15・心の雫







 辞表が発見されたときには、ミヅキの失踪が発覚してから既に十二時間が経過していた。
 その間イチジョウは一度も自席に戻ることはなく、不徳の副隊長を自ら探し回っていた。だから第七部室の隊長席、腕章を重石にして据えられていたペラ紙に気付くタイミングを逃してしまった。
 紙面へ視線を落とす背には哀愁と徒労感が漂い、その姿は室内の夕闇によく馴染む。彼が上司でさえなければ、ゼンはその肩を叩いて慰めの言葉をかけてやりたかった。一行目に『辞表』、中央に『ごめんなさい』最終行に『若宮瑞月』、以上。書類仕事に適性がないのは承知だが、あまりに酷い。野犬に比肩する粗雑さでいて、字面には無防備な少女の気配すら匂わせるのが、あの女の厄介さである。
「おいおいミヅキが辞めたって!?」
 遅れてやってきたアヤノが嬉々として部室のドアをぶちあけた。この中年オヤジのタチの悪さは本物だ。
「聞いてくれよ俺も今すごい情報を仕入れてきた! アサギの所在が分かるかと思って科学部に行ってみたんだが、驚け、なんとあの――」
 ゴッ。
 と鈍い音がして、ミヅキの机を検分していたエトがぴゃっと飛び上がった。
 イチジョウだった。イチジョウの額の音だった。イチジョウが、コンクリート打ちっ放しの壁に向かって相対し、正面切って『頭突き』を喰らわせた音だった。
 ゴッ。ゴッ。ゴッ。
 計四発の『頭突き』が炸裂し、コンクリ壁はびくともしない。
 ――余談である。このとき、二十時間前のこの部屋で、男が女と二人きりで家族になるだのと語り合い、あまつさえ彼女の頭を娘か恋人にするように撫でたことなど、当事者を除けば誰も知らない。
「……えぇと、おーい、イチジョウくーん?」
 壁に片腕をつき、ゆらり、亡霊のように振り仰いだ男の相貌に、ゼンは身の竦む思いがした。
 哀愁? 徒労感? そんなものがどこにある。
 我らが隊長は信じられないくらい激昂している。
「……辞表の書き方すら知らん餓鬼が……ッ!」
 ドスの効いた声が部屋を席巻し、ひ、とエトが喉を鳴らした。だが、耳まで染め上げた彼の物珍しい紅潮の内で、激昂以上の数多の感情が多重事故を巻き起こしていたなんて、やはりゼンには知る由もないことである。
 

 *


 ミソラが目を覚ましたのは、とても暗い場所だった。
 寝そべっていたのはコンクリートの上のようだが、手元の色さえ判然としない。空に星や月はなく、曇っているのかと言うとそうでもなく、なぜなら風がほとんどない。つまり、屋内。右手のかなたにはちりちりと橙色のものが光っていた。左手を見ると、また随分と進んだ先に、小さな灯火が輝いている。地鳴りにも聞こえる水音がごうごうと絶え間なく鳴っていた。ただしこの音もかなり遠い。
 トウヤの言っていた地下道か。と気付き、夢うつつからヨタヨタと現実へ意識が戻ってくる。
 体を起こすと、みゃ、と鳴き声がした。声はとてもよく響いた。そばで何かが動く気配。リナ、いるの。おそるおそる手探りしながら小声に問う。すると返事が戻ってきた。
『その機械に懐中電灯がついてるよ』
 リナではないが、どこかで聞いた声である。
 右腕に縛り付けたままのキャプチャ・スタイラー。ボタンに触れると液晶が光り、日時はヒビを発った日の同日深夜を示していた。メニューにそれらしき項目はなかったが、側面のボタンを適当に押してみるとあっさりと点灯した。
 暗闇に一筋の光はどこまでもどこまでも伸びる。果てが見えなくて少し怖い。
 ライトを下に振ると、足元に空色があった。広がりきっていたニドリーナの赤い瞳孔がきゅっと縮こまった。奥に、何かが光る。靴だった。細身のパンツに包まれた人間の足が、編み上げのブーツから伸びている。
 ライトの射出方向を滑らせる。

 そこに『若宮瑞月』がいた。

 ……なんだろう、ミソラはその光景に、特別感慨も抱かなかった。まだ寝惚けていたのかもしれない。コンクリートブロックのようなものに腰掛け、ジャケットに通した細っこい腕で細っこい膝を抱え、小首を傾げてちょっと悪戯に微笑みを浮かべる。ミソラはライトの眩しさに目をしょぼしょぼさせるばかりだった。しょぼしょぼさせながら、しげしげとしばらく眺めて、あ、と思った。再現できると言うことは、覚えているということなのだ。僕はミヅキちゃんの顔を、泣き顔以外にもきちんと覚えていた。
「……性格悪いって言われたことない?」
 寝起きのかすかすの声で問うと、
『かわいそうだから、いちばん会いたがってる人になってみた』
 と、幻影の口をぱくぱく動かしながら、ミヅキになりすましたメグミがテレパシーをねじ込んでくる。『かわいそうだから』って、なんだそれ。邪気がないのが恐ろしい。感性のかけ離れた人外とヒト語で喋るの結構大変だったんだろうな、と飼い主に少し同情した。
「僕が一番会いたいのはさあ……」
 文句がてら言おうとして、それが誰なのか考えてみた拍子に、自分が『かわいそう』と評される原因を、ミソラはふと思い出した。
 思い出してしまった。
 ぽかんと口を開けた顔と、まっすぐ後ろに倒れていく彼を。
(……今、僕の心の中を漁っても、笑った顔は再現できないだろうな)
 だってこんなにも死に顔しか思い出さない。長いこと一緒にいたのにな。ぱたんと蓋をして目を背けてやさぐれている斜めの構えは、薄情な防衛手段だった。向き合って座り込んでめそめそ泣いている暇なんてないのだ、それが出来るかも怪しいけれど。
「ごめんね、寝ちゃって」
 右腕を振りライトを動かす。探し物はこれでしょう、と言わんばかりにリナが鞄を咥えてきた。受け取るとやたら重かった。荷がひとりでに増えたわけもなく、自分の体が重いのだった。
「急いで逃げないと……」
 肩にかけてみて、違和感を覚える。
 それがなんなのか、ミソラにはすぐには分からなかった。何かが足りない気がした。ヒビに忘れ物をしてしまったのではないか。鞄を開けて探ってみる。リナのボール。アチャモドール。育成指南書と記憶喪失にまつわる本。冷たく固い感触は、最後にくれた餞別……。胸の奥がざわざわするが何が足りないのか分からない。鞄を振ってみても、がちゃがちゃと固いものの触れ合う音しか……、音。
 ああ、音がしないのだ。
「鈴……」
 肩掛け鞄のふちを撫でる。赤い結い紐の白い鈴が、いつもぶら下がっていた場所。
 あれはルリコにあげたのだ。
 ちっとも大切にしていなかったから、あげたことすら忘れていた。
「……聞いてくれる?」
 右前腕から伸びる光はあてもなく足元で揺れていた。そこに身を低くしたリナが現れて、浮かない顔でミソラを見上げた。
「コジョフーに追い回されたことがあったんだよね。リナ、覚えてるかなあ。リナに会った日のことだよ、草原でリナを見つけてココウに戻ろうとしてて、コジョフー二匹に見つかって追いかけられて、ハヤテに乗って逃げて……」
 リナが進化して追い払ってくれた。『ポケモントレーナー』としてのミソラのはじめてのバトルで、はじめての勝利。
「しばらくして、スタジアムにリナと挑戦することになって。そのときに、あのコジョフー二匹が手伝ってくれた」
 コジョフーたちはミソラたちを襲って食べようとしたのでなく、縄張りを荒らされて怒っていたのでもなく、単に遊んでいたのだろうと思う。だから、良き遊び相手と認めたミソラに、遊びのつもりで助力してくれた。
「あのとき、『ポケモンと友達になる才能があるんじゃないか』って言われた、僕」
 凹んでいるミソラを励まそうとしての言葉だ。トウヤの不器用な優しさを感じて幸せに思った。だがそれ以上に、才能を見つけてもらえたことが、ミソラは素直に嬉しかった。
「僕はポケモンじゃないから技も使えないし戦えもしない。特技もないしお金だって稼げない、何もない僕に、ひとつ、特別なことができたみたいで……」
『ねえ、この鈴面白いのよ! この音を聞かせると、どんなポケモンも懐いてくれるみたいなの』
 ビッパたちに鈴を揺らして聞かせながら、ルリコは言った。
『ミソラさんはこの鈴を使って猛獣を操っていらっしゃったんでしょう?』
 ――結局、自分には何もなかったのだ。
 あの鈴を譲ってはいけなかった。その思いは強くミソラを囚えた。ミソラに特別な力をくれる魔法の鈴でもよかったし、逆に無価値なガラクタだってよかった。ただ、今、あれが欲しかった。あの音が欲しかった。鈴を譲らなかったとしても何が変わったはずもない。分かっている、大したことじゃない、『ミソラ』が生まれた次の日からずっとくっついて回っていたものを、簡単に手放してしまっただけだ。大したことじゃないからこそ、まるで友達が死んでしまったみたいに悲しい気持ちになるなんて、ちっとも想像がつかなかった。
 失敗ばかりだ。取り返しのつかない失敗ばかりする。
 気付いたときにはもう取り戻せない。やり直しもきかない。
 くい、とリナの爪に服を引かれる。そうだ、いけない、感傷に浸るのもあとにしないと。全部あとだ、逃げ切ったあとだ、でも――必死になって逃げた先に、何がある? 何から逃げている? なんのために逃げている?
 行く先へ向けたライトのなかで、ちらり、何かが走り抜けた。
「……あ」
 胸を突かれた思いがした。
 追いかけた光の先に、二匹はいた。一メートルにも満たない小柄の、赤紫とクリーム色の体躯。右へ左へ跳ね躍って照射を躱したり飛び込んだり、その姿はまるで遊んでいるかのようで。ひょいとこちらへ振り返った彼らのつぶらな目が、ミソラを捉えた。
 に、と彼らは笑みを浮かべた。
 それからくるりと反転して、光の筋の中を、二匹競い合うようにして先へ先へと走りはじめた。
 その笑顔が、明るさが、誰かを、いつかを彷彿とさせる。
『遊んでほしいみたい』
 メグミは得意になって言う。
 ぺたぺたぺた、と足音が鳴って、リナが二匹を追っていく。そういえばコジョフーの足音はひとつも聞こえてこないのだった。何を言うか迷いながら、ミソラはメグミを見上げた。思い出どおりの美しいミヅキの顔が、小首を傾げて微笑んだ。
『行こう。×××』
 確かにその顔は、僕のことを『ミソラ』とは呼ばない。
 ミヅキはくすくす笑っている。呼ばれた響きに覚えはないが、履き違えていた靴がスポンと嵌ったような気もした。ただ自分で思い出せもしない名前をこれ見よがしに呼ばないでほしい。「ミソラでいいよ」と釘を刺し、これ以上ここでメグミに遊ばれているのも厄介だ――やれやれ、とミソラは立ち上がった。
 暗闇の果てを、探さないと。


 *


 トウヤが目を覚ましたのも、やはり暗い場所だった。
 体が楽だな、とまず思った。何度目の正直で遂に死んだか、と次に錯覚したが、死後の世界でも布団に寝かされるものだろうか。どうやらまた生き延びたらしい。
 カーテンに間仕切りされた白い空間。ヒビのポケモンセンターの一階保健室、とトウヤはすぐに了解した。サチコの産みたてゆでたまごを貪り食いながら呻き泣いた、あのベッドで間違いない。
 ピンクの巨体はいなかったが、赤制服の人物なら座っていた。
 ただし随分と小さい。
 ……月明かりに縁取られた丸く愛らしいシルエット。くりくりと大きな双眸はしかし、仇を目前にした勇壮な兵士のようでもある。朦朧とする意識を手繰り寄せ、呼び起こした名前は、
「ヒダカ……さん?」
「久しぶり、ワカミヤくん」
 ヒダカユキ――レンジャーユニオン第十二課広報担当、小柄な女レンジャーは、にこりと笑いもしなかった。
 部屋には二人きりだった。ユキは事務連絡的に語りはじめる。ハリとハヤテは高速回復装置により完全に回復していること。ユキはアズサの依頼により、こうしてトウヤを看るためにユニオンから駆けつけたこと。当のアズサは、ヒビ到着後、ラティアス捜索の指令を受けそのまま西へ発ったこと――仕事にあたる彼女たちに悲しみに暮れる余暇はないのだ。強いな、と呟いて、トウヤは宙空の闇へ目を向けた。
 虚ろ、という言葉が、この身に似合う。
 何を話す気力も湧いてこない。
「覚えてる? 今朝のこと」
 ユキの口調は淡々として、どこか尋問めいてもいた。だが、――一連の出来事を『今朝』と言うなら一日も眠っていなかったらしい、と冷静に判断できる程度には、こちらの頭も冷めていた。悲しみに暮れられる暇があるのに感情はそうすることを選ぼうとしない。
「覚えてないな」
 嘘だった。
 嫌になるほど覚えていた。
「暴れたバクフーンはリューエル所属の有名な個体じゃないかって目撃者が話してる。その個体はワカミヤミヅキが借用中で、彼女は今朝から行方不明」
 ユキは嘘に勘付いたとも見えた。苦笑する。「行方不明だって?」
「ワカミヤくんがヒビ郊外で交戦していたのは女性。現場に駆けつけた先輩はその女がバクフーンをボールに入れたと言っていて、」
「そいつが犯人ってことか」
「先輩に保護されたワカミヤくんは、逃走する彼女に向かって『"俺"がぶっ殺してやる』って叫んでた」
 挑発するかのようなユキに、
「"僕"が?」
 トウヤは嘲って返した。
「……本気で言ってる?」
 苛立ちの見え隠れする声を一笑に付す。ユキが愛想を尽かしてくれるならそれで構わなかった。ポケモンレンジャー本部組織に厄介になるのは良策とは言えない気がした。それに、何より。
 ――これで終わると思うなよ
 これ以上、誰も巻き添えにするわけにはいかない。
「……ハリたちは処置室かな。センターの人に世話になったって伝えといてくれ」
「どこに行くつもり?」
 『十日後にココウ』。姉の指定した日時まであまり猶予がない、とにかく次の行き先は定まっていた。左手で掛け布団を剥ごうとして、
「ミソラを探し……に……?」
 ――左手を『動かせる』ことに気付いて、凍りつく。
 月明かりにかざす左手。いつもの赤黒い皮膚の色を裏表確認して指を開閉する。見た目にも動きにも支障はなかった。
 アサギに熱気を吹きかけられ焼け爛れていたはずの左手に、痛みどころか、ケロイドのひとつも残っていない。
 ――まさか、またメグミが?
「ワカミヤくんは外に出られないよ。しばらくはユニオンの保護下にいてもらう。だから私がここにいる」
 思わずユキを見た。
「……何故?」
「何が起こるか分からないから。人間を高速回復装置にかけた事例なんて早々ないし」
 今、何と言った。
「だって仕方なかったんだよリゾチウムのせいでかなり危なかったんだから……あのまま何もしなかったら死んでたかもしれないよ?」
 シビアだと思ったユキの表情はあからさまに強がっていた。責められたような顔をしていたがトウヤがどうして責められようか。無言で続きを促すと、前置きに「ホシナならなんて言うかな」と自信なさげに呟いた。
「高速回復装置って言うのは、外から傷薬を塗る治療とは違って、内側からポケモン本来の治癒能力を引き上げてるのね。言っちゃえば時間を早回しして傷口を塞ぐ過程を早める仕組みだ。だから回復装置に入れられたポケモンの体では、通常の百倍千倍の勢いで修復組織が分裂増殖する。分かる?」
「それは、まあ」
「ところで一般的に見ればポケモンは人間より身体が丈夫だよね。人間なら命取りな毒や火傷にも耐えれるし、何よりも、リゾチウムに対する感受性が低い……」
『あんたの体に入り込んだラティアスの細胞は、血流に乗って転移しあらゆる箇所で増殖して、人間『らしきもの』を作り上げる。じきに全身の細胞が取って代わられるぜ』
 ユキの遠回しな解説に、数日前のハルオミの明瞭さが被さった。
『もっと言や、ポケセンの高速回復装置に入れば、今すぐにでもポケモンになれる』
 布団を跳ねて起き上がった。
 途端、黒いもの――黒くて毛むくじゃらのものが、頭の後ろから顔の前へ飛び出して、思わず声をあげそうになった。
 異物を振り払、おうとする。振り払えないことに気付く。
 自分が掴んで指の間に通しているものは自分の頭から生えていた。
 顔の前に垂れかかって視界を狭めているものは全部自分の髪の毛だった。
「……起きがけで暴れられたら危ないと思って、爪は切ったんだけど、ね?」
 今朝まで常識的な短髪だった。ついこの間アズサに整えてもらったばかりだ。伸び放題の汚らしい毛並はまるで野獣のそれである。癖を伸ばせば胸のあたりまでありそうだ。
 どれほど時計の針を回せば、ここまで髪が伸びるのか。
「そ、れで……」二年、とハルオミが言った。先行事例の人物は二年と正気を保てなかったと。飲まされた毒に抵抗するために、高速回復装置の中で、自分は二年以上の歳月を飛び越えてしまったのではないか。「……僕はポケモンになったのか?」
「どう思う?」
 指で示された方向に洗面台と鏡があった。
 鏡の向こうに男がいた。
 ど、ど、と心臓が鳴る。暗闇のなかにある輪郭の中で瞳ばかりが光っていた。息の吸い方と吐き方が覚束ず、肩が揺れ、ぎこちなく瞬きをするたびに、光は逃げ場を探すように隠れたりまた現れたりする。顔色は、街に迷い込んだ野良がヒトのひしめく雑踏を隘路から窺っているような、緊張と怯えに塗れている。
「ワカミヤくんさ」
 そう――茫然自失とするその男は、気味こそ悪いが、ただのワカミヤトウヤにも見えた。
「レンジャーユニオンとしてじゃなく、アズの友人として、君にひとつお願いがある。これ以上、アズを苦しめるなら、」
 声は厳然としていた。トウヤは振り向いた。そして――
「アズの前から消えてくれないかな」
 自分を睨む、まったく生真面目な、熟れすぎたマトマみたいな真っ赤っかな顔を見て。
 我慢できなかった。普通に吹き出してしまった。逆鱗に触れると分かっていても止められず、声をあげて笑ってしまった。
「はあ!? 私怒ってるんですけど!?」
「分かってる分かってる、ごめん、でも」
 あんなに取り澄ましてたくせにさ。発作を堪えながらトウヤはマトマから目を逸らした。だってそりゃ、ないだろ、今にも泣き出しそうじゃないか。
「ありがとな、心配してくれて」
 その顔は――自分の言葉の手酷さに自分で傷ついているその顔は――さして深い関係でもない相手に心を寄せてくれるその顔は、ショックを受けてぱっくり裂けたトウヤの傷を、いとも簡単に癒して消してしまったのだ。
 今の自分をどう思う? どう思うか。僕は僕をなんだと思うのか。放っておけばトウヤは一生でも悩んだろう。でも、トウヤが動揺している以上に、目の前のこの子は、ちょっと可愛いと思うくらい猛烈に動揺しきっている。だからこちらが動揺していられなくなる。
「ばか。ほんっとにばか! こないだココウで会ってからちょっとの間に何してくれてんだよ、君!」
 だんだん声が大きくなりだんだん詰め方が苛烈になる、これがユニオン勤務のエリートレンジャーの本性だ。一旦弾けてしまえば怒涛だった。
「もうさあなんなの!? リューエルの宿に忍び込んだのが始まりだって聞いたけど! ばかじゃんアズあんなに慎重に動いてたのにあんたが勝手なことするからっしかも向こうの隊長に喧嘩売ったんでしょ!? なにしてんだばか! 身のほど知らずっ!」
 そんな風に叱ってくれる人が、きっと今の自分に必要だった。
 口をわなわなさせる彼女を見て、トウヤは嬉しかった。嬉しくて遣る瀬無い思いがした。今回はメグミの世話にならなかったからよかった、と一度は思った。メグミを苦しめずとも傷を癒せるなら便利な身体だとも。爛れた肌も、腫れ上がっていた喉も、熱も悪寒も内蔵の痛みも全て無かったことにできるなら、人間を辞めるくらいなんでもないと。だけど。この子を心配させた時点で、自分の無鉄砲はきちんと代償を払っている。
 孤独になろうとしたってだめだ。一人で何が出来たって言うんだ。
 大切にするべきものを、まだ、この手が握りたがる。
「ねえ聞いてる!?」
「すみません……」
「もーただのくそやろーじゃんアズほんと可哀想あのねえアズは本部でエリート街道乗るはずだったんだから金の卵なんだから! ココウみたいなど田舎であんたみたいなどーでもいいやつに振り回される仕事なんかしてるはずじゃないんだああっあんたにさえ出会わなければアズはっ、アズはぁ! 謝れ! アズに謝れ!」
「……それをあの子が望んだか?」
「むぎゃああアズの気持ちに応えないくせに彼氏ヅラすんなぶぁかぁああ!!」
 深夜の保健室に轟く絶叫。
「アズなんかアズだってっほんともう何なの『あの人絶対出たがるだろうから取り計らってあげてくれる?』ってそのためにわざわざ本部から私を呼び出してさあぁそんなに!? そんなにワカミヤくんが大事!? もうサイアクなんだからユニオンの意向よりあんたの気持ち優先してるしまた始末書モノだしこれっ、ダメ男にほだされて始末書書かされまくってるアズなんて訓練生時代からは考えられないよ! こんなはずじゃなかったんだからっそれもこれも初恋の盲目さが悪いんだからっ恋する乙女のアズ一生懸命で可愛くって私大好きなんだからあああああばかあああああああ」
 ユキはついにトウヤの布団にとりついてわんわん泣きはじめた。トウヤは誤解を正すか悩んだ。
「恋する乙女ってのは違うと思うけどな……」
「はあ!?」
「だからその恋する乙女とか」
「うるさいっ聞こえてるわっ二回も言うなばーかばーか! 自意識過剰か!」
「そっちこそ妄想が酷」
「教えてあげよっか!? 私がどれだけアズのこと愛してるか教えてあげよっか!? アズというこの世の宝を汚い下民から守るために私とホシナは手を組んでるんですその名も『アズにゃん親衛隊』! 私たちは所詮アズにつく虫の一匹にすぎないの! だからアズが白馬の王子さま連れてくる日をハンカチ噛み締めて待ってたの! それが何!? なんでぇっあんたみたいなやつがっ」
「君は……」ぼかすかと布団越しに殴りつけてくるユキに、トウヤはようやく、話すべきことを話す気力を絞り出せた。「……ハルさんとも友達なんだな」
 炎の中で彼があのあとどうなったのか、想像に難くない。
「彼氏だよばか」
 声が滲んだ。
 大騒ぎするユキの内心を垣間見てしまったような気がした。
 思わず口をついて出かけた言葉を、
「――謝るなっ!!」
 彼女が制した。
「謝るな! 悪いことした!? 襲われただけでしょ!! あんたがそうやって謝るからあんたを嫌いになりそうになる!」
「でも、」
「友達に迷惑をかけるのは当たり前だ」
 ユキが洟を拭いながら吐き捨てた。
 殴りつけられる感情は、身に余るほどあたたかく。
 迷惑をかけた、いくつもの顔が脳裏に流れて、トウヤはたまらない気持ちになる。
「……僕も友達にしてくれるのか」
「いい? アズの友達は私の友達なの。アズが味方するなら私だって味方なの。サイテーだろうがクズだろうが、味方で友達のワカミヤくんに、謝られる筋合いはない」
「君も、強いんだな」
 立派な職業人に失礼だろうか、アズサに抱いたのと同じ賛辞に、
「――私だってポケモンレンジャーだ!」
 涙まじりの大絶叫が、深夜のポケモンセンターに響き渡る。


 一刻も早く切り落としたいが「変装にはなるんじゃない?」というユキの茶々も馬鹿にならない。ミヅキの動静をリューエルが掴めていないということは、彼女がラティアスを取りにきたのはキノシタの指示ではないということだ。そうなるとミヅキと対峙している間に背後からキノシタに殴られても文句は言えない。追われる要素はひとつでも排除した方がいい――髪は長いまま、ユキが彼女の髪を結っていたゴムで一つ括りに縛ってくれた。トレードマークの赤いリボンもつけてくれようとしていたがそれは丁重にお断りした。
 頭の後ろでユラユラするものが鬱陶しくて仕方ない。だが悪いことばかりでもない、むしろ良いことの方が多いくらいだ。体調が良い。すごぶる良好だ。延々と続く睡眠不足に常に疲弊していた身体が、今や軽すぎて恐ろしい。駆けながら両手を広げれば飛んでいけてしまいそうだ。右手の不自由は相変わらずだが、それでも飛んでいけると思った。
 飛んでいって、すべて清算する。
 タケヒロたちに謝るのはそれからでも遅くはない。
 処置室は深夜でも当直の職員がいる。ユキが引きつけてくれる間に忍び込み、ハリの収まっているボールと、アサギに破壊された罅入りボール二個を回収。高速回復装置の横で寝ていたハヤテを叩き起こすと、顔を見て大声で歓喜した。職員が飛び上がって振り向いたときには、主を乗せたガバイトは既に正面玄関を突破していた。
「行こう」
 竜は後脚を蹴飛ばす。
 一瞬で通り過ぎたポケモンセンター正面に惨劇の痕跡は見えなかった。夜だから当然だ。ただ一目仰いだ空の色は黒よりは荘厳な濃藍に輝く。
 頬の凍るような寒さが清冽に身を引き締める。あの熱の地獄が嘘のように。
 後ろ髪というものは、案外引かれないものだった。



 ――約束の日まで、あと九日。






 
 
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