「……それで、名前」
「はい?」
「君の名前は」
「私の名前……ですか」
 戸惑いの色を浮かべた子供に、トウヤは忘れたのかと問うた。子供はこくんと頷いた。そして俯いた子供に、トウヤはやり返すように質問をした。
「僕は君を、どのように呼べばいいだろう」
「えっと、そう言われましても……」
 困り顔で一瞬黙り込んだ子供は、次の瞬間にはぱっと色を変えて言った。
「私の名を決めてください」
 二人の後ろのノクタスが、ぱちぱちと楽しそうに瞬きする。
 その言葉に、トウヤはもう一度マフラーの下で笑って、おかしい奴だと呟いた。
「僕はこのサボテンの進化前の姿を見て、ハリと名づけたセンスの持ち主だぞ? 人の名前など到底つけられないよ。自分で考えた方がいい」
「いえ、自分の名を自分でつけるなど、恥ずかしくてできません。それにお師匠様にいただいた名前なら、どんなものでも構いませんから」
 「お師匠様」という呼び名がくすぐったくて、トウヤは後ろを振り返った。ハリは黄色の両目でこちらをじっと見て、静かに微笑んでいる。「人の名前を付ける責務」を与えられた今に限っては、それが嘲笑のようにも思えた。
「……」
「私の名を決めていただけますか」
「……少し時間をくれ」
 そして――日が落ちた。
 昼の名残は徐々にその力を弱め、晴れ渡った空は東から順に紫色の宵闇に沈み、元から静かだった岩石砂漠は更にその静けさを強めていった。瞼を重たそうに下げたサンドの親子は、コートの前を閉めきった子供がその顔を覗いても、もはや逃げることさえしなかった。ジャリ、ジャリという踏みしめるような足音だけが耳につく静寂の中で、時折澄んだ高い声が聞こえて、低い声が適当な相槌を返した。
 足元が覚束ないほど闇に呑まれて、凶暴な夜行性ポケモンが活動し始める時間が迫っても火を焚こうとしない主にハリがそわそわしはじめた頃、トウヤは急に立ち止まって、疲弊の色を隠し切れていない顔で振り返った。
「ミソラ……」
「はい」
「ミソラだ。今日から君の名前はミソラ。珍しくも美しい瞳の色だ」
「はい」
 子供は夕闇にぼんやりと霞んだトウヤの顔を見ながら、ミソラ、と何度か繰り返した。
「気に入ったか」
「はい! 私の名前はミソラです」
「そうか……」
 トウヤは心の底から安堵感を覚えて、それからどっと疲れがのしかかるのを感じた。足場の悪い場所を避けるように進みながら、すぐに寝床を探そう、と溜息を吐き出す調子で言った。
「我ながらなかなか今風でいい名前だ。ミソラ。ミソラちゃんだな」
 どし、と何かのぶつかる音がした。それに気付かなかったトウヤはよたよたと歩きつづけたが、その後ろでは、急に立ち止まってハリにぶつかられた子供――ミソラが、両目をかっと開き、拳をわなわなと震わせて、ゆっくりと揺れる師匠のうしろ姿を凝視していた。ハリがどうしたのかと問うようにその顔を覗き込むと、ミソラはやっとの思いで、といった感じで声を絞り出した。
「……私は」
 ん? トウヤの返事は声だけだった。ミソラは震える声で、私は、私は、と何度か繰り返した後、大きく息を吸い込んで、
「私は男です!」
 そう叫んだ。
 トウヤは素早く振り向いた。そこには微笑みをたたえるハリと、背中をゆうに隠す長い金髪をコートにしまいこんだ、人形のように可愛らしい容姿の異国の子供が立っている。闇に紛れてミソラとハリからはその顔は窺えなかったが、先ほどまでのミソラのような驚愕の表情を今度はトウヤが浮かべて、本当にやっとの思いで、たった一言だけ、マフラーの下からこぼした。
「な……なんだって?」





 夜空には見えるか見えないか程度に細長く切り取られた月と、その周り一面にちらちらと光る星が不規則にちりばめられている。
 二人と一匹の囲む真ん中には、控えめな大きさに組まれた焚き火が音を立てて燃えている。ハリは舞い散る火の粉を避けるようにして回り込み、すやすやと寝息を立てているミソラから剥がれかけた薄手の毛布を、そっと掛け直した。
「相変わらず面倒な奴だ、お前は。僕のような薄汚い人間よりもうんと人間味がある」
 顔を上げると、火の光に赤く浮かび上がるトウヤがぼんやりと見える。ハリはもう一度焚き火を大きく避けてまわり、主の傍らにそっと腰掛けた。
 トウヤの声と顔は、疲労のせいからか、随分暗く沈んでいる。視線を落とすと、膝の上には、毛布と交換して返されたコートが丁寧に折りたたんで乗せてある。それを持ち上げて羽織りながら、トウヤはふと思い出したように呟いた。
「『ポケモンの嫌う薬草』か……」
 めらめらと赤を散らす焚き火の向こうでは、「女の名前でも全く構いませんから」とトウヤを慰めた「少年」が、豊かに長い金髪に焚火の明かりを映しながら、安心しきった顔で眠っている。
 トウヤはハリを見た。炎を眺めていたハリもその視線に気付いて見返した。
「お前も、この臭いが嫌いなのか? 僕の、血と汗の臭いが」
 ハリはやはり笑顔の形を崩さなかった。ふるふると首を横に振った。
「……そんなものがあったら、旅をするのにこんなに苦労はしないよ」
 静寂の中で、夜は急激に更けていった。ミソラが何度か寝返りを打って、ハリがもう一度毛布を掛け直しにいった後で、ふとあくびをしたのを見て、トウヤは腰のベルトの、三つ並んだボールの真ん中へと手をやった。
「明日はハヤテに任せよう。お前はもう眠りなさい。僕もじきに寝る」
 頷いたハリは瞬く間に赤い光に飲まれ、手のひら大のモンスターボールの中に吸い込まれて消えた。





  
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