14・彼女はそっと僕の手を引く 1 『ごめんなさい』 と書かれた紙が、リューエル実務棟第七部室の隊長席で、静かに朝日を浴びている。 * 巨大な手に引き千切られるようにどす黒い雲が裂けていく。この混沌のどん底に、日が差しはじめたのは皮肉だった。 ミソラの皮膚や鼻腔の中に炎の余韻はもう無かった。右へ左へと振り回され、どれほど経ったか分からない。メグミに乗せられて飛び続け、終いに振り落とされた場所はまだヒビ市街のようだった。見たことのない景色だ。タケヒロと必死に駆けずりまわった範囲は案外狭かったのだと思い知る。 ――タケヒロ。 ――タケヒロが。 「すぐに戻りましょう」 自分を抱え込む男の右腕を撥ね、その肩を掴んで、ミソラは大声で叫んだ。人目が、とか、追っ手が、とか、そんな些細には、まるで頭が回らなかった。 「治療したらいいんです、メグミに治させるんですよ、『癒しの願い』をかけるんです、あなたの右腕が生えてきたみたいに、絶対うまくいきます、ねえ、早く、タケヒロの」 決定的な映像は。 まだそこにあるかのように。 「心臓を」 「――ッァ、が!」 掴みかかっていたものが電流を流されたみたいに大きく跳ね、ミソラは思わず仰け反った。 尻餅をついて後ずさりする。さっきまで自分を抱えていた人が蹲って全身をガクガクと痙攣させるのに、ミソラはただただ唖然とした。狂った不随意運動を繰り返すそれはまるで見たことのない意思疎通のしようもない生命体と対峙しているかのようだった。音、いや、声がした。慌ててあたりを見回す。灯の消えた風俗街。誰もいなかった。じゃあいったいどこからと疑ってしまいたくなるくらい、目の前からその声が聞こえていることが、まるで信じられなかった。 知らない声だ。トウヤらしきもののいる場所から知らない男の声がする。 (殺される) と思った。混乱しきったミソラの脳に何を想像する余裕もなかった。あの炎の怨霊が取り憑いて自分を殺しにやってきたのだ。逃げられるはずなどなかったのだ。人の形をした腕が青筋を浮かべて石畳の僅かな凹凸を掴もうとしているのが何かに抵抗しているように見えた。制御を奪われかけているのに抗って、必死に蹲ろうとするかのような。地に額を擦り付けて唾を吐くように地に吠える。長音を切り刻んだような吠え方を何度も何度もする。尋常ではない。狂気は単純に恐怖を生んだ。 ミソラは立ち上がって逃げ出そうとした。だが竜の姿のメグミに、庇うように後ろから抱き込まれて、動けなくて、ようよう気付いた。 ――トウヤはじきに人間でなくなる。 (ああ……) 気付いたとて、何が出来ると言うのだ。 「ぁア、ア、ア! っは、か」 何度も、執拗に、左拳を、石畳へ打ちつける。皮が捲れて血の筋が滲む。 「グ、う、ぁ」 剥いた口元から歯列の軋む音がする。 「ぃ、ぎ、に、……に、」 もう一度、拳を突き、そこを支点にして、震えながら、身を起こして、こちらを向いた、 「……逃げてくれ」 血走った、鬼のような顔をした男から、いつものトウヤの声がした。 熱されきった五感のすべてに、冷や水を浴びせられたような衝撃だった。 全然別だと思ったのに、並べてみるとよく分かる。同じ喉だ。同じ声帯が震えている。かつて頼りにした人の成れの果てと向かい合った刹那、時が止まったような気がした。永遠のような一瞬にひたひたと失意が浸食した。そのとき、ミソラはふと悟った。もう戻らないのだ。戻る場所などもうないのだ。もう、自分たちは、二度と選び直せない最低な岐路の先にいる。 「……嫌です」 「メグミ。いいかいよく聞いてくれ。ここから西に進んだ場所に地下道があったろ覚えてるか? 抜けたらワタツミはすぐそこだ。ヨシくんに匿ってもらうんだ。いいか、いいな、ミソラを連れて」 「私タケヒロのところに戻ります」 「誰にも見つからないように。お前なら大丈夫。行けるね?」 「助けないと!」 身体が締められた。背後に頷く気配がした。 メグミはミソラを庇うのではなく、はじめから、ミソラが勝手なことをしないように、両腕で縛り付けていたのだ。 「嫌だ!」 腕を開こうとした。抜こうとした。もがこうとした。びくともしない。 怖くて怖くて堪らなくて、目を瞑るとタケヒロがいた。 ぽかんとなにかを見つめる目。 『え』の形で止まった口。 空へ向かって伸びたまま、ゆっくり倒れていく指先のうごき。 「嫌だ! 助けにいくんだ!」 幻覚を足蹴にした。忍び寄ってくる現実をなんとか遠ざけようとした。あの場所に戻れるはずがないことも、助かるわけなんて、ないことも、認めたらなにもかも終わりだった。 「ごめんな、メグミ」 「離せ! はなせぇっ! いやだ、やだ、」 「……ミソラ」 「嫌です、こんなの、嘘ですよ、ねえ、」 ミソラは渾身の力で叫んだ。 「――お師匠様ッ!」 朝方の人気のない街に呼び声は空しく反響し、誰も答えやしなかった。 望みを懸けて顔を見た。 目が合った。 額の擦過傷に血が滲み、この真冬に、異様な脂汗を垂らしている。けれど、嫌に、実直な顔をしていた。荒く肩で呼吸をしながら、唇を震わせている彼の、まっすぐ自分を見つめる視線は、もうすっかり、ミソラの知っている、ワカミヤトウヤそのひとだった。 「……一生のお願いだ」 まるで冗談みたいな言葉の、彼が今だから付加できる切実を、ミソラは理解してしまう。 トウヤは立ち上がる。ミソラは呆然とそれを見上げる。四肢にもう震えはなかった。雲間から溢れはじめた逆光の中で、踵を返し、コートの裾を翻し、颯爽とも言える動作で紅白のモンスターボールを手にした。背の語る意志の強さへ、ミソラは三度絶叫した。 「薄情者!」 声は白日に轟いた。 「あなたが悪いんだ!」 自分の声だって、自分のものではないようだった。 「あなたがタケヒロを殺したんだ!」 トウヤは振り向きもしなかった。 行くぞ、の気合と共に、ボールが割れる。現れた光と共に路地へ飛び出していく。一瞬拘束の緩んだメグミの腕をミソラは振り払っていた。悔しかった。気が狂って死ぬかと思った。大嫌いなあの人の言う通りに、するしか選択肢を持てない自分が。 背を向け、肩掛けをきつく握りしめて、メグミの示した方向へと、ミソラもまた走りはじめた。 * 考えてみれば、モモを殺してしまった日から、アサギの顔は一度も見ていなかったかもしれない。 餌に毒を盛ってからトウヤがホウガを離れるまで、だいたい一月程度の期間がある。うち半月分くらいは家族と一緒に暮らせていたから、両親や姉のミヅキの顔はもちろん目にしていた。が、その日々にアサギはいなかった。普段のアサギは常にボールの外にいて、主人である母の遠征任務中もだいたい家に残されていた。日常の風景には絶えずアサギの姿があった。なのに、モモが死んで以降の日々から、あの大きな図体がモモと一緒に消え失せている。 今なら分かる。ひどく落ち込んで引き篭もっていたとか、そんな可愛い理由ではなかったのだ。モモという火の消えた家で、母は、アサギをボールに閉じ込める、という選択をせざるをえなかった。――腹に突き刺さる衝撃に身を吹き飛ばされながら、トウヤは追想する。僕は愚かにも、その意味に気付かず、この瞬間に至るまで、セピア色の思い出に慰めすら求めていた。 背後へしたたかに頭を打ちつけ視界が歪んだ。 一撃食った腹部からせりあがるものが口から溢れた。 蹴りの姿勢から直ったアサギが、すぐさま追撃の拳を放った。 「――ッ、か」 声が出ない。 す、と間に割り込んだハリが『ニードルガード』を展開する。迫るアサギが右拳を引き、左腕を手刀にして、拒絶の壁へと打ち付ける。 『炎のパンチ』を即座に解除しての『瓦割り』。 いや、違う、解除したのではなく、右と左にそれぞれの技を同時に発動させたのだ。砕け落ちる壁だったものの破片の滝へ続けざま突っ込まれた右拳がハリの頭部を殴打する。よろめいた案山子草の腕を掴み、炎を噴き上がらせる背に引きずり回すようにして負い、上から下へ叩きつける。 「影――」 接触していた身が離れた僅かな瞬間、素早く分身を形成してみせたハリの無数の影のすべてへ、全方位に放たれた『弾ける炎』が襲いかかる。 「――い打ちッ」 火の粉を掻き分けて奇襲のつもりで飛び込んだ本体が、あたかも待ち受けていたかのような『火炎放射』の猛攻に呑まれる。 一撃も入れられない。勝負とは呼べなかった。ただの暴行だ。卑怯と糾弾したいほど強い。 距離を取れと言う指示を出すことすら無謀だと思った。圧倒的な力量差は数多の勝ち星を無に帰して、自分たちの積んできたあらゆる経験を否定する。煌々と光る炎の中で、見知った形が踊り狂っている。それを映すトウヤの網膜に、中毒を起こしてもがき苦しむモモの最後が蘇る。 絶命したモモをアサギが燃やした。 長らく人と暮らしていてもアサギはただの獣だった。人と獣は、決定的な部分で、分かり合えない瞬間に必ず衝突する。ただ、あんなにも懸命で、そして悲愴な顔をしたアサギを、他に見た記憶がない。 アサギは優しいのだ。確かに少しは乱暴だが、でも優しいからこその厳しさを知っている、愛情に溢れたポケモンだったのだ。 それを壊したとしたら自分なのだ。 ――目下の標的が見えなくなり、獣は火を噴くのを止めた。そして、翳したボールに光を吸い込んでいく人間の方へと視線を移した。 「アサギ」 低くなった自分の声に今更の違和感をふと覚えた。だが懐かしい響きだった。 アサギが近寄ってきたのは、名を呼んだからではないと分かっていた。分かってはいたけど、恐怖よりもこみあげてくる感傷があった。胸倉を掴み上げられると足が浮いた。痛くて苦しかったけれど、それよりも、目の前にある険しさに満ちた表情が、強烈なノスタルジーを喚起した。 ハリを吸収したボールをホルダーに収め損ね、取り落としたものがコツンと石畳に跳ねる。その音が耳にくっきり届くほど、街はずれは静寂の中にある。 「元気そうだな。安心したよ」 最初は皮肉のつもりだった。 けれど――すうと目を細めた仏頂面を見れば見るほどに、皮肉など言えようもないことを思い出した。親からの愛情に飢えていたトウヤに、代わりに愛情を与えていたものが他の誰でもないアサギだった。アサギのことが本当に大好きだった、よき親であり、よき友であり、かけがえのない理解者だと思っていた。 いや、今だって、そうだと思っている。 アサギは確かに僕のことを実の子のように愛したはずだ。 「……会いたかった……っ」 声が震え、視界が揺れ、ガクンと頭が振れた。 二メートル近い高さから、地へ向かって、豪腕が体重を乗せて叩きつけた。 空が振盪する。星が散り、視界が白み、すぐに戻ってくる。押し出された空気を取り戻そうとして、胸がへしゃげたように息が入らず、手足は思うように動かない。 屈み、トレーナーベルトに残るボールを没収しようとしたアサギへ、それでも一瞬抵抗した。抵抗した左手へフッとアサギが息を吹いた。技でもなんでもないただの呼気に、痣の這うただでさえ醜い皮膚が、瞬きする間に焼け爛れる。 鈍く、鮮烈な痛みだった。 「誰の」 取り上げたボールの一つ目――ハリのボールを、まずそこに捨てた。それから二つ目と三つ目の開閉スイッチを押そうとして、それらが押し込めないことに気付き、動きを止める。 「誰の、差し金なんだい。アサギ」 肺に杭でも突き刺さっているかのように息を吸うたびに激痛が走り、隙間風のような声しか出せない。だが、それだけのことをされてもまだ、思い出に縋っている自分がいた。子供の頃タチの悪いいたずらをしたときはアサギに体罰まがいの仕置きをされた。あれもすごく痛かったが、手加減してくれていたんだな。本気でやったらこうなのだ。大きくなった子供と、久々にプロレスまがいをしたら、力の加減も出来ずにこうだ。 「お前の意思じゃないんだろ?」 分かっているよ、と、伝えてやりたい。その仏頂面の裏に、あの悲愴な顔があると僕は理解していると。アサギが僕を理解してくれていたように、僕もまた、アサギを理解できるのだと。 命令を下したのはキノシタだろうと踏んでいた。ココウでも共に任務に当たっていたようだし、第一部隊長の命なら逆らえないことにも頷ける。アサギが追ってくる、メグミを奪いに来る、交戦の末に敗北して、モンスターボールを取り上げられる――想定より一方的だったとはいえ、ここまでは、描いていた展開だった。ロックを掛けたボールはポケモンの知恵ではそう簡単には開放できない。小手先の時間稼ぎだが、このくらい稼げば、ミソラもメグミも目の届かないところまで逃げられたはずだ。 だから、そろそろ頃合いだろう。無人の通りにトウヤはキノシタを求めた。見せびらかすような凶悪な牙と、趣味の悪い笑い声を響かせながら、忌々しいあの男が角からやってくれば事は終わる。なのに待てどもあの男は現れない。まだ仕置きが足りないと言うのか。きてくれ、と思った。願っていた。そうであれという祈りに近いとトウヤはまだ気付けない。早く出てきてくれ。馬鹿めと罵ってくれ。 そしてアサギの意思ではないんだと言ってくれ。 ぴし、と小さな音がした。 獣の握りしめたボールの上蓋に、小さな亀裂が走っていた。 反応がない。割れたボールはもう開くことはない。ごみを投げ捨てたアサギの右手が伸びてきて視界を覆った。鷲掴まれた頭が、持ちあげられる。力無い体が、力任せに引き起こされ、また、壁へ叩きつけられる。 音。骨の軋む音。 昔、頭を撫でてくれた手のひらから、流れ込んでくる明確な殺意。 あらゆる攻撃に耐える強化素材を破壊した右手が、徐々にこめかみへ力を込める。じわじわと。握り潰されようとしている。声も涙も出なかった。目元を覆う毛皮の手のひらがあたたかすぎた。懐かしくて幸せがこみあげた。痛くて苦しくて情けなくて悲しいのにトウヤは奇妙に幸せだった。本当に会いたかったよ。会いにきてくれてありがとう。ああ、けどアサギ、これじゃあ何も見えない。せめてお前がどんな顔をしているのか僕に見せてくれないか。フー、と獰猛な獣じみた呼気をひとつ漏らしたアサギが、ほんのちょっとでも悲しげな顔をしていれば、それを見て、僕は、それで―― 開放音。 手が離れ、熱が離れ、光が戻り、炎が迸る。 せめて生かすためにボールへ戻したハリが、内からこじ開けて飛び出して、立ち上がれもせずにアサギの足へしがみつき、そして炎の奔流を浴びた。 熱気に思わず目を絞る。 アサギの表情に、怒り以外の何物も見えないのは、眩しくてよく見えないからか? 「アサギ」 相棒が声もなく燃やされていくのに、もう、腕も伸びなかった。モモを燃やしたときのアサギとは違うとトウヤはやっと理解した。末っ子の甘えが奪い尽くされてようやく、ようやく恐怖は襲いきた。本当は、最初から理解していなければならなかったのだ。母がアサギをボールに幽閉した意味を想像しなければいけなかった。そうでなくとも、ココウで発信機をつけたタケヒロを追い回したアサギが、戦う力を持たないイズを殺したと知ったときから、分かっていなければいけなかった。受け入れ難くとも飲み込んでいなければならなかった。 アサギはもう、僕に憎悪しか向けていない。 「やめろ」 必死に体へ鞭を入れる。肘をついて這い進む。ハリのボールはほんの一メートル先に転がっている。右手はまるで思うようにならず、じくじくと焼け付いた左手は、地に触れるたびに剣山に押し付けられたような痛みを伴う。 炎の中のハリはもう動かなかった。それでもアサギは天誅を止めない。 誰へ向けての罰か。 ――十歳の僕だ。当然だ。 「やめてくれ……」 ――だけど、じゃあ、僕はいつまで罰を受け続けなければいけないんだ? そのときだった。 「もういいよ」 目の前のボールを、伸びてきた手が、ひょいと拾い上げた。 白い手だった。細い指だった。綺麗な爪だった。親指と人差し指と中指、三本でボールを挟み込み、すっと持ち上げる。無駄のない動きにつられて視線が上がる。 アサギの炎が止んだことに、トウヤは気付かなかった。それどころか、先までの悲しみも、感傷も、全身を蝕む痛みまで、なにもかもひと吹きに飛んでいた。つられた視線の先を見て、あんなに動かなかった体が、不思議と起き上がる。力が戻るとか戻らないとかではなく、何かに導かれたように、ごく自然に、トウヤはその人を仰ぎ見た。 雲間から差し込む光に包まれた、淡く光る彼女の輪郭は、まるで天使か、そうでないなら神様のようで。 黒くて長い髪は少し乱暴に頭の上に纏められていた。粗雑に跳ねている後れ髪まで光を弾いてつやめいていた。首元へ下ろしたパイロットゴーグルの無骨さに不釣り合いな端正なジャケット。寒空を飛んできたからか、化粧っ気の薄い頬は透き通った桃色で、鼻筋はすらりと高く、長い睫毛は伏せがちに焼け跡へと向けられている。 ふわりと振り向いた顔が、欲したように、少し悲しげな顔をしていた。けれど、トウヤの顔を確認すると、薄い唇だけ、静かに微笑ませた。 風が吹き抜ける。惨い戦いの余韻を奪っていく。 トウヤは呆然と彼女を見上げる。 彼女は膝を折り、迷いもなく、細い両腕が伸びてくる。 ぎゅう、と、 「久しぶり、トウヤ」 引かれ、傾いた体が、包み込まれて、すべてを委ねる。 「……おねえちゃん」 誰かに抱擁されたのなんて、一体いつぶりだったのだろう。 |