大きく口を開け放った町工場に突入した。様々に稼働する機械の間を脇目も振らず疾走する男を、工員たちが不思議そうな目で追いかける。スタジアムでの知り合いが「おお、どうした」と顔をあげ、その顔がサッと恐怖に塗り替えられ、ギャアと悲鳴をあげる横を、トウヤは返事もしないで駆け抜けた。――その背中へ巨大な顎が、高笑いする闇の塊が、殺気を放って襲い掛かっていく。
 物陰へと作業台の下に滑り込む、真上から『アイアンヘッド』が振り下ろされる。愛らしい見た目とは裏腹の品性を欠いた破壊力を前に、真っ二つになる鉄板はまるで薄氷の如しである。辛うじて脱出したトウヤの手元に、二尺ほどの鋼管が転がり落ちてくる。右手に掴む。握り締めた。
 立ち上がりざま真横に一閃。クチートは仰け反りながら跳び避ける。勢いのまま振りかぶり、ずるりと這い出たゲンガーめがけ、袈裟懸けに斬り掛かる。空間を割いた鋼管が、影へ引っ込む耳先を掠め、そのまま床を強打する。ギンと固い音が響き終わるが早いか、再度牙を剥こうとクチートが迫る。
 電気がショートするような爆音が、突如工場に炸裂した。
 けたたましい閃光。大量の火花。機転を利かせた工員が起動した溶接機の輝きだった。網膜を焼かれたクチートが顔を覆ってよろめいた隙、トウヤは進入方向反対側の扉へ、全速力で肩をぶつけた。
 飛び出した路地は無人。悪寒を避けるように右手へダイブする。今しがた抜けた扉を『シャドーボール』が外周ごと粉砕し、次いで現れたゲンガーの追撃を、ハリの『不意打ち』が先手で押し切る。二者の脇を抜けたクチートが立ち上がりかけたトウヤへと跳び、跳びざまに身を翻した。狂気が涎を撒き散らす背部。熟れすぎて裂けた果実のようだ。上半身くらいなら一呑みにしそうな大顎が、びしり生え揃った牙を見せびらかしながら、躍るような動きで食いかかる――鋼管を身体の前に、トウヤは縦に構えた。
 ガキンと、硬質で甲高い音を立て、管が顎につっかえた。
 その鋼が一瞬にして『く』の字に圧し曲げられた。
 手を引かなければ噛み千切られていたろうし、蹴り飛ばさなければ既に殺されていたかもしれない。見た目に反して軽い『あざむきポケモン』が一蹴で宙に舞い、ツーが渾身の『体当たり』で突き離す。ハリがトウヤを引き起こし、敵手に背を向け走り始めた。
 破壊された扉のあった場所から工員らが顔を出し、「大丈夫か」と叫ぶ。悪いと謝る余裕もなく、そのうち弁償を、とも言いたかったが、呼吸が苦しくて言えなかった。トウヤは彼らに、苦し紛れの笑みだけ向けた。
 ――笑った。
 ――今、僕は、笑ったな。
 あの場を離れてから、どのくらい走り続けたろうか。肺も喉も心臓もそろそろ破れてしまいそうだ。だが撒ける算段が浮かばない。これまでの放浪旅のうち、追われて逃げ切った経験は両手で数え尽くせないが、それも結局はポケモンの力なのだと思い知る。ハヤテもいない、メグミもいない状況だ。体力は断然向こうに分がある。
 捨て置いた鋼管を圧し折られたときの衝撃が、まだ両手に残っている。遠いな、と思った。その痺れつく感覚も、荒れ果てた息の苦しさも、増えていく生傷の疼きも、戦意と悪意を持っている者に追われ続ける恐怖さえも。どこか、遠い。音も、衝撃も、外界から受け取る事象はすべて、分厚い水の壁を通して伝わってきているかのようだ。なのに、切り返す己が肉体の挙動はイメージするより圧倒的に早く、思考を介す前に勝手に手足が動いている。本能のままに戦っている野生ポケモン達の感覚は、おそらく常にこうなのだろう。
 恐怖よりも、怒りよりも、体を支配する感覚がある。
 『興奮』だ。
 視界の前を埋め尽くしているのは、得も言われぬ高揚感だった。
 錆びたトタンや腐ったベニヤが至る所に転がっている。その無残を無感動に踏み割りつつトウヤはひたすらに逃走を続ける。前髪が額に貼りついている。襟足から汗が滑り落ちていく。熱くて仕方ない。だがそれは、吹きつける北風の中を両手を開いて駆け抜けたくなるような、心地のよい熱さだった。追い詰められるほど、肉体が悲鳴をあげるほど、窮地を切り抜ける爽快感、もっと言えば陶酔に似た感覚が迸り、更に神経を鋭敏にする。昼間、酒場で第一部隊の二人組と対面していた時のことを、走りながら思い出していた。あのとき狂っているのはどちらなのだろうと考えた。毎日毎日姉さんに焦がれ続けた以前の自分と、その執着がぱったりと消え失せた今の自分と、どちらが狂っているのだろうと。今なら断言できる。後者だ。今、僕は完全に狂っている。思考が現実から逸脱している。心地いい? 爽快だ? 頭の螺子は一体どこに落としてきたんだ。この期に及んで、いい加減、現実を見てくれと自分に言いたい。さっき、何が起こったのか、何をしでかしたのか、僕はちゃんと分かっているのか。
 ――ヴェルが、
 ――ヴェルが、  だ。
 ――ヴェルが  だというのに。
 おかしい。時間が経つごとに、奇妙な『笑い』がこみあげてくる。ハリ、なあハリ、おかしいよな。薄情だな、僕は。何がそんなに愉快なんだ。己を見下すこの自嘲さえ、それすら、どこかで面白がっているような自分がいる。下衆と言えばまだ聞こえがいい。これでは人間のふりをした化け物だ。それでも、狂っていることを認識できているだけ、まだ冷静なのではないかとも思えてくる。
「ハリ」
 が、喉から吐き出される自分の声は、やはり不釣り合いに上擦っているのだ。
 小路へ折れ、走りながらリュックを下し、トウヤはハリへそれを押し付けた。
「追っ手が、少ないと、思わないか」
 切れ切れに言った。
 一拍の後、ハリは頷いた。
 ツーが、背後へ『吹き飛ばし』を決める。鋼と常闇が綺麗に押し戻されていく。格上相手にも関わらず、ツーはここまで一度も技を失敗することがなかった。――ずっと、二体だ。クチートとゲンガー。どちらもリューエル第一部隊長キノシタの従者。だが、あの時、キノシタが更に複数のボールを解放しようとしたのを、トウヤは確かに見たのだ。新たに放とうとしていたのは、一つ目と二つ目のボールだった。トウヤがそうであるように、手持ちのエース級はボールホルダーの前側に並べているトレーナーが多い。と言うことはつまり、クチートもゲンガーも、キノシタの一番手、あるいは二番手『ではない』ということになる。
 キノシタが放った残りのポケモン達は、どこへ行った。他の隊員は何をしている。――メグミを追っているのだろう。そもそも、彼らの目的はトウヤではなく、ラティアスの捕獲なのだから当然だ。
 アズサは強い。彼女の連れているチリーンも、あれでレベルは相当高い。だが、ミソラもリナも、そしてメグミも、戦い慣れているとは言い難い。集中砲火を受ければ、敵は数十体にのぼるはずだ。普段積極的にバトルを行わないポケモンレンジャーという身分で、且つ手持ちを一体しか連れていないアズサである。いくら強いと言ったって、対応できる数ではない。
 トウヤは今、守るべきものは何も所有していない。己の身だけをエースに守らせておいて、肝心なメグミの護衛は任せきりなど、あってたまるか。
「僕の言いたいことが、分かるな」
 リュックを負いながら、ハリは前を見据えて走り続け、頷こうとしなかった。
 立ち並ぶ家と家の間を右へ左へと駆ける。高揚感と裏腹に、両足は次第に思い通りにいかなくなる。ツーの奇跡的な活躍もありすんでのところで攻撃をいなし続けているが、時間の問題であるのは明白だ。打ち負かそうにも、ハリが得意とする草タイプの技はゲンガーにもクチートにも分が悪い。しかも一番手ではないといえ、リューエル実務部第一部隊員の従者たちだ。その強さというのを、トウヤは身に沁みて知っている。そう、トウヤは幼少の頃から――
 ――不意に、『部隊長様』であるキノシタが直々に自分を追い回してくる理由を、直感した。
 ああ。口の端が吊りあがる。反吐が出そうだ。だが薄っぺらの腹の中に、尚更に、不気味なまでの衝動が迸る。溶岩のように鈍重なあぶくを立てて煮え滾るそれを、最後まで吐き出さずにいられるか、あまり自信がない。これを『冷静』とは笑ってしまう。
「おい、ハリ」
 一瞬開けた視界の先を指し示した。ココウでは見かけることのない複雑な形の鳥影が、数百メートル左手の空をいくつもいくつも旋回している。
「あの下で、もし、姉さんに会えたら」
 それでも殆んど感情を宿らせない月色の瞳が、並走するトウヤを睨んだ。
「よろしく伝えといてくれ。あんたの弟は、お陰様で、この町で元気に大人になりました、ってな」
 ――睨みつけた双眸が、ほんの僅か、驚きのような光を含んで広がった。
 頷いたかは見えなかった。トウヤが右手、家屋間の隙間へと半身を捻じ込んだのと同時に、ハリは左手へと進路を変えた。岐路に差し掛かった敵方の二体は迷いなく右手を選んだ。
「吹き飛ばせ!」
 すっかり板についた技名を命じ、ツーが両翼を空へ叩きつける。突風に押し戻される二体諸共、通路に立て掛けてあった大量の廃材が崩壊する。二体が巻き込まれたのを確認する間もなく、突き当たりを左手へ。背後で軽い爆発音が聞こえた。
「ツー、お前、凄いな。それもピエロの賜物か?」
 息も絶え絶えに称賛する。他人の従者はまったく嬉しげな素振りを見せない。
 走り続ける。右へ。左へ。更に右へ。いい加減眩暈がしそうだ。流れていく馴染みの景色を見ていると、子供時代からのココウでのあらゆる思い出を、超高速で再生しているような気分になる。ハリがサボネアだった頃、トウヤはいつの間にハリより早く走れるようになっていた。ノクタスに進化した今は、トウヤより少しは早いのだろうが、それでも人間の脚力と大差がない。ハリは間に合うだろうか。いや、無事に合流に至れるだろうか。
「ハリが奇襲を食らったときに、『吹き飛ばし』があると助かるな」
 翼は鋭く角度をつけ、小路をぎゅんと滑空する。ツーの先導をトウヤは追いかけた。
「あっちを援護してやってくれないか」
 振り向くことなく、前方を飛び続ける。
 トウヤは苦笑する。喜ばないどころか、無視だ。タケヒロがハギ家に居つきはじめてからのここ数日間は、タケヒロの目の届かないところへトウヤが出掛ける時、ツーかイズが必ず監視役でついてきた。小さな主人の命令を今も忠実に実行しているらしい。
「……参ったな」
 正直、こちらには勝算がない。出来れば巻き添えにするのは避けたいのだが。
 ぞっと背筋を逆撫でるような哄笑が、あらゆる『影』を拡声器にして、どこからともなく響いてくる。クチートの足音が不穏な軽さで迫ってくる。手持ちが一匹もいない状況でこうまで危機に陥ることが、かつて一度でもあっただろうか。置いて逃げろなどと格好をつけたことも、さすがに言っていられないらしい。
「お前、他にどんな技が使えるんだ?」
 ツーはようやくちらりと視線をくれ、そして小首を傾げて見せた。トウヤはクッと笑った。だってこの状況で、もう、僕は笑うしかないじゃないか。





 トウヤの誤算は、果たしてどこにあったのだろうか。
 隘路をひた走りながら考える。いくらリューエルがどうだと言ったって、トウヤくらいの実力があれば、ミソラは彼が簡単に逃げ切れるものだと思っていた。この状況はきっと、何らかの誤算が生み出したものに違いないのだ。
 トウヤと別れて逃げ出した後、ミソラとアズサは、直後にリューエルと鉢合わせた。相手は大声で何かを叫び、アズサはメグミをボールに戻し、それからはひたすらスラム街を奔走している。リューエルのポケモンは延々と後を追ってきた。上空には大きな鳥ポケモンが複数せわしなく飛び交っていて、ひらけた場所に出た途端におそらく一斉攻撃を食らう。――トウヤは二人にメグミを託した時、この状況を、ちゃんと見越していただろうか。
 トウヤだったら、それでも撒くことができたかもしれない。だが、ミソラとアズサが女子供である――いや、ミソラが子供であるというハンデは、彼が考えていたより、きっと大きかった。
「後ろ!」
 前方を行くアズサが振り向く。彼女がキャプチャ・スタイラーを構えるのを見ないうちにミソラも肩越しに振り返った。矢のように飛んでくる『マッハパンチ』は既に鼻先に迫っていた。
 身を捻り、足をもつれさせ、倒れかけた眼前に、淡青色が割り込む。片耳のニドリーナ。主を庇おうとしたリナに、敵方キノガッサの右ストレートがまともに入った。
「リナッ」
「スズちゃん、『アシスト』して!」
 名前を呼ぶことしかできないミソラの背後で、軽い発砲音が鳴った。
 スタイラーから発射されたキャプチャ・ディスクがミソラの横をヒュンと過ぎる。一瞬怯んだキノガッサの周囲を、ディスクは目にも止まらぬ速さで走り抜ける。ディスクの光の尾が一重の円を描いた瞬間、残された光の尾――『キャプチャ・ライン』によるチリーンの『アシスト』能力が、即効で威力を発揮した。
 円の内部のキノガッサが、ぐるりと一回転した。
 見えないものに足元を掬われたかのようだった。目を見開いたキノガッサの身体はふわりと宙に浮きあがり、紐で繋がれた風船が風になぶられるみたいに空中で制御を失っている。
 その光景に目を奪われる暇もなく、アズサはミソラの手首を掴み取った。引き摺られるようにして、ミソラは再び駆け出した。
「今のは」
「スタイラーの、……、……っ」
「……アズサさん」
「ごめんなさい」
 意味もなく謝る彼女の向こう側の前腕が、素早く目元を拭う。
 掴まれた方の手も濡れていた。汗ではない。横顔を盗み見る。毅然と前を向くアズサの頬はぎらぎらとした膜を貼りつけ、泥汚れした目尻には、涙の粒が膨らんでいる。またか、とミソラは思った。同時に、まだなのか、とも。
 トウヤと別れた直後からずっと、壊れて馬鹿になった蛇口みたいに、アズサはぼろぼろと泣き続けている。
 対するミソラの腹の底には、いつの間に生まれた氷の種のようなものが、少しずつ存在感を増しつつあった。
 アズサが泣き出すことを、トウヤは想定していただろうか。していないだろうな、と思う。彼女のそんな様を見て、ミソラがどんどん苛立っていくことも、予想できた訳がない。
 手首を握るアズサの手を、強引に振り払った。それから同じ方向へ、二人は黙って駆け続けた。
 誤算があったと言えば、もっと前からだろう。大通りをいくことになった時点で、トウヤの考えとは異なっていた。アズサが「あなたを騙していた」などと言って揺さぶらなければ、そうはならなかったかもしれない。何故あのタイミングで、あんな告白ができるのか。とんだ神経をしていると思った。グレンがそうだったのと同じように、アズサが『トウヤを騙していた』として、あの場面で、『でも、あなたの味方だから』と装飾を加えながら白状することに、一体どんな意味があったのだろう。策略だったのではないかと勘ぐりたくなってしまう。あの状況でそれを言えば、これ以上の延焼を避けたいトウヤは、有耶無耶のままに事を呑み込まざるを得ない。そこまで計算して言ったのではないだろうか。この人は。
 アズサが何故泣いているのか、ミソラは分かるような気もした。だからこそ糾弾してやりたかった。あなたに泣く権利なんかない、と。
 泣きたいのはあの人の方だ。こんな状況に追い込まれ、頼るべき身内には欺かれ。
 みんな、勝手だ。きっとどこかで今も戦っているあの男を思うごとに、見知らぬ義憤が沸きあがってくる。
 トウヤはおそらくただでは済まないだろう。ヒガメ付近の荒野に血塗れで横たえられていた、彼の顔を思い出す。トウヤはあの時リューエルに襲われたのだと、ミソラは今更になって気付いた。今日のことも、ミソラが「危ない」と伝える前に、トウヤは戦わずに逃げることを決意していた。リューエルに反抗したら痛い目に遭わされるだろうことを、こうなる前から分かっていたのだ。
 だが、予測していながら、避けることができなかった。
 もし、ヴェルがすぐに家に引き返してくれれば、スムーズにココウを出られたかもしれない。
 もし、アズサの言うことを聞いて大通りを行かなければ、ヴェルに会うこともなかったかもしれない。
 もし、タケヒロが駄々をこねなければハヤテを渡すことにはならず、足の速いハヤテに乗って逃げることができたかもしれない。
 タケヒロが囮になると言い出した時、ミソラはどうしようもなく嫌な予感がした。だからあえて厳しいことを言って、友人の意見に猛反対したのだ。だけど、トウヤが甘いことを言うから、タケヒロは我を通してしまった。アズサの意見も通してしまったし、ヴェルのことだって。トウヤがお人好しだから、甘いから。自分の考えを貫かず、彼らのわがままを叶えたから、こんなことになったのだ。皆勝手だけれど、それ以上に、あの人は甘すぎるのだ。その甘さに付け込んで、好き勝手に、皆がトウヤを搾取した結果が、これだ。
 ――搾取、とは。何故、搾取されているなどと思うのか。それはミソラこそが、トウヤの事を、自分の所有物のように思っているからに他ならないのではないだろうか。
 スラムを抜ける。建物の点在する農村部に突入すると、やはり上空のポケモン達が、そして陸で待ち構えていたポケモン達が、雪崩れるように襲い掛かってくる。人間の姿もいくつか見えるが随分遠くから指示をしていた。アズサが撃ち出したキャプチャ・ディスクが先導して農道を駆け、罠を張り巡らすように次々と『光の円』を描いていく。その仕掛けに突っ込んだムーランドが宙へ逆さまに縛り上げられる。トラップを掻い潜ってきたブリガロンを、オオスバメを、チリーンの『神通力』、リナの『冷凍ビーム』や『十万ボルト』が辛くも弾き返していく。だが、敵方の狙いは明らかに、最後尾のひとりに絞られている――メグミのモンスターボールを所持しているアズサではない。金髪碧眼の異邦の子供に。
 人間を、まして子供を狙っているとは思えない技の数々が飛んできて、間一髪で守られながら、それでもミソラの頭の中は、ある発想でどんどん埋め尽くされていく。
 僕もだ。――トウヤの甘さに付け込み、彼を搾取していると言うなら、それは、誰よりも僕のほうが、よっぽど、わがままを通してきた。
 廃屋の上、雲越しの落陽の方角から、円形の影が三つ現れる。磁力に引きつけられながらぐるぐると回転する無感情の一つ目が、三つともミソラを捕捉した。誰かの指示が飛ぶ。レアコイルが技を発する。繰り出された黒球はブルーとピンクの電磁波を彗星のように靡かせて、リナによる迎撃をひらりと回避し、正確にミソラを目指してくる。アズサが地面を蹴ってこちらに跳んだ。ミソラは己を掴み上げるように、胸倉を握りしめた。
「モモちゃん、『守る』!」
 ――突如半円に現れた透明な障壁に突撃し、『マグネットボム』が光彩を放って四散する。
 ミソラを中心にする壁の内側で、爆風のみを受けながらアズサが目を見開いた。見開いた目の両端から、また意味のない涙が吹き飛んだ。
 技を防ぎ切った技が解ける。逃走の足を止めたミソラとアズサ、スズとリナを取り囲むように、多くのポケモンたちが迫ってくる。バルジーナ。クリムガン。キリキザン。エアームド。ミソラの左手には遠ざかりつつあるココウの町。ちらほらと民家の残る右手の先には今、あの白穂の草原が、かすかに視認できつつある。
「これ全部キャプチャできますか」
「正気でトレーナーに従っているポケモンをキャプチャで戦意喪失させるのは、」不可能、とはアズサは言わなかった。だが少しだけ間を置いた。「難しいわ。時間がかかる。さすがにこの数を一斉には……」
 大勢の悪意が、じりじりと、包囲を狭めてくる。普段スタイラーを収めているアズサのホルダーの内側で、メグミのボールが揺れている。いつだったかピジョンの群れを追い払ったメグミの『光線』なら、この状況を突破できるかもしれない。ポケモンの知識がある程度備わった今のミソラには、あれが『破壊光線』であろうことは見当がついていた。しかし相手は数が多い、撃ち漏らしたポケモンが襲いかかってきた場合、リナとスズの二体で対処しきれるのだろうか。そもそも、メグミはミソラの言うことを聞いてくれるのか。
 無理だ。だが、もう一つだけ、この状況を打開できる策がある。
 胸を掴む手に力を込め、かんと冴え渡った蒼穹を、ミソラは強く引き絞った。
「私が囮になります。アズサさんはメグミを連れて逃げてください」
 連中はミソラを狙っている――この事実は逆手に取れる。ミソラにはモモの『守る』もある。
「……あなた、何言ってるの」
 低く唾棄するようなアズサに、
「私、あの人の、役に立てるチャンスなんです!」
 内心の鬱憤をぶちまけるように、ミソラは吠えた。
 ――僕は、確かに、あの人の甘さに付け込んだ。決められないならついてくればいい、と、道筋を示したトウヤの甘さに。トウヤがメグミのことをどうしても逃がしたいと思うなら、足手まといのミソラなど、絶対に連れていくべきではなかった。そのことを、ミソラはちゃんと分かっていたのに。
 もし、ミソラがいなければ。アズサは一人で逃げ切ることが出来たかもしれない。
 もし、ミソラがいなければ。タケヒロはあんなにしつこく食い下がらなかったかもしれない。
 もし、ミソラがいなければ。ミソラが「心配だ」と言わなければ、トウヤはヴェルの事を放っておけたかもしれない。ミソラがついていきたいと言わなければ、ヒガメであんな宿に泊まることもなく、リューエルと交戦することもなかったかもしれない。ミソラのことさえなければ、とっくの昔に、トウヤはココウを離れていたかもしれない。僕がいなければ、きっとこんなことにはならなかった。僕の存在自体が、トウヤの誤算だったのだ。僕がいなければ、僕がいなければ、僕がいなければ――
 僕と出会っていなければ。
 あの時、彼が、僕を拾っていなければ。
 僕があのまま一人で死んでさえいれば。
「お兄さんが、ミソラちゃんのこと、そんなことのために連れ出したと思ってる!?」
 支離滅裂に頭をよぎる自責の合間に、鮮烈な響きが突き刺さる。心臓にぐさりと痛みが走った。言い返したい。気が済むまで罵倒したい、アズサではない人の代わりに。そんなことなどと、言い切ることができる、戦う力を持っている、強い大人のあなたたちに。分からないだろう。こんな卑屈な気持ちなんて。
 じゃあどんなことのために自分を連れ出したのかと、問いたい。ここにいない人に。
 何の役にも立たない僕を、何の役に立てるために連れ出したのかと。連れ出しておいて、こうやって放り出して、一体、どうしろと言うのかと。ほんのちょっと前、あの草原で、あなたに、淡い期待を抱かされた。あなたが死んでくれないなら、僕はここで暮らしていくことができるじゃないかって。殺せる力をつけるまでなんて言いながら、あなたが、強くいてくれるうちは、のうのうと、今まで通りに、生きていけるんじゃないかって。思ったのに。あなたが、そう思わせたのに。――たったの数時間後に、トウヤは、生活よりも、メグミを守って逃げる決断をした。ミソラと今まで通りにここで暮らしていく日常よりも、優先するものがあると、切って捨てた。
 逃げなきゃいけないことは分かる。あなたが手持ちを大事に思うことも。
 でも、だけど、たったの数時間で、なんで、どうして、こんなことにまでなったのだろう。考えるほどに湧きあがってくるこの攻撃的な虚しさに、どうやって落とし前をつければいい?
 みんな、勝手だ。揃いも揃って、自分のことばかり――アズサさんも、タケヒロも。あなたも。僕も。
「早く、逃げてください!」
 頑として動かないという決意を、ミソラは再度宣誓した。
 顔をあげ、敵方を眼光で抑えながら、アズサは手の腹で涙を拭った。
 北方、草原の方向へ、アズサは駆け出した。女と子供が離れた途端、様子を見ていたポケモン達が一斉に攻撃を繰り出した。炎が、雷撃が、水流が、アズサの両脇を抜け、怒涛の勢いで子供を殺しにかかる――モモに呼びかけ、『守る』を展開し、そのすべてを塞ぎ切る。足元でリナが四方へ『十万ボルト』で牽制を入れる。引きつけきれなかった何体かのポケモンが黒マントへと向かっていたが、どれも念力を纏うキャプチャ・ラインに阻まれ、近づくことさえ出来ていない。
 成功した、と、ミソラは思った。
 ――何故、リューエルがミソラばかりを狙ってくるのか、生身に容赦なく攻撃を浴びせようとしてくるのか。その違和感の正体を、ミソラは殆んど考えようともしなかったし、アズサも掴みあぐねていた。トウヤの大きな誤算がまさにそこにあっただなんて、二人とも、全く知る由もなかった。アズサの背が建物の奥に消えて、逃がせた、と安心した。同時に、あの氷の種から芽吹いた、グロテスクな感情が、胸の中で、はっきりと首を持ち上げた。
 もし、仮に、モモが『守る』を失敗して、攻撃を受けたとして、その末に自分が死んだとして。自分が傍にいながら死なせたことに、アズサはショックを受けるだろう。タケヒロだって、ミソラの言うことを聞いていればと、失意に沈むことだろう。アズサがそのことを伝えれば、トウヤは、ひどく後悔するだろう。連れていくと言わなければと、あのとき手を離さなければと、ミソラに懺悔するだろう。そうなれば、爪痕は残せる。皆の中に、ミソラの存在を、永遠に刻みつけられる。ミソラを守らなかった自分を責める深い深い傷跡を、トウヤに残すことができる。
 いい気味だ、と、思った。誰に対して思ったのかは知れない。
 胸の内壁に、薄暗くてどろりと甘い、残酷な喜びが噴き上がった。
 その一瞬のことだった。
 目の前が、真っ白に塗り潰された。
 そして、次の瞬間、――ミソラは強烈な向かい風を受けながら、ラティアスのメグミの背に乗って、色褪せた空を目指していた。
「え」
 何が起こったのかまるで分からなかった。地表はそう遠くはなかった。けれどぐんぐんと遠ざかっていった。振り向くと、ミソラの飛ぶ空の少し南に、たくさんのポケモンが地上に包囲網をなしていて、その中央――先程までミソラがいた場所に、今、アズサが立っていて、ほそっこい左腕をまっすぐに構えて、あんまりにもちっぽけなキャプチャ・ディスクを、パンと撃ち出したところだった。
 『サイドチェンジ』、という技名も、アズサがミソラを逃がすためにそれをしたことも、後になるまで、ミソラはさっぱり理解することができなかった。ただミソラの目に映ったのは、ミソラが食らうはずだった攻撃が無慈悲にアズサへ襲い掛かっていくその光景と、見下ろした輪の外縁のあたりから、円心へ向かおうとしたいくつかの塊が、ぎゅんと方向を変えたかと思えば、猛烈な勢いで大きくなって、すなわちこちらへ近づいてくることだった。塊は星の形をしていた。キラキラと光を帯びていた。その技は知っている。『スピードスター』だ。エイパムのロッキーがよく使っていた、敵を追尾する必中技――
 昔食らったのと全く違う、図太い衝撃が、どすんどすんと横腹に刺さった。
 メグミの背中から、ミソラは弾き飛ばされた。
 例の透過能力を使っていたらしい。能力下から放り出されたミソラには、もうメグミの姿は見えなかった。数メートルの高さを頭から落下していくミソラが次に映したのは、天地の逆転している世界で、そこで懸命に駆け寄ってくる、紫色の獣だった。その姿を確認した時、ちょっと前に自分がトウヤに言った音が、ちりちりと耳の奥をくすぐった。きっと、味方になってくれてるんです。向こうの中に一人でも味方がいるって考えると、心強いですよね。グレンを指した言葉だったが。まるで予言でもしたかのようだ。かあっと体が熱くなる。進化して、一回り大きくなったが、間違いない。リューエルに捕らえられた。第七部隊に連れていかれた。ずっと戻ってこなかった。それでも、この子は、リューエル隊員に無理矢理使役されながら、力を蓄え続けていたのだ。いつかこんな日がくることを、夢に見ながら。ココウに帰ってくることを願いながら、身勝手ばかりの人間のさなかで、健気に生き抜き続けてきたのだ。心が震える。この再会が嬉しい。現状に対するミソラの憤りはもうやり場もないほど膨らんでいて、世界中の何者だって今は恨めしくなっていて、けれどこうやって、何も悪いことばかり、ミソラに降り掛かり続けている訳ではないのだ――メグミの背から弾き出されてから、次の攻撃を受けるまで、本当に、ほんの、ほんの一瞬の出来事だった。確かに『スピードスター』をまともに食らったはずのミソラが、そんな風に錯綜することができたのも、だから、ほんのわずかの間の出来事だった。
 エイパムの、――いや、エテボースに進化を果たしたロッキーが、落下してきたミソラの腹へ、先端の肥大した二股の尾を、
 振りかぶって、
 ほぼ同時にぶち込んだ。
 ――ぼごっ、と、鈍い衝撃が、子供の腹を貫いた。
 唾か何かを吐きながら、体を屈し両手足を突き出した格好で、今度は真横へ、ミソラの身体は端材みたいに吹っ飛んだ。
 その一瞬、ロッキーと目があっていた。
 昔どおりの、くりくりとしていたずらっぽい、とてもきれいな目をしていた。





 あれほど巨大な図体に、気配もなく忍び寄られた。只者でないことは分かっていた。直後、タケヒロを救うため最初に体をぶつけた時点で、ハヤテはすべてを察してしまった。実力差など、肉眼で測れるはずもない。だが、立ち姿を目にしただけで、同じ空気に触れただけで、面白いように全身が戦慄く。単に腕っ節の問題ではない。圧倒的な強者のオーラ。格が違いすぎる。勝てるイメージが浮かばない。こんなことは初めてだった。タケヒロを連れてその場を離れ、スタジアムフィールドで捉えられ、技――いや、技にすら至らない、単に拳を引いて突き出しただけの打撃を食らった瞬間に、ハヤテは確信に至ったのだ。
 勝てない。
 このバクフーンには、絶対に勝てない。
 ――『逆鱗』を。逆鱗を使わなければ、絶対に勝てない。
 トウヤがハヤテに下した指示は二つだ。タケヒロを守ること。トウヤのいない場所で『逆鱗』を使わないこと。一撃で伸されたポッポのイズ、それを抱いている半ば放心した少年を乗せて、ハヤテは『トウヤのいる場所』を目指し死に物狂いで走り続けた。この強敵を倒すためには、今ハヤテが自身最強の奥義と位置付けている『逆鱗』の発動しか考えられない。使用後に混乱状態になるリスクのあるその技を使うためには、トウヤの監督下に戻る必要がある。生まれた時から唯一無二の指導者である主人に対して、ハヤテは絶対的な信頼を置いている。叱咤されながらもこの頃はめきめきと力を伸ばし、持て余していた『逆鱗』を使いこなすことができるようなり、つい先日は、相打ちではあるがグレンのポケモンを倒すことまでできるようになった。トウヤからの信頼を感じられるようになるごとに、バトルへの自信も増してきた。化け物のようなこの敵だって、トウヤが共にいてくれさえすれば、きっと打破することができるはずだ。
 ハヤテが、トウヤと別れた場所――タケヒロの第二秘密基地まで戻ってきたとき、当然だが、トウヤは既にいなかった。
 既にその場を離れているだろうことは、普通に考えれば分かりそうなものだ。だが追い詰められきったハヤテの精神は、いるべき場所に主人の姿を見出せなかったことで、一気に支柱を失った。ほんの一瞬、絶望に心が囚われた瞬間、四足で路地を猛追してきたその化け物に、若い竜は捕まった。
 守るべき背中の荷物を、少年が抱えているポッポごと、彼の家の方へと放り投げた。
 悲鳴をあげ地に転がったタケヒロが、這いつくばるようにして秘密基地へと潜り込んでいく。バクフーンの視線はその姿を捉えていたが、ハヤテが遮って間へ入ると、邪魔だと言わんばかりに殴り掛かってきた。獣の素早く引いた拳が、素早く放たれる。先の戦闘でかなりのダメージを負っているハヤテは、見えても避けることができない。『技』ですらないただの突きが、重く、臓腑を震撼させる。食らいながら放つ『ドラゴンクロー』が宙を切る。距離を取った相手へ発する『竜の怒り』のびかびかとした光線は、彼が蝋燭を吹き消すような軽さで放った炎に相殺されて、尽く威力を失っていく。
 勝てる訳がない。
 せめて、『逆鱗』さえ使えれば。
 数度の応酬に完全に圧倒されながら、いっぱいいっぱいの頭で考える。このままハヤテが『逆鱗』を使用せず、その末にタケヒロを『守れなかった』として、それは果たして、トウヤの指示に従ったということになるのだろうか。全力を尽くすことなく敗北するという結果に、トウヤは納得するだろうか。自分の頭で考えて動けということを、トウヤはハヤテたち手持ちに常々言い聞かせてきた。僕もお前たちが力を発揮できるように精一杯頑張るけれど、僕はバトルの才はないから、お前たちの方が優秀だから。僕の指示が正しいとは限らないから、と。
 まるで色を変えない獣の冷徹な灼眼を、睨みあげる。
 やるしかない。
 きっとできるはずだ。
 小山のような獣の首の裏が、小爆発を起こした。獰猛な熱気が迸った。姿勢を下げる。『技』が来る。食らえば終わる。もうチャンスはない。
 青竜は大地を蹴り上げる。
 トウヤが技名を叫ぶ声を、忠実に、頭の中に呼び起こした。





 
 
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