あのとき、結局メグミの兄を見つけることは出来なかった。
 ワタツミの街とその周辺、東に聳えるレイ山、北方のクロセ山脈にまで捜索範囲を広げ、期間はふた月に及んでいた。『兄は絶対に人間の多いところには行かない』とメグミは言い切ったが、あのまま放っておいたら確実にヒビも探し回っていただろう。
 狂っていた、と当時を振り返ってトウヤは思う。
 偶然出会っただけの恩も義理もない相手だ。人助け、ならぬポケモン助けをそう熱心に働けるほど、隣人を愛せない。行きずりの竜を兄と仲直りさせたがったのは、身勝手なエゴに他ならなかった。別れたきょうだいを引き合わせ、下の子が上の子に謝って仲直りして、また手を取り合って暮らしていく。その姿を見て、罪滅ぼしをした気になりたかっただけなのだ。
 けれど、そうはならなかった。『兄は人間たちに捕まったのかもしれない』。メグミは希望にすがるのを諦めた。リューエルの動向を窺っているトウヤと利害が一致して、共にワタツミを離れることにした。アズサからの情報によれば結局メグミの予想は正しく、その後メグミの兄――ラティオスはリューエル科学部で酷い扱いを受けたと言う。まだ生きているのかは分からない。
 ただ、結果として、トウヤの元には今も心優しき竜がいる。
 狂っていたし、何も実らなかったが。あの日々を思うたびにトウヤは、なにか青春に似た眩さを感じて、目を細めたくなるのだ。


 そんなこんなで、ワタツミの地理にはかなり詳しい。頻繁に訪れるキブツやハシリイ、本拠地であるココウですら立ち入らない地区が多いので、街の地図を描かせたらワタツミが一番精巧に出来上がる。庭みたいなものだ。そうでなくても、落ち着いた空気感が好きな街だった。波の音。風の匂い。ノスタルジーに満ちている。住人たちは『死』に親しみ、寄り添うように穏やかに暮らす。歳を取ったらここに移住したいと願う人も多いと聞く。
 ……という話をすると、顔をしかめる人が一定数いる。アズサなどは確実にこの『喧騒』を嫌うだろうし、いかにも縁のなさそうなグレンにすら『あれが見えんのか』と笑われたものだ。
 露店に大量に並べられている、丸縁の瓶底みたいな眼鏡を掛ける。
 ――おお、見える、見える。今日もワタツミは幽霊でいっぱいだ。
 ゴース。ヨマワル。それから、何ともつかない藍色の靄。多少なりとも素質があれば裸眼で見えるらしいが、霊感と呼べるものが皆無な人間も無論おり、トウヤはその中の一人だった。この『ゴースグラス』という商品は、企業秘密の特殊加工レンズによって能ナシでもワタツミの魅力を堪能できる、という摩訶不思議な代物だ。安価で流通しているのは観光向けの要素が強いが、正直、護身グッズとしてもワタツミでは必須である。普通に歩いているとゴースのガスの中に気付かず突っ込んで中毒死、なんて事件も、年に何回かは必ず起こる。
 ふと鏡を見て、誰だこれ、と思った。
 眼鏡も髪型も致命的に気持ち悪い。
 ……気持ち悪いついでに、それとなく顎を撫でた。髪が伸びるなら髭も生えればよかったのに。
 変装してもノクタスやガバイトを連れていては意味がない。買ったばかりのゴースグラスを掛けて、ひとり街を歩きはじめる。
 見える、見えないの境界線は曖昧だ。フワンテやヒトモシみたいな霊体が物質にくっついているもの、あるいはサマヨールみたいなでかいのは眼鏡をかけていなくても見えるし、オーロットのように実体があっても裸眼ではただの枯れ木にしか見えないものもいる。ゴースの中にも裸眼で核の球がくっきり判別できる個体がいれば、眼鏡越しにも薄い靄にしか見えないような個体もいる。この差は単純に能力差なのか、はたまた『ポケモン』と『幽霊』の違いなのか。それらしい文献を漁ってみたこともあるが、スピリチュアルな切り口のものが多く科学的には謎のままだ。
 昔よく通った公園を横切りつつ、友人の姿を探す。フワンテを振り回して遊んでいる怖いもの知らずの子らの向こう、公園の隅に、藍色の影のようなものがひとりぼっちで佇んでいる。
 カラカラがいる。そう認識すればするほど、カラカラに見えてくるから不思議だ。
 いつ来てもあの場所で泣いている。心配して声をかけた人間を驚かすのを生き(?)甲斐にしているイタズラ好きだが、幽霊然としているものにあえて声をかけに行く人は少ない。だから寂しさも相まって泣いているのだった。兄捜索の際には縁あって手を貸してくれた。構われたのが嬉しかったのだろう、それから訪れるたびに懐かれる。
 霊にしては存在感がありすぎるし、ポケモンにしておくには影がなさすぎる。どっちつかずの曖昧さが、トウヤはなんだか好きだった。
「おい、ナミ!」
 いつもの愛称で呼びかけると、頭蓋骨がぐりんと振り向き。
 ギギギ、と突然威嚇音をあげ、骨棍棒を見せつけるように振り上げた。
 ……そのまま茂みへ逃げ込んでいった影に、しばし呆然としてから、トウヤは黙って歩きはじめる。最後に会ったのは今年のはじめ頃だろうか。あれだけ纏わり付いてきたのにまさか忘れてやしないだろう。僕だと分からない、のかもしれない。カラカラは五感のどこでヒトの個体を判別するだろう。顔つき? 髪型? おそらく、それだけではない。もっと根本的な部分、誤魔化しようのない部分で、そうと判別がつかぬほど、自分は変容しつつある。
『見た目は人間、中身も人間、だが組成はすべてポケモン。不思議な新生命体の誕生だな』
 ハルオミの言葉が反芻される。
(どっちつかずは僕も、か)
 ワタツミの街は好きだが、ゴースグラスを介さないワタツミが好きだ。見えないものの正体を道具を使って暴くのは今でも罪悪感が湧く。見えないものには、見えないなりの理由があり、見ずに済むものを見ようとするのは、優しさを踏み躙る行為に似ているとも思うのだ。
 少し大きな通りを渡ろうとして、目の前を横切った人物へ、トウヤは双眸を向ける。
 制御のままならない心が、吸い寄せられていった。まるで子に手を引かれるフワンテのように。
(……アキトさん?)
 ――ハシリイで、カナミの旦那になっているはずの人物が、見知らぬ女性と腕を組んで坂の街並みを下っていく。


 *


 いつかみんなであの船に乗ろう――と言い出したのは誰だったか。
 ミヅキは控えめな性格だったから違う。ヨシくんは「みんなで」なんて協調性のあることを言うタイプの子ではないし、そもそも初対面だった。だから、多分言ったのはトウヤだ。トウヤが自分で言い、その憧れを、到底手の届かない海の底へと自分で葬り去ったのだった。
 ココウから家出した子供がワタツミで保護されたのは、トウヤが七歳のときだ。トウヤもミヅキも自立どころか手持ちポケモンすら与えられておらず、同い年のいとこがひとりで砂漠を超えてワタツミまでやってきたという事実はきょうだいをひどく興奮させた。トウヤの故郷のホウガという町はワタツミから見て北方の山間にあり、連絡の入ったハギおばさんからヨシオを迎えに行くよう頼まれた。母は遠征で不在にしていたので、トウヤとミヅキと父、それからアサギ、四人で彼を迎えに行った。父のスグルはひどく面倒くさがって、甥っ子を輸出用木箱に詰めて当時誕生したばかりだったテレポート便で送り返そうとしていたが、結局は馬車に乗せココウヘ見送った。が、彼が馬車をこっそり抜け出し、何度もワタツミまで戻ってきては保護されるので、何度か再会した。ココウヘ無事に戻るまでに半年くらいは要した気がする。
 ヨシくんは毎回、海外行きの貿易船の貨物庫に忍び込もうとしているところを発見されて保護された。海外に行きたかったのだろう。野望を訊いても語ってくれることはなかったが、巨大な船を背景にニヤニヤとする彼の輝いていた瞳は、強く印象に刻まれている。
 最後まで、あの目が海の向こうの景色を映すことはなかったが。
 それは自分のせいなのではないか――と、トウヤは時折考える。自分があのとき、みんなで、なんて言ったから、ヨシくんは行けなかったのではないか。トウヤとミヅキと共に海に漕ぎ出す日をずっと待っていたのではないか。どこまでも自由だった少年に遠慮があったとは思えないが、それでも考えてしまうのだ。僕があんなことさえ言わなければ。ヨシくんはあのきらきらした目に、あれほど必死に見たがっていた異国の光景を、捉えられたのではないか。
 そういえば、メグミを連れてこれからどうするって話の中に、海外逃亡案もあったよな――と、停泊する船の前で女性の腰に手を回すアキトを遠くから眺めつつ、トウヤは呆然と考えていた。
 最初に口にしたのはハルオミだった。ワタツミに向かって海外逃亡か、と茶化すように。それは絵空事だが名案にも思えた。自分と、ミソラとタケヒロ、ついてきてくれるならアズサも一緒に。ポケモンたちと海を越えて、リューエルの手の届かないところまで。すべてのしがらみがリセットされた場所で、知らない人や知らないポケモンたちと出会いながら、のんびりと暮らす。夢物語は本当にただの夢で、その直後にトウヤは自身の重大な問題を余命つきで告知され、タケヒロは焼かれ。軽い気持ちで描いた夢はもう二度と息をすることもない。
 ゴースグラスは見えないものを見せるが視界自体は若干曇らせる。眼鏡を外すと雑踏が消え、男女の様子がクリアに見えた。綺麗な髪を潮風に靡かせる、美しい女性。やはり知らない顔。彼らはうっとりと船を見上げては、顔を寄せ、何か囁いて、クスクスと笑いあっている。まるでハネムーンの相談をする結婚間近のカップルのように。
 最初は、浮気をするのにわざわざワタツミにまで来ているのかと思った。だが足取りを追いかけていると、どうも、彼の生活はこの街に根差しているように見えた。
 ハシリイに、彼の子供を抱えながら家を切り盛りしているカナミのそばに、もうあの男はいないのだ。
 様々な想像が、浮かんでは弾けた。そのたびに自分の胸が掻き毟られたり抉られたり切り刻まれたりした。どの可能性も真実とは言えず、誰が悪いとも言い切れず、ただそれを本人に確認しようと近づいた瞬間に自分は彼の顔を殴るだろうと思った。力づくぶん殴って、倒れたところを馬乗りになって、あのいけ好かない整った容姿がぼこぼこに腫れて分からなくなるまで殴りつけても気が済まないだろうし、こんなところで傷害沙汰を起こしてそのあとどうなるかなんて。知れたことだ。
 ――誰の。
 ――誰のせいだ?
 動悸。動悸がひどい。行き交う人や獣の雑踏の隅に蹲り、頭を抱えて衝動を耐えた。早くいなくなれ、いなくなれ、と念じた。
 あんたのせいで、と、昨日、姉さんは言った。
 父さんも母さんも、あんたのせいで死んだんだよ。あんたがのうのうと生きていたから。あんたのせいで。
 ああ、カナ。僕は失敗した。エトから持ちかけられた大学受験の相談。夢を追わずに姉さんを支えてハシリイで暮らせと言うべきだった。エトはアキトのことを良く思っていなかった、悪魔の正体をきっと見抜いていた、エトがハシリイに残りさえすれば状況は違っていた、でも、僕は能天気にエトの背を押し、彼はハシリイを離れ、カナは幸福の絶頂からきっとどん底まで落ちて。
 結婚と妊娠の報告の電話があったとき。やっと幸せになれるのかと押しつけがましく問うた。彼女は電話の向こうで泣き笑いしながら当たり前じゃんと答えた。なんて惨い。絶望の中で彼女は今も笑っているだろう。私はまだ恵まれているよ幸せだよと言って馬鹿みたいに笑うのだろう。
 アキトさんは僕が嫌いだった。カナが僕と仲良くしたがるところも、きっと鬱陶しく思っていた。
 僕の選択がひとつでも違えばあの子は幸せになれただろうか。
 僕さえ、彼らの人生の中に僕という人さえいなければ、何か変わっていただろうか。
『あんたのせいで』
 姉の声。耳を塞いでも響いてくる。
『あんたのせいで』
 焦点の合わないヴェルの目。
 炎に巻かれていったタケヒロと小鳥たち。
 烈火の真っ白な輝きに呑み込まれながら、咆哮したハルオミの最後の声。

『――獣に食われるんじゃねえ!』

 こつん、と固いもので肘を叩かれ。
 肩を跳ねさせて、トウヤは顔を上げた。
 何も、いない。手の触れる範囲には何も無かった。いつの間にアキトの姿も消えていて、港は多少賑やかで、船と接続するタラップに荷役作業中のワンリキーが五匹連なって出入りしている、のびやかな光景があるだけだった。
 ど、ど、と不穏に暴れる心臓の音を感じつつ、ボールホルダーへ手を伸ばしかけたとき。
 ――船に乗りたいのか。
 どこからか、声が聞こえた。風が攫ってきたのだろうか、それは懐かしい声だった。いつだったか、一緒にワタツミを訪れたときに、グレンがトウヤに問うたのだ。『遂に外の世界に興味を持ったか?』『なんで』『だってじいっと見てたろ』『別に。見てただけだ』『俺は乗らんぞ』彼は胸を張り。『次に海を渡るのは、本気でテッペンを取りに行くときと決めているんだ』
 カントー地方のポケモンリーグに挑戦したいのだと彼はしきりに語っていた。
『そのときには、お前にも外の世界を見せてやろう!』
 ――数年後、グレンは本当に海を渡り、ポケモンリーグに挑戦して、テッペンにこそ届かなかったがそれなりの結果を残してきた。
 なぜ、今、こんなことを思い出したのだろう。
 雲越しの薄い日差しの下でもきらきらと輝いている巨大な舳先を見つめながら、トウヤは震える唇を噛み締める。
『ま、俺にとっちゃ、自由を満喫できて万々歳だったがな!』
 彼がリューエル隊員であることを看破してみせた日、グレンはそう言った。
『部隊配属されてたらこうはいかんかっただろう。お前のおかげっちゃおかげだな』
 僕のせいで、迷惑も被ったろうが。
 あいつ、僕のおかげで、ちゃんと船に乗れたんだよな。……僕のおかげで!
『自由だったし、気楽だった! とっても満足したわ。ダラダラと居候しててくれたどっかの甲斐性無しさんのおかげね』
 ハガネールに乗った逃走劇の中で、アズサが言った。
『みんな、私と友達になってくれてありがとう』
『ずっと一人で生きてきた。生きてきたつもりだったんだ』
 サーカス本番を前日に控えたヒガメでの夜、タケヒロが言った。
『俺、自分がこんなに誰かのために必死になれんだって、知らなかったんだ。一人だったら気付けなかった。お前たちのおかげなんだ。俺、そんな自分が、今、結構好きなんだ』
『薄情者!』
 アサギと交戦する前、最後に聞いたミソラの声。
『あなたが悪いんだ!』
『あなたがタケヒロを殺したんだ!』
 こつんこつん。
 今度は左腰に何らかの感触がしたかと思えば、ポンポンッ、と幻聴を遮る軽い開放音が響いて、緑と青が飛び出してくる。
 いつまでしょげてるんだ待ちくたびれたぞと言わんばかりの、ハリ、ハヤテ。
「……あの馬鹿弟子を、」
 眼鏡を外しっぱなしだったことを思い出して、掛け直してみる。
 勝手に開閉スイッチを押した骨棍棒と――冷たい灰色の、悲しみの硬質に表情を隠した何者かが、じっとこちらを見上げている。
「早く迎えにいかないと。な、ナミ」
 音にして発した声が、耳に戻って、彼がここにいることを、彼自身に証明する。
 カラカラの憂いを帯びた真っ黒な目が、一瞬だけでも、ぱあ、と喜色に染まって見えた。こもった鳴き声をあげながら擦り寄ってくる。トウヤがそのカラカラにさわれるのは頭蓋骨と骨棍棒だけで、残りは指がすり抜けていくのだが、撫でてやるといつだってホッとしたように目元を緩める。
 きっと、誰かに見止めてもらって、はじめて、ここにいることを実感できるから。
 ぼたぼたっ、とレンズに滴が溜まって視界が歪み、にぃ、とトウヤは歯を剥くように笑ってみせた。立ち上がる。左腰のモンスターボールをポンポンと叩いて従者たちを収納し、また歩き出す。カナはあんな男と結婚しなくてよかったんだ。本当に男を見る目がないなあいつ、と音もなくついてくるナミに聞かせた。ナミは嬉しそうに鳴き声をあげた。
『あんたのせいで死んだんだよ?』
 呪いのように聞こえてくる声。
 耳を塞いだって仕方ない。事実として、あんたがそう思うなら、そうなんだ。
 ――だったら、なんだ。
 刃のように光る瞳が、行先を睨んだ。
 僕が悪かったってのはもう分かったよ。
 でも、どんだけ否定されたって、僕はここで生きているよ。
 息をしているし歩いている。
 どうしようもない無価値でも、この世界に生きている。
 他人を毒しながらだって生きている。
 蝕まれながらだってまだ生きている。
 僕は、ここに、生きているぞ!


 ――伸びっぱなしの長髪を揺らしつつ瓶底眼鏡の小汚い旅人風情が幽霊を連れ歩きながら吠えるように泣いているのを、色んな人がぎょっとして見て、そして見て見ぬ振りをした。なんで自分が泣いているのか、暴れ馬の感情をどうやったら鎮められるのか、検討もつかなくて途方に暮れた。だから、手綱を離すのは最後にしようと誓った。こんな自分を生かしてくれる、生きていたいと願わせてくれる友人たちに、そばにいてくれるものたちに。戦い続けることで、いつか報いたい。みじめったらしく泣くのはこれっきり。だから喉が枯れるまで、本気で泣き尽くしておこう。






 左手だけでもいい、片足だけでも、小指の先しか曲がらなくなって、いつか首すら回らず、目玉しか動かなくなったとしても。
 生きて、意志が続く限り。
 僕は、――僕たちは、生きなければ!






「ぎゃああああああああああああ!!」
 広大な墓地に響く大絶叫。
 心地よい風の吹き抜けるワタツミ北部の岬。見晴らしの良いこの霊園はワタツミのみならず各地の死体が競って埋められる人気スポットだ。ずらりと立ち並ぶ暮石の間をミソラは今日一番の全速力で駆け抜ける。足元にリナ、空にはメグミ、肩にはくだんのドラメシヤ。
「助けてええええええええ!!」
 狂気的な笑顔で追いかけてくるのはこれまた緑のにょろにょろおばけ――ただし全長三メートルくらいはある。
 ここが目的地、とメグミに背を押され嫌々霊園に踏み入った途端、これだ。透けた尾をくねらせながら一目散に追いかけてくる。横に潰れたような顔と目つきが特に怖く、口などミソラくらいひと呑みにしてしまいそう。
 逃げて走って走って、ついに岬の先まで追い詰められた。そこに古めかしい小屋が建っていた。戸がうっすら開いている。ミソラは迷いなく飛び込んだ。
 そこに、黄金の棺桶が一基、ぽつねんと置かれていた。
「……誰だぁ?」
 人間の声がして蓋が開いた。
「俺の永遠の眠りを邪魔する奴は、だあれかなあぁ」
 黄金の蓋の隙間から、漆黒のスライムのようなものが流れ出て、四本の黒い手を形作る。
「いやああああああああああああああ」
 漏らしたかと思った。高速で踵を返し戸をぶちあけそこにいた巨大にょろにょろおばけ――ドラパルトのお腹の下をかいくぐって左右も分からず駆け出した。
 先は崖で、その先は海だった。
「はうあぁ」
 進んでも死、戻っても死。万策尽きた。へたりこむ。小屋の中から出てきた、黄金の棺桶――デスカーンが、四本の黒い手を交互に地に着けて移動するのは気持ち悪い虫みたいで最悪だし、ミソラの前に出て全身の毛を逆立て短い牙を剥き出してミギイィィと聞いたことのない唸り声をあげたリナも、ゆっくりと開いた棺桶の中から――やつれ果てた顔をした青年が舌舐めずりしながら起き出してくると、赤目をぎんぎんに開きながら、ミソラの代わりにおしっこを漏らした。
「さあてぇ……?」
 口の端を吊り上げるようにして笑う。異様に落ち窪んだ目元と、ミイラにしてはやけにハッキリと瑞々しい声。
「どんなミイラにしてあげよっかぁ、可愛い可愛い墓ドロボウちゃん……?」
「しっ」
 死にたくないいいいいいい! ――否定の悲鳴が口を突いて出る前に、突風が、二者の間を切り裂いた。
 窮地を突き抜ける、頼もしい咆哮と、青き風!

「――久しぶりだな、萩 善生(ハギ ヨシオ)」
 ハヤテの背から飛び降り、敵の前に立ち塞がったその雄姿に。

「……」

 ミソラが黙り込んだのは、颯爽と現れて助けてくれて感動していたから……ではなく。

「……」

 ヨシオと呼ばれた暫定ミイラが黙り込んだのも、刺客の迫力に怖気付いたから……ではなく。

「……だ、誰ですか……?」
「え……いや知らん、どちら様?」
「ていうかなんですかその変な格好」
「ひっごめっ無理無理さすがに笑っちゃう、っひぃーっはっはっは……」

 明らかに泣き明かしてきましたみたいな真っ赤っかの目に瓶底眼鏡と長髪で推参したトウヤは、途端の羞恥心に打ちのめされて「やっぱり切ろうかな……」と呟き、メグミの軽やかな笑い声だけが海へと吹き流されていった。





 
 
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