くらやみ








 ふわり、とカーテンが動くのを、少女は見た。

 少女は息を飲んだ。月の光を受けて淡く輝きながら沈黙していた真白の布が、その中央辺りを静かに膨らませ、そこから順に下のほうへ、柔らかな動作で前方へ捲れ上がっていく。その下から、何か大きな物体が部屋の中へ飛び込んだかと思うと、カーテンはそれの背中をなぞりながら、ひらりと波打って、柔軟に揺らめきながら、やがて元の位置で再び沈黙した。

 少女はひとつ息をついて、怯えた瞳にその影を映した。

 それは真っ黒な鳥だった。
 顔の半分以上を占める大きなくちばし、頭にはシルクハットを被っているかのような突起。堅そうな毛並みの翼をぶるっと震わせると、頭をくるくると動かして、その暗い部屋の様子を見渡した。

「ふう……さすがのおれも、壁抜けはちょっと疲れるな」

 月明かりだけ輪郭だけぼんやりと浮かんでいるその鳥へ、少女は薄い唇を開いた。

「誰なの……?」

「おれ? おれはな、クールでナイスガイなくらやみポケモ……」

 か細い声にルビーのようなきらきらした目を向けた漆黒の生き物は、月明かりだけが支配する小さな部屋の端、ベッドの上で上半身を起してこちらを見つめる少女の姿を見て、思わず言葉を詰まらせた。

 その夜、一人と一匹は、そうしてしばらく見つめあっていた。







「きゃはは! 何それウケるー!」

 甲高い笑い声を上げながら興奮のあまり宙をくるくると回転するムウマを見、ヤミカラスはちぇっと舌打ちした。ドラム缶に腰かけて自慢の爪の手入れをしていたニューラも、目を見開いて身を乗り出している。

「正気かいヤミカラス? 正気でそんなことを言っているのかい? だとしたら君、相当の病みようだよ。まあ前から知っていたけど」

「病んでねえよ!」

「ターゲットに一目惚れしちゃうなんて。しかも人間とか、もう最高!」

 仲間に報告しなくちゃ! そう言って、ムウマは笑いながらフッと消え去った。廃棄された機械やガラクタが散在する、工場の廃墟である隠れ家に、彼女の高笑いがしばらく反響した。あの野郎! ヤミカラスは天井に近い配管に留まり目を見開いて叫ぶが、それとは対照的に、ニューラは穏やかな口調で話す。

「ハハ、冗談に決まってるじゃないか。それより詳しく聞かせてくれよ。その女の子の話をさ」

 むすっとした顔で、二つの大きな目が光る方へと視線を下ろしながら、ヤミカラスの頭はまだ鮮明に残る少女の声に支配されていた。


「くらやみ……? くらやみくんっていうのね?」

 長い沈黙の後、先に口を開いたのは少女のほうだった。

 本当はヤミカラスという名前なのだけれど、それは単に種族名でしかないので、え、あう、と確かな否定はできないでいた。じゃあ本当の名前は? ――なんて聞かれれば、またマイケルとかジョンとか適当なことを口走って不審に思われてしまうから。実際には『くらやみ』というのも、分類名でしかないのだけど。この世の人間はそんなことは知らない。

 どもるヤミカラスに、少女は首をかしげて言う。

「じゃあ、くらやみちゃん?」
「それは違う!」
「やっぱりくらやみくんなの?」
「……まあ」

 ヤミカラスは頬を赤く染めて(もちろん実際に毛が染まったわけではないが)、少女からぷいと顔を背けた。

 つるりとして透きとおった、真っ白な陶器のような肌。背中まで覆い隠さんとする、柔らかそうな栗色の髪。真っ黒でくりくりとした無垢な瞳。みずみずしい果実のような唇、優しく扱わないと壊れてしまいそうな細い腕、神秘的な光を湛えた指先、美しい曲線を描く腰、すらりと伸びる白い脚……。
 布団に隠れて見えない部分までヤミカラスは想像して、顔をぶんぶんと振った。いけないいけない、おれは何を考えてるんだ! こいつはターゲットだぞ!

「……なにしにきたの?」

 しかしそのまるで竪琴のような柔らかで美しい声に振り向くと、そこには、ああ、今まで見てきた何よりも美しい生き物が上目づかいでこちらを窺っているではないか。ヤミカラスは身もだえして、この部屋を飛び出さんと翼を広げ、カーテンの方へ飛び立った。ガツン! そしてガラス窓に頭をぶつけてどさりと落下した。

「大丈夫?」
 少女はあわてて立ち上がって、床で両翼をばたつかせるヤミカラスの傍へ座り込んだ。

「くそっ、このおれが霊化するのを忘れるだなんて……!」
「くらやみくん」

 すると、少女はその細い腕で、優しくヤミカラスを胸の方へ引き寄せ、抱き上げた。ヤミカラスは今にもこぼれ落ちそうなほど目を見開いて、ものすごい速さで鼓動する心臓をなんとか抑えようとした。

 腕にヤミカラスを抱いたまま、彼女はカーテンを開け、窓を開いた。肌寒い風が病室へと流れ込んで、少女の長い髪を揺らした。外気に触れて、ヤミカラスは少女の温かな肌と、そして自分の顔の火照り具合を否応なしに感じさせられた。

 月光に、彼女の顔の凹凸がぼんやりと浮かび上がる。
 彼女は微笑んで、ヤミカラスに尋ねた。

「わたし、ユキっていうの。明日も来てくれる? 窓、開けとくね」

「……おう」

 生まれて初めての胸の高鳴りに、ヤミカラスは激しく動揺しながら夜空を横切っていった。


「…………」

 詳細をせがむニューラに、ヤミカラスは沈黙で返した。
「なんだ、聞かせてくれないのかい。じゃあ、これだけは教えてくれよ」
 ニューラはにやりといたずらな笑みを浮かべて、
「今日も飛ぶのかい? 彼女のもとに」

「なっ……! いかねえよバーカ!」
 ヤミカラスはそう鳴くと、大きく羽ばたいて、ガラスが朽ちて枠だけとなった窓から、夜空へ飛び出していった。

 ニューラはため息をついて、その背中へ声援を送る。
「ヤミカラス、気持ち悪い」


 人為的に緑が植えられ、コンクリートで道が整備された憩いの場。闇に覆われ今はひっそりと静まり返っているその場所に、一羽の鳥がひらりと舞い降りた。

 病院の敷地内の木の枝に留まって、ヤミカラスは一度興奮を落ちつけてから、その建物の一角を見上げた。
 来てみれば、昨日人生初の『一目惚れ』をしたその病室からは、カーテンの端がひらひらとたなびいていた。本当に窓が開いているではないか。ヤミカラスは深く長くため息をついた。

 彼女――ユキに会いに行きたい。しかし、ユキはターゲットだ。このまま会い続ければ、やがておれは……。
 その時、おれはユキに……?

 ――明日も来てくれる?

 ユキの優しい声が頭について離れなかった。あぁ、と鳴いて見上げると、ヤミカラスは風に揺れていた病室のカーテンが、不自然な動きを見せるのに気がついた。するりと引っ張られるように窓から消えたかと思うと、代わりにひょこりと人間が顔を出した。

 その顔を見た途端、ヤミカラスは何を思うよりも先に木の枝を離れていた。


「くーちゃん、みてみて」

 何の断りもなしに『くらやみ』のことを『くーちゃん』と呼び出したユキにヤミカラスはなんの嫌悪感も抱かなかったし、逆にますます彼女のことを愛おしく思い始めた。ユキの方も、心待ちにしていたヤミカラスの登場に満面の笑みを作って、一片の警戒心も抱かずに部屋へ招き入れた。
 「くーちゃんのために残しておいた」のだというリンゴの欠片を彼の前に出して、それから少女はうれしそうに一枚の写真を彼に見せた。

「わたしの大好きなおばあちゃんの写真なの」
 ヤミカラスはリンゴには手をつけず、とび跳ねてユキの傍まで寄ってから、それを覗きこんだ。

 何気なしに、写真に写る柔らかい笑みを見せる老人を見て――ぎょっとした。

 そんなまさか――再びせわしく動き始めた心臓をなるべく無視して、ヤミカラスは冷静を装って口を開く。

「……おばあちゃん?」
「うん。でもひと月前に死んじゃった」
「そ……そうなんだ」

 ヤミカラスはふいと写真から目をそらして、ぴょんぴょんと跳ねながらユキの視界から外れるように後ろへ回った。ユキは写真を見ながら、ぽつり、ぽつりと話しだす。

「お父さんは、ずっと前に死んじゃった」
 お母さんは受験のお兄ちゃんにつきっきりで、最近お見舞いにきてくれないの。病院暮らしが長いから、お友達もいなくて。

 ヤミカラスは振り向いた。少女の小さな小さな背中が、それを取り巻く淋しさが、ヤミカラスを罪悪感で押しつぶしそうだった。

「だから、くーちゃんが来てくれて、すっごくうれしかったんだよ! くーちゃん、これからも来てくれる? わたし、くーちゃんとお友達になりたいな」

「……おう」

 本当? くーちゃん大好き! 少女は今までで一番明るい声で言った。
 振り向いた彼女の手の中の写真は、月の光を反射して光って、ヤミカラスには見えなかった。



 *



 それからヤミカラスは、何度も何度もユキのもとへ飛んだ。
 きれいな石や花を見つけては、毎晩それを手土産にユキの病室に向かった。ユキはいつも何かしら食べ物を用意しておくけれど、ヤミカラスはいつもそれに手をつけようとはしなかった。食べようにも食べられなかったし、今までに経験したことのないような胸のつっかえが、ユキの喜ぶ顔を見るたびに大きくなっていって、食べ物なんか喉を通らなかった。恋がこんなに苦しいものだと知らなかった、ヤミカラスは何度もそう思った。

 そうして毎晩飛んでいくヤミカラスを、最初は面白そうに冷やかしていたニューラとムウマだったが、それが二週間にもなる頃、彼を見送る目は彼を心配するものに変わっていた。

「あんた、いつまでそうして夜這いするわけ?」
「……夜這いっつったって」
「人間との恋が実るとでも思っているのかい? だとしたら君には失望する」
「思ってねえよ!」
「じゃあなんで行くのよ。人間がどれだけ危険な存在か、あんた知ってるでしょ」
「そりゃあ……」

 そうやって言葉を濁しつつ、その夜もヤミカラスは少女に会うために夜空を飛ぶ。

 そんな日々が1カ月ほど続いた、三日月の夜のことだった。


「いつまでこうしていられるのかなあ」

 ユキの言葉に、ヤミカラスは内心ぎくりとして彼女を見た。
「な、なんで?」
「だってわたし、もうすぐ死んじゃうもの。そしたらもう、くーちゃんとは会えなくなるよ」

 死……。聞きなれているはずのその言葉は、予想以上にヤミカラスの心をかき乱す。少女は膨らみ始めたばかりの小さな胸に両手を当てて、澄んだ声でぽつりと言った。

「わたしね、最近、よく胸が苦しくなるの。だから、もうすぐ」

「おれが、おれがユキを守るよ」
 え? 少女は静かな憂いを含んだ瞳をそのカラスに向けた。何か言葉を吐き出さないと、彼女が本当に死んでしまう気がして、ヤミカラスはそのくちばしから彼女を励ますのに適当な言葉を放った。

「ユキを死なせたり、しない」

「……うん、約束ね」

 少女はふわりとほほ笑んだ。何より美しい笑顔だった。その笑顔を、いつまでもいつまでも守りたいと思った。

 そんなことは無理だと、どこかで自分を嘲笑いながら。


 隠れ家に戻ると、真っ暗な廃墟には誰もいなかった。夜は三匹にとって大切な仕事の時間で、誰もいないなんてことは日常茶飯事だったから、ヤミカラスは特に何も思わずにいつもの配管の上へと舞い降りた。
 配管の裏に隠している箱の中から、ガラス玉のようなものを取り出す。ビー玉大の大きさの透明な塊の中で、赤い何かがくるくると渦巻いているのが見える。ヤミカラスはそれを頬張って、もう一度箱の中を見た。同じようなものが三つだけ、箱の隅に固まってある。

 そういえば、とヤミカラスは思う。もう長らく仕事をしていない……ユキと出会った夜から。
 このままじゃまずいな。そうつぶやくと同時に、外から叫び声が聞こえた。

「ヤミカラス! いるのか、大変なんだ!」

 せき込むようなその声に、慌てて外へ飛び出す。

 いつの間にか雨が降り出していた。必死の形相で叫んでいたのはニューラだった。上空から近づくと、彼はヤミカラスの足をつかんだ。そのまま二匹は空へ舞い上がる。

 ニューラはヤミカラスに即座に方向を指示した。海沿いの倉庫の方向だった。ヤミカラスはふだんより数段重い体を西へと運ぶ。

「どうしたんだよ」
「ゼェ、ゼェ……ム、ムウマが……!」
「ムウマが?」

 いやな予感がした。

 煙のような雨の中を、連なった二つの影が滑空していく。


 そして二人は、ムウマの最期の時を見た。

 何か魔力のようなものが込められた札を何重にも貼られ、断末魔の叫びをあげて、その小さな体が霧散する瞬間を。

 二人は倉庫の影に身を潜めて、息を飲んでその光景を見た。
 振り続ける雨が体を急激に冷やしていった。

 ムウマが『死んだ』場所の周りを、三人ほどの人間が取り囲んで息をついた。

「しかし、連続殺人犯の正体が、まさか本当に幽霊だったとはな」
「女の姿に化けて近づいた傍から抹殺するなんて、まったく芸達者な化け物だ。除霊師に近づいてしまったのが失策だったようだ」
「さてと、どうするよ。お化けの仕業でしたなんて、マスコミに言うわけか?」

 ニューラは大きく目を開けて、両腕をブルブルと震わしていた。怒りから来る震えだった。眉間に深くしわをよせ、濡れた毛を逆立てて、喉から絞り出すようにその名前を呼んだ。

「ムウマ……!」

 ギラリと爪を光らせて飛び出したニューラの後を、ヤミカラスも追った。ニューラが鬼の形相で男の心臓を切り裂く横で、ヤミカラスは札を持つ男に『ナイトヘッド』を仕掛けようと、カッと目を開いた。

 男がこちらへ、走りながら近づいてくる。札の魔力で、体はいつもよりずっと動かない。
 それでも、とヤミカラスは思う。ナイトヘッドならこの男の息の根を止めることが


『わたしの大好きなおばあちゃんの写真なの』


 ヤミカラスの顔に札を押し付けようとした男の体へ、ニューラが電光石火を食らわした。

「何をやっているんだ! 死んでしま……」
 彼の顔を見て、ニューラは叫んだ。撤退する!
 逃げていく二匹の背中を、人間たちは追わなかった。


「どういうつもりだ」
 隠れ家にニューラの罵声が響き渡った。

「君はムウマを殺した人間を殺さなかった。理由はこうだ。君は恋をしてしまった。人間の女の子に、それで殺すべき人間にさえ情が移って」

 呆然としているヤミカラスに、ニューラは言葉を止めた。子供のようだと思った。人を殺めることなど知らない、無垢な子供のようだと。これ以上彼を傷つけたくないと、そうとさえ思った。

 だけど、それだけど。

「……ぼくたちは悪魔だ。人の命を奪う。そうすることでしか生きられない」

「……知ってる」
 ヤミカラスの弱々しい返事に、ニューラは心に締め付けられるような痛みを覚えた。悪魔は人の魂を食べる。人を殺さないことは、それだけで死と直結する。

「……君には失望した。君はもう、ぼくの知っている……ぼくの好きな、君じゃない」

 背を向けて歩き出したニューラに、ヤミカラスは何も言わなかった。

 ニューラは廃屋を飛び出し、空を見上げた。雨が激しさを増していた。

 彼を元の彼に戻す方法を、ニューラはひとつしか知らなかった。



 *



 窓から飛び込んできた影を見て、少女はびくりと震えた。
 藍色の毛並み、鋭く釣り上った目に、鋭い爪を持っている。二足歩行の猫のような形相のその生き物は、ベッドの上で怯える少女につかつかと近づいた。

「だ、誰……?」
「君が、ヤミカラスのお相手かい?」

 カラス……? 少女は呟いて、ああそうかと手を打った。それから、先ほどとはまるで違う明るい表情を見せる。
「くーちゃんのお友達ね! わたし、ユキっていうの。あなたは?」

 あのヤミカラスがくーちゃんと呼ばれているらしいことを、少しはおかしいと思いはしたけれど、ニューラの心には、笑顔を作るほどの余裕はもうなかった。

 無邪気に笑うユキに、ニューラは凍てつくような視線を向けた。

 その顔を、そのきれいな笑顔を、ぐちゃぐちゃに壊したいと思った。


「君は、ヤミカラスが君に近づいた本当の理由を知らない」


 え……? ユキは首を傾げて、そっと布団を剥がし、ベッドの端に座り直した。ちらりと棚の上の写真立てを見、ニューラに視線を戻す。

「くーちゃんは、病気のわたしが淋しがっているのを知って、お友達になってくれようと、それで……」

「ヤミカラスは、君を殺そうとしている」

 投げかけられたその言葉を、ユキはすぐには理解できなかった。ニューラは高らかに声を張った。

「ぼくたちは悪魔だ。人の魂を引き抜いて食べる。命が弱った人間は格好の獲物さ。手を汚さずとも、少し力を入れて引くだけで、スポンと抜けてくれるんだからね」
「なに……言ってるの?」
「この病院は、ヤミカラスの格好のエサ場だった。弱った人間の宝庫だからね。彼の次のターゲットが君だ。彼は甘い言葉と共に君に近づいて、そして」
「嘘。だって……くーちゃんは私を守ってくれるって」
「嘘じゃない。なあ、まだ引き抜くのに力がいる生命力の残った魂を、スライムみたいに溶かしてつるりと啜りだす方法を知っているかい? 簡単さ。それは」
「やめて……」

 小刻みに震える少女の前で、ニューラは目を見開いて、さも愉快そうに叫んだ。

「相手を信頼させ、安心させることだよ! 君みたいなひとりぼっちの人間は特に簡単だ、優しいふりをして近づいて、友達のふりをして話せばいい、それだけでターゲットは警戒心を解いてしまうんだ! 残酷な話だよな、友達だと思っていた相手が、実は君を殺して食おうとしていたなんてさあ!」

「――もうやめてッ!」
 耳を塞いで叫んだ少女は、はっと顔を上げた。ニューラはゆっくりと振り返った。


 静かに揺れるカーテンの前、銀色の窓の桟に、真っ黒な鳥が留まって、真っ赤な目で二人を見ていた。


「……ヤミカラス」

 少女は何も言わず、涙をいっぱい溜めた目で、じっとヤミカラスを見つめていた。嘘だと言ってと、大きな瞳が訴えかけていた。
 その瞳から、少しだけ躊躇してから視線をそらして、ヤミカラスは静かに口を開いた。

「……君のおばあちゃんを殺したのは、おれなんだ」


 二人だけの隠れ家になってしまった廃墟へ戻ると、ヤミカラスの姿は見えなかった。どこかへいってしまったのか、それとも物陰に隠れているのか、ニューラには分からない。

「ヤミカラス。ぼくは君に、」

 静かだった。震えるニューラの声が、幾重にも反響して、工場に響き渡った。

「それでも、ぼくは」

 ぽつん、ぽつん、と、涙の雫が頬を伝って落ちる音まで、鮮明に、どこまでも伝わっていく気がした。

 錆びついてもう動かない機械や、穴の開いたドラム缶や、放置された鉄骨が、そこらじゅうにあるものが、冷ややかな視線で自分を見ている気がした。

「ぼくは……間違ったことをしたと、思わない」

 君を生かすために。
 胸から溢れ出す言葉が、孤独な心が、嗚咽となって流れでていく。

「ヤミカラス、ぼくを……どうか許してくれ……」

 すまなかった、すまなかった、すまなかった。
 幾度となく謝っても、届きそうにもない気持ちに、ニューラは溢れる涙を止めることができなかった。



 *



 それから、幾つもの日々が飛ぶように過ぎていった。

 二匹は人を殺し続けた。ムウマを殺した男を殺した。病気で苦しむ老人を殺した。川に沈んだ子供を殺した。首を吊った女を殺した。

 ユキの病院にも通うようになった。もう窓からカーテンがそよぐことのない病室は知らないふりをして、救急車で搬送された人の、体中に機械を繋がれてなんとか生きていた人の、消えそうな命の灯火を奪った。

 そして二人は、その命を空へかえした。人の魂を、弱り果てた体から引き抜いて、その命を空へかえした。

 罪悪感で空腹を満たした。二人はだんだんと痩せていった。


 その時が来たのは、雪が降り出した夜だった。

 胸のざわめきを抑えきれずに、ヤミカラスは隠れ家の窓から外を覗いた。雪はしんしんと降り続け、地面へ落ちては消えていた。懐かしい声が聞こえるような気がした。病院の方向のはずだった。

「どうするんだ」

 掠れた声に振りかえった。あの頃よりずっと貧相な顔をしたニューラの二つの目が、ヤミカラスの方を見上げていた。

「苦しみを味わう前に、殺すのか。……君にできないなら、ぼくが」

 いいや、とヤミカラスは首を振る。それから、もう一度窓の外を覗いた。
 ニューラは怪訝そうな顔で彼の背中を見た。なら、お前に殺せるのか? その質問は心の中に抑え込む。

「このまま放っておけば、やがて別の悪魔がきて、彼女を」

「ニューラ、おれは、ずっと考えてたことがあって……」
 お前みたいに口が達者じゃないから、うまく言えねえけど。そう言って振り返ったヤミカラスの顔は、いつになく晴れやかだった。ニューラは少しだけ不安になって、言葉の続きを待った。

「ユキが、本当に悲しかったのは、なんだろうって。おれがユキにやったことで、一番傷ついたことは、なんだったろう、って」

 相槌は打たなかった。ニューラは彼を見つめて、ヤミカラスは少しだけ笑顔のまま話した。

「多分、おれが約束を守らなかったことなんだよ。おれ、ユキと約束したのに」
 約束。ニューラは、たった一回の彼女との会話を思い返して、その真意を悟った。

「な、まさか、君……!」
「だから、ニューラ。おれ行くわ」

 待つんだ! ニューラは渾身の力で鳴いた。ヤミカラスは翼をぶるりと震わせて、やつれた顔で精いっぱいの笑顔を作った。

「ユキのやつ、おれのこと好きだって、そう言ったんだぜ! ユキにはおれしかいないんだ」
「……ぼくだって!」


 ニューラ、お前、おれといたこと、ぜってぇ忘れるなよ!

 ヤミカラスはニューラに叫んだ。そして、両翼を大きく広げて、雪が降り続ける窓の外へ、飛び立った。


「ヤミカラス! ヤミカラス!」
 ニューラは掠れた喉でその名前を呼び続け、やがてその場に泣き崩れた。独りぼっちになった隠れ家の床に、大粒の涙が零れて染みを作った。

「ぼくだって……ッ!」
 君しか、君しかいないのに。


 曇天の凍えきった空気を裂くように、闇夜の色の鳥が飛んでいた。

 両翼の翼はたくさんの羽が抜け落ちてしまって、もうあのころのようなつやつやと輝く立派なものではないし、空腹でもう起きているのもやっとの状態で、それでも彼は、生きてきた中で一番速いスピードで空を滑り続けた。

 初めて誰かを好きになった。誰かを想うことを知った。

 おれのことを『好き』といってくれた君のことを考えるのが、楽しくて、苦しくて……。

 不思議と冷静な気持ちだった。興奮できるだけの体力が残ってなかったかもしれない。

 ヤミカラスは、ゆっくりと体から力を抜いた。真っ黒な鳥の姿は、闇に紛れるように透明になった。外灯で明るい広場を滑空し、風に揺れるカーテンを見上げた木を横切って、ヤミカラスは病院の壁をすり抜けた。ユキの匂いが、懐かしい声が、手に取るように感じられた。

 そしてヤミカラスは、馴染みの部屋へ飛び込んだ。ユキの病室ではない。瀕死の人間から魂を抜き取る――そこは手術室だった。

 何人かの大人の中に、小さな体が横たわっていた。長い髪を散らかして、青白い顔で眠っている。白い服を着た男が彼女の体に跨って、胸を強く圧迫していた。それが瀬戸際の人間に行われるものだということを、ヤミカラスは昔から知っていた。この状態の人間から魂を抜き取ることは、雑草を引き抜くより簡単なことだった。


『……くーちゃん?』


 声が聞こえた。その柔らかな声を聞くだけで、ヤミカラスは目を潤ませた。目の前の少女は眠ったままだ。どこからか、包み込むように少女の声が響いてくる。

『くーちゃんなの……?』

「おれだよ、ユキ」

『どうして……?』

 寝起きのようなふわりとした声が、ヤミカラスをいっそう悲しくさせた。これからやろうとしていることを思うと泣けてきた。
 少女がこれから、どんなふうに生きていくのか、ずっとずっと見ていたいと、心の底から思った。

「ユキ、おれ、言ったんだ。ユキを死なせない、って」

『うん……』

「だから、ユキ……俺のこと、忘れないで」


 眠って、とヤミカラスは囁いた。
 そして、最後の力を振り絞ると、ユキの命の火の中へ、ゆっくりと、ゆっくりと溶けていった。



 *




「おい」

 目を開けて、最初は何が起きたのか、まったくわからなかった。ただ、体の中がなにか、いつもと様子が違う、と思った。

 起き上がると、月明かりでほのかに照らされた部屋の中に、いつかの黒猫が一人で佇んでいた。

 まったく怖いと思わなかった。あの夜から長い間抱いていた憎悪の感情も、不思議と抱かれなかった。
 ただ、かわいそう、と。やつれた様子の彼を見て、それだけを思った。

「……猫くん」
「ぼくは猫じゃない。ニューラだ」

 そういって、ニューラはあの時とは違う、優しげな、少し怯えたような足取りでユキに近づいて、その白くて細い腕に触れた。見た目より、ずっとあったかなかぎづめだな、とユキは思った。

 ニューラは少女の顔を見上げた。その目から、もうどれだけ流したか知れない涙が、また頬に筋を作って輝いていた。

「お前が……お前が食べたのは、ぼくの大切な、たったひとりの、親友だ」

 やっとそれだけ言うと、ニューラはわんわんと声をあげて泣き出した。ユキは戸惑って、でも、体の中にあるあったかなものが、ヤミカラスの命だということを、やっと理解した。

 腕に触れたまま泣き続けるニューラの頭を、ユキはもう一方の腕でそっと抱いた。

「ニューラくん」

 わたしが、くーちゃんのかわりに、ずっとずっと、一緒にいるよ。

 だから、泣かないで?


 薄暗い部屋の中で、一人と一匹は、しばらく寄り添って、温かな朝焼けが彼らを包むまで、えんえんと泣いていた。










 ちょっと気合入ってるげなのは、同人計画に投稿する作品の候補として書いていた話だからです。
 しかしなんだろうねコレ。なんなんでしょう。
 まったくポケモンじゃな…(






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