実験体ヨーギラスに噛まれた後遺症が赤黒い痣となって残ってから、微弱な波を伴う不調はトウヤの体の一部になった。体調が万全だと言えた日は半分もなかったかもしれない。それでも、ひと月も寝込んでいたのは、流石にあの時期だけだった。十九歳になる年の秋頃。感じはじめた妙な気怠さは冬が近づくにつれ悪化の一途を辿る。遂には起き上がることもできなくなった。きっと実験の準備が進められていたのだろう。ココウ近郊の試験場に据えられた実験体バンギラスからは、強化剤の微粒子が風に乗って飛散して、それがトウヤの過敏体質を苦しめていたのだ。
 あの夜のことは、本当によく覚えている。
 誕生日だった。夜更けにふと目を覚まして、鉛のように重いはずの体がその日だけ奇妙に軽かった。良い夢でも見たのだろうと思った。よろめきながら布団から這い出て、まだどこか夢を見ているような気持ちで、窓を開けて夜空を見上げた。
 あれも雪の少なかった冬。きりきりとした風の冷たさ、それが病的に火照った頬を撫で渡ってゆく心地よさも、今だって手に取るように思い出せる。寝静まったココウの街並み。黒々と眼下に広がる森。そして、大きな大きな月。
 忘れ得ぬ綺麗な満月だった。
 ――遠方から強烈な光が放たれたのは、窓辺から離れた直後だった。そのあたりで気を失って数日朦朧としていたが、町の外は信じられない異変に襲われていた。一夜にして草木が灰に変わり、森は火も放たないのに焦土になり、大嵐に灰の流された後には獣の死体が点々と転がる。トウヤが目にすることのなかった地獄絵図――あの光が『死の閃光』と呼ばれる所以。トウヤも背に浴びた、あの光。
 そうか、あの光の中に、父さんと母さんが。
「……有り得ないって思ったよ、二人とも死んだって聞かされたとき」
 雪の荒野に倒している姉の目は、肉親の最期を語りながら、冷め切っていた。氷のように冷めた目で、薄情なほどに感傷を宿さぬ声だった。
「だって完全に無駄死にじゃん。トウヤなんかほっとけばよかったって言ってんじゃないよ? ココウが危ないなら、避難すればよかっただけじゃんか」
 でも、分かる。決して薄情なんかじゃない。
「私言ったんだよ、一時的にでも別の町に避難するよう連絡しなよって。なんならこれを機に連れて帰ってくればくらいには言ってやったよ、父さんもそれいいなってニヤニヤしてたし、母さんなんか家片付けとけよって言うからさ、私、ばかみたい、本当に家の掃除して」
 彼女はとうに終えたのだ。トウヤがたったいま直面している、父を母を喪ったあとの破れかぶれの空虚の中で、彼女はひとりきり生臭い悲しみを飲み干したのだ。
「なのに実験場に押し入って死んだって、なんで? ボールの中にいた母さんの手持ちたちまで皆焼け死んで、アサギだけ生きて戻ってきて、なんでなの? 私、トウヤが言ったのかと思ってたよ、ココウを離れたくないから実験を止めてくれってあんたが言ったのかと思ってた。違うの? なんで知らないの?」
 ――その人が、こんな冷酷な目で僕を見ることを、僕に非難する権利などあろうか。
 両親の死にまつわる真相を何も負わずに生きてきた僕に。
「ねえトウヤ、こっちが聞きたいよ。父さんと母さんはなんで死んだの?」
 問いかけに返せる言葉などなく、ただ、返す言葉のない自分は、彼女を冷たい雪原に押さえつけていた。自分自身の罪深さを、自身が何よりも証明している。
 知らないよ、と、言ってしまいたかった。言って許しを乞いたかった。だが力無い心臓の拍動が言葉を押し出すことを躊躇うのは、その言葉を吐くことの呆れるほどの卑怯さを、どこかで分かっていたからだ。『死の閃光』のあと、トウヤが何をどれだけ考えながら生きただろう。更地になった森の跡を町から町へあてどなくうろつき、あれがリューエルの仕業かもしれないという可能性に至ったあと、一体、何を考えた?
「……それ、は」
 ――何故わざわざココウ近郊が薬物の試験地に選ばれたのか。
 ――過敏体質を持つ自分が暮らす、このココウ近郊が。
 ああ、自分のことばかりだ。被害者意識ばかりだった。自分は確かに多少思い悩んだが、姉さんは更に苦しんだろう。自分がくだらない被害者意識に根ざした妄想に勤しんでいる間、ポケモン殺しの弟を生かすために父や母まで死んだ意味を、その責任の所在を、打てど鳴らない闇に向かって問い続けなければならなかったろう。
 じゃあ、誰が?
 誰が父さんと母さんを殺したんだ?
「悪いの……は」
 誰もあの人たちを殺してはいないし、犯人らしい人もどこにもいない。
 けれど、確かに、トウヤという生き物がこの世界に存在しなかったとすれば、二人とも死ぬことはなかった。
 だから、
「……ぼ、く……」
 ――、なの?
 本当に、僕が悪いのか?
「『僕』?」
 ミヅキは人の感情を踏みにじるかのような笑い方をする。
「まだ僕なんて言ってるの? かわいいね、いつまでも子供みたい」
 誰かが後ろから襟首を掴む。持ち上げられるのに、されるがままだった。傍にどさりと捨てられたあとも体に力が入らない。アサギは何事もなかったかのような涼しい顔で、トウヤの背から取り上げた旅荷の留め具を、引き千切った。ハリとハヤテは折り重なって倒れていた。手足がおかしな方向に曲がっているのに、二人とも微動だにしていない。
 逆さまにして振られたリュックが、どさどさと中身をぶちまける。
 特記するまでもない旅荷の合間から、裸で突っ込んでいた写真たちが流れ出て、風にくるくると足元を舞う。立ち上がり尻を払ったミヅキが、汚らしいものにするように足先で雑に荷物を漁る。
「ボールなさそうだね。ラティアスのボールはやっぱこれ? 中身はどうした? どこに逃したの?」
 罅割れた紅白球がふたつ。投げ捨てられて、雪に埋もれる。
 破壊されたものを見、ふつ、と湧いた感情を認識して、トウヤは唐突に自覚した。
 ――僕は反省していない。
「言えよ、ほら」
 姉が煽る。
 弟は顔を上げる。
 その顔を、姉は唾棄する。
「……何睨んでんの?」
『いつまでも子供みたい』
 ――だろうな。
 ふつふつと無数の泡になってやがて脳の内を埋め尽くすのは、自嘲的よりも、もっと軽薄な感情だった。
 ワカミヤトウヤという人物は十歳になった日の夜に死んだのだ。十歳の子供のまま、歳を取ることを拒んだのだ。大人の気をひく快楽のために悪戯ばかりして、癇癪を起こして餌に毒を盛り、姉の手持ちを殺してしまう子供の精神で止まったまま。ずっと迷子のような顔をして、そのくせ入れ物だけ無駄に成長して大人になったつもりになって。だからこんな言い訳を考える。
 だって、父さんが迎えに行くって言ったから。
 必ず迎えに行くから、それまで待ってろって、だからいい子に待っていたのに。
 待っていたから、父さんも母さんも死んだって言うのか?
 姉さんはそう言いたいのか?
 じゃあ僕はどうすればよかったんだ?
 どうすれば二人を助けられたんだ?
 誰も本人すら望みもしないのに勝手に産まれて勝手に捨てられたこの僕に、何をしろって言いたいんだ?
「教える気はないってこと?」
 ミヅキは厭らしく口の端を上げた。
「へえ、いいの? いいのかなあ。さっき燃えてた男の子、ココウから連れ出してきたって子でしょ?」
 彼女の白い手が、おもむろに彼女の腰へ伸びた。サイドポーチから何かを取り出す。褐色の小瓶。
「あーあと、あの若いレンジャーも。ピジョンもハピナスも。あ、それから、ココウで火事に巻き込まれたっていうポッポも?」
 パキ、と小さな音がして蓋が捻られた。瓶の内容物を、煽る直前に、流し目がついとこちらを見下ろした。
「みんな可哀想だね。なにも悪いことしてないのに」
 小瓶を傾け、内容物を口内へ流し込む。
 す、とミヅキは腰を下ろした。両手が伸びてきて、トウヤの頭の裏に添えられた。彼女は首を少し捻った。ほんのわずかに目蓋を伏せた。その顔が急に近づいてきたので、トウヤは驚いて目を開いた。


 あたたかくやわらかいものが触れた。
 唇のあいだから、生魚のような感触のそれが、ぬるりと入り込んできた。


 四つか五つ、指を折るくらいの、長い長い一呼吸。
 身をくねらせて、それが口内を泳ぎ回った。上顎を撫で、歯列をなぞり、トウヤの舌を絡め取ろうとする。何が起こってるのか、今、何をされているのか、すぐに了解できたはずもない。体の内側で思わぬ動きをされるのは何とも気味が悪かった。ただ貪る舌は熱かった。熱くて溶けてしまうと思った。目の前にある長い睫毛の下、瞳の奥深くの色彩が濃くて吸い込まれてゆきそうで、準ずる五感のそれぞれは、理解できずとも象徴的な何らかの悪夢かのように脳裏に刻み込まれていった。鼻腔を埋め尽くす艶めいた匂い、熱く頬を撫でる吐息、くしゃりと己の後頭部を混ぜた指先に、促されるように、口内を満たす苦い甘味を喉奥へ受け入れかけた瞬間――
 ほとんど無意識に、トウヤはミヅキを突き飛ばした。
 身を返し、蹲る。舌を突き出して嘔吐く。内蔵を殴るような咳を繰り返す。口移しに流し込まれたものをなんとか吐き出そうとした。だが遅かった。
 気道が狭窄する。息がほとんど通らない。
 面白いほど痙攣する左腕が目に見えて赤みを増し腫れ上がっていく。
 ――あの小瓶。リゾチウム! 到底追いつかない精神状況とは対照的に身体は笑ってしまうほど従順に薬物へ拒絶反応を示しはじめる。掻きむしりたくなるような臓腑の不快感。火の放たれたように全身が熱い、なのに強烈な悪寒に四肢の制御を奪われる。気道を通らない呼吸に喘ぎながら、なぜ、と強く思った。彼女がそうしたことも、された自分が即座に跳ねつけなかったことも。トウヤはまた顔を上げた。
 ひとつめの答えは彼女が示した。
「……ちょっとはモモの気持ちが分かった?」
 殺虫剤を撒かれた害虫がのたうっているのを見ているようだ。変わらぬ冷ややかな双眸に地を這いながら貫かれて、トウヤは、自分が、この十三年間、懐に入れて大事にあたためていたもの、かけがえのないもの、自身の指針であるもの、そうだったもの、たちを思った。
 先の疑問の、もうひとつの回答は、己でよく分かっていた。
 口の端を拭ったミヅキは立ち上がりかけ、もう一度傍らへ腰を下ろした。もがくように雪面を掴む弟に、ひょいと顔を傾けて、
「これで終わると思うなよ」
 絶対零度。その目がはたと何かに気付いて、拾い上げる。拾い上げたものがすっと上へ流れる。トウヤはそれに目を引かれる。
 引かれて見上げた空は、暴力的だった。
 眩しさに顔を歪めて思う。
 ――何もかも、だ。大切だと思っていた、自分を形成していたすべてが。
 もはや宝箱にしまう価値もない。
「仕方ないなあちょっとだけ時間あげるよ。そうだね、十日後、ココウで落ち合うってのはどう? ラティアスちゃんと連れておいでね。連れてこれなかったらどうなるか、トウヤは賢いから、分かるでしょ?」
 何をしている! 遠い声。ヒビ方面から滑空してくる数羽のムクホーク、はトウヤの目には映らなかった。ぐらぐらと揺れる視界には、ボールに吸われていくアサギの巨体と、女、その指先がつまんでいるもの、それだけだった。
「あんたの手持ちたち。ココウの駐在レンジャー、サダモリさんだっけ、十八歳の女の子。逃走を手伝ってるらしいね。なんならココウのお友達とか、ハギのおばちゃん、あと、そうだ、弟子とか言って可愛がってる子がいるらしいじゃん? それと、」
 人差し指と中指に挟んだ写真を、ミヅキはぴらぴらと弄んだ。
「ハシリイのフジシロカナミさん? お腹に赤ちゃんがいるそうね」
 懐かしい笑顔が光の反射の中に消える。
 ――カナは関係ないだろ!
 声は出ず、唾すら吐けず、
 
 ぶちん、と頭の裏のあたりで、何かが弾ける感覚がした。

 舞い降りてきたピジョットにひらり飛び乗り、ほぼ同時に翼が空を撃つ。気流と共に飛び立っていくものをトウヤは追いかけようとした。立ち上がっていた。腕を伸ばしていた。
 おい!
 逃げるな!
 逃げるなよ!
 叫んだ。叫んだ。声が音になっているのか最早判然としなかった。張り裂けた喉から逆流した血が舌の味を上書きした。鉄に満ちた口で更に叫んだ。何度も何度も。背後から誰かに抱え込まれていた、それは見知らぬポケモンレンジャーだったがトウヤはそれを知らぬ間に跳ね飛ばしていた。訓練に鍛えられた職業人の制止を振り払うだけの力など満身創痍の肉体に残っているはずもなかったのに形容しがたいどす黒い奔流が体の内側を暴れまわりトウヤはそいつに突き動かされていた。明らかに異様な精神状態にある男を、レンジャーが再び抑えようとする。腕の中でトウヤは空へ血を唾を飛ばして吠える。
「その人たちにッ手を出してみろ!」
 急激に遠ざかっていく影。
 届く、と思った。手が届くと思った。自分は地を蹴り翼を振るい空を飛び爪をかざしてあの影を撃ち落とすだろう。あんなにも愛していたものたちを地獄へ引き摺り込むだろう。空を翔けていくあれは天使か? いや、あれは神だ。あれは自分の信仰だ。確かに神であったものだ。姉は弟を慈しみ、弟は姉のすべてを信じた。ばかめ、あれからこんなに時が経ったのに、まだ女神を気取っている。だからそうして、嘲笑うかのように、聞かぬふりをしていられるだろうが、
「そのときは、――――れがっ、」
 あなたが飼い慣らしていたものが、預かり知らぬところで、牙を持つ竜になったことを、
 まだ、あなたは知らないだけだ!



「――――"俺"があんたをぶっ殺してやるッ!!」



 声は響くこともなく、空に手は届くはずもなく、だだっ広い雪原に呑まれて意味もなく消え失せた。
 鳥影は地上の喧騒の些細など聞こえてすらいないかのように、じきに灰色の空に見えなくなった。
 狭窄した喉を押し通るあぶく混じりの濁った呼気だけが、いくつか、生まれては落ちる。何もなくなった場所を睨んで放心していたのは一瞬だった。
 身の内を渦巻いていた尋常でない何かの奔流が、行き場を失ったマグマのような感情が、全身の穴から血となって噴き出す代わりに喉からひとつずつ漏れはじめた。
「ああ……」
 ああ。ひどく笑えた。ぽつりぽつりと降りはじめの雨粒が瞬く間に土砂降りと化すように衝動は次第に哄笑へ変わる。身を捩らせて笑った。涙が出るほど笑った。腹筋を震わし横隔膜を揺らしなるべく大声をあげて笑った。そうするほどに黒煙をあげて命は燃え尽きていくようで、レンジャーに羽交い締めにされ、挙句地面へ押さえつけられながら、残る体力のすべてを掻き集めて笑い声を轟かせると、早足に死に近づいているようで心地よくて堪らない。体じゅうが熱くて冷たくて苦しくて白い空は痛いほど眩しく視界はぐるぐると回り続ける。ああ。ああ! 愉快で愉快で仕方ない! なんて滑稽なのだろう! この人生のなにもかもが! なんだ自分はこんなに笑えたのかとトウヤはいっそ胸が躍った。今まで生きてきた中でこんなにも力いっぱい笑えたことがあっただろうか。子供の頃はあったかもしれない。でも何も思い出せない。毒々しい己の笑い声が世界を汚染するたびに、せっかく姉が光で満たしたあざやかな空が、だんだんと閉塞していって、敬虔な闇が訪れる。



 やっと、何もかも、壊しきったのだと、
 これでもう何も壊さずに済むのだと、
 最後にそう思って、ふと楽になった。


 目を瞑る。


 幾分、幸せな心地がする。





 
 
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