グレンがバズーカを抱えてやってきたのは、三人がハギの酒場まで戻ってきてからすぐのことだった。
 トウヤはカウンターの中でぼんやりスプーンを磨いていて、ミソラとタケヒロは円卓に腰かけてぼんやりしている最中だった。がらんがらんと呼び鈴が鳴り、よお、と普段通りの軽さで登場したグレンを三人とも見やったし、その腕が抱えている黒光りする大きな筒も全員が目にしたが、全員がそれを無視した。こんにちはと頭を下げたのはミソラだけで、トウヤは布でひたすら曲面を擦る作業に、タケヒロはストローを咥えてソーダ水に空気を送り込む作業にそのまま戻ってしまう。仕方ないので、グレンはバズーカを携えたままミソラの向かいの席にどっかと腰かけた。それから、つまらなさそうにスプーン磨きを続ける男に武器を掲げて見せた。
「いいだろ、これ」
「僕は好きじゃないな」
「ほら、お前はそうやって、自分のセンスに合わないものには目を向けようともしない。今に時代に置いていかれるぞ」
「そうか」
 つれない友からターゲットを変更し、バズーカを肩に担ぎながら狙いは正面へ。照準の向こうの異邦人は引きつった苦笑いだ。
「ここにモンスターボールを入れるんだ。んでこのスコープを見て狙いを定めればだな、遠くの獲物まで、ボールをドカンと」
「そうですか……」
「おいおい、リアクションまでお師匠様のマネか?」
 照準器から目をずらせば、その隣に腰かけている捨て子の少年はこれ以上ないくらい冷たい顔でこちらを見ているし。辛気臭い飲み屋だな、と吐きながらグレンはバズーカを床に寝かせた。
「さあ酒を出せ、従業員」
 パタパタと飛んできたタケヒロのポッポ二羽が、なぜかタケヒロを素通りしてグレンの両肩にとまる。グレンは二羽とも軽く挨拶を交わした。当のポッポの主人は、他人に愛想を振りまいている相棒たちのことは別段気にしていない様子。
 スプーンの丸い輝きを薄暗い室内光にかざしながら、働かない従業員の返事はいつも以上に低い。
「従業員の機嫌が悪いから今日は閉店だ」
「おお、おお、いいのかそれで? ハギさん泣くぞ?」
「……金は払うんだろうな」
「もちろん」
 従業員がやれやれとスプーンを手放して動き出すと、「お前の財布からな」と耳打ちしてくる。こんなに重い空気なのに、なんて奔放な人なのだろう。ミソラもタケヒロも笑ってしまった。
 店の隅でぐーすか寝ているビーダルのヴェルは、賑やかしが増えても相変わらず。ボールから開放されてその辺に群れていた他のポケモン達は、男の参入に少しそわそわしているようだ。トントンと包丁の音が聞こえてくると、ハヤテがもっとそわそわする。ハヤテの主人は手早く何か刻んで、それからフライパンを手にした。ミソラもそわそわした。じゅうじゅうと焼ける音が聞こえると、腹の虫までそわそわしてくる。
「それで」
 グレンがそう切り出した時には、もう二つ目のビールジョッキが空になっていた。
「どうしてそんなに辛気臭いんだ、お前ら」
 凡そ気を遣ったのだろう、辛気臭いとぼやいてからはかなり時間が経っているが。
 単刀直入な投げかけに、明るくなりつつあった子供たちの表情がまた曇天へと変貌する。ともすればにわか雨でも降らせんばかり。年少者への砲撃は雨天中止、太陽の男グレンもさすがに閉口して、四六時中はっきりしない空模様の年長者へと目をやった。そわそわしながら寄ってきたハヤテにひとしきりつまみ食いさせた後で、トウヤはグレンと視線を合わせた。
「……不甲斐ない話なんですけど」
 それだけ言って、視線がフライパンへ落ちる。
「かねてから懇意にしている娘がおりまして」
「『こんい』ってなんだ?」「さあ」
 子供たちが首を傾げる。傍ら、グレンはわざとらしく、ごくり、と息を飲んだ。
「お前……」
「その娘が目の前で、こう」まな板からどばどばと刻み野菜を投下しながら、だんだん声が小さくなる。「泣きながら『一人にして』などと言う訳で、それで僕らは――」
「お前、女ができたのか!」
 グレンが叫んだ。
「はああぁっ!?」
 タケヒロも叫んだ。机を叩きながら立ち上がった。
 静まり返った空間を満たすのは、油の跳ねる音と、ハヤテの鼻息だけ。ぱちぱちぱち。ふんふんふん。……トウヤは暫し口を閉ざして、完全に話を理解していないミソラのぽかん面を、ちらりと一瞥した。
 流れる沈黙。脳内で追想する会話。発言を省みる時間は、十分すぎるほど設けた。
 だからトウヤは真顔で続けた。
「僕『ら』はそのまますごすごとその子の家を去ってきたのですが」
「お、おい待て、『こんい』ってカノジョって意味なのか? ねーちゃんのことカノジョだっつったのかおま、何言ってんだ一発殴らせろ」
「ああじゃあ僕の言い方が悪かった、懇意じゃない、ただの知り合いの女の子だ」
「そうか……苦節二十二年……」
「だからちが」
「違いますよ、二十二年じゃないですよ」
 理解していなかったはずの、ひいてはトウヤの味方だったはずのミソラが断片的に言葉を継いで、にぱっと満面の笑顔をきめながら師匠を見やる。
「彼女いたことありますもんね、ねっお師匠様!」
「――は、はああああぁっ!?」
 おおっと目を輝かせたのはグレン、タケヒロはまたしても叫んだ。大声の連鎖に萎縮しているメグミの横で、ハリはいつものポーカーフェイスを保ったままほのぼのと見守っている。
「そうだったのか? 俺の知らない所でやることやってたんだな、兄貴は嬉しいぞ」
「待て、いつだ、どこの誰だ」
「あのねぇ、ハシリイの……」
「こらミソラ」
「ああっカナちゃんか! なるほどな」
 どうも知り合いらしい。良い子つかまえたじゃないかと手を叩いて喜んでいるグレンに三日で破局した事実をミソラが告げると、手を叩いて笑い始めた。
「び、美人なのか」
 耳元に口を寄せて囁いてくるタケヒロの声は、ちょっと引くほど真剣である。
「美人だよ! あと優しいし、明るいし、面倒見が良くて」
「美人か……?」
 トウヤの独り言に、おっ自慢か? とグレンの茶々。
「まぁ美人かどうかは別にしても、気立ての良い娘さんだったな。確か家も相当でかくて……つうかトウヤ、お前よく元カノの家に毎年毎年通ってたな」
「別にいいだろ、三日で別れたんだから」「毎年行って何してたんだよッ!」
 立ったまままた机を叩いて怒声を上げるタケヒロの顔が、茹でられたみたいに真っ赤だ。ミソラは必死に笑いを堪えたが、グレンの肩の上でポッポ達が我慢できずにぷるぷるしている。トウヤは真顔を保ったまま調味料を手に取った。
「残念ながらカナとはなんにもしてない、タケヒロが思ってるようなことは」
「何だよ俺が思ってるようなことって!」「あー、でもトウヤは手が早いからなぁ」
 再三机を引っ叩く音の裏で、聞き捨てならない声が聞こえた。トウヤがさすがにぎょっとして顔を上げたのも見えた。
「手が早い、とは?」
「あのな、もうちょっとガキだった頃だが、俺とコイツでぶらぶら旅してた時に」
「グレン」
「行く町ごとに早撃ち一本勝負をだな」
「おい!」口をもぐもぐさせているハヤテを黙らせにけしかけようとしているが、ハヤテは首を傾げるばかり。
「早撃ちとは?」
「町に到着して宿を取って、その日没からゲームスタートするんだ。別々に町ゆく女の子に」
 カウンターから光るスプーンが高速で飛んできた。グレンの脇を抜けて壁に激突した。
「声をかけて、先に落とした方が勝ち。これが強くてなコイツ、この冴えないツラで」
「落とすとは」
「ミソラ、そこまでだ」
 急にフライパンのじゅうじゅう音が大きくなる。諸々の調味料を投入したトウヤが、結構本気の顔で言う。
「それ以上聞き出すなら何も食わせない」
 同時に、甘辛い香りが猛烈に漂い始める。ミソラはあえなく口を閉ざした。

 その後もよく分からない話をわちゃわちゃと喋り続ける年上同士と、なぜか頭を抱えてぶつぶつ言っているタケヒロ。だんだん遠慮から解放されて自由度を増すポケモン達。平和だなぁ。平和で、賑やか。そんなささやかな幸福感に浸りながら、また聞こえたハシリイの名前で、ミソラはふと思い出す。リグレーのテラ。あの時も随分賑やかで、その賑やかの中心あたりに、あのポケモンがいたんだっけ。
 ハシリイから帰ってきた後は、一瞬だけトウヤの『四匹目』の位置に収まっていた。けれど、そのトウヤがキブツに行って戻ってきた翌日には、テラはボールと一緒にグレンの元へ引き渡されてしまった。四つ目のボールをホルダーに収めたとき、なんだかくすぐったい感じで、照れくさそうに笑っていたのが、嘘のようにあっけなく。
 あの場所での、ミソラがあんなに楽しかった思い出のすべてを、彼は無造作に手放してしまった。そんな風に思えて、ミソラには少しショックだった。

 がらんがらんとまた呼び鈴が鳴ったのは、カナちゃんは性格も良かったがあのロマンに富んだグラマラスな体型が、とグレンが力説しはじめた辺りだった。
 そんな話をしていたからだろう。そこにあったほぼすべての視線が、戸をくぐった一人の少女の、見慣れた赤い隊員服――の次に、低めの身長に反比例する豊満な胸部に移されたのは。ただ一人の例外は、それを見るなり、仏頂面を一瞬で瓦解させて、
「かわいい……!」
 初対面の相手(の、肩にとまっている、外套を被ったパンプキンのようなポケモン)に、そう口走った。
 いや、それはいいとして。ポケモンレンジャーだ。隊員服を着ているし、キャプチャ・スタイラーを腰のポーチに収めている。それに、量の多い髪を高い位置で結わえたポニーテールな髪形を見れば、ミソラ達が先刻見かけたあのポケモンレンジャーであることは一目瞭然だ。背丈はミソラよりやや高く、タケヒロより低め。それにしては気取った歩き方が、逆に大人ごっこをする子供っぽさを醸し出している。
 女はまっすぐ歩いていって、カウンターの中でフライパンを握ったままのトウヤの前に対面した。
「あ、あの……」
 先手を打ったのはトウヤだった。今までの低空飛行はなんだったのかというくらいの声の上擦り加減と、接客用以上に弛んだ頬を見て、ミソラは口を押さえて場違いの笑いを耐えた。
「バケッチャですよね……その、一体どこ、で」
「――この子!」
 ずい、と女の右手が、勢いよくトウヤの顔面に迫った。
 何か一枚、紙のようなものを持っている。写真だろうか。興奮気味だったトウヤの顔が突拍子もない行動により元に戻って、写真を見、それから少し眉根を寄せた。
「……あー、えっと……誰だったかな」
「えっ、知らない? 知ってるでしょ」
「いや……」
「そんな、まさか」
 くるっと踵を返す。振り返る勢いでふわりと浮き上がってしまったかぼちゃポケモン――バケッチャが、ふわふわ漂ってトウヤの目の前に到達すると、トウヤはすぐさまフライパンを放棄してそれを至極優しく抱きとめた。「お前、うちにくるか?」と問うた。な、手が早いだろ、とグレンが囁く。ずかずかと女の子がやってきたのは、そんな観覧達の方だった。
 こちらの三人に向けても、その写真を見せる。
 写っているのは女の子だ。それも年頃は六、七歳と見える。両サイドで三つ編みにした髪の毛を跳ねさせながら、一生懸命おどっている様子を捉えた一枚。お遊戯会……だろうか、身に着けているのはエネコあたりの獣を模したコスチュームのようだ。頭につけたカチューシャから、ピンクの三角耳がふたつ、ぴょこんと可愛げに生えている。
「……ネコ耳?」
 タケヒロがそう呟くと、女は慌てて手を引っ込めた。それから見せていた写真を確認して、うぎゃっと短く悲鳴を上げた。
 それからもう一枚別の写真を取り出して見せた。
「今のはナシ! こっちで!」
 さて、写っているのはまた女の子だ。ただし年齢は十三、四歳くらいには上がった。共通項は『両サイドの三つ編み』だけれど、こちらは上半身だけ正面から切り取った動きのない構図で、背景は一面の青。表情も固い。そしてコスチュームは、緑色の制服のようなものだ。形状はレンジャーの隊員服にごく近い。
 この写真なら、誰なのか一瞬で分かった。
 あっ、とタケヒロが声を上げる。今度は吸い寄せられるように写真を見つめはじめた。
「ねーちゃんじゃん、これ!」
「ほんとだー、髪長かったんだね」
「あっ、待てよ、じゃあさっきのネコ耳もねーちゃんか?」
 そして先の写真の再提出を熱望するタケヒロを無視して、女はまたトウヤの方へと戻っていく。二枚目の方を見るなり、ああ、とトウヤは息を漏らした。
「懐かしい。訓練生の時の……」
 その反応に、相手はなぜかほっとして胸を撫で下ろす。それからまたカウンター越しにずいと男に迫った。
「今、『アズ』はどこにいる?」
 トウヤは目を瞬かせる。見上げてくる抱きっぱなしのバケッチャと、一瞬目を合わせた。『アズサ』の『アズ』――か、それでも別の名で呼んだ期間が長すぎた分、あの子が『アズサ』なのだと言われても、まだいまいちしっくりこない。
「どこ、とは?」
「どこに住んでるのか。ココウにいるんでしょ、アズは」
「……あなたは一体?」
 見たら分かっしょ、と、赤い隊員服の女は胸を反らせた。
「ポケモンレンジャーユニオン十二課所属、広報担当のヒダカ ユキ隊員でありますっ」
 びしっ、と姿勢を正すと、っちゃー! とバケッチャも甲高い名乗りを上げた。
「あっ、そっちのバケッチャは、ユキのパートナーで、名前はステファニー」
「……それで、ヒダカさんは」
「気軽にユキりんでいいよ、ユキりんで!」
「ヒダカさんは、写真の子とはどういうご関係で」
「はい、ユキとアズサ隊員とは、訓練生の頃から、大、大、大ッ親友であります!」
「大親友なのに住んでいる場所はご存知ないと」
「もー、だから聞いてんじゃん。しつこいなぁ」
 ついにカウンター席に腰かける。トウヤ頑張ってるな、と向こうでグレンが苦笑しているのを聞いていたのかいないのか、片肘をつき手に顎を載せながら、女――ユキは、挑発的な上目遣いでトウヤを見やった。
「ねぇ、知ってんでしょ? 教えてよ、『ワカミヤ』くん」
 ふっくらとした唇が、そのもの以上の意味合いを含めて音を繋ぐ。
 女だからなのだろうか、ポケモンレンジャーだからなのだろうか。多分どちらもなのだろう、あの子も時折纏わせる怪しい雰囲気を彼女に感じて、トウヤは確信した。相手は少女ではない。子供っぽさで武装した『策士』だ。
 バケッチャの小さな額を撫でる、何か察したのだろうか、嫌がるようにふしゅっと息を吐く。けれど、強靭な敵意を無闇に剥き出さないのは、それでいてよく訓練されている証。
 ぼんやりしているようで、訴えかけるように、ハリがこちらを見ていた。それを一瞥し、男は頷く。ユキと対等に目を合わせた。
「その前に、どうして――」
 僕の名前を?
 トウヤがそれをその場で聞き終らなかったのは、お師匠様、とミソラが急に割り込んできたからだ。それも随分切迫した声で。その場にいた全員が碧眼へと注目を向けると、ミソラはとても真剣な表情で、
「焦げてます!」
 そう告げた。一瞬にして、それまで気付かなかった臭いを全員が嗅ぎ取った。トウヤは慌てて火を消した。
 なんでお師匠様? と、全然別のところへスポットを当ててユキが疑問符を口にしたから、その話題はそこで終わり。そーいやそういうの久しぶりだな、とタケヒロが答えにならない答えを投げるのと、再三がらんがらんと呼び鈴が鳴り始めるのは、ほぼほぼ同時の出来事であった。

「ユキ、やっぱりここに居た」
 開くドアと共に、夏色の風が舞い込んでくる。そしてふわりと舞い上がる純白のスカート――そんな光景を、それぞれが驚きを持って迎え入れた。
「レン――」「ねーちゃ――」「アズにゃあああーんッ!」
 席を立ち、ダッシュして、その胸に飛びつくまで、目にも止まらぬ速さであった。ココウの女レンジャー――改め『アズサ』は、タックルまがいの抱き着きを喰らわされた衝撃で二、三歩危うく後退し、抱き着いて離れないユキの頭越しにタケヒロと、ミソラと、続けてトウヤの顔を見た。彼らの『アズにゃん、か……』みたいな顔色を、今すぐ逃げ出したい様子で受け止めた。
「うおお、アズにゃん……!」
「前から言ってるけど、その『にゃん』っていうのやめてってば」
「会いたかった……三年越しの再会……会えてうれしい……」
「あ、あたしも嬉しいから……ねぇ離してくれる?」
「ユキ、アズのこと本当に心配してたんだから」
「うん、いいから離して」
「スカートかわいい……」
「……あ、あ、ありがとう」
 そんなやり取りを横目に見ながら、トウヤが皿とビールジョッキ二杯を手にこちらのテーブルへやってきた。ミソラの前に『余りものの適当炒め』を、グレンの前にジョッキの片方を置いて、もう片方を手に空いていた席へ腰掛ける。肉も野菜も勢いよく頬張り始めるミソラの一方、ビールにちょびっとだけ口をつけた。それからぼそりと呟く。「あいつが押されてるの、凄いな」タケヒロが猛烈に頷いた。
 淡い桃色のブラウスに、白のロングスカート。普段の隊員服姿とは一線を画す清楚な出で立ちが、今の彼女の眩しさを助長させる。同年代の同性を相手取るアズサの行動が、不甲斐なかった男たちにはまた物珍しく映った。
 ユキはしばらくアズサを離さなかった。声の感極まった色合いが、本当に好く相手なのだと言うのを想起させて微笑ましい。
「はーよかった……本当に久しぶり」
「心配かけて、ごめんなさい」
「でも、もう心配しなくていいもんね」
 やっとアズサを抱き着きから解放し、戻ってきたバケッチャを自分の肩に迎えながら、ユキは満足気に笑う。
「ユニオンに来るんでしょ、これからは一緒に働けるね!」
 心の底から、嬉しそうに。……ユニオンってどこにあるんだ、とタケヒロが何気なく問うと、グレンが一言で答えた。遠いところ。少年がきょとんとして男を見る。
「遠いって、どんくらい?」
「ココウから出たことのない坊主には、想像もつかないくらいだな」
「――ごめん。ユニオンには行かない」
 相方とは対照的な、落ち着いたアズサの声。タケヒロは慌ただしく彼女の方を見た。その目が、少し、期待に膨らむ。
「レンジャー辞めることにしたの。もう職務命令には従わない。ユニオンにも行けない、一緒にはいられない」
 落ち着いていると言って、声色や喋り方は、彼女がいつも話すときより、随分優しくて甘かった。けれど、言っていることはとんでもなく残酷だ。三年越しに再会を果たした友人、ようやく一緒にいられると思っていた相手に真っ向からそんな言葉を突きつければ、相手はきっと傷ついてしまう。
 愛情を惜しみなくぶちまけていたユキは、それを聞いてどうするのだろう。一行が観察する中、彼女が瞳に灯した感情は、失意、絶望、怒り、困惑――そんな色ではなかった。もっと強くて、もっと明るい。それは多分、アズサと自分の関係に対する絶対的な自信、確信。そういうものが根底にある。
「職務命令、違います。命令じゃなくて、約束」
 言い聞かせるような調子で喋りながら、ユキはじりじりとアズサに詰め寄る。
「もしかして忘れた? 言ったよね、私。『次会う時までに彼氏できてなかったらココウから連れ戻す』、って」
 アズサは眉間に皺を寄せたが、ぎくり、という感情も中に見え隠れしている。
「そうだっけ……」
「シラ切っても無駄です。アズサみたいな男嫌いじゃ、男社会のレンジャーではやっていけないし――」
「だから、レンジャーはもう辞めるって」
「――せっかくかわいく生まれたのに勿体ない! できてなかったら合コン連れていくって言ったよね、私!」
 迫真の表情。う、とアズサが身を引いた。……『合コン』という言葉の説明をグレンから子供たちが受けている一方で、ジョッキの中身を半分まで減らしたトウヤは『男嫌い』という言葉に首を捻る。そうなら悪いことしたな、と誰にともなくひとりごち、またビールに口をつけるさなか――両肩を掴まれ迫られているアズサが、苦渋の決断、といった表情で、小さく小さく声を発した。
「……い、いるから」
 その時、ユキの、ついでにタケヒロの時が止まる。
 氷漬けよろしく静止した二人にトドメを喰わせるように、視線を斜め下に泳がせながら、もっと弱々しい声でアズサは言った。
「いるから、彼氏……」
 ……タケヒロの、目が。こぼれ落ちそうなほど見開かれるのを見て、ミソラは思わず噴きだしてしまった。
 衝撃的すぎて叫べないのだろうか。目をまんまるにしてゆっくりと立ち上がりつつあるタケヒロに、ミソラはそんな感想を抱いた。目を見開いたのはタケヒロだけではなかった。掴んでいた肩から手を離しながら、その指先がわななくのを止められもせず、ユキが瞠目してアズサを見ている。「結局男いて欲しくないんじゃないか」と呟くのはトウヤ。声が酔っている。もう耳まで結構赤い。
「……ど、どこの誰? 紹介して、ココウの人でしょ」
 ユキはトーンを低めて凄んだ。失意、絶望、怒り、困惑――そんな感じを露わにした。
「会わせてくれるまで帰らない、絶対認めない」
「急に言われても」
「いいから連れてきて、早く、ほら。会わせられないの?」
「いや、だから……」
 随分狼狽えてから、アズサは振り返った。
 彼女に、自分たち以外の男の知り合いはいないのだろうか。……いないんだろうな。見たことのない焦りの表情を浮かべている彼女の目に、グレン以外の三人が視線で応える。同情します、という気持ちを表している、少女にしか見えない金髪少年。酔いが回ったのか微妙に眠そうな痣の男。純粋にハラハラしている様子の小汚い捨て子は、既に席から立ち上がっている。……その脇に腰かけている男前のことも一応見やったが、知り合いでないグレンは端から選択肢にないらしい。すぐに顔を逸らした。
 相当複雑なシュミレーションが、彼女の頭を巡ったに違いない。たっぷり十数秒悩む時間を取った。吟味し尽くした果てに、そろそろと、アズサは左手を上げ、指をさす。
「……その人」
 リンゴのように紅潮したタケヒロが、目を見開いたまま、口まで開けた。――それから顔を横に向けた。その壮絶な視線の先で、指名を受けた人物は、いくらかぽかんとその指先と向き合った後、ジョッキから手を離した。
 徐に襟元を整える。それから、完全に作り物の声で、こう言った。
「どうも、彼氏です」
「――――はあああもがっ!?」
 絶叫するタケヒロの口を手で塞いだのはグレンである。でも彼自身が笑いを我慢できないから何の意味もなかった、強いと言えこの人も三杯飲んでいるのだ。じたばた暴れている子供とゲラゲラ笑っている男前、そして自分の師匠が赤ら顔で妙にキリッとしているから、ミソラは複雑な思いで目を逸らした。意外と笑いの沸点の低いメグミがぷるぷるしている。よく見るとハリもぷるぷるしていた。
 アズサはと言うと、一周回って完全に冷め切った呆れ顔だ。その向かいでこちらを凝視するユキの目は、信じ難い光景を捉えた衝撃に揺れているけれど。
「……嘘でしょ?」
 ユキの呟き。ええ嘘ですよ、ミソラは心の中で言いながら顔を覆った。涙目になっているタケヒロの口を片手で覆ったまま、グレンはもう一方の手でトウヤの肩をばしんと叩いた。
「良い男だぞ! ギャンブルしないし大酒飲まないし煙草もそんなに吸わない、好いてる奴には惜しみなく出費してくれるし、料理も裁縫もどんとこいだ、まぁ顔はアレだが」
「顔がアレで悪かったな」「俺の方が良い男だあー!」
 拘束から無理矢理脱してタケヒロが叫んだ。酒場に虚しく轟いた。
 そういう訳で、と言いながらアズサが歩き出す。ユキの元を離れ、軽やかな足取りでトウヤの背後へ。タケヒロが絶望的な眼差しで見つめる中、細い両の指先がトウヤの両肩に置かれた。耳元に口を寄せ、早口に囁く。「茶番に付き合わせてすいません」――トウヤは何も返さなかった。そうやって恋人感を演出する余裕が彼女の中にあったことにミソラは舌を巻いたし、その指の肩に触れる面積がごく最小限にとどめられている所が、また彼女らしいと感じる。
「ユキ。あたし、ココウから離れられない」
 恋人と一緒に居たいので。言外に含まれたその意味合いを察して、硬直中のタケヒロが砂と化して崩れ落ちないかミソラは心配した。
 ユキはごくりと息を飲んだ。っちゃ、とその肩でバケッチャが鳴く。……その顔を見て、女の双眸に熱が灯る。その矛先が、友人ではなく、その男の方へと向かった。
「付き合ってるの、本当なのね?」
「本当だよ」
 即答。声も表情も限りなく本気なトウヤを見ると、この演技力が普段はどこになりを潜めているのかの方が、むしろ気になってくる。
「ユニオンだか知らないが、こいつを無理に連れていこうって言うなら、こっちにも考えがある」
「……ユキはポケモンレンジャーだよ。レンジャーユニオンを敵に回すつもり?」
 最後の気迫が、握る拳に籠っている。彼女の脅しのような言葉にも、今のトウヤには、全く脅しにならなかった。
「レンジャーだろうが関係ない。こいつを守る為なら、僕は、命だって差し出せる」
 ――今の、アルコールの力を携えたトウヤの前では。グレンが笑いながら脱力するように机に突っ伏した。ハシリイでの宴会で、『自慢の弟子です』と言いながら頭を撫でまわされていたことを、ミソラは思い出していた。
 はう、と変な声を出した後、ユキはみるみるうちに涙目になっていった。バケッチャが心配そうに顔を覗きこむ中で、ついにさめざめと泣き出した彼女を見て、トウヤの背中でアズサは溜め息。泣きやまない友人を慰めにそっちの方に戻っていった。その瞬間、ぷっつり糸が切られたように、タケヒロがすとんと着席した。完全に放心状態である。
「……なんだ、これ……?」
「ほら、気が済んだでしょ。帰るよ」
「アズが幸せになってよかったあ……」
 泣き泣きそう言うユキの手を引きながら、お邪魔しました、と一言クールに残して、アズサはすたすたと店を後にしていった。がらんがらん。呼び鈴が鳴り終わって、戸が戻って、嵐の後。二人ともかわいかったな、とグレンが物凄く普通の感想を言って、ジョッキの最後を干したトウヤが、バケッチャもかわいかった、と物凄くとんちんかんな感想を漏らした。
「どこで捕まえたんだろう、見るの初めてだ。あんなに小さいなんて……」
「バケッチャは体格の個体差が激しいからな。ユニオンの所属だって言ってたし、北方には生息してるじゃないか?」
 どうしてあんなやり取りの直後がそんな会話なのだろう。ちょっと呆れながらミソラが食事を再開する一方で、しかし、とグレンが顎を撫でた。
「懐かしかったな」
「何が」
「あの写真」
 至極、真面目な声で。おや、とミソラが顔を上げると、トウヤも訝った顔をしていた。グレンは普段より陽気さは増すけれど、酒に飲まれておかしくなる方じゃない。
「……グレンはあの子と知り合いだったか?」
「あ? 知り合いも何も……一枚目の方だぞ」
 一枚目の方、各人の脳裏にあのネコ耳が反芻される。やや険しい表情でそれを受け止めたトウヤが、数瞬の後、あっと声を上げた。一条の光が差し込むように、目が明るくなる。
「ああ、それで……!」
「――ワカミヤくん!」
 がらんがらん。扉が開いて戻ってきたのはユキであった。猛烈にトウヤの元まで走り寄ってきて、問答無用にその手を掴み上げた。
 全員が訳も分からず見つめる中、トウヤの右手と、甲にだけ包帯の巻かれた色の変わった左手まで、ユキの子供っぽい手がなんの躊躇もなく持ち上げる。そしてぎゅっと握りしめた。両手同士の一方的な握手。
「さっき言いそびれたけど、アズのこと、よろしくお願いします」
 頭を下げる。それも深々と。……自分の醜い左手が女の子にひしっと握られているのを、今日一番戸惑った目でトウヤは見つめた。それから他の連中の方へすごすごと顔を向けた。こいつ信じてるのか、と言いたげな表情。酔っているのはもしかして、ユキの方ではないのだろうか。
 手が解かれる。それじゃ、と軽やかに踵を返した小柄な背中を、トウヤは呼び止めた。





「何余計な事言ってきたの」
 アズサは外で待っていた。ひみつ、と返して、ユキはにへっと笑う。奔放なユキに、それをセーブしながら見守ってくれるアズサ。そういう学生時代からの関係性は、三年間という長い空白が挟まったところで、相変わらずだ。
 まだ夕方には遠く、空は青い。薄い白雲が流れている、ありふれた空模様。ココウの薄汚い普段通りの雑踏を、隣に友人が歩いている。自分はスカートを穿いていて、隣は隊員服で、それも訓練生の緑ではなく、正規隊員の赤。そういうひとつひとつの慣れなさがくすぐったくて、話題なら溺れるほどあるはずなのに、何を話そうか、迷ってしまう。
 ユキがこの町に来ていることをアズサに教えたのは父親だ。けれど彼女がやってきたのは、任務ではなく、お忍び。父親が娘の元に向かう事を知ったユキが、こっそりついてきたらしい。仕事を放棄してストーキングしていたことは完全にバレていたのだけれど。
「ねぇ、これからどこ行くの?」
 そうユキが、覗き込むように問いかける。確かに、あの家にこのまま戻るのは気が進まない。なんだか癪だ。
「さあね」
「ココウの北側にさ、カタカナの民宿あるでしょ? ラ……なんとかってやつ。あそこにアズのお父さん泊まるんだってさ。行ってみれば?」
 ユキはそう言ってけらけらと笑った。ご忠告ありがとう、と肩をすくめる。
 劇的に、生活が様変わりする。その時が明日に控えていることが、まだ不思議だった。この賑やかで物騒な町を、黒いフードを被って歩くことも、明日からはもうない。
 どう抵抗したって無理だ。敵わない。子供の頃から、身に染みて分かっている。自分は明日、あの男の手で、ユニオンへ引き戻されていく。……あの子たちがやってきて仕事の邪魔をすることも、あの人がやってきて愚痴愚痴言っているのを聞くことも、もう明日からは。
「でも、びっくりした」
 ユキは前を向いて歩きながら、少し真剣な表情だった。
「アズ、男の人と、もう普通に喋れるんだね」
「さっき話してなかったでしょ」
「でも、いつも喋ってるんでしょ? そんな感じだったもん。訓練生の時、年上の人なんか、あんなにダメだったのに」
 真剣にそんなことを言われるのが、照れくさい。視線は下を向いた。ココウの中心街の、汚らしい石畳。これを踏むことも、今後は、もう。
「……あの人は……男だと思ってない、っていうか……」
「付き合ってるのに?」
「え? あっ、そうか。そうよね、うん」
 これを最初に踏んだとき、自分はどうだったろう。
 そういえば、確かに、凄くましになったのだ。視界の中の行き交う足には、当然見知らぬ男の足もある。昔はこうやって、道で男の人とすれ違う事さえ、怖くて仕方なかったのだから。
 言いたいことが一つ思い出されて、アズサは顔を上げた。
「……男の人をぶったの、あたし」
 傍から聞けば、なんておかしな告白なのだろう。ユキは目を真ん丸にした。
「うっそ、すごーいっ!」
 彼女の喜びように、自然と頬が弛む。こんなことで喜んでくれるのは、親でも、他の誰かでもなくて、この友人だけだ。
「アズが単身赴任なんて、絶対無理だと思ったのになあ。うまくやってるじゃん。凄いよ」
「そんなことないよ、現に戻されようとしてるし」
「でも、いい人そうで良かったね。『若宮冬弥』」
 ユキが機械的な調子でその名前を読み上げると、アズサは少しどきりとした。
「話聞いてるだけだと、相当ヤバい人って感じだったけど」
 ココウ赴任。その任を受けてから、三年に近い月日が流れた。その間、私は、うまくやっていたのだろうか。……言葉を返さないアズサに、いたずらっぽくユキはにやける。
「さっき、すごい心配してたよ。アズのこと」
「心配? なんで?」
「手首。捻挫してるんだって? 痛そうなのに、あいつ全然自分の体を労らないから、ちゃんと気にしてやってくれー、って」
 愛されてるねぇ、と驚くほど見当違いなことを言われれば、見当違いもいいところなのに、なんだか妙に気恥ずかしい。……三年。知らぬ間に積み重ねていた日々。苛立つことの方が多分多くて、けれどその姿を見ることも、今のが最後だったのだろうか。
「……いい人かは分からないけど……」
 これまでのところを、総括して、一言で感想を述べるならば。
「悲しいくらい、普通の人」
「あはは、普通か。うん、フツーが一番だ」
 そう言ってまたけらけら笑う。その笑い声の懐かしさに、あの訓練生時代に引き戻されていく心地よい感覚に、そのまま身を委ねた。
 話に耳を傾けて、同調して、時に叱って、笑ってくれる。ユキのきらきらした笑顔が、そうだ、アズサは大好きだった。
 昔のように調子が戻り始めると、聞いてほしいことが、次から次へと溢れ出てくる。あの人すごい愚痴っぽくて、と言いながら、ふと顔を上げる。ん? とユキが首を傾げる、にっと笑んで。気兼ねなく自分の話ができる人が、こんなにも傍にいることが、なんだかたまらなかった。
「……話、聞いてくれる?」
「もっちろん! ユキもアズの話、いっぱい聞きたい!」
 そうすることが嬉しくて仕方ないような顔で、促してくれる。あなたみたいに、表情で気持ちを表すことが、簡単にできればいいのだけれど……緩く苦笑して、アズサは話しはじめる。
 こんなにも肩の力が抜ける感覚を、いつだかぶりに味わっている。
 この嬉しさを、親友に、どんな言葉で伝えよう。







 
 
 <月蝕 TOPへ>
<ノベルTOPへ>