哀れな光に祝福を





 地面に伏せた頭の上を、蒼炎の龍が駆け抜けた。やり過ごすギリギリのところで地面を蹴り、走り出す僕の姿は、身を切る北風にかき消される炎龍のなびく尾を掴もうとする、夢幻の追い人にでも見えたかもしれない。振り返ることもせず、死にもの狂いで走り続ける僕の目と鼻の先を、煮えたぎるマグマのような炎の塊が掠めた。そうだ、追っているのではない。僕が追われているのだ。
 その種族にしては屈強すぎる僕の両脚は、生まれて初めて捉える森林の地面を軽快に、しかし全力で蹴り続ける。高速で回転するランニングマシンの上を延々と走り続けた日は何とも思わなかったのに、柔らかな土の上でもなお疲れを知らないこの体が、今は憎らしい。背中の方で低い唸り声を聞いて、反射的な恐怖が脚を回す。低く垂れ下がった雲の元を全速力で逃げる僕は、生きることを渇望しているようで、ひどくみじめな存在に思えた。
 それでも、僕は逃げない訳にはいかない。
 僕は死のうとしていた。それなのに逃げていた。生きようとすることが、僕の死に対する償いのように考えていたから。
 一匹のヘルガーが木陰から飛び出し、血走った目で僕の姿を捕捉した。続いて現れた研究員のなりをした男が、モンスターボールを握りしめる拳で僕を指し、火炎放射の指示を出した。ヘルガーの剥く牙の隙間から赤い光が漏れた。その間に僕は足を踏ん張って急ブレーキをかけ、同時にせり上がってくるエネルギーをハイドロポンプとして口から放出した。漆黒の体が吐き出した真っ赤な炎と水の激流とが衝突し、相殺され、辺りは瞬く間に白煙に包まれた。僕はその煙幕に紛れて逃げ出した。
 今の一撃で、こちらに勝機がないことは分かった。僕の持つ技の中で最高の威力を誇るハイドロポンプが彼の火炎で蒸気と化したこともそうだが、野生種のヘルガーと同一である赤い炎、それは彼の体内の炎袋に人為的な何かが加えられていない――すなわち『改造されていない』ことを指す。僕の知る研究員の中で、自らの手持ちのポケモンを改造しない奴なんていなかった。つまり研究員は、この戦闘に最適な部分を特化したポケモン、僕が逃げ切ることのできない一匹を選んだのである。
 煙が晴れた。僕が逃げながら放った冷凍ビームによって仕掛けられた氷壁トラップは、その跳躍力の前には何の障害にもならず、ヘルガーは疾風のように林の中を駆け抜けて、あっという間に僕の背中を捉えた。
 反り返った二本の角で僕を突き上げた。僕はなすすべもなく宙に踊らされた。ヘルガーは僕のさらに上へ飛び上がり、目の前で大きく口を開け、黒色の中に浮き立つ真紅の下を晒した。その奥から噴き出した熱光は僕の体を焼き、僕は意識が霞むほどの激痛の中で全身を地面に打ち付けた。
 痛みに悶える僕を見下ろしながら、研究員は憎たらしい笑みを浮かべた。相性の面では僕は炎タイプに対して、得手不得手両方を兼ね備えている。その僕に研究員は、火力を強化したポケモンよりも、機動力に長けたポケモンをぶつけてきたのだ。彼は無理矢理「普通」を超越させたしもべを傍にひかえさせ、優越感をもって僕をあざ笑った。
「手のかかるハスブレロめ……」
 勝利の余韻を満喫するゆったりとした動作で、汚れた白衣のポケットから新たなモンスターボールを取り出した。暗闇に鋭い光線をまき散らしながら現れたのは、がっしりとした胴体と、赤と黄の色彩で猛々しい火山を体現したようなポケモン――ブーバーン。僕は戦慄した。彼の無慈悲な性格を知っていた。彼の持つ、ポケモンの肉体を一瞬で蒸発させるほどの大技のことも、知っていた。それによって処分された、多くの仲間のことも。恐怖に体を震わせながら、本当はまだまだ逃げ出せる余力を残す体を抑えて、僕は僕が『死ぬ』時を待った。
 ブーバーンはどこまでも機械的な動きで、図太い左腕――主砲の役割も果たすそれを上げ、掌に口を開ける砲口を、まっすぐ僕に向けた。
「やれ」
 狂気じみた声にブーバーンは機械的に頷いた。銃の奥底から徐々に煌めき出したエネルギーは段々と集約され、輝きを増していく。僕は目を細めた。荒れた息を整え、やがて僕の体を焼き尽くすだろうその光を、とても穏やかな気持ちで眺めた。もうすぐ死ぬ。僕は消えるのだ。この場所から、世界から、この強烈な悪意の渦がひしめくこの世から――。
 光が爆ぜた、草木が騒いだ、真っ白に染まる視界の中で僕は、僕の背後から飛び出した大きな影が、強烈な閃光の真ん中で上げる咆哮を聞いた。
「何ッ……!」
 研究員が余裕を失って目を剥いたのも、それから悔しそうに顔を歪ませたのも、無理はなかった。突然現れたポケモンに直撃した熱線は、派手な爆音も立てず、僕の体も溶かさず、その金色の体に吸収されて消えたのだから。僕が驚愕のまま彼を見上げるその顔は、最高に滑稽なものだったに違いない。結果僕に死を許さなかったのは、彼――黄金の毛並みをたたえ、九股の尻尾を揺らめかせ、凛としてブーバーンを見据える、真っ赤な服を着たポケモンだった。
「キュウコン……! 『貰い火』か!」
 研究員はブーバーンに更なる攻撃指示を出そうとしたが、その前にキュウコンは僕の首根っこをひょいとくわえて、スッタカタと逃げ出してしまった。



「はー、いやぁ、危ないところだったね。でも間に合ってよかった」
 しばらく走り続けたキュウコンは、いつの間にか住宅街に入り込み、最後にはあの場所からずいぶん離れた地へ僕を下ろした。民家の庭のようだった。微かな人間の匂いと、時折楽しそうな笑い声が聞こえた。家の中までは窺えないが、窓から溢れ出す光が、短く刈り揃えられた芝生を淡く照らしている。きょろきょろと首を回す僕を見て、キュウコンは顎で建物を指し、ここは僕んち、と紹介した。
「マスター達とパーティの準備をしていたんだけどね、変な熱気を感じたんだ。妙に気になるから行ってみたら……相手が炎タイプでラッキーだったよ。ハハハ」
 のんきな顔で笑うキュウコンは、マスターに謝らないと、と言って僕に背中を向けた。赤地のシャツには、『イエーイ!』と黄色のプリントが施されている。
 僕は無性に腹が立った。それは凄く理不尽な感情なのだけれど、彼のにこやかな様子に、僕との幸せの度合いが違うのを見せつけられた気がした。知るわけないのに、僕の境遇も知らないくせに、と思うと、なぜだか怒らずにはいられなかったのだ。それから発する声は、押し潰した喉から絞り出したような聞き苦しいものだった。
「……どうして」
「ん? なんだい?」
 楽しそうな表情で振り向いた彼の顔を、僕は見ることができなかった。
「どうして……僕を助けたんだ」
 どうしてって、そりゃ……僕がどんな顔をしていたのか知らないが、キュウコンは僕の方を見て、言いかけていた言葉を飲み込んだ。そうして訪れた重たい沈黙の背後に、人間の陽気な歌声が、途切れ途切れに聞こえていた。
 キュウコンは、悲しそうな寂しそうな表情で呟いた。
「えっと……いけなかったかい?」
 ずいぶん優しげな、ひかえめな声だった。僕は悲しくなった。昨夜味わった苦しみが、押し込めた心の深い場所から泉のように湧き上がった。痛みは声を呼び起こした。先刻まで僕を突き動かした声だ。

『生きるんだ、ハスブレロ……君が望まずとも』

「……なかった……」
 え? と僕の顔を覗き込んだキュウコンは、はっと驚いた表情を見せた。僕は僕の中で、マイナス方向のたくさんの感情がぐるぐると入り乱れて、ぐちゃぐちゃに潰れていく混とんの真ん中にいて、遠いおとぎの国の話のように傍観していたリアルな景色が、じわりと霞むのを感じていた。
「……救われたくなんか、なかった……ッ」
 崩れ落ち、冷たい芝にあおむけに寝転がって、両手で顔を覆ってわんわん泣きはじめた僕を、キュウコンはますます困惑して見た。僕のまわりをおろおろと行ったり来たりして、若紫色の頬を伝う一筋を舐めようか舐めまいか迷うように半端に顔を近づけたり、前足をおずおずと僕の額に乗せてみたりした。それからなぜか半泣きの様子で、
「僕はどうすればいい?」
 そう聞いた。僕は嗚咽を上げながら、突き放すように返した。
「殺してくれっ」
 キュウコンは声もあげずに目を見開いた。顎が地面につきそうなくらい下げていた姿勢を戻して、戸惑った顔でしばらく僕を見つめていた。それから瞳を閉じて、浅く息を吐いた。目を開けると、静かな決意の表情で僕を見据えて言った。
「いやだ」
 僕は顔から手をどけた。ぼやけた視界の中で、キュウコンは真紅の瞳を僕に向けていた。その向こうの空、鉛色の切れ間から覗く紺碧の空には、ちっぽけな星が哀れな光を放ち始めた。
「今日は聖夜だ。清らかな今夜に目の前で誰かが死ぬのなんて、僕は見たくない」
 キュウコンは息をついで続けた。
「だから、助けたんだ」
 曇天の、凍える風の吹きつける、真冬の夜のことだった。
 悔しかった。研究員にやられたのも、死ねなかったのも、助けられたことも、全部全部悔しかった。でもそれ以上に、唇を噛みきるほど悔しかったのは、泣けども泣けども溢れてくる涙を、どうにも止められないことだった。













<ノベルTOPへ>