僕の高ぶりが収まる頃を見計らってか、キュウコンは気まずそうに伏せていた顔を上げて、ぎこちない笑顔を見せた。
「ねぇ君、僕んちのパーティに寄っていかないかい? 中はぬくぬくだし、おいしい食べ物もたくさんあるし、楽しいよ。君だって、あまーいホットミルクは嫌いじゃないだろう?」
 冗談じゃない、と即座に返そうとしたが、息が詰まって上手く声が出せない。僕の声が喉に引っかかる、ひっぐ、ひっぐという音をどう解釈したのか知らないが、キュウコンはウンウンと頷いて、今マスターを呼んでくるね、と僕に背中を向けた。やっと絞り出した、おい、という抗いの意思はむなしく黙殺され、キュウコンは豊かな九尾をゆさゆさと揺らしながら歩き、明るい窓の前に立つと、前足でそのガラスを叩いた。
 その時だった。ビュウッと北風が吹きつけた。皮膚がざわついた。その流れの中に微かに、生臭い獣の臭い――それもついさっき嗅いだばかりのやつがあって、僕の鼻腔をくすぐった。僕は飛び上って耳をそばだてた。風に乗って聞こえたのは、地獄の風鳴りのような低い唸り声――不覚だった。僕は興奮しすぎて、そこまで来ていた追手の存在に、これっぽっちも気付かなかったのだ!
 キュウコンはすっと顔を上げると、ひくひくと鼻を動かした。その臭いを察知すると、僕のもとへ駆け寄った。そして腰を下ろして、睨むような威圧感を持って僕を見た。
「乗って」
「……僕は」
「ここで戦闘になるとマスターに迷惑がかかる。いいから乗って」
 死にたいんだ――僕の言葉の続きを聞く前にキュウコンは畳みかけて、もう一度僕の首根っこをくわえると、ぽいと放り上げて、そのまま問答無用に僕の体をシャツの中に押し込めた。こちらが風下なのが幸い、相手はまだ気付いていないようだが、気配は着実に近づいている。行くよ、と呟くと、キュウコンはほとんど足音もないほどしなやかな動きで駆けだした。
僕ははち切れんほど広げられたシャツの中でもがき、やっとの思いで首から上を外に出すと、キュウコンはちょうどブロック塀を飛び越えるところだった。残像を残しながらスクロールする景色の中で、僕は窓から出てきた人間が、キュウコンを指すらしい名前を呼ぶ声を聞いた。
「……ベネディ? ベネ!」

 キュウコンは自身のスピードに、誰にも劣らないという誇りのようなものを感じているらしかった。だから、そのプライドをものの数秒で打ち砕いた二匹のヘルガーに、動揺した様子を隠せなかった。
「なんなんだこいつら!」
 家々の間を抜ける決して広いとは言えない道路を、背中に僕を乗せたキュウコンとヘルガーたちが猛烈な速さで駆け抜けた。キュウコンは進路を左右に振って追撃する炎攻撃を避け、入り組んだ僅かな隙間をすり抜けてヘルガーを巻こうとした。火の粉が散って僕が悲鳴を上げ、シャツの焦げ臭いにおいが鼻を掠めるたびに、キュウコンは「大丈夫?」と聞いてよこした。
「奴らの狙いは僕だ! 僕を下ろせ」
「いやだ!」
「どうして、普通のポケモンじゃあいつらには敵わないんだ!」
「理由ならさっきも言った!」
「奴らは『改造』されている!」
 キュウコンの荒い息遣いが絶え間なく聞こえた。彼が地面を蹴るたびに、躍動する筋肉の動きまでもが手に取るように伝わった。シャツに締め付けられた、じっとりとした毛皮の温もりも。僕はどうあがいてもそこから自力で抜け出せそうになかった。近づいたり離れたりを繰り返すヘルガーたちの猟奇的な眼光は、確かに僕を捉えていた。
 民家の中にひときわ大きな、そして簡素な造りの建物が見えた。キュウコンはその壁に沿うようにうず高く積み上げられたドラム缶の類のものを半ば崩しながら駆け上がり、屋根の上に飛び乗った。傾斜のない屋根には波のついたトタンが張ってある。屋根の端まで移動したとき、ガンガンと大きな足音を響かせてヘルガーたちがのぼってきた。キュウコンは振り向き、初めて彼らと対峙した。
「研究員によって、素早さを限界以上に高められた『改造ポケモン』なんだ! 普通じゃ勝ちようがない!」
 低い姿勢で唸る漆黒の影は、今にもこちらに飛びかからんとしている。キュウコンはくれないの瞳をさらに赤く輝かせ、九股の尾を扇のように広げた。その先端の一つ一つが、夕闇のような光を放ち始めた。 「改造ポケモンだって? だったらなんだっていうんだ」
 ひときわ大きな足音が響き渡った。口から炎を溢れさせながら、闇を裂いて飛びかかってきたヘルガーに、キュウコンはくっと表情を引き締め、しっぽの先に灯した『怪しい光』を一斉に乱れ撃った。ヘルガーの瞳に青紫の色が映った。キュウコンが一歩足を引くと、ヘルガーたちはキュウコンの前に頭を打ちつけ、弱々しい悲鳴を上げて、転げ回りながらトタン屋根から落下した。
「よしっやった! あんなに強力な炎技を貰い火した僕にかなうと思うなよ!」
 キュウコンは子供のような歓声を上げると、僕を乗せたまま、一目散にその場から撤退した。
 僕とキュウコンは、家と家の間を抜け、屋根を飛び越え、視線の先の林の方へと逃げていった。僕たちが出会った場所は、小高い山の影に隠れて見えなかった。

 乱雑に生える木々の間に隠れたところで、僕はようやくシャツの中から解放された。むわりと漂う熱気は北風があっという間にさらっていき、僕はむしろ肌寒さを覚えた。
 二人は少し離れた場所に腰をおろした。静かだった。ポケモンや人間の気配はなかった。時折木の葉がざわざわと擦れる音だけが聞こえた。
 キュウコンは一通り息を整えると、ぽつりぽつりと話し始めた。
「僕はね……僕は君が、何か事情があって、彼らに追われているんだろうなと思っていたよ。君は狙われているのが自分だって言ったね。僕は君が、およそ飼い主とけんか別れでもして散歩していたときに、得体の知れない彼らに見つかってしまったのかと、ね。だから僕は、パーティの誘いを断られたら、君を家へ送り届けようと思っていた。……でも違う」
 僕は顔を上げた。キュウコンはどこか途方もない場所を見つめていた。
「君は彼らのことを知っていたよ。それも詳しく、ついさっき会った仲にしては、少し知りすぎていた。彼らは君の知り合いなんだろう? どうして逃げる必要があるんだい?」
 瞳にともる赤い光が揺れている。彼は僕を見た。立ち上がり駆け寄って、ぐいと顔を近づけた。
「君は誰なんだ? どこに住んでいるんだ? 僕は……僕は、君を彼らから奪うように逃げて、よかったのかい?」
 答えてよ、と呟くキュウコンのことを、僕は無視することができなかった。嫌でもあの場所の、あの光景のことが思い出された。キュウコンは、すがるような目で僕を見ていた。
「……僕の家は、お前と出会ったところの先にある建物だ。工場だ」
 工場……? ぽかんとして、目を瞬かせてから、キュウコンは何度かその言葉を復唱した。そして、突然大声を上げて目を輝かせた。沈んだ表情がぱっと華やいだ。
「えっもしかして、あの工場かい! それはいいね、僕あの建物が大好きだよ!」
 キュウコンのその答えは、僕にとって本当に予想外のものだった。あの忌々しい記憶の塊である工場が、何故「大好き」とまで言わせるのか見当もつかなかった。工場と聞いてキュウコンが笑顔を見せた理由が、まったく理解できなかった。
 だから僕は返事に困った。僕は険しい顔をして黙っていた。頬を指す風が冷たかった。キュウコンはさらに楽しそうな表情で続けた。
「じゃあ君の飼い主さんは、あの工場に住んでいるんだね。いいなぁ。いったい何をしてる人?」
 飼い主……その言葉が、どれだけ僕の心を乱すのか知らないだろうに。
 キュウコンは笑っていた。彼の放つ温もりによって、僕の心の凍りついていた部分はどんどん溶け出して、その淀みが深まっていく。つくづく僕とは別の場所に生きるポケモンだった。家族が大好きで、おせっかいでおどおどして、へらへらと笑って。
 こんなこと言うべきじゃないだろうに。分かってはいるのに、彼が僕の心をかき混ぜるから、こぼれ出すのを止めたくても止められない。
「死んだよ」
「えっ?」
「僕のマスターは。あの工場で死んだ」
 途端にキュウコンは顔を曇らせて、視線をあちこちに運んだあと、ごめんね、と謝った。
「えっと……危険な仕事だったの?」
「危険な仕事だった。死ぬことが分かっていた。毒タイプのバトル演習だ。改造されたドガースの毒に、どれだけ即死性があるのか、人間を使って調べなきゃいけなかった。でも知らなかったんだ、マスターには伝えられていなくて、空気の汚染濃度を調べる実験だって言われてて、僕は噂で聞いてしまって、でも僕は、僕の言葉は、伝わらなくて、止められなくて」
 途中から泣き出した僕の言葉を途中で制して、キュウコンはゴメンと謝りながら僕を抱きしめた。僕の顔は彼の焦げ臭いシャツにむぎゅと押し付けられて、尻尾らしいたくさんの動くものがわしゃわしゃと僕の背中をさすって、僕は黄金の毛にまみれて息苦しささえ感じた。キュウコンは離さなかった。もう一度短くゴメンと呟いた彼の声は震えていた。他人に同情して涙を流せる感受性も持ち合わせているようだ。つくづく僕とは違う。
 僕のマスターも、ドラマを見て涙を流すような人だった。工場の中しか知らない僕に窓越しの空を見せてくれるような人だった。ひどく厳しいトレーニングに耐え切った日は、自分のことのように喜んでくれた。激務の日も疲れた顔ひとつ見せずに僕を励ましてくれた。二人で布団に入った。二人でストレッチをした。二人で長い話をした。
 死んだのは昨晩だった。改造ドガースの部屋へ向かうため作業着に着替える彼のズボンの裾を、僕はしつこく引っ張った。しつこくしつこく引っ張った。でもとうとう引きはがされ、彼はしゃがみこんで、僕の頭をなでて、二言三言話して、とうとうドアを開けた。僕は必死の思いで彼の名前を呼んだ。彼は最後に笑顔を見せて、ドアを閉めた。声が枯れても叫び続けた。次にドアを開いたのは知らない男で、僕など知らない顔でマスターの私物を片づけはじめた。止められなかった。僕は止められなかったのだ。
 彼のいないあの場所に、僕の生きる意味などなくなった。
 キュウコンはようやく僕を開放した。僕の体は毛まみれになっていて、おまけに鼻の奥がムズムズした。キュウコンはやはり赤い、でも少し潤んだ目で、僕に強い調子で言った。
「君は君の飼い主さんのことが好きなんだろう? なら、共に時を過ごした場所のことは、せめて美しい思い出として、心にとどめたいじゃないか」
 キュウコンは再び僕の首根っこを掴んで、シャツの中に押し込めた。そして僕が顔を出すのも待たずに走りだした。

 思えば僕は、ずっと昔から、それこそこの世に生まれ落ちた時からずっと、自分の身の回りのことをよく知らずにいた。
 工場に住んでいることは知っていたし、それがある組織がある目的でポケモンを改造する工場だってことも分かっていたけれど、その「ある組織」や「ある目的」がいったいどんな姿をしているのか、実態は全くつかめていなかった。ここにいるポケモンたちが改造されていることも、僕自身が改造されていることも知っていたけれど、じゃあ具体的に僕のどこがどんなふうに改造されたのかなんてことには詳しくない。改造ポケモンが普通じゃないことは知っていたけれど、じゃあ「普通」って具体的には何なんだと聞かれれば、上っ面の言葉さえ並べられないに違いない。
 僕はその漠然とした世界をさまようぼんやりとした存在で、そばにいるマスターが僕の輪郭を照らして映し出して、なんとか自分を認識していた。マスターがいたから僕がいた。昨日までの僕という生き物は、マスターという生き物なしではありえなかった。
 マスターが世界から消えて、その名残みたいな灯火を頼りに存在している今の僕は――

「見つけたぞ、憎きキュウコンにハスブレロ! 今ここで炭にしてくれるッ!」
 木の葉の多くを落とした木々の中で待ち伏せていたかのように現れた研究員はそう高らかに宣言して、もう一度ブーバーンを繰り出した。
 ブーバーンは左腕を上げ、右手を添えて固定した。まっすぐ向かってくる僕とキュウコンに狙いを定め、その筒の底から溢れる熱光を発射しようとした。キュウコンは急激にスピードを上げて飛び上がり、ブーバーンの太い腕を踏み台にするように飛び越えた。軌道のそれた光線は枯葉を一瞬にして焼き尽くし、ブーバーンは慌ててこちらを振り向いた。
 キュウコンが僕の名を呼んだ。僕はようやっとシャツから顔を出して、すぐさま内圧を高めてエネルギーをせりあげ、あらんかぎりの力を尽くしてハイドロポンプを放射した。
激流はまっすぐブーバーンの顔めがけて飛んで、ブーバーンは奇声を上げて吹っ飛び、その後ろにいた研究員を踏みつぶした。首を回してその様子を見ていたキュウコンが笑い声を上げた。
「ハハッ! いい気味だね――じゃあ行こう!」

 ――今の僕は、この愉快を振りまいているキュウコンにもう一度照らし出されて、また自分のことを認識しはじめている。

 軽快なリズムで体が揺れる。彼の足が地面を捉える振動と、温かで力強い鼓動が、ひっきりなしに僕の体を叩く。額を滑る風はひんやりと冷たい。背中からは、炎ポケモン特有の熱気が嫌というほど伝わってくる。
 闇に溶け込みそうな景色は、視界の端から端へと流れ出て飲み込まれていく。まったはないし、振り返りたくても首を動かすことができない。

『今日から俺が君のマスターだ。んでここが、俺たちの部屋』

 もうすぐだよ! キュウコンの声が、僕を部屋に招き入れるマスターの笑顔と重なる。
 マスターの笑顔は、その死に際の、僕の頭を撫でながら呟いた、最期の言葉と重なる。

『ハスブレロ』

 視界の流れが急激に失速して、僕はまたくわえられて、シャツから引きずり出された。
 丘の上だった。頭上には曇天が広がっている。ここは僕の一番好きな場所だ、とキュウコンは言って、眼下に広がる景色に目を落とし、僕にも見るように促した。

『生きるんだ、ハスブレロ……君が望まずとも』

 僕は目を見開いた。
 あぁ……そういえば。
 マスターはそういえば、自分の結末を知っていたのかもしれない。

 眼下には工場が広がっていた。
 工場には煌々と明かりが灯っていた。周りの白い街灯の光が何重にも交差し、窓のひとつひとつから漏れる光は温かなオレンジ色で、一階の大きな窓から見え隠れする色とりどりの光の粒は、透きとおるように冷たくて、神秘的で、神々しくて、なのにもの悲しくて、儚くて……
 一つの光のオブジェのようにそこに構える建物は、僕の生きてきた短い時間の、地獄の苦しみと悲しみと、与えられた多くの優しさとを全部抱いてたっている工場だった。

『君が生きようとすることで、僕は永遠に生きられるのだから』



「帰るって……あの工場に?」
 その丘で、工場の光をバックに、僕たちは向かい合って話した。キュウコンは驚いた様子だった。
「いいのかい? だって、『今』をあの場所で過ごすということは、同じ場所に時間を積み重ねていくということだ。古いものを、新しいもので、どんどんうずめていくってことだ。君の飼い主さんとの楽しかった記憶は、薄れていってしまうかもしれないよ。それでもいいっていうのかい?」
 僕は頷いた。ひどく落ち着いて、すっきりした気持ちだった。ばかみたいに泣き続けて、もやもやしたものも流してしまったらしい。
「いいんだ。あの工場には、マスターの働いている組織がある。その組織の行く先には、マスターの夢見て、目指していた世界がある。僕はそこに行かないといけない」
 不安そうな顔を見せるキュウコンに、僕は初めて笑顔を見せてみた。
「僕はマスターの、たった一匹の手持ちなんだからね」
 キュウコンはぽかんとした。しばらく間抜けに口を開けて、それから楽しそうに首を傾げて、僕んちまで一緒に帰ろう、とまた僕の首根っこを掴んだ。

「ところで……聖夜って、いったい何のお祝いなんだ?」
「え? えっとぉ……実は僕もよく知らないんだ。誰か偉い人が生まれた日らしいんだけど……」
「じゃあ、その人の命を祝福したとか?」
「あぁ、きっとそれだ! 聖夜には、人間もポケモンもみんな、誰かにその生を祝福されるんだ。すてきだね! ハッピークリスマスだ!」
 キュウコンがブロック塀を飛び越えて見えなくなるまで見送ったあと、鼻先に当たった冷たいものに、僕はふと顔を上げた。
 曇天から細かなものがちらちらと降り始めた。それは街灯にきらきらと光って、アスファルトの地面に溶けて静かに消えた。次から次へと降り注ぐそれを見て、僕はマスターと一緒に見たドラマのことを思い出した。確か、雪だとか言っていた。
 改めて顔を上げると、その雲と雲の合間には相変わらず星があって、消え入りそうな光を放ち続けている。あのちっぽけで哀れな星も、ちっぽけで哀れな僕達と同じ、不確かな自分のことを確かめるために、誰かを照らし続けているのかもしれない。
 もしそうなら、本当にそうならば。
 どうかあのちっぽけな星にも、心からの祝福を――。













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