意識を失ってしまえれば、どれほどよかっただろう。
『――平気?』
 何も受け入れたくなかった。目を開けたくなかった。
 が、その声が執拗に呼びかけてくるから、無意識のうちに開いてしまった。
『――ねえ、平気?』
 耳元でごうごうと風が呻る。眼下には剥き出しの地面と枯草の色が上から下へ、延々と味気なく流れていく。目が乾いてしょぼしょぼする。瞼を下ろそうとしても、聞こえている声は頭の中に無理やり食い込んでくるようで、それを許してくれない。ぬらついた液体の底を漂っているような遠巻きで曖昧な感覚を受けて、ミソラはぼんやりと考えた。声、だろうか。かわいらしい女の子のような響きなのは分かるけれど、「音」ではないような。モモと話をするときみたいなテレパシーなのかもしれない。似た声をどこかで聞いたことがある気もしたけれど、思い出すのも億劫で、とにかく相手の気遣わしさが鬱陶しい。
 放っておいてほしい。耳を塞ぎたい。だけど、耳を塞ぐために手を持ち上げるだけの力も、もう出したくない。
 さっきまで体のありとあらゆる場所で暴れまわっていた力は、いっぺんにどこかへ抜けてしまった。スピードスターで撃たれたときに、体に穴でも開いただろうか。それとも『ダブルアタック』で殴られたせい、だろうか。意識はまるで手の届かない遠くの方へ浮かんでいて、先までの自分に起きたことまで全部他人事に感じられるのは、腹の中が壊れているから、息が苦しいから、なのだろうか。……違うのではないか。
 離したくて、手を離した。だから目を開けたくないと思ったのだ。
『――平気? いたい? ねえ、ねえ……』
 焦り呼びかけてくる声に、ミソラは返事をしなかった。
 無気力とは裏腹に、体はメグミに勝手に抱かれて、空を北方へ進み続ける。頬を弄る風はミソラのことを嫌っているみたいに冷たい。忍び寄ってきた夕闇は景色をのっぺりと塗り変えたが、その中に一点、やけにはっきりとした色が染みついている。濃い紫色。他の色は無抵抗に流れていくのに、その異物だけ、まるで目の表面にひっついているみたいに、視界の真ん中に居座り続けている。月を思った。逃げても逃げても追ってくる、夜空の月のしつこさだ。この執念は少し似ている。
 紫色は獣の形をしていた。
 殊勝なことだな、と、やはりまるで他人事に思う。殊勝、なんて難しい言葉、僕はどこで覚えたんだろう。あの子はリューエルのポケモンだから、リューエルの怖い人たちに命令されているから、空を飛んでいる僕を一生懸命追いかけてくるんだ。どうせ追いつけっこないのに。きっと命令に背いたら痛い目にあわされるに違いない。ココウにいた頃、お金にならないものを盗んできてあの捨て子たちに殴られていたみたいに、今も殴られているに違いないんだ。なんて可哀想なポケモンだろう。
 だが、いくら口先を冷たくして、俯瞰しようとしてみたって、逃避したい現実は、紫色を吸い込むごと、ミソラの胸中に実体を得て、存在感を増していく。
 それはごつごつとした岩みたいな形をしていて、心のど真ん中を陣取っている。堅くて、重くて、動かしようがない。
 ロッキーは――ロッキーは、本当に、僕のことを殺そうとしたのだ。
(モモちゃん)
 朦朧としながら、ミソラは自分の中にいる気配を探した。
(モモちゃん、ねえ、聞いてる?)
 ロッキーはこちらを追ってはいるが、見上げてはいない。メグミの透過能力下にいるミソラの姿は見えていないようだった。最初はぼやけた染みだったロッキーの姿は、意識すればするほどに、どんどん大きくなっていった。そこだけ虫眼鏡越しに拡大されているみたいで、すごく遠いのに、ジャンプして宙返りをする時の光る尻尾のしなりまで、やたらとくっきり捉えられた。放たれた『スピードスター』は、けれどすぐに消えた。後ろから矢のように伸びてきた青い光がそれをまとめて粉砕した。他の諸々の背を蹴り頭を蹴り、物凄い勢いで小さなものが走ってくる。小さくて、水色で、片耳のないものが、ロッキーに飛び掛かって、もつれあっている。
 二つの色彩は、さまざまに混じりあって網膜に突き刺さって、それは硝子片みたいに尖っている。見ていると、引っかかれるように胸が痛む。
 見たくない。目を閉じたい。
 そう念じていると、画用紙に描かれた水彩画が水に浸されて溶けるように、徐々に視界がふやけはじめた。
 瞼を下ろすことはできなかった。でも見えなければ構わない。蒼穹と、世界との間にある膜は、見たくないと願うほど、ゆっくりと厚くなっていく。見えなくなると、ほっとする。けれど安心感に相対して、腹の中で千切れかけている心は、ずしんと重みを増したように思う。
 心が重たい。体中が重たいよ。もう二度と、立ち上がることができないくらいに。空を飛べているのが不思議なくらいに。なんだか、全部が億劫になってきた。
(モモちゃん)
 何度、名前を呼んだところで、モモは相変わらず返事をしちゃくれなかった。
 心の中の自分の声は、うんと、子供みたいだった。
(どうして、何もかも、うまくいかないんだろう)
 そう話しかけてみた途端、ぶわっと、顔が熱くなって、涙の膜が一層膨れて、目の前は何も分からなくなった。
(ねえ、どうして……)
 ミソラは――その頃はまだ、ミソラではない何かでしかなかったが、ただ単に、ミヅキを笑顔にしたかっただけだ。ミヅキの笑顔を見たいという願いを叶えたかっただけなのだ。それは大それた願いだったのだろうか。そのために張り切って旅に出て、一番拾われちゃいけない人に、ミソラは拾われてしまった。その人を殺さなきゃいけないことを忘れて、その人とずっと一緒に暮らしていたいと、今度はそう願ってしまった。だったら忘れていればいいのに、せっかく忘れていられたことを、思い出してしまった。思い出したなら、最初の願いを果たせばよかったのに、それもできなくなってしまった。
 せっかく友達になってくれたタケヒロと、うまく友達でいられなかったこと。
 せっかくパートナーになったリナと、うまく心を通わせられないこと。
 殺さなきゃいけなかったトウヤのことを、好きになってしまったこと。なんとか役に立ちたくて頑張って、結局迷惑ばかりかけて、なんの役にも立てないこと。
 ミソラのやることなすことは、すべてが裏目に出ていた気がする。大好きな人に笑っていてほしいだなんて、ほんのちっぽけな願いから発したたくさんのことは、尽くだめになって、いろんな人を不幸にした。ねえ、なんで、誰かに糸を引かれたみたいに、みんな悪いほうにいっちゃうんだろう。なんでだめになってしまうんだろう。なんで物事は、何もかも、僕がそうであってほしくなかった方向へ、動いていってしまうだろう。
 ロッキーでさえ、こうやって、僕を傷つけようとする。僕を殺そうとする。
 なんでだろう。モモちゃん。ねえ、なんで?
 瞬きをすると、溜まった涙が押し出されて零れて、また視界がクリアになる。ロッキーと並走しながら身体を張って『スピードスター』を砕いていくリナが、ボロボロになっていく。撃ち漏らした一塊がうなるように回転しながらこちらへ向かってくる。星の示す方向へ速度を上げるロッキーに、手負いのリナは、しがみつくような『十万ボルト』を振り絞る。稲光がジグザグ伸びて世界をぐちゃぐちゃに切り刻んで、その隙間を縫うようにして、いっとう強烈な黄色い光が躍り出る。ミソラを殺すためのスピードスターが、まっすぐにこちらへ飛んでくる。目が眩むような鮮烈な光。
 その光の中に、ある光景が見えた。

 両脇にそびえる背の高い草原。
 斜めに荒ぶ灰色の雪。
 鳴きながら追いかけてきたリナ。

 ――目前に迫った映像が、一挙に砕ける。
 はっとして、今度は自ら、ミソラは目を開いた。
 リナはもうロッキーを防ぎ切れなくなりつつある。次々と光が生まれ、輝きながら、こちらへ突っ込んでくる。そのひとつひとつの星の中に、いくつもの顔が映り込んでいる。
 酒場で泣きながら笑ったアズサ。
 ソーダ水を手に入れて得意げに笑んでみせたタケヒロ。
 グレンのどことなく寂しげな微笑み。
 見えるはずのないもの。穏やかな日常の中にあったもの。問いかけるように現れる。呆然と、吸い込まれるような心地で、過去に失った数々の表情に、ミソラは一瞬ずつだけ魅入っていることができた。だが大事な思い出たちは、ミソラの元まで到達する前に、どれもこれも砕けてしまった。見えない何かが打ち砕いて、細かい星屑になって、消えていってしまうのだ。
 奇妙な焦燥感が、じわじわと心を奪いはじめていた。自分が見ているものはただの幻想に違いなかった。だがそうやって記憶の鱗片が蘇っては目の前で砂に還るのを見ているうちに、微睡から引き摺り下ろされるようにして、ミソラは覚醒していった。後ろから抱きしめてくれたおばさん。ロッキーに水鉄砲を吐いたヴェル。カナミとハヅキとエトの顔、スタジアムで出会った人々。薄らいだ蒼穹が、愕然と、見開いていく。濁った青に次々と波紋が投げ込まれる。怒られてしょげていたハヤテ、ぷいと顔を背けるメグミ、一番はじめにミソラを覗きこんだハリ……
 その向こうで、腕に包帯を巻いていたトウヤ。
 力が入らないと思っていた手が無意識に伸びていた。掴もうとした光景は、やはり指先が届く前に、叩き壊されて消えてしまった。
 粉塵と化したその星は、ミソラの指の間を、きらきらと光りながら掠め通っていく。
 時間を巻き戻し、あるいは早送りするようにして、たくさんの思い出が目の前に現れる。スタジアムの真ん中でミソラの肩を掴んで、怒鳴り声をあげたトウヤ。ハシリイの屋台街で出会った外人からミソラを庇った時の横顔。ヒガメの旅館で、ご飯を食べて、そのあと一緒に風呂に入って、並んで空を見上げた時の、月明かりに濡れた顔。あのとき見上げていた満月の色。見れば見るほどに、手放したかったはずの意識がどんどんはっきりしていって、ミソラを突き動かしていた。壊しちゃだめだ。壊しちゃだめだ。どれかたったひとつでもいい。この手に掴みたい。取り戻したい。必死にもがく手の外で、やはり星の中にある記憶は、星と一緒に砕け散っていった。欠片さえ触れることはできなかった。
 悔しくて、悲しくって、また視界が歪んでいった。
 やめてよ。壊さないでよ。その記憶は、僕のものだ。楽しかったことばかりじゃない。苦しかったことも。悲しかったことも。辛かったことも。それも全部、かけがえのない、僕の記憶だ。僕が生きて、何も知らずに、あるいは知ってしまってから、この手で触れてきた、本当のことだ。なのに、誰が壊しているのだろう。これまでの日々を、『ミソラ』を形作るたくさんの思い出を、こうやって簡単に砕いて、風に消し飛ばそうとしているのは、一体誰なのだろう。――ううん、知ってる、僕だ。あの日、忘れてしまえばいいと、確かに僕は言った。忘れたら楽になれると思った。でも忘れることなんてできなかったし、楽になんてならないし、なかったことになんてなるはずがない。分かっていたよ。忘れてしまいたいだなんて、心の底から思っていた訳じゃなかった。あれは、本当は、嘘だったんだ。
 モモちゃん。もう言わないよ。忘れればいいなんて言わないよ。だから。
 果物ナイフの刃先が、砕けた。苦くて温かい血の色が砕けた。
 ぼろぼろのコートを肩に掛けてくれたトウヤが砕けた。
 皆で写真を撮った時のこそばゆいような温かさが、木端微塵に砕け散った。
「守ってよ」
 階段を転がり落ちていくアチャモ。
 手を伸ばす。砕ける。掴み損ねる。
「守ってよ……!」
 顔を掻き毟るようにして泣いていたミヅキ。
 二度と届かない空の彼方へ消えていく。
 なにもかもすべてが奪い尽くされ、失われていく。自分を締め付けるものが段々大きくなっている感覚にミソラは囚われていた。様子のおかしいミソラのことをメグミは更に強く抱きしめていたが、その時ミソラが感じていたのはメグミの腕による圧迫ではなく、もっと大きくて圧倒的で、ミソラに悪意のある『何か』だった。締め付けられるごとに居場所が狭まり、自分の存在が全否定され、ここにいることができなくなる。このまま黙って耐えていれば、ミソラはどこかへ追い出されてしまう。
 子供が抱えるには到底大きすぎるものに、溺れていた。限界だった。
 この焦燥感に対抗するための言葉を、無意識に絞り出していた。
「……守れないなら……もう、いっそ……!」
 



 ――天の一点に、膨大なエネルギーが収束した。
 制服の内から素早く取り出したものをアズサは親指で弾いた。小指の先ほどの白い錠剤が一瞬だけ宙を舞い、大きく口を開けたチリーンが嬉々としてそこに飛び込んだ。
 相互不可侵の不文律があるリューエルとポケモンレンジャー、ミッションの衝突による間接的な妨害はともかく、所有ポケモンの技による直接攻撃は暗に禁じられている。これからすることは間違いなく始末書沙汰になるだろうが、これは攻撃ではなく、相手のポケモンを保護する為の防衛措置だ。何とでも言い訳は出来る。
「『サイコウェーブ』」
 肩に留まるチリーンを中心にして全方位に放たれた念力の波が、北方へ向かおうとしていたほぼすべてのポケモンの動きを、一挙に封じ込めた。
 突如として動かぬ像と化した仲間たちの間で、悪タイプを持つ数匹のポケモンが動揺を見せる。特殊なドーピング剤で覚醒させたスズの念力と言え、それほど長時間は拘束を維持できない。だがあの即死級の攻撃に自ら飛び込んでいかないだけの猶予は作れる。空に収斂したエネルギーの塊が渦をなして向かう先、その射程範囲まで、アズサには完璧に『予見できている』。ポケモン達がこのまま北方へ向かっていたら巻き込まれた可能性は高いが、この位置に留めておけば安全だ。スタイラーを構えながら顔を向けたアズサは、次に、我が目を疑った。
 射程内に、エテボースがいる。逃げる気配がない。空を見上げている。――その首筋に食いかかるような格好で、片耳のニドリーナの姿がある。
 それだけではない。サイコウェーブを潜り抜けた悪タイプのポケモンが一体、今にもエネルギーを放出せんとする天の真下へ、自ら走り込んでいくではないか。
 ひっきりなしに湧いてくる涙の向こうに、いつもとは全く違う世界を――『波動』によって構成されるもう一つの世界を見ていたから、最後の悪タイプのポケモンの正体が何なのか、気付くのが若干遅れた。到底止めることはできなかった。






「――――『破壊光線』ッ!」


 



 ――藍に沈み始めた天から地上に光の柱が突き刺さるのを、トウヤは北西の空に見た。
 上擦りきった心の核を貫くような輝きだった。メグミがやったのだとすぐに理解した。メグミがそれをしなければならない彼らの窮地にぞっとした。そして分かった途端、ほんの一瞬、凍り付いて機能停止した思考回路が、外から狂ったように注ぎ込まれる感情で、逆回転しはじめた。
 『破壊光線』の光から、遅れて響いてくる轟音から、深く、引き裂かれるような悲しみが、牙を剥いて襲来する。
 誰かの感情を引き受けた、メグミの耐え難い嘆きの声。正体の無い慟哭の中をトウヤは走り続けた。光線はすぐに収束し、扉が閉まっていくように狭まっていって、やがて消え失せた。出口が奪われたかのように錯覚したが、違う。奪われたのは、入口だ。ハギ家という、ココウという、帰るべき場所への、入口。
 奪われたと言うのも、違う。――守れなかった。決して取り零したのではない。あの光線がそうであるように、この手が、それを破壊した。
 すぐそばで鈍い音がした。軽快に飛び続けていたピジョンが、前方へどしゃりと落下した。打ち所が悪かったか、身を捩ってもがいている。抱き上げようと、名を呼びながら伸ばした手が、届くか、届かないかというタイミングだった。
 土汚れた翼の下で、影が蠢いた。
 『影』が、ぎらと目を合わせた。
「……っ!」
 『黒い眼差し』。技名を思い起こした瞬間にはもう遅かった。一瞬前まで見えていたココウ北方の閑散地帯が、消えた。足元がない。空もない。闇に落とされたというよりはどこかへ閉じ込められたかのように動けなくなる。一面の漆黒に、何かが、ぽつりぽつりと浮かび上がる。赤いもの。丸いもの。目玉だった。真っ黒な瞳孔がこちらを見ていた。突然の大雨が地面に染みを刻むように、瞬く間に、無数の目玉に四方八方が埋め尽くされる。前後左右を奪われた。だが冷静までは奪われなかった。ただの幻覚だ。打開策はある。
 闇に半身を突っ込んで見えるツーの体へと、トウヤは再び左手を伸ばした。
 だが、その手も届かなかった。
 右腕を掴まれる。猛烈な力に引き戻される。バランスを崩した。視界の真ん中で、ツーの全身が闇に溶けた。トウヤは反射的に首を捻り、そして息を呑んだ。『掴まれている』訳ではなかった。肩から伸びている右腕は、肘より手前で消えていた。暗闇と殆んど同じ色をした顎の中に、呑み込まれていた。
 闇に浮かびあがる、クチートの顔が、愛らしく笑った。
 本体の倍ほどもあろうかという大顎が、右腕を食ったまま振り上げられる。成す術もなく宙を舞った。
 天地の定まらない闇の中では、受け身すら取りようもない。次の瞬間には、右腕を食われたまま、どこだか分からない場所へ、トウヤは叩きつけられていた。



 ――ハヤテが叩きつけられた。
 同時に凄惨な鳴き声が聞こえた。思わず身を竦める。絶対に逃げてはいけないのに、耳を覆いたくなってしまった。
 頭の真上にあるトタン屋根が震え、ばらばらと破片が降り注いでくる。ハヤテの潰れたような声は立て続けに聞こえていた。でも、そうだ、逃げている訳にはいかない。失神したイズを秘密基地の奥へと寝かせると、恐怖心を押し殺し、タケヒロは這って入口へ戻った。
 仕切り布を捲って覗いた先で、ハヤテは仰向けに倒れていた。バクフーンの剛腕は片方でそれを抑え込み、ハヤテの朱色の腹のあたりへ、もう片方を振り下ろしていた。米袋を落とすような重い音を立てる拳で、何度も、何度も、ハヤテを殴りつけていた。殴られるたびに、ハヤテの手足や太い尾が、びくん、びくんと揺れ動いた。勝敗は明らかだった。『逆鱗』は軽々といなされた。素人のタケヒロの目にも分かるくらい、まったく、通用しなかったのだ。
 タケヒロはこのココウの裏路地に十三年間生きてきた。捨て子の身と言え、これまで幸運だったように思う。はっきりと殺されるかもしれないと感じるのは、これがまだ二度目だ。一度目は、捨て子グループの『兄ちゃん』たちに殴られ続けた時だった。裏切り者、裏切り者と罵られながら、グループの皆に囲まれて、数時間殴り続けられた。鼻から、口から血があふれて、よく目が見えなくなって立ち上がることもできなくなって、それが永遠に思えるほど続いて本当に殺されると恐怖して、あの時は、そう――トウヤが、トウヤとグレンがやってきて、タケヒロを助けてくれたのだ。
 今、目の前で、タケヒロを助けるために、トウヤのポケモンが痛めつけられている。
 震え続ける奥歯を食い縛った。獣は容赦がない。もう反抗することもないハヤテを、ほとんど表情のない顔で、執拗に殴り続けている。このままでは殺されてしまう。飛び出していったら自分も殺されるかもしれない。だがここで奮い立たなければ、このままずっと皆に後れを取り、足手まとい扱いされ続けるだろう。そんなのは、ごめんだ。俺は足手まといじゃない。
 地面を蹴り、タケヒロは秘密基地を飛び出した。
「や、めろっ……!」
 けれど、あのときのトウヤやグレンになど、自分はなれるはずもなかった。
「発信機は、ここだ!」
 胸元にひっついたままの機械を引っ剥がして、バクフーンへ投げつけた。強張った腕の放つ発信機は思うような軌道は描かず、戦況など変えようもない軽くて無力な音を立てて、ハヤテの鼻先に転がった。
 バクフーンが動きを止めた。
 ゆっくりと、恐怖をなりすつけるような、スローモーションの動きで、タケヒロへと振り向いた。
 血潮の色そのままの灼眼が、少年の強張った顔を投影する。その時タケヒロは自分の愚かな行動を後悔した。目が合う、ただそれだけのことで、もう身動ぎすらできなかった。冗談で言い続けていた『化け物』というトウヤへの仇名が、比較にならないほど、それを的確に表現していた。
「……あ……」
 赤は子供の顔を映しながら、気絶したハヤテを解放する。山がひとつ動くようにのそりと立ち上がる。一歩、一歩、勿体ぶるでも威圧するでもなく、ただ無表情に、化け物は近づいてくる。逃げ出したくなった。だがそれすらできなかった。振り絞ったはずの勇気は見るも無残に萎んでいった。半端に開いた喉の奥から、意味もない音が途切れ途切れに、情けなく漏れ出るだけだった。
 その時、怒号が、二者の間を突き破った。
 バクフーンは立ち止まり、今度は素早く振り向いた。――が、その身体のかなり横を、青い体は駆け抜けていった。バクフーンに釘付けられて視界から外れていたハヤテが叫び声をあげ、走り寄ってくる。それを見て、タケヒロは安堵はしなかった。むしろ俄然に恐怖を覚えた。なぜなら、いつも黄色いハヤテの目が、バクフーンと同じように真っ赤に――実際は黄色いままなのだが、血走って猛った真っ赤の色に、豹変して見えたからだ。ハヤテが使用した『逆鱗』に混乱のリスクがあることなど、タケヒロは全く知る由もなかった。
 狂ったように吼えるハヤテが、『ドラゴンクロー』を振り上げ、タケヒロに向かって斬りかかった。
 技は届かなかった。背後から竜の腕を黄色い腕が掴み取った。バクフーンが、抑揚のない表情のまま、ハヤテを力任せに引き倒した。
 獰猛な声を吐き散らすハヤテの体躯が、タケヒロの秘密基地の上へもんどりうちながら倒れ込んだ。ばりばりと音を立てて基地の屋根が落ちる。砂埃をあげ崩壊した秘密基地へ暴れる竜を押さえ付け、バクフーンが馬乗りになる。その黒く野太い首筋から、轟と炎が噴き上がった。もがくハヤテ、その身体の下のタケヒロの秘密基地へ向けて、一瞬輝いたバクフーンの口から、滝のような『火炎放射』が吹きつけられた。
 秘密基地が瞬く間に火の海に呑まれていく様を、立ち尽くして、タケヒロは眺めているしかなかった。
 口内から噴射される炎がハヤテの顔面に直撃し、顔の両側へ流れ落ち、勢いのまま四方へ裾野を広げ、燃える物を舐めつくしていく。赤と黄色の織り交じる光はタケヒロの背丈ほどもあがり、次いで真っ黒な煙が、物凄い勢いで立ちのぼりはじめた。意思を持つ生き物のような不気味な煙の塊は、むくむくと膨れ上がりながら空へと首を伸ばしていった。北風に煽られ笑っているかの如く躍り狂う炎と、拒絶するような熱気に圧倒され、タケヒロは何歩も後ずさった。燦然とした輝きの中で、中央にあるバクフーンのシルエットは俯いたまま微動だにせず、その下に敷かれているもう一つの真っ黒なシルエットは、何か別の形に見えるほど激しく、激しく、両手と両足と首と尾をばらばらに振り回し続けている。
 叫び声に掻き消され、他の音はよく聞こえなかった。その叫び声の渦の中でどのくらい放心していたのだろう、随分長いこと、タケヒロはその景色に取りつかれていた。
 だが、ふと。
 ソーダ水の氷が、溶けて、かろんと音を立てるように。さりげなく、しかし確かに、ひとつの思いが、喉元に浮かびあがってきた。
 『何かを置いてきた』。
 両手を見る。土に汚れた両手はぽっかりと開いていて、何も握っていない。何も持っていない。自分が何を思い出したのか、自分が何を置いてきたのか、タケヒロはすぐに理解した。その気付きは心を手放しかけていたタケヒロに、それこそ炎が回るように、苛烈な勢いで、実体を伴って、残酷に襲い掛かってきた。
 汗ばんだ顔を跳ねあげる。
 崩れ落ちたタケヒロの第二秘密基地は、ハヤテの背の下、燃えさかる炎の中にある。


 イズがいない。





 人を殺すのって、お前が思ってるより、ずっと大きい事なんだぞ。お前が、誰かを殺した、ってだけで、俺、今まで通りにはできないよ。あいつも、おばちゃんも、多分そうだろ。


 不思議と、いつかタケヒロに言われた声が、耳の中を通り抜けた。
 メグミが吐き出した光線がロッキーの影を掻き消した時、自分が命じたことがどういう意味を持っていたのか、その結果としてロッキーが――それと戦っていたリナが、どうなってしまうのか、どうなってしまったのか、ミソラはやっと気が付いた。砂漠で目を覚ました日に見た真っ黒な炭の塊を思い出した。あの焦げ臭い匂いを思い出した。それが現実に鼻を掠める前に、真っ白な光に呑みこまれていくように、ミソラの意識は薄らいでいった。
 ああ、もう、いいよ。
 だって、今まで通りにはできないんでしょう。後戻りもできないんでしょう。その最後の一押しも、僕が、言ってしまったんだから。
 視界を焼き尽くし、やがて収束していった光線の先を、ミソラが見ることはなかった。波打つ青空の色は金色の睫毛の間に閉ざされて消えた。沈んだ場所は、寒くなかった。ぬるくて、なんにもない場所だった。ようやく浸ることのできた夜闇の中は、居心地がいいようでもあるけれど、少し、寂しすぎるような気もした。だからミソラは少しだけ、空に月を探した。けれど見つからなかった。雲の向こうにあるのだろうか。それとももう二度と、傍にいてくれないのだろうか。


 遠くで、モモの声が聞こえた。





 
 
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