4 今日も冷たくて硬い床で凍えながら寝なければならない。鬱々と部屋の戸を開けたミソラとタケヒロの全身を、そのとき、思わぬものが包み込んだのである。 温もりだ。 冷え冷えとした廊下に向かい、口を開けた借り部屋の中から、暖気の奔流が二人へ雪崩れをうってくる。 部屋の真ん中に、日の短い冬の夕闇に、神々しく輝くもの。それはストーブだった。赤々と燃える石油ストーブだった。そして、それを神々しく輝かせているのは照明だった。今朝まではうんともすんとも言わなかった天井照明が、部屋のすみっこまで光を行き届けさせている。その光に満ちたすみっこを見れば、埃とカビ臭さはさっぱり消え失せ、ぴかぴかに掃除済みだと一目で分かる。ご丁寧にカーペットまで敷かれている。毛足が長く、いかにも寝心地の良さそうな、ワインレッドのカーペット。 そして、何よりも。 布団だ。 敷布団、枕、厚手の毛布。ふっかりとした羽毛布団。川の字に三セット。 部屋の中で振り返った彼――エプロンにマスクに頭巾姿のハルオミのことが、そのときミソラとタケヒロの目に、いかに神格化されて映ったことか。その奥で「はっぴー」と短い手を振った、同じくエプロン姿のハピナスのことも。 「は、ハルさん……!」「ハル兄ちゃん……!」 「布団は約束だったからな。後はサチコが勝手にしたんだ、俺は付き合わされただけだ。よって礼ならこいつに言いな」 「サチコおぉーっ!」 『幸せポケモン』の名を欲しいままにする巨大ピンクタマゴへ抱き着いて全力でお礼を言ったあと、全力で布団へダイブした。布団のふっかりを以てしてもこの興奮のすべては受け止めきれず、普通に痛かったが、相殺して有り余る喜びで最早訳が分からない。布団と毛布と友人とでもみくちゃになってはしゃぐ貧民どもを、ハルオミは若干引き気味の様相で見下ろしている。 「おい、んなことより飯まだだろ。職員用の食堂を案内してやる、さっさと起きろ」 ごはん! 同時に布団を跳ね除けた。 「お前マジ見た目よりめちゃくちゃ良いやつだよな」 「ハルさんって第一印象最悪だったけど会うたびに素敵な人に思えてきます」 「いいけどな、正直すぎるなお前ら。つかよく言われんだわそれ」 部屋を出、階下へ向かう。トウヤはどこにいるのかと訊くと「あー……」と素直に言葉を濁し、帰りは遅くなるかもな、とだけ返してきた。タケヒロは首を傾げている。ミソラはハシリイでの地獄の宴会を想像した。 「ま、日付が変わる前には戻ると思うぜ」 「それならいっか。飯のが大事だ、めしっ、めしっ」 今にも踊り出しそうなタケヒロの後ろで、サチコも大きな体をぽよぽよさせて拍子を取っている。踊るまではいかずともミソラもハッピーでいっぱいだった。ルリコ宅で頂いたお菓子で腹が膨れているとはいえ、まともに『ごはん』と呼べるものは一昨日の昼以来食べていないのだ。 「あっ」 一昨日の昼以来まともなものを食べていない理由を思い出して、ミソラは足を止めた。 「でもあの、私たち、あんまり……お金が……」 「あ? 俺を誰だと思ってやがる」 びし、と親指を立て、彼は己の顔面を指し示した。 「巨大資産家ホシナ家の御曹司、ハルオミ様だぜ」 ミソラもタケヒロも、その瞬間に、この世の『真理』と呼べるものを遂に目撃したのである――金はすべてを解決する。 こんなことを言って尚彼が魅力的に見えるのは、本物の金持ちであるからに違いない。いや、その後ろでほよよとしている相棒が中和してくれるからだろうか。……ともかく、ミソラも、タケヒロですらも、胸のときめきを感じずにはいられなかった。やはり世の中金なのだ。いや、その金で飯をおごれるだけの何かしらのカリスマを授かって、彼は生まれるべき星の元にこうして生まれ落ちたのだ。 * 「ははぁん、爺さんの誕生日パーティか」 意味深長に呟いたハルオミの目の前で、飢えた獣たちはノンストップで飯を掻き込み続けている。 バイキング形式の食堂にはそこそこの人数の職員が夕飯を取りに来ていて、子連れのレンジャーへちらちら視線を投げかけている。ミソラとタケヒロはそれに気付ける余裕もなく、給餌トレーへ顔を突っ込むリナもツーも同様だった。辛口カレーを飲むように流し込み、ホシガリスくらいに唐揚げを頬張り、あまーいリンゴをまるかじりする。どれも旨かった。大袈裟でなく『生命力』と呼べるものが復活していくのを実感する。 「ありゃ確かに金払いはいいらしいな。てめぇらの親分が七日働いて稼ぐ分の軽く五倍は貰えるんじゃねえか」 「じゃあ、その稼ぎで、このご飯代きひんと返ひまふから」 「飯のことしか考えられねえのかよ頭にパスタ詰まってんのか」 口調に似合わぬ優雅な所作で彼がブラックコーヒーを啜る。 「パーティな、あれが結構面白くてよ。毎年色んな国から芸人を集めてきて見世物をさせるんだ」 「なんだ、俺たちだけじゃねえのか」 それなら精神的なハードルも少しは下がる。安堵したようなタケヒロの横で、ミソラもほっとしてコーンスープを喉へ傾けた。 「んで、一番気に入った芸人を買うんだよな」 熱々の流体にむせかける。 「……買うんですか」 「ま、金持ちだからな」ごく自然な事象らしい。 「あの、それって」 「人身売買ってこと?」 「まあそんな言い方すんなよ、就職試験みたいなもんだ。契約金はたんまり貰えるし、住み込みだから衣食住も保証される」 「金が貰えて、しかもあの豪邸に住めるのか」 一瞬タケヒロが目を輝かせたのがミソラは嫌だった。が、「去年選ばれたぺラップ使いの男は、ペラップだけ残して逃げ出しちまったらしいがな」とハルオミが続けると、伸ばした首をすぐに引っ込めた。 「なんで逃げ出したの?」 「んーまあ、言いたかねえが、ルリコがなあ……」 言われなくても分かる気がした。 あの豪邸に雇われる。しかも住み込み。ミソラとしては全く想像もつかない未来だったが、だからといって想像のつく別の未来があるでもない。メグミを回復してこの先どうするという話は、昨日まではそれを相談できる段階にすら至っていなかったし、今日になってからはトウヤとまともに話せてもいないのだ。提示された可能性は、もしかするとトウヤにとっては、子供を厄介払いできて助かるのではなかろうか。 ミソラとしては、あの家政婦のいる豪邸で堅苦しく暮らすのなんて御免だし、トウヤという獲物を簡単に諦めてやるつもりもない。でも、彼に直々に「ここで働いてくれ」と言われたら、頷いてしまうかもしれない。この先、どこに逃げ隠れすることになったとしても、自分やタケヒロの存在が足枷になるだろうことは動かぬ事実なのだから。 でも、その選択を、『買うか買わないか』という身勝手な尺度で第三者に決められてしまうのは、 「……嫌だな……」 思わず口から漏れたのは、ほとんど吐息のような声だった。 誰にも聞こえなかったに違いない。同じタイミングで、隣でポテトフライをヨクバリスくらい頬に詰め込んでいたタケヒロが、喉を詰まらせて苦しみはじめたのだ。 空になっていたコップへサチコが水を汲んでくれる。ツーが呆れた目で主人の醜態を見上げている。ミソラは背中を叩きながら「慌てて食べすぎだよ」と笑った。死に物狂いで水を飲み、大きく息をついて、タケヒロは涙目で胸をさすった。馬鹿らしいし可哀想だが、自分の不用意な発言が掻き消されたことに、ミソラは内心で安堵する。 何気なく視線を戻し、驚く。 変わらず機嫌の悪そうな顔で、ハルオミは何故か、ミソラの方を見下ろしていた。 「……なんですか」 「いや」 おずおずと見上げるミソラの様子を見、彼は気怠げに頬杖をつく。 「記憶喪失の異国人で、謎の『守る』を使うガキっつうからよ。どんなのが来るんかと思ってたが……」 ポテトをひとつ口へ運ぶ。 「ただのガキだな」 ただのガキ。 わざわざ侮蔑するためにそんなことを言っているのではないことは、声色でなんとなく知れた。だからこそ、彼が何を言いたいのか、ミソラには最初分からなかった。 「野生のオーベムとの交戦で記憶を消された、っつう患者はうちで看たことがある」 「え」 「失われた記憶を復活させることは出来なかったがな」 だが、だんだんと知れてきた。 この人は、一研究者として、ミソラのことを測っているのだ。 「それどころか、どういう機構で脳のどの部位に干渉して記憶を改竄しているのかも謎のままだ。ポケモンの能力ってのは人智を遥かに超越してる」 忘れかけていた。食堂はレストランではなく、ポケモンセンターは宿泊施設ではない。ふと辺りを見回せば、たくさんの大人が談笑しながら食事を取っている。穏やかに見えても、この人たちも白衣を着れば、危険な薬物を注射したり、ナントカの実験だと言って無闇に苦しめたり、そういうことばかりしているのだ。 お腹を縦に切り裂いてみたり。 頭から毒の液を被せてみたり。 死ぬまで室温を下げてみたり。 そのような、自分の見えない芯を冷ややかにしていく発想が、一体どこから湧いてくるのか。 ミソラは何となく勘付いた。 ハルオミはやや前のめりになり、瞳に青い火を灯している。 「お前の記憶喪失と『守る』について、俺に調べさせてくれねえか」 それは明確に捕食者の火で、頼まれたミソラは被食者だった。 隣のタケヒロが、緊張の面持ちでこちらを見やる。ハルオミのカリスマは、生まれ持った資産力でも追随を許さぬ美貌でもあろうし、有無を言わさぬ発言力、容易に他者を威圧する我の強さにも存在した。ミソラは暫く押し黙っていた。ハルオミの美しいダークブラウンを見つめ続けた。おそらく、ミソラが少し前までのミソラだったなら、色々なことを考えて、最終的にはその眼力に屈して、頷いてしまっていただろう。 気付けば首を横に振っていた。 「……ごめんなさい」 「おい、ミソラ」 タケヒロが小声で咎めてくる。匿ってもらい、メグミの治療もしてもらい、住むところから飯の世話までしてもらっている今の身分だ。彼の要望を断ることが、自身だけでなくトウヤやタケヒロの立場まで悪くする可能性は、ミソラもちゃんと弁えていた。だが、それと天秤に掛けてもあっという間に傾くくらいの、漠然とした不安、根拠のない『嫌な予感』が、ミソラの理性を竦ませていた。 ハルオミは眉間に薄らと皺を寄せた。 「知りたくねえのか、自分のこと」 「はい……」 それでも頷いた。 そもそも、過去のことを掘り返しても碌なことにはならないと、これまでの諸々で学習しきってしまっていた。 タケヒロは目を瞠り、二者の顔色を伺うように、きょろきょろと目玉を動かしている。不味い沈黙が少し流れた。ミソラは唇を結び、じっとハルオミを見上げ続けた。疲労がそうさせるのか、満腹感がそうさせるのか、いや多分、「ただのガキ」だと言われたことがミソラの浮つきを奪ったのだ。重みを増した魂は胸の泉を静かに水底へと沈み行き、音もなく着地する。冷静だった。この人、いつも怒っているみたいだけれど、本当に怒らせるとどうなるのだろう、と、出方を窺う余裕すらあった。怒鳴りあげられて追い出されてしまうだろうか。……頑として動かぬ空色の瞳を、冷めた双眸で見下ろしながら、ハルオミはもう一服カップを啜った。 それから盛大な溜息をつき、「なんだよ嫌なのかよ! 仕方ねえな」と、派手に未練がましく肩を落とした。 怒られなかった。許された。 どころか、あからさまな彼の態度は、むしろこちらが悪者にならぬよう気遣ってくれているみたいなのだ。 「お前がそこいらのガキなら縛ってでも実験台に乗せてやるが、アズの友達っつうんだからな……強硬策は打てねえか、クソ」 唇を尖らせそっぽを向き、ぶつぶつと言っている。子供みたいだった。愛らしい人だった。ミソラは右隣を窺ってみた。鼻を膨らませてこちらを見ているタケヒロが、笑いを堪えているのがすぐに分かった。「在校中たったの二人しか友達ができなかった」と言っていたアズサがこの人を友人に選んだ意味が、今ならなんとなく理解できる。 「ハル兄ちゃんって、アズサとはどういう関係なの?」 「アズはよ」 ついと視線を上げ、目を細める。 「俺の恩人だ」 特に臆する様子もなく、ハルオミは学生時代を語った。十二でポケモンレンジャー訓練校に編入するまで、彼は自分のことを本気で優秀だと思っていた。祖父の経営する初等学校で『努力』と呼べるものを何一つとしてした試しがなく、そして誰一人にも負けることがなかった。井の中で自身の才覚を見誤り、他人と呼べる人のすべてを見下していく。自分自身に酔いしれていた。 だが、訓練校で同期となった一人の少女に、肥大しきったプライドは木っ端微塵に打ち砕かれることになる。 「知ってるだろ、あいつの才能」 己のことを誇るかのように彼が八重歯を覗かせる。おそらく『波動』のことだろう。 「あれだけずば抜けた才能がある癖に、努力も惜しまないときた。しょうもねえ連中に囲まれてふんぞり返ってた俺が敵うはずもねえ。いつか絶対見下してやるって努力するようになったけど、いつも一歩先を歩いてやがる」 しかも、と続ける。 「あいつ、俺のことも、留年してるユキのことも、しょうもねえ同期たちのことも、ちっとも見下さねえんだわ。自分の実力には自信がある癖して、自分自身にはまるで自信がない。だからいつも人と対等か、それ以下でいやがんの。トップで卒業する癖に」 眉尻を下げ、くしゃっとした懐っこい笑顔で、彼は吐き捨てた。 「そんなん腹も立つだろ?」 立ち上がる。椅子を直し、紙ナプキンでさっと机を拭いて、カップを手に彼は背を向けた。ミソラとタケヒロは唐揚げの残りを慌てて頬へしまいこみ、追って立ち上がる。 「アズに出会わなかったら、俺、今でも全人類のことを見下そうとしてたろうし、そのままくだらない大人になってただろうな」 背を向けたまま、独り言と話し声の中間くらいの音量で、彼はそんなことを言った。 カップをカウンターに下げ、食堂の奥にいる人に声を掛ける。彼らがハルオミへ笑顔を見せた。二人が習い大きな声でごちそうさまでしたと伝えるのを、見やり、さして興味もなさそうに、さっさと歩きはじめる。二人がそれに続く。親鳥に付き纏う雛のようだった。ミソラもタケヒロも、この男のことを、すっかり気に入ってしまっていた。 雛鳥の後ろから大きなタマゴ型がぽよぽよ弾んでついてくる。その後ろからリナとツー。腹一杯で満足そうだ。 「なあ、それってさ」 あとはシャワーの場所だなーと呟く従兄を遮って、タケヒロが訊ねる。 「今は見下してねえってこと?」 「ああん?」 ハルオミは億劫そうに振り向き、舌打ちして従弟を見下した。その眉間に深く刻まれた一本の縦皺。もしかしたら、アズサがよく眉間に皺を寄せていたのは、この人の癖が移ったのだろうか。 * さて、翌週に迫る誕生日パーティで芸を成功させ、多額の報酬を得るために、絶対に欠かせないものがある。 華麗な演舞。美しい歌声。人々を魅了するための技はタケヒロは既に持ち合わせており、憎き生家のジジイのために磨きをかけてやろうという気は更々ない。だが、ステージは大きな問題だ。ただの誕生日パーティではない。主役は巨大資産グループの組長だ。それも聞いた話によると、大都会ヒビの中心地に構える一流ホテルの宴会場を貸し切って行うと言うのである。そんな場所に集まると言えば、イケてるテーラードジャケットやキラキラのパーティドレス、みたいな、高価な衣装を纏った人々に違いない。 『あなた、その薄汚い身なりで?』 そう――服だ。とにかく、場所に見合った服がいる。 そのために、とにかく金がいるのである。 「――さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」 金を稼ぐために金を稼がねばならないとはこれ如何に。 手をメガホンにして、都会の喧騒へと黄色い声を響かせる。そもそも、昨日までだって、金を稼ぐことが第一目標だったのだ。生きるための金であるか服を買うための金であるか、タイムリミットがあるかないかの違いであり、やることは同じである。 人々のせわしく往来する交差点の脇の広場で、今日もタケヒロは歌い踊る。先日は途中で手を緩めたミソラの客引きも、今日は全力投球だ。「金がないから金が要る」という漠然とした状態よりは「ステージに立つ服を買うため」という具体的目標があるほうが、熱も入るというものである。ハルオミに言えば二つ返事で大金が舞い込んできそうだが、彼が良い人だからこそ甘えるわけにはいかない、というちっぽけなプライドのようなものも、子供らを一層燃え上がらせた。 「旅のサーカス一座ココウ組、名物ピエロコンビの見世物だよー!」 ミソラの呼び込みは、半年間で聞き馴染んだココウ中央通りの客引き仕込み、 「よってらっしゃいっみてらっしゃーい! あははあはは!」 隣で一生懸命声を張り上げているルリコの方は、完全にミソラの真似っこである。 「たーのしいー! 大きい声を出すのって、こんなにスカッとするものなのね!」 ルリコは手袋に包まれた両手を叩きあわせて喜んでいる。これでは働いているのか遊んでいるのか分からない。 呼び込みはともかく、タケヒロとツーのコンビは今日も絶好調だ。小さな『竜巻』に乗って地上でクルクル高速回転し、片手をビシッと掲げて決めポーズを取ってみせれば、観衆が囃して拍手喝采する。今日もそれなりの人だかりを生みつつあった。これなら稼ぎはバッチリだ。ミソラの服は借り物のレンジャースーツでもいいし、タケヒロ一人分の上下くらいなら、何日か稼ぎ続ければそれなりのものが揃えられるだろう。真っ白なシャツ、ぴかぴかの革靴、蝶ネクタイ。どこに出しても恥ずかしくないお坊ちゃまタケヒロの完成だ。……いや、まだ髪の毛がぼさぼさだな。 散髪代も勘定していたミソラの肩に、ポン、と大きな手が乗せられた。 ロングコートの下にかっちりした服を着込んだ大人の人が、迷惑そうな顔で見下ろしていた。 ミソラはそのとき分からなかったが、それは警察官だった。 「悪いけどね、ここで人混みを作ってもらったら困るんだよ」 「あ、すみません」 ココウでよく見る粗暴者や酒飲みの作業員とは違う、きちんとして優しそうな人にミソラには見えた。常識人だな、と咄嗟に判断する。無茶が通らない人ではなさそうだ、とも思った。親切心で注意してくれたのかもしれない。説明して同情を買えば、多分許してくれるだろう。 「でもあの私たち、お金が欲しいんです。人が多く集まる場所で芸をしたくて……」 浅はかだった。 帽子の陰にある男の目元はますます訝しくなるばかり。 「お金に……? 君たち、どこから来たの?」 「え、えっと」 「勝手にこういうことしちゃ駄目だよ、君の国ではそうかもしれないけどウチでは駄目なの。あらかじめ許可を取ってもらわないと」 「それってどこで取るんだ?」 背後からタケヒロの声が飛んでくる。いつの間に演技をやめていた。さっきまでニコニコとしていたお客さんたちが、一転、何やら奇妙なものでも見る目つきでタケヒロやミソラを眺めている。 「保護者の方は?」 口を噤んだ。雲行きが怪しい。 「ねえねえお巡りさん、私が誰だかお分かりになってよね?」 ルリコが己の顔を指差しながらきょとんとして首を傾げる。お巡りさんと呼ばれた彼が、今やっと彼女に気付いたように目を丸め、異国出身レンジャー訓練生風や浮浪児の小汚さと彼女の身なりを見比べて、また厄介そうな顔をした。 「まあ、そうは言ってもね……」 タケヒロはあたふたとピエロ道具をナップサックに詰め込みはじめた。向こうで植え込みの雑草を食っていたリナを呼び寄せる。 「もし何か問題があるのなら、私が直接お父様にお願いするけれど」 「うーんでも、やっぱりこういうのはちょっと」 「お巡りさん、あなたお名前は何とおっしゃるの?」 「逃げるぞ!」 タケヒロはルリコの腕をひっ掴み、猛然とその場から逃げ出した。ミソラも慌てて走る。追ってくればツーの『吹き飛ばし』が炸裂していただろうが、呆れた顔を行方に向けただけで、男は追ってこなかった。 「やばいよ!」 「知るかよ!」 怒鳴りあう。冷たい風が頬を切る。 「鬼ごっこ! 楽しい!」 頬を真っ赤にしたルリコがはしゃぐ。 ピエロ芸で稼げないなら。 「んだよ、それっぽっちかよ……」 『質屋』と書かれた看板の内。金額を提示されたタケヒロが不服そうに顔をしかめる。 金色の装飾具の類。不思議な模様の懐中時計。赤や緑色に光る宝石。タケヒロが秘密基地の奥に溜め込んでいたそれらのお宝は、ミソラも一度見せてもらったことがあった。ピエロ芸を気に入った行商に投げ銭代わりに貰ったものたちだ。ココウから持ってきたナップサックの中身は、多くはピエロ仕事のための道具だが、金目の品もありったけ運び出していた。旅荷に本やぬいぐるみを詰めたミソラと比べれば、やはり彼はちゃっかりしているし、生存能力があるとも言える。 「値に文句があるんだったらいいよ? 子供に金貸してくれるところなんて、他にないと思うけど」 小太りの店主の性悪なブニャットみたいな目が、タケヒロの小汚い服装をじろじろと舐め回す。確かに、質屋とか買取店とかを謳うお店に、二軒断られてきたところだった。 「……まあ、足しにはなるか。とりあえず金がいるんだし」 じゃあ幾ら幾らね、と言う声が実によこしまだ。子供だからと言って軽んじられていることは馬鹿でも分かるが、だからと言って他にあてにできるものもない。ブニャット顔が目の弧を深くして奥へ引っ込もうとしたところで、ミソラよりまだ背の低い少女が、ぴょこ、とショーケースの上を覗き込んだ。 「あら? これってもしかして、カロス製のアンティーク品ではないかしら?」 手袋が懐中時計を指す。 店主が明らかにギクリとした。 「きっと二百年前頃の工芸品よ。文字盤の彫刻がクラシックでとても素敵。あら、こちらの宝石は、進化石の中でも特に貴重な品ではなくて?」 長い睫毛の下から、栗色のつやつやと光る瞳が上目遣いに店主を見上げた。 「おじさま、これだけの品を出しているのに、それっぽちしか貸してくださらないの?」 「騙したのか!? 最低だなテメェ!」 マッハで打ち出されたドラメシヤの如き勢いで怒声が飛んでいく。タケヒロの堪忍袋は緒など元から無いも同然だった。背後でミソラは頭を抱えた。 「嫌だねぇ騙したなんて人聞きの悪い」 「子供だからって舐めた真似すんじゃねえクソ野郎!」 「ああ!? お前が困ってるっつうから仕方なく聞いてやってんだろ、子供と取引するの違反なんだぞ、こっちはリスク冒してやってんだ!」 店主も顔を赤らめて怒鳴った。ショーケースの上のタケヒロのお宝たちに唾が飛んだ。それを守るようにタケヒロは懐へ取り戻した。 「ふざけんな! 誰がテメェみたいなのに金なんか借りるかッ」 「ああ帰れ帰れ! いや待てよ、お前みたいな汚ねえガキがそもそもなんでそんな品持ってんだ、盗品なんじゃねえのか!?」 テメェ――! と売られた喧嘩を見事に買ったタケヒロの腕を、ミソラが掴んで引っ張った。 「邪魔すんなミソッ」「警察に突き出してやる!」「すみませんでしたーっ!」 三者三様の声が狭い店内に響いた。 怒り足りないタケヒロをミソラが渾身の力で引き摺り出す。そのまま逃げた。店主が店頭へ飛び出してくる。ギャンギャンと叫んでいる。だけど追ってこなかった、周囲の痛々しい視線が騒々しい男をその場へ釘で打ち付けた。ミソラは息を切らして走り、多少冷静を取り戻したタケヒロが何度も何度も悪態をつき、スカートを翻して追ってくるルリコはあははあははと笑っている。 「楽しい!」 「楽しかねえよ!」 ――みたいな慌ただしい日々が、いくらか続いた。 資金繰りは難航を極めた。その間、トウヤには一度も会えなかった。ハルオミに回してもらった仕事がよほど忙しいらしい。ただし生きてはいるようで、部屋にも戻ってきているようだ。 姿を見なくなって最初の朝、もぬけの殻の枕元に書き置きが残してあった。左手らしい筆跡はまあ酷いものだが、解読不能というほどでもない。ほったらかしにしていることを申し訳なく思っている旨。ちゃんと食えだとか、危ないことをするなだとか、至極つまらないこと。多少のお小遣いと、それから、赤白のモンスターボールを二つ。 貸し出されたハリとハヤテと共に、ミソラたちは毎日を奔走する。寝る前に日記を書いて机に広げておくことを勧めてきたのはハルオミだった。タケヒロは読み書きができないので、ミソラがすべて綴る。話したいことは山ほどあった。起きると手短な感想文が書き添えられているのは少し面白かった。金のことはご心配なく。ホシナの娘さんに失礼のないように。服を買うこともけっこうです。でもヒビのスタジアムは、レベル高いからやめときなさい。初戦で惨敗してせっかくのお小遣いをドブに捨ててしまったことはあえて書かなかったのに、どうしてバレているのだろう。 「いいこと考えた。二部構成にしようぜ」 無論、金策のみに励んでいては当日を迎えられない。『ピエロ』と『ポケモンレンジャー訓練生兼猛獣使い』そして数匹のポケモンで構成されるサーカス団ココウ組、実質旗揚げ公演である。二人で知恵を絞りつつ、やはり取り仕切るのは経験者だ。 「まずミソラとハリたちで、物語仕立ての芸をするんだ。笑いが取れる感じのにしときゃ、難しい技できなくったっていいしさ」 「なるほど!」 「それで場をあっためたところで、俺とツーでいつも通りに」 「あ、でも」 それでは、舞台上で、ポケモンたちと一緒とはいえ、ミソラは一人になってしまう。 「……僕にできるかな……」 できるかなじゃなくてやるんだぞ! と、タケヒロがばしんと肩を叩いた。 「稽古するんだよ稽古」 「――まあ! サーカスのお稽古なんて楽しそう!」 向こうでハヤテの背に跨って公園を散歩しているルリコが、嬉々として声を投げてくる。 ルリコは朝から昼過ぎまでの『学校』という場所での勉強を終えると、ビッパの群れを従えて毎日遊びにやってくる。資金繰りや演目の相談などをしている間はハリやハヤテが相手をしてくれるが、ココウでしていたようなごっこ遊びをたまに一緒にやってやれば、面白いほど面白がってくれた。口癖のように「楽しい」という言葉を使い、後ろをついて歩くだけでもニコニコとして全身で楽しさを表現してくる。多少感覚はズレているが、彼女はいつでも無邪気だった。 妹って可愛いもんだな、とタケヒロは照れくさそうに言う。ミソラには少し不思議な気もしていた。ホシナ家の彼女の部屋には数多の玩具があり、ビッパたちという遊び相手も連れ、一度興味本位で見に行った『学校』には同年代の子供がわんさかいる。楽しいことなどいくらでもありそうなものなのに、ルリコの様子はまるで、ココウにやってきたばかりで遊びも友達も知らなかった自分の姿を彷彿とさせるのだ。毎日タケヒロにひっついて遊んで、見るものすべてが物珍しくて。 不思議なことはまだあった。 「ねえ、ヒロ兄様も、たくさん稽古をしたから素敵な芸がお出来になるの?」 ――目を輝かせて不思議な呼び方をするルリコのその呼び方と、その名を呼ぶときの異様なまでの目の輝きようである。 「そりゃ、まあな。ルリコくらいのときからだいぶ練習したさ」 「すごいのね! 流石はヒロ兄様だわっ」 「すごくはねえよ。いや、ちょっとはすごいかな」 「ミソラさんも、猛獣使いになるまでには大変なご苦労があったのでしょう?」 ――ミソラさん。 「ん、まあ……」 この呼び方の差異について、タケヒロと話したことがある。タケヒロは「俺が慕われてるってことだろ?」と得意にするだけで取り合わなかったが。 例えば、――タケヒロが腹違いの兄なのだと、ルリコは気付いているのではないだろうか。 ミソラはその考えも日記に書いた。ただ、毎日色んなことを書きすぎているので、トウヤの短い感想文の中に、そこに対する返信はなかった。トウヤも大した問題とは捉えなかったと言うことだ。考えてみれば、気付いていたとして、特に不味いこともないかもしれない。胸のあたりがモヤリとするのは、タケヒロとルリコが兄妹みたいに仲良くしているのを見て、嫉妬や疎外感みたいなものに多少酔っているだけだろう。 『金が貰えて、しかもあの豪邸に住めるのか』 一瞬だけ華やいだあのタケヒロの表情が、何故か今になって頭をよぎる。 「……タケヒロほどじゃないよ、僕は」 深い靄の中で、見えない先端がチクリと胸を刺した。 冬の気の早い夕暮れは、人気の少ない公園に長い影を伸ばす。 向こうでワンパチとボール遊びをしている同年代の子供を見て、ルリコがあれがやりたいと言いはじめる。バウンドするたびに鈴の音が鳴るボールを特に羨ましがった。ミソラは自分の肩掛け鞄にひっついている白い鈴のことを思い出した。結び付けられるようなボールはタケヒロの小道具の中にはないので、昔リナに買ったリードを取り出して、首輪の部分だけをビッパの一匹に取り付け、鈴を結びつける。 「ビッパを投げるの?」 「投げちゃダメだよ」 ボールから音はしないが、ボールを追ってビッパが跳ね回るたび、軽やかな音が響く。ルリコは結構喜んでくれた。 「やっていいのか? あれ」 タケヒロが問う。随分前、ココウに来てからの一日目に、トウヤに貰ったものだった。ずっと鞄に括って持ち歩いていたが、特に大事にしていたわけでもない。 「別にいいけど……」 「そっか。ありがとな」 にっ、とタケヒロが笑んで見せた。タケヒロに礼を言われる筋合いなんかないと、思ったけれど黙っていた。 改めてそう訊かれると、なんだか惜しいような気もする。エイパムのロッキーが部屋に忍び込んできて、盗まれたのを必死に追いかけて取り返したのだ。タケヒロと仲良くなったのも、あの出来事がきっかけだったし、思えばトウヤに貰ったものとしては、一番最初のものだと言える。 でも、一度あげたものを、今更返してと言うのもな。ミソラの手元にはリードの持ち手だけが残ってしまった。ハシリイで、道行くマリルたちがどうしても羨ましくて、貰ったお小遣いで買った青いリード。鈴もリードも、思い出の品かもしれないが、生きるには必要のないものでもある。懐かしいのか、近寄ってきたリナがふんふんと匂いを嗅いでいる。 「ああ、こんなところにいらっしゃった」 ミソラの哀愁を破るように、背後から聞き覚えのある声がした。 ビッパの咥えてきたボールを受け取ろうとしていたルリコが、振り向く。 「カヨ……」 てんてんてん、と転がったボールの影に、長い影が被さった。 藍色のロングワンピース。銀色の髪の品が良いのは見せかけだけで、その中身がとんだ悪人であることを、ミソラはもう知っている。ホシナ家の老齢の家政婦――カヨの、皺だらけの顔、街路樹の斜めの影の中に、あの蛇の目が光っていた。 低く獰猛な唸り声が急に空気を震わせた。ハヤテだった。牙と敵意を剥き出しにし、両脚はがしりと地を捉え、今にも飛びかからんとしている。ハリが静かな動きで制して、ミソラへと視線を送った。ミソラは慌ててボールを取り出し、借り物の猛獣を吸い込んだ。 「カヨ。今日もお稽古をお休みすると、先生に伝えてちょうだい」 一連の出来事などまるで気にも留めない様子で、ルリコが訴えかける。 「お稽古よりお友達と遊んでいる方が楽しいんだもの」 「わがままをおっしゃらないの。お嬢様には、ホシナ家の跡取りとして立派になっていただかなくてはいけないんですから」 「それは」 手袋の手を揉み合わせ、ルリコは眉を下げる。 「ハル兄様がなるのでしょう?」 カヨは一度、背後で黙っているミソラとタケヒロへ、鬱陶しげに視線を向けた。 それから、すっと腰を落とし、ルリコへ視線を合わせた。行き場なく組み合っていた小さな両手を、比較して大きな、冬の枯れ木のような手が包み込む。 「カヨはね。お嬢様を、どこに出しても恥ずかしくない跡継ぎとして教育するように、仰せつかっているのですよ。旦那様からね」 綺麗に磨き込まれた宝石みたいなルリコの目が、しばらく、つやつやと夕陽の色を弾いた。 「……お父様に?」 「お、おい……ルリコ嫌がってんじゃねえか」 隣で絞り出すような声が言ったので、ミソラは慌てて袖を掴んだ。タケヒロはそれを払い除けた。驚いて窺ったタケヒロの横顔は、緊張に引き攣りきってはいたが、豪邸で最初にやりあったときの絶望的な表情は無く、立ち向かわんという意思に半分くらいは満ちていた。 ミソラにはすぐに知れた。 多少の勇気を振り絞れるくらい、もう妹のことが可愛いのだ。タケヒロは。 だが、カヨが何か言うより先だった。ぱっ、とルリコが振り向く。笑っていた。それから、顔の横に小さく挙げた手を、二度三度優雅に振って見せ、「また明日遊びましょうね」と言った。スカートの裾を摘み、片膝を折って一礼した。流れるような所作だった。 行きましょう、とカヨへ微笑んで、連れ立って背を向け、その場を離れていく。 自分の足の間を無理に潜り抜け、ぺちぺちと忙しない足音を立ててビッパたちが主人を追いかけていくのを、二人は黙って見送った。りんりんというミソラの鈴の音や、茶色の毛に埋もれた鮮やかな青の首輪の色は、すぐに遠のいて分からなくなった。 ……タケヒロがどう思うのかは知れない。ただ、ミソラには、こちらを振り向いてからのルリコのすべては、まったく別人のように見えていた。自分たちの背を追いかけてにぱにぱと笑う無垢な妹はいなかった。笑顔は、確かにルリコの笑顔だったが、あの家で見た格式張った調度品のようにそれは美しく隙が無く、年下の放った気品と色香に、ミソラは暫し呆然とした。 またね、と言うのも忘れていた。 すっかり姿が見えなくなってから、ふと思い出したような薄い声音で、「……あれじゃあ……」と隣が呟いた。 「籠の中の鳥だよな。俺は野鳥だからさ……なんつうか……金持ちも楽じゃないっつうか」 でも、と続けつつ、頭を掻く。なんだか迷うような口ぶりだった。言いながら自分の言葉に戸惑うような、彼にしては珍しい、自信の欠片も見当たらないニュアンスで。 「……俺が大人しくヒビに来てりゃ、ルリコ、あんな目に遭わなかったのかもな」 タケヒロはなかなかこちらを見ない。 彼が、同情しているのか、羨んでいるのか、ミソラにはまだ判別がつかない。 |