炎の中で





「――ハリはどうして、わたしにだけ手加減するの?」
 モモは聡明だったから、その核心を小声に問うた。わたしが手加減をしていると知れば、後ろをのしのしと歩くアサギが、火山のように怒り出すとよく分かっていたからだ。
 モモはまるでおひさまのようだ。そう言ったのはアサギだったが、アサギだけでなくミヅキもトウヤも、もちろんわたしも、あの家の誰もが、似たようなことを一度は考えていただろう。モモの行くとこ行くとこは花が咲いたみたいに明るい。自然とみんなが笑顔になるのだ。日陰者を閉所へ追いやる刺激的な光線ではなく、ぽかぽかと暖かい陽だまりなので、『太陽』というよりは『おひさま』。聡く優しく、ひょこひょこ歩いてはニコニコ喋る小さなアチャモのまわりには、誰彼問わず好意が集まる。
「手加減なんかしていないよ」
「ほんと?」
「モモは勝てたら嬉しいだろう」
「けどさ、勝たせてくれても嬉しくないよ?」
「そう疑ってくれるなよ」あの淀みない陽光はわたしを罪作りな気持ちにした。特に真昼間の日の下のモモは、わたしにはいかんせん眩しすぎた。「タイプ相性が悪いんだ。トウヤもそう言っていた」
「でも、このあいだトウヤと一緒にメラルバさんをやっつけてくれたでしょ? 六年生の、ほら、ミヅキにちょっかい出してた」
「運がよかったんだ」
「カッコいいなあハリは。わたしなんて、このあいだ西の林のナゾノクサさんにも負けちゃうところだったのに」
 くすくすと笑うと、体に対してアンバランスな大ぶりの飾り羽たちが、ふわふわと誘うように揺れる。わたしは後ろを盗み見て、アサギの鼻がひくひくするのを確認し、満足して向き直った。飾り羽のふわふわが揺れると、あの小憎たらしい強面が、鼻をひくつかせてくすぐったい顔をするのだ。
 アサギが気の抜けた顔をするのはそのときくらいのものだった。しつけ係のアサギは怖い。悪さばかりするトウヤに仕置きをしているときも怖いが、わたしたちもバトルでミスすれば最悪だ。出来の悪いモモなんて何度泣かされていたか分からない。アサギはワカミヤ家の子守役だったが、わたしたちにとれば厳格な父そのものでもあった。せかせかと子らの世話を焼き、不器用な体で家事をこなすアサギはかわりばえのない仏頂面だが、いつも背筋の伸びるような顔をしている。隙を見つけてはよく稽古をつけてくれた。『強くなれ、もっと強くなれ』と飽きるほど聞かされる口癖も、厳しいけれど、気に入っていた。わたしはアサギの厳しさが好きだ。
『何のために強くならないといけないの?』
 稽古中のモモは泣き泣きアサギにそう訊いた。
『バトルあんまり好きじゃないよ』
『それでも強くならなければ』
『わけを教えてよ』
『自分で見つけることだ』
『アサギは何のために強くなったの?』
 アサギは必ずこう答えた。
『お前たち家族を守るために』
「あーあ、わたしも見たかったなあ、ハリがメラルバさんをやっつけるところ。おもしろかっただろうなあ」
「おもしろくなんかあるものか」
「おもしろいよ。わたし、見てるの好きなんだもん、ハリが戦ってるところ」
 学校からの帰り道ではなかったろうか。ちょこちょこと趾の掻きわける、晩秋の畦には、赤い花が揺れていた。
 あの頃、話をするたびに、よく考えていたものだ。
 ――この雛鳥のことを『疎ましい』とほんの少しでも思うのは、世界中を探したとしても、わたしくらいのものだろう。
 わたしとモモは、ほとんど同じだった。性別、まるい体、ほとんど同じ背の高さ、頭の天辺に黄色いかんむり。ほとんど同じ時期に生まれ、ほとんど同じ場所で育つ。なのに、なにもかもが違った。素直でおしゃべりで柔らかくて、あたたかいのは彼女のほう。わたしはバトルの才があって、早々に強い技を覚えては、そつがなく勝ち星を積み上げる。モモは生まれつき炎袋に難があって、体調次第では火の粉すらうまく吹けないが、克服するために一生懸命努力をする。その姿に、人々は手を差し伸べる。わたしがひとりで腕を上げる間に、ちょこまかと動いて他者に懐き、みなに愛され、みなが彼女を応援する。
 わたしが欲しかったものを、彼女はすべて持っていた。
 ヒトの子が容易に抱き上げられる軽い体が羨ましい。
 耳触りのよいその鳴き声が羨ましい。
 棘のない皮膚の柔らかさと、人肌のあたたかさが羨ましい。
 万人に愛される容姿と、他人を妬むことを知らぬ心の清らかさが羨ましい。
『家族を守りたいんだ。もちろんお前もおれの家族だ』
 アサギはすべて見通していた。一度だけ、深く頭を下げられた。
『おれに家族を守らせてくれ、ハリ』
「ハリは優しいからなあ」
 少し拗ねたようにくちばしを上げてモモは言った。
「わたし、弱いでしょ。だからついつい手加減しちゃうんじゃない?」
「弱いだなんて思ってないよ」
「じゃあ、わたしが好きだから!」
「モモのことは好きだが、それとこれとは関係ない」
「えへへ。うーん、じゃあ……」
 彼女は一段と声をひそめる。
「……が好きだから?」
 わたしは驚いてモモを見た。
 彼女は穏やかに微笑んでいた。

 確か、モモが逝く、二日か三日前のことだった。

 『夜行性』という種族本来の特性を、あるときアサギがわたしに教えた。自然環境下、つまり砂漠に棲む野生のサボネアたちは、炎天下の日中はじっと時が過ぎるのを待ち、日が沈み気温が下がってから活動する。ホーホーやヤミカラスと同じ夜の生き物だ。そういう摂理で体が構成されており、反すれば何かしら不調が出る。――知れば腑に落ちた思いがあった。人間の営みの中に生まれ、人間の営みの中で生きてきた。眩しさに目を細めながら生きるのが当たり前だと思っていた。だが、眩しさに目を背けること、そちらの方が、サボネアにとっての当たり前だったのだ。
 太陽がいないと息もできない植物なのに、太陽を倦厭する天邪鬼。それがわたしという性分。
 わたしは人間を愛していた。だが人間を愛するわたしの体には人間を傷つけるための棘が生えていた。
 慈しまれるモモを見るほどに、人に愛されたいと願う棘だらけのこの身の歪が、嫌いで嫌いで堪らなかった。
 わたしは返事をしなかった。モモも催促しなかった。アサギは黙って歩き続けた。わたしたちのゆく道をりんりんと揺れる花々は、夕日の濃くなるにつれ赤みを増し、それは炎の色にも似ていた。
 花を摘み摘み歩く少年と、追う少女の背があった。
「その花、毒があるんだよ」
 少年は振り向いた。
 迫る茫漠の闇のしじまに、そのとき小さくひらめいた、異様にも見えた双眸の輝き。
「……毒?」





 炎。
 炎の中で。
 不意に、思い出したのだ。モモが燃えていたことを。毒入りの餌を食い、冷たく固くなっていくモモの体を、一心不乱に舐め続けていたアサギが、突然火を放った瞬間のことを。
 滅多なことで燃えるはずのない炎タイプの羽毛に火がついた。小さなモモの体が火を纏ってひとまわり大きくなり、ひどい匂いがして、アサギは火を吐き続け、周囲の絨毯まであっという間に燃え広がり、居間は火の海と化し、ミヅキはしくしくと泣いていた。
 轟々と燃える絨毯の真ん中で、大きな身を縮こめるようにして、腕の中で燃え盛るものをアサギはしきりに覗き込んでいた。こんなにエネルギーを与えても動き出しそうもないことを不思議に思っている顔だった。だが、アサギが与えた炎の中で、アサギの愛していた飾り羽は、もう形すら失っている。


 あのとき、固く口を引き結び、睨みつけるように炎を見つめていた少年が、――少年だった主人が、叫び、傍らから飛び出した。


 現実のアサギがこちらを見た。
 雪の残るヒビ市街。心持ち晴れやかな旅立ちの朝。うねる陽炎の向こう側で、あのいたく厳しい目が、間に存在するあらゆる物質を通り抜けて、確かにわたしを貫いていた。
 子らのゆりかごだった背が火に爆ぜる。
 生涯忘れ得ぬ声が、また頭に鳴り響く。


『――何故モモと餌皿を取り替えた?』





 
 
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