クモのす





クモのす


「喰っちまうぞぉ」
 確か嵐の夜のことだ。
 ごうごうごうと夜が騒いだ。真横に吹っ飛んでいく雨粒にしてもそうだけど、大風にさらわれた緑や黄色の木の葉っぱが、遠慮なしに叩くもんだから、僕の足元はひっきりなしにぶんぶん揺れた。
 闇の中で、次々と飛んでくるもののどれが『たべもの』で、どれがそうでないのかなんて、確認する余裕も持ち合わせていなかった。無理にあけると目ん玉が痛そうだったし、そもそも暗くて何にも見えやしなかった。
 あと、怖かったのも覚えてる。何かよくないものの気配に、ざわざわと体を舐められるような気味の悪さ。びゅうびゅう風の鳴る中に、近くから遠くから、高いとも低いともつかない声が、途切れ途切れに聞こえていた。
「いひひ、喰っちまうぞぉ」
 怖かったんだ。その時は、怖くて怖くて、体中がぞわぞわして、つま先までびりびり痺れた。
「次はお前さんだ、ひひ」
 でも今は、まぁ怖くないって言えば嘘になるんだけど。
「喰っちまうぞ、いひひ。待っとれよぉ」
 怖いというよりはむしろ、楽しみなわけで。





 というのも、何を思ったんだか、あの幼い日のおばかな僕は、自分が吐ける一番頑丈な糸で、たくさんのポケモンが行きかう獣道のど真ん中、そして一メートルもあるポケモンなら頭を引っかけてしまうくらい低い位置に、どでんと巣を構えた。
 道を挟んだ一方の木にせっせとよじ登って、ぴゅっ、とぶっとい糸を吐きだした時の僕のことは、いくら恨んでも恨みきれない。
 お日様が顔を出してから、てっぺんのあたりで僕のことを笑って、それから火照った顔を隠すまで、僕は夢中で巣作りをした。出来上がった僕だけのお城は、初めてにしては上出来すぎるくらいに見事な造形だったから、僕はその真中に座って、一体どんな感動を味わったのかは多分言い尽くせない。とにかく僕は満足した。新築のマイホームで一夜を明かして、二夜を明かして、五夜くらい明かしたころには、だけどまぁ薄々感づいていたに違いない。
 獲物は一匹として引っかからなかった。
 当たり前といえば当たり前だった。糸はあんまり太すぎて、遠くからでもよく見えた。獣道は足場も悪いしうねっていたので、そこで猛ダッシュする馬鹿なんていない。たまにやんちゃ盛りの子コラッタが二、三匹でレースを繰り広げていたとして、彼らはおちびすぎてトラップの下をやすやすと潜り抜けてしまうのだ。薄紫の長い尻尾が引っかかったとしても、経験の浅すぎる僕の糸はいとも簡単に引きちぎられて終了である。その時の僕の絶望感ったら、それこそ語りつくせるものじゃない。
 一つの季節が過ぎる間も、僕の自慢の巣網は誰一人として捕らえられなかった。
 何を食べてお腹を満たしたのかといえば、モモンだったり、オレンだったり、セシナだったりする木の実の類。それはクモである僕にとって、凄まじい屈辱であった。熟れて地面に落ちたオレンを回収する姿を兄弟に見られた時は、恥ずかしさのあまり色違いになれるとさえ思った。何せ兄弟はとっくの昔にアリアドスになって、緻密な作りの巣の上でお食事の真っ最中だったのだ。しかも、あのおいしそうなテッカニンは確かに、昨日獣道を通りすがって、僕を見て意地悪く鼻を鳴らしたあのテッカニンだった。
 そんなこんなでも僕が今日まで引っ越しを考えなかったのは、枯葉や枝が引っかかって修復を重ねてもなお美しすぎるお城のこともあったけど、ここにきて初めて出来た友達のこともある。
 皮肉なものだけど、彼女は初めての僕のごちそう候補でもあった。
 よく晴れた日の昼下がり、彼女は突然空から降ってきて、どしゃんと僕の巣に落下した。昼寝をしていた僕は、足場から伝わる衝撃に飛び起きた。
 横には、若芽色のキャタピーが一匹巣網に引っ掛かって、茫然とした顔で僕の方を見ていた。その脇腹が赤く汚れているのを見つけた瞬間、大きな影が僕らに被さると同時に、ギョオギョオと甲高い鳴き声が耳をつんざいた。頭上には怒り狂ったピジョンがいた。どうやら、彼は大暴れする昼飯をくちばしから滑り落してしまったようだった。
 獲物を横取りされたとでも思ったのか、ピジョンはけたたましく喚き散らしながら、翼を振り上げてこちらに攻撃を仕掛けようとした。僕はとっさに毒針を吐いた。運のいいことに、黒光りの細い針はピジョンの急所をとらえた。僕は立て続けに毒針を繰り返した。
 かくして、明らかに僕らの方が格下だったにもかかわらず、ピジョンは大慌てで逃げ帰ってしまった。それが初めての勝利だったと言えば、そうだ。なんだか感慨深い。
 キャタピーは震えるでも、わめくでもなく、大仰な尊敬の眼差しで、天敵である僕のことを見ていた。同じ虫ポケモンとして、誇りに思うわ――彼女はそんなことを言って、大きな瞳をきらきらさせた。今思えば、それは彼女の保身の策略だったに違いないのだけれど、僕も得意になっていたから、棚ボタの獲物なんてお呼びじゃないやい、みたいなことを言って彼女を逃がしてやった。
 それから幾月が過ぎて、彼女はつややかな翅と黒曜の体色を持つ美しいバタフリーになって、時折こうして僕のことを見下ろしに来たりする。
「イトマルちゃん、今日の収穫はどぉ?」
 涼やかで甘い声色は、奏でられた調べのよう。しんと透き通った翅は、虹を住まわせているかのようにちらちら輝く。しなやかに揺れる対の触角は、いつだって毛の一つ一つまで磨き抜かれている。
 小さな虫と小さな虫だった僕らの間は、いつの日からか絶対的な差が生じていた。
「いつになったら、アリアドスになれるのぉ」
 そう言ってケラケラと笑う彼女の瞳の、その奥の方の蝶々らしい深い色は、全くあの日のままだけれど。
「急がなくたって、なれるさ」
「木の実じゃ大きくなれないぞぉ」
「ふんだ」
 僕がバタフリーから顔を背けた途端、彼女はおや? と首を伸ばした。
 ……聞こえる。小枝を踏む足音。小刻みな息遣い。湿った空気をかき分ける二つの体。
「こちらに向かっているわ」
 小さいのと、大きいのと。向かってくる足音は早い。
 最初に現れたのは、普通より一回り小さなコラッタだった。緩やかにカーブした獣道を一目散に駆け抜ける子鼠の後を追うのは、二足歩行の比較的大きな生き物――人間だ。それも、その手には紅白の球が握られている。
 バタフリーはとっさに木陰に身を隠した。僕も巣を掛けた一方の幹に飛びついた。その球が危険なものであることは、世間知らずな僕だって知っているほど周知のことだった。
 コラッタは行く先に白く張られたものを見つけると、木に張り付いている僕のことをちらりと窺って、尻尾をひょいと下げた。例に漏れずコラッタは巣の下を難なく通過した。続く人間の方は標的のポケモンだけに視線を集中させて、駆ける足を止めることなく――僕のお城に、正面から突っ込んでいった。
「あっ!」
 声を上げたのはバタフリーだ。僕はあまりの驚きに、目を見張ることしかできなかった。
 人間は顔から糸に突っ込んだ。訓練を重ねて強度を増した僕の糸はその衝撃にも切れなかった。胸から上をせき止められた人間の体は足掻いて、掬われるように尻から地面に落ちた。何かを喚きながら振り上げた右手に糸が絡みついた。それを振り払おうとした左手に糸が絡みついた。体の上に垂れこんだ糸が、その粘性をもって両足を縛りつけた。動けば動くほど人間は惨めな姿になって、ついに身動きが取れなくなった。
 コラッタはその様子を遠巻きに眺めていたが、ふと我に返ると慌てて森の奥へと逃げていった。
 おかしな格好で力んでいる人間は、僕の視線に気づくと、さっと青ざめて固まってしまった。……肉付きの悪い細い四肢。ぎょろりと開いた目に、小さな頭。それはまだ子供だった。
 人間はがちがちと歯を鳴らすと、また知らない言葉で叫びながら必死にもがき始めた。掌からころりと球が転がり落ちた。動かない右腕がそれを求めた。それを持っていない人間が恐るるに足りないことも、この辺りではよく知られている。
「食べちゃえば」
 バタフリーが軽やかにささやく。悪魔の果実の甘い響きに、僕は酔いそうだった。
 道の真ん中で囚われ震えているのは、生まれて初めての、偶然でない、僕の城への来訪者。人間とはいえ、初めて自分で捕まえた獲物の味は、初めて巣を完成させたあの興奮のように、最高の喜びをもたらすに違いなかった。生肉というのは、どんな香りがするだろう。噛みしめる度に旨みが染み出すとは、本当なんだろうか。自らの失態でエサとなった相手を、ほいほい逃がしてやる道理などなかった。あとは、その甘そうな首筋に、ぷつ、と毒針を刺し込むのみだ。血は巡り、人の子は痺れて苦しみ死ぬだろう。そうして、その柔らかな腹に歯を添えればよい。それだけでよいのだ。その血肉が僕の血肉となるまでのプロセスなんて、笑いがこみ上げるほど簡単なことだった。
 僕は幹を下り、じっくりと獲物に近付いた。悲鳴を上げるその顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。何事かと集まったポッポやタネボー達が、僕と人間のことを興奮した目で見やっていた。人間なんてやっちまえ!――そんな声も聞こえた。
 もう殆んど動けない獲物に僕は足を掛けた。頬に感じる前足の感触は、果たしていかがなものだろう。人間は顔を引きつらせ、きつく目を瞑り、意味をなさない抵抗を見せた。怯まずに僕はその、じっとりと汗の滲んだ首筋に、毒々しい色の牙を、そっと押し当てた。人間なんてやっちまえ!――誰かが同じことを言った。視界の端では、バタフリーが薄ら笑いを浮かべて見下ろしていた。
 むわりと漂う土と青草の匂いを、最後の絶叫が引き裂いた。
 僕はその肌に牙を立て、そして――


 ……その纏わりつく白い糸を、ぷつん、と切り落とした。
 怒号が止んだ。しんと静まった空気の中に、鳥ポケモンの甲高い笑い声が遠く聞こえた。
 僕は続けて、お手製の太い糸が絡まった右手に手を掛け、縛るものを順に取り除いていった。人間の体は相も変わらず震えていたが、その涙と鼻水は収まって、泥汚れのひどい間抜け面で僕の方を見ていた。
 右足、左足、左手、と順に自由にしてやって、僕は人間に目をやった。頬にはまだねっとりとした糸が張り付いたままだった。それを前足でぴっと払ってやると、唖然としていた人間は突然我に返って、大慌てで立ち上がって元来たのとは別の方へと駆けだした。と思えば、戻ってきて僕の方を窺いながら紅白の球を拾い上げて、もう一度急いで木々の向こうへと消えていった。
 それを見送って辺りを見回すと、さっきまで群れていた観衆は、もうバタフリー以外いなくなってしまっていた。
 そよそよと生温かい風が吹いて、無残に垂れさがった僕の巣の残骸を揺らした。
「……どうすんの、あんた」
 バタフリーの言葉には、せっかくのごちそうを取り逃がした僕への非難のニュアンスも込められている。
 どうすんのなんて聞かれても、僕は僕がどうしてしまったのかも分からなかった。








<ノベルTOPへ>