた何よりも鮮やかな、しかし凛とした輝きを湛えていた。ひらりとここまでやってきた彼女から漂う匂いは、とろけそうなほど甘い。
「おいしいよ」
 そう繰り返して差し出された花を、僕は手にとって、どうすることもできなかった。
 バタフリーは、もう一輪折ってきて僕の前でそれを吸ってみせた。花弁の根元をつまみ、その奥の方の何かを、促されるままに啜る。とろりとしたものが僕の喉を滑る。思っていたのよりもずっと後に引かない甘みに、僕は驚いて顔を上げた。バタフリーは満足そうに笑った。
「おいでよ、イトマルちゃん」
 そして彼女は、僕の背中を押す。
 されるがままに日向へと向かった僕を、焼き焦がすでも、嘲笑うでもなく――呆れたくなるほど、まるで当たり前のように、眩しい世界は迎えてくれた。


 その日が暮れて、僕は巣を張った。
 場所は申し分なかった。調子だってこれ以上は上がらないだろう。静かな森のざわめきだけが支配する宵の口、ぷっ、と僕が最初の糸を吐く音は、誰の耳にも届かなかった。糸と糸が交差して小刻みに揺れた。静かに着実に、巣網の形が浮かび上がった。
 僕はせわしく歩き回り、僕の生み出す芸術的なお城の色つやを、あらゆる角度から確認した。誰にも負けない、黄金比率のその形。
 夜が明け、雑木の海の向こうから一枚の光が差し込んで、張り巡る糸を白く浮かび上がらせた。僕は最後に、正面からそれを見上げた。
 ――満足だ。心の底から湧き出るものが、手足の先っちょまで支配した。弛む顔を抑えられなかった。
 暁に君臨する僕の新しいお城は、どのクモの糸よりも強く、どのクモの糸よりも美しい――痺れるほどの太さでもって、その輪郭をかたどっていた。







 
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