I miss you





 目の前に対峙したアブソルの後ろに、もぞもぞと動く白い塊を見た。

 激しい雨の夜だった。土が踏み固められただけの足もとに、つま先からかかとの方へと激しく流れる雨水は、さながら川のようだった。それで、そこに打ち付ける大粒の雨は水面でせわしく跳ねまわる小魚のようで、妖しく点滅を繰り返す街灯はなにかおぞましく佇む生き物のようで、目の前の彼の足もとに転がるヒビの入ったモンスターボールは、どこかぼくの彼に対する憐れみの感情に似ているような気がした。

 今にもぼくにその鋭利な刃物を振りかざさんとしている彼の周りには、四つほどモンスターボールが転がっていて、どれも一目で分かる破損を生じていた。ぼくも昔ポケモンを扱っていたことがあったから、それらのボールが全て使用前のものだというのは、スイッチの様子を見れば分かる(一度ポケモンを捕獲すると、もう二度と野生のポケモンには反応しないようにできているから、トレーナーが間違わないようにマークがされているのだ)。おそらく、アブソルは飛んできたすべてのボールを、自分の身に触れる前に弾き飛ばしてしまったのだろう。一度捕獲されて飛び出しただけなら、あんな壊れ方はしない。

 アブソルの右腹の毛は血にまみれていて、彼の体から滴る赤く染まった雨水が、色を隠してからぼくの足もとへ流れてくる。ぼくは電車を待つ無人駅で彼女と電話(しばらく待っていてと言われて、ぼくは電車を一本乗り損ねてしまった)しているときに聞いた短い悲鳴を思い出した。そういえば、アブソルの鳴き声によく似ていたような気がする。その後聞こえた負け惜しみのような悪態は確かに人間のものだったが、この様子を見れば、彼はアブソルの捕獲に失敗して悪態をついたのだと理解できた。

 あれから五分くらいは経っているけれど、よほど激しい戦闘だったのか、アブソルの呼吸は未だに乱れていて、それでいてぼくに目を剥き、低く唸り声を上げている。頭から延びる鋭い武器は淡い輝きを放っていて、いつでもぼくの体を切り刻める準備を整えている。彼の後ろに見える白い(よく見れば、闇にまぎれて紺も見える)毛玉は相当大事なものらしい。

 悲鳴を聞いて何事かと来ては見たが、ここは大人しく駅に戻るのが賢い選択だろう。僕は片足を引いた。背中を向けないように数歩後退してから、彼を刺激しないよう、ゆっくりとした動作で駅の方へと体を向けた。その間アブソルはずっとぼくを睨みつけていたが、僕が背を向けようとした瞬間、その目から急激に力が抜けるのが見て取れた。

 駅への一歩を踏み出した瞬間、後ろでドサリと倒れこむ音が聞こえて、ぼくはもう一度振り返った。

 アブソルは地面の上で四肢を投げ出して倒れていた。苦しそうに喘ぐアブソルの目は微かに開いて、どこか遠いところを見つめていた。よく見ると少し腫れがある左後足は微かに震えていて、頭上の刃物は一片の光も灯さずに固まっている。普段は白く高貴な輝きを帯びているに違いない首の長い毛は、泥にまみれて貧相な姿を晒している。ぼくがもう一度彼のもとへ戻ろうとすると、その足音に気づいたのか、アブソルはびくりと体を震わせた後、首を静かに持ち上げてこちらを睨んだ。体をくねらせ、前足をつっぱらせて、尻を持ち上げ、後ろ足に力を入れて立ち上がろうとした。すぐに左足から崩れ落ちた。頭部と尻尾の刀が一瞬白色の光を放ち、次の瞬間には力を失って輝くのをやめた。彼にはもう、戦えるだけの力は残っていないのだ。それなのに、殺気のこもった視線でぼくを睨み、牙を剥いて、命がけの威嚇を続けていた。ぼくは足が震えた。それはある種の恐怖だった。彼の後ろに息づく小さな命のために、その体を奮い立たせる、自身の消え入りそうな命を削る、偉大な親への尊厳の恐怖。

 しばらく向き合っていると、草影の中から、真っ白な毛をした小さなアブソルが二匹、そろそろと現れた。ぼくの様子をちらちらと伺いながら静かに親アブソルに近づいて、その右腹の傷口に顔を近づけた。一匹がちろちろと傷を舐める横で、もう一匹が彼とぼくの間に立って、か細い脚を震わせながら、ミーミーと鳴いてぼくを威嚇した。

 その瞬間、親の顔から、ふと力が抜けた。持ち上げていた頭をがくんと地面に落し、諦めたような表情で、細い声で子供の名前を呼んだ。ぼくを見上げていた子アブソルが振り向いて、そっと親の傍に寄り添った。

 三匹は僕を見た。二匹は深い瞳の底からじっと、もう一匹は絶望の色の中に微かな安堵を写して、すがるような目で。

 ぼくは広げたままの傘を下ろして、空を見上げた。相変わらず低く厚い雲が真っ黒な空を埋め尽くしていた。街灯が点滅するたびに、雨の光の筋が見え隠れした。激しい雨だった。大粒の雨が口の隙間からぼくの中へと侵入し、髪を濡らし、服を濡らし、ぼくの目尻を濡らして涙のように滴った。

 激しい雨の夜だった。

 ぼくはビニール傘を、白い獣の座る道の真ん中に置き去りにして、屋根のない無人駅まで帰っていった。







 彼女が傘を二本も持って駅まで駆けて来たのは、それから十分後のことだった。

「どうして」

 ぼくにその傘のひとつを押し付けてから、彼女は開口一言そう言った。

「……」

 それだけ言ってぼくの答えを待つ彼女を唖然として見ながら、ぼくは彼女の傘を開く。すでに服はびしょ濡れだった。傘を叩く雨の鈍い音がなんだか心地よかった。

「野生の、アブソルに……」

「知ってる」

 すると急に、彼女は視線を落として黙りこくってしまった。遠くに一筋の光が現れた。終電だ。

「いつも、そうだから……」

 それだけいうと、彼女は傘を閉じ、ゆっくりともたれかかるように、僕の胸元に顔をうずめた。僕は彼女に雨が当たらないように傘を傾けて、もう片方の手で彼女の頭をぽんぽんと叩いた。彼女はくぐもった声で言った。

「雨、凄いね。マトマの苗が流れちゃう、でも、外に置いてる自転車の泥除けがきれいになるから、それはいいかな。昨日泥道走ったから」

「また来るよ?」

 そう言って彼女の言葉を遮ると、彼女は僕の服を子供のようにきゅっと握って、

「本当に?」

「うん。心配しないで」

 賑やかな音を立てながら、ガラガラの電車がホームに停車した。ぼくは彼女の肩をそっと押して、冷えた手のひらにぼくが温めた傘の持ち手を握らせた。

「おやすみ」

 電車の中から見る彼女は、二本の傘を持て余しながら、ぱたぱたと僕に手を振っていた。








 ポケモン徹底攻略様(リンク参照)のノベル板「短編ノベル集」で行われている、
 「短編募集企画」(正式名称はないらしい)に応募したSS。
 確かもん凄い急いで仕上げました。総製作時間3時間に満たずみたいな。



 この話を、登場ポケモンのアブソルを提案していただいたカール様に。







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