ひかり






 落ちていく。

 ……落ちていく。おれが静かに落ちていく。ゆっくりと揺られ、沈んでいく。半円の、ドーム状の視界から、空が、光が遠ざかっていく。ひとつ、ふたつ。紅白球の仲間たちが、ちりぢりに、闇に呑まれて消えていく。沈黙の世界に、妙な通信音が一瞬入って、途切れる。みっつ、よっつ、もうひとつ。穏やかに視界が回転する。暗い、暗い、海の深みが、両手をこちらに差し出している。
 古い劇場に連れられて、くたびれたイスに座わされて、出来損ないの映画を見ている。そんな気分だった。うとうとと眠りに落ち、ふいにおれは夢から醒める。スクリーンは虚しく輝いている。呆れかえって、言葉を失ってしまうほど安っぽい絶望の風景が、スクリーンには輝いている。
 仄かな離別の悲しみはあった。しかし、残酷な終焉の匂いはなく、思いの外息苦しささえなかった。こんなときなのに、おれは気が滅入るほど冷静だった。冷静の残るうちに、炎を燃やし、最後の酸素まで焼きつくしてしまおうとも考えたけれど、それもどうにも面倒だった。そもそも、この万能な生命運搬装置を相手にして、酸素を焼きつくせるとも限らない。思えば思うほど、ぺたんと床についていた尻が、そのまま離れなかった。
 突然、あイテ、と声がして、足元がくらりと揺れ動いた。誰か、口の利ける生き物にぶつかったようだった。首を持ち上げると、間近にチョンチーが一匹見えた。それほどの衝撃はなかったが、とんでもない不意打ちを食らったかのようにそいつがおろおろと慌てているので、面倒ながら声をかける。
「悪い、大丈夫か?」
 まあ別に、おれは悪くもないのだが……。特殊ガラスの壁越しに音が届くかの不安はあったが、チョンチーはこれまた驚いて、びくりと体を震わせていた。一応、声は通じるらしい。
「だ、誰だい」
「誰だって、おれだが、目の前の」
 チョンチーはこちらを見はしなかったが、小さな口元に微笑みを浮かべた。
「……誰かいるのかい。嬉しいな」
 その声が妙に浮ついていて、おれは首を傾げる。
 そんなことよりも、だ。話の通じるポケモンに出会えた。沈んで、沈んで、体が冷えるのを待つだけの、この状況を打開できたんだ。風前の灯火が生き返って、やる気が俄かに復活した。尻を上げ、壁際まで走り寄り、訴えるようにがんがんと、チョンチー目前の特殊ガラスを叩きまくった。
「おい、助けてくれ、助けてくれ」
「助けるって……君を?」
「そうだ、それ以外に誰がいるんだ、頼む、死にたくないんだ」
 チョンチーは先刻のおれのように、不思議そうな表情を浮かべるばかりだった。
 ああ、ああ。距離が広がっていく。あいつは動かない。元の場所にとどまったまま、その間にも沈んでいくおれの方を、あいつは見向きもしなかった。ひれをふよふよひらめかせて、触手をぷらぷら泳がせて。ばかにしているのか、笑っているのか、ふつふつと怒りが沸き上がって、おれはガラスに体当たりして、がむしゃらに頭突きまで食らわせた。それでもチョンチーはとぼけたように動かない。
「助けろ、助けろってば! 頼むよ、海面まで運んでくれればいいんだ、お礼なら何でもする! なぁ助けてくれ、頼むから、たす、け……」
 て。
 言い切ったとき、暗くなる景色に被さってガラスに映り込む生き物と、おれは目を合わせてしまった。
 一匹のマグマラシだった。鴉の濡れ羽の体毛と、真っ赤なルビーの瞳を持つ、割と精悍なマグマラシ。けれど、その姿は滑稽だった。必死の形相で、真っ青の顔で、片手でガラスを打とうとしているその姿勢は、滑稽以外の何物でもなかった。滑稽で、哀れで、ひどく惨めで。醜く生にしがみつこうとする、ひとりぼっち、ひとりぼっちの――掴みかかるように舞い戻ってきたマイナス側の冷静が、もう一度おれを支配した。
 ガラスの中のマグマラシが、しゅんと耳を垂れた。おれは、ずるずると、その場に崩れた。
「……いや、いいんだ。放っておいてくれて……」
 ぼやくように言った声が、聞こえたか、聞こえてないかは分からなかった。
 もはや頭上に見えるチョンチーは、急に何やら慌てたように、くるくると旋回しはじめた。
「あ、あれ? どこに行った? ま、待って! 待ってよ! 置いていかないでくれ、もう少し僕と話をしてよ」
 なんだ、見失っていたのか? 口に手を当て、おーい、と呼んでみる。チョンチーははっと体を強張らせた。
「どこ、どこにいる?」
「下だ、下」
 嬉々として身を翻し、チョンチーはこちらに猛進してくる。うわわ、速い、速い! 自分自身にぶつかることがないとは分かっていても迫ってくるのは怖いもので、おれは思わず目を瞑った。ごちん、と鈍い音がして、足元が派手に揺れた。あイテ、と二度目の声がした。ばからしくて笑ってしまう。
「ああ、いた、よかった。ねえ勝手に行かないで、久しぶりに誰かと話せて嬉しいんだ」
 それからチョンチーは、おれにぴったりと身を添わせるようにして泳いでいた。
「悪かったよ。でも、待とうにも、待てない。おれにはどうにもできない、このまま沈んでいくだけだ。ボールに推進力なんてないからな」
「ボール? ……ああ、知っているよ。赤と白のあれだろう?」
「あれって、目の前にあるだろ、今」
 おれの鋭いツッコミも全く意に介さない様子で、チョンチーは相変わらず明後日の方向を見ながら続けた。
「あれはいつもぺしゃんこになっていた」
「え、なんだって?」
「ぺしゃんこだよ。最初は丸くて、――ふむ、なるほど、君も丸いね。それからどんどん沈んでいくと、途中でぱこっとぺしゃんこになる。この辺の海の深みはとんでもない深みだから、沈むところまで沈むと、強い水圧に耐えきれなくなってぺしゃんこになるんだ」
「……なかなか怖いこと言うな、お前」
 酸欠か、飢えか、はたまた凍えか、というおれの死因リストの中に、圧死というのが加わった。どこまで沈むとそうなるのか、まったく見当もつかないが……いつその時が来るか知れないというのも、なかなかに恐ろしいものだ。情けなくもびくびく体を震わせていると、チョンチーは焦ったように言った。
「ああ、そうか、君は今ボールに入れられているということか。ごめんね、気が向かなかった」
 見りゃあ分かるだろ、という本日二度目の鋭いツッコミが飛びだす前に、でも、とチョンチーは言葉を継ぐ。
「どうして?」
「……おれがこうして、ボールに入ったまま沈んでいることか?」
「うん」
 チョンチーは触手をふるふる揺らすと、先端の黄色い膨らみを、ちかちかちかと瞬かせた。
 光の信号は誰に受け取られるでもなく、深海の闇に落ちていく。
 おれはまた、しょげた顔をしているに違いない。ガラスを覗きこめば、また耳を垂れた哀れな生き物が映っているに違いない。ひとまず、ぶるんぶるんと首を振る。黙っても、喋っていても、死んでいくのは同じだった。
「……船から放り出されたんだ」
「船? って、あの? うるさくて、じゃんじゃん波を立てている?」
「そう、その船」
「……船……」
 深刻めいた声色でチョンチーは呟いた。
「……ということは、人間にやられたのかい、君。海に捨てるなんて……まったく、人間はひどいことをする」
 はっ、とおれは目を見開いた。
「違う!」
 気がつくと、叫んでいた。いくらしょげていても、勘違いされるのは猛烈に悔しかった。背中から炎が出そうになって、堪えるために拳を握った。大声を出されて、チョンチーも固まっていた。違うと分かっていても、主人を侮辱されたような気がして、おれは震えが止まらなかった。
「違う、おれは捨てられてなんかない、主人はおれを捨てたりしない。主人はおれを……主人は……主人が」
 震えているのが、怒りのためだけではないことに気付くのは、そこまで言ってからだった。
「……主人が死んだかもしれない。どうしよう」
 チョンチーは黙っていた。
 深く、深く、落ちていく。まだ視界は利くが、光が遠く、薄暗くなってきた。ゆっくりと沈んでいくおれのボールと寄り添うように、チョンチーもまたゆっくりと、底へと向かって泳いでいった。
「走馬灯って言うのかな、こういうの。なんか、いろいろ思い出す」
 声も震えて、情けなかった。泣きこそしなかったが鼻水が垂れて、うっとうしい。
「旅をしているんだ、おれたちは。ジムバッジを集めて、ポケモンリーグ……って、お前には分からないかもしれないけど、ポケモンリーグに出場して、チャンピオンになるって夢があった」
 やはりチョンチーは黙っていた。構わずおれは続けた。
「次のジムを目指して、船で海を渡っていたんだ。突然だった。目の前に大きい龍みたいなヤツが現れて……」
 ギャラドスだね、とチョンチーは言った。
「船がひっくり返って、主人は海に放り出された。海に落ちた衝撃で、おれや仲間たちのモンスターボールは、海にちりぢりになって、主人とギャラドスを残して沈んだ」
 もはや、見上げたところで、転覆した船の姿は見えなかった。
 海というのを見るのは初めてだったけれど、それが途方もなく深くて暗くて、そこに落としたものを拾うのが到底不可能であることを、おれはなんとなく知っていた。海を渡るのは怖かった。けれど、いざ落ちてみると、恐怖心よりもむしろ、おれというのが、いかに無力で、ちっぽけで、あっけない存在だったかというのを、身が裂かれるほど感じていた。
 声に出してみて分かったのは、冷静だと思っていた部分が、ただ現実逃避をしているにすぎなかったということだった。死に直面したときに、冷静でいれるはずなどない。おれはそれほど達観した生き物ではなかったのだから。
 主人と、仲間たちと、もう二度と会うことなく、それぞれがひとりで死んでいく。そんなの受け入れられる道理がなかった。頭の端では分かっていても、大事な人たちを守れず、このまま終わってしまうのを、本当の意味では認められないおれがいたのだ。けれども映画は続いていく。だからあくまで客観的に、おれはこの安い悲劇を眺めていた。そして、三文芝居の幕切れを、文句も言わずに待っている。そうして待っていることを、悟り違えるようにして、おれ自身が選んでしまった。
「……もう、終わりだ。何もかも」
 それもまた、迫る終幕を迎えるための、役者の吐いたセリフに過ぎない。
 海は静かだった。時が経つにつれ、海というのは、ますます闇と同じになった。チョンチーの触手の明かりだけが、ほんのり辺りを照らしていた。埃のような白いものが、時折横に流れていった。
 暗がりの中で、チョンチーは微かに笑った。
「君、ぼくと一緒に暮らさない?」
 は、と息が漏れた。その意味が、おれにはさっぱり理解できなかった。
「何を言うんだ、藪から棒に」
「それもいいと思わない。いいよ、この近辺の海は、……まぁ目立ったものは何もないけれど、その分とっても住みやすいよ。流れは速くないし、潜りすぎなければ、そこまで冷えることもない。食べ物だって、探そうと思えばたくさんある」
「なんだってそんなことを言う。おれはマグマラシだぞ、炎タイプのポケモンだ、寒い海では暮らせない」
「暮らせるさ、現にボールの中なら」チョンチーの声は確かにどこか嬉しそうで、
「このままずっと生きていくなんて、無理だ」おれは少しの恐怖を感じた。
「……ううん、違う。ごめん。本当はそんなこと、海がどうとか、どうだっていい。君と一緒にいたいんだ、ぼくは」
 何言ってるんだよ、とおれは問うた。ぼくの話も聞いてくれるかい、とチョンチーは言った。穏やかで、優しげで、いたく寂しい音色だった。
「メノクラゲの友達がいて、少し前に喧嘩をした。喧嘩と言っても、ちょっとした叩きあい程度の……じゃれつくような喧嘩だった」
「やつって、毒を持ってるだろう」
「触手が目を掠ってね」
 ――そこで、チョンチーが何を言わんとしているのか、おれは勘付いてしまう。
「最初はどうもなかったんだよ。けれどだんだん、昼間が昼間でなくなっていった。夜があるでしょ、夜が来て、夜が明ける。そこから長い長い明け方があって、夕暮れが来て……また夜になる、そんな日が続いた。三日前の晩、ぼくは眠りについて――とうとう朝は来なかった」
 ちかちかと、チョンチーは触手を瞬かせた。
 闇の向こうの方、宇宙の星のように漂っている他の触手のいくつかが、ちか、ちか、と反応した。信号を、チョンチーは受け取らなかった。ただチョンチーは微笑んでいた。
「ぼくは流されてしまったのかと思った。深く沈んでしまったのかと思った。上へ、上へ泳いだ。なのに、いつまでも海面は現れない。延々と暗闇の夜が続いた。群れの皆の名前を呼んでも、ぼくらは光で会話をするだろ、どこにいるのか、ちっとも見当がつかなかった。
 幸いにも、襲われることは今までなかった。困ったのは食べ物だった。水を吸って、赤ん坊の頃みたいにプランクトンを食って……それじゃあ腹は膨れない。三日もすると、疲れてきた。気を抜くと、はぁ、そのまま沈んでしまいそうになる。ここで終わるんだと思った。今だって思ってる。ぼくはこのまま、飢えて死ぬか、食われて死ぬか、どこかへ流れて凍えて死ぬか……」
「……おい」
 おれの呼びかけに応じず、チョンチーは一周くるりと舞った。
「でも、君が来た。君が偶然来てくれた。ひとりでいるのは辛かった。ひとりで待つのが怖かった、いつぱくっと食われるのか、ぼくがあっけなく死んでしまうときを、ひとりで待つのが怖くて、でも君が来てくれた、神様がぼくに、君という人をよこしてくれた!」
 おい、よせ、やめろ。おれはもう一度立ち上がった。全身の汗腺から、冷たい汗が噴き出していた。チョンチーはけたけたと笑った。壊れたような笑顔だった。
「だから、君、ぼくと一緒にいてくれよ。一緒に深海まで落ちてこうよ。死ぬまで君と一緒にいる。君が、君の入れ物が、ぺしゃんこになって潰れるまで、ぼくは一緒に泳いでいく、どこまでも一緒に泳いでいくから」
「――やめろ! なんでだよ、なんで諦めてるんだよ!」
 かぁっと溢れだした熱と、恐怖と焦りと怒りとが、収まりきらず、おれは突としてガラスを殴った。
 無力だった、震動は殆んどなかった。特殊ガラスは、冷たかった。凍えそうな暗い闇を酷に物語っていた。深海の中で、チョンチーは他人事のように笑っていた。それが腹立たしかった。埃のような、綿のような白いものは、雪のように降っていた。
「お前には耳があるだろ、鼻もある、えらも、ひれも、触手もしっかり残ってるのに、なんで簡単に諦めてんだよ! 生きようと思えば、水の匂い嗅いで生きれるだろ、音聞いて生き延びれるだろ、闇雲に逃げればいいし、電撃だって出せるだろ、まだいくらでも手が打てるんだ、お前はばかだ、早すぎる、諦めるのが早すぎる、なあそうだろ、なんで諦めてるんだよ!」
 畳み掛けるように放った言葉たちが、ボールの中に反響して、海の暗闇に呑まれていく。
 やはり、チョンチーは微笑んでいた。けれど、真摯な顔をしていた。
 それから、チョンチーはひっそりと言った。
「――なんで諦めてるんだよ」
 ……、ああ。
 それは、貫かれるような衝撃だった。
 いや、本当は分かっていた、心のどこかで知っていた。巨大な龍を前にして、おれたちはあまりに無力だった。水面の主人の影が遠ざかっていくさなか、悔し涙も出ないほど、おれはなにひとつできなかった。チョンチーに偶然会って、一度は助けを求めた。けれどもやめた。呼吸のできる場所に戻ったところで、おれなんかが、あの凶暴なギャラドスになど、敵うはずないと諦めていた。
 諦めていた。諦めていたのはおれだった。可能性を放棄し、あんなに焦がれていた夢をぞんざいに過去のものとして、いざなう深海へと目を背けようとしていたのは、他でもない、おれという人そのものだった。
 首を捻り折りたくなるような、はらわたを差し出したくなるような、熾烈なまでの羞恥心。それをプライドが許さなかった。そして何より、そこに寄り添っているチョンチーを、裏切るわけにはいかなかった。
「お、おれは……おれだって……」
 ――空に、ぼんやりと、まだ光が見えた。
「おれは……生きる。いいか、見てろよ。生きてやる。おれは絶対に生き延びてやる」
 世界が明るみを増した。チョンチーの触手だけではない。おれの背中が燃えていた。
 籠もる熱と、息苦しさを感じ始めて、嫌な汗が体を伝う。おれはガラスにへばりつき、吠えた。チョンチーに向かって吠え続けた。
「主人は死んでいるかもしれない、仲間も死んだかもしれない、船だってきっと粉々だ! 全部失ったかもしれない、何も、何も残ってないかもしれない、けど、諦めない、おれは諦めない、絶対に絶対に諦めない」
 チョンチーは笑った。顔を崩すようにゆるりと笑った。触手の電灯が、深みのおれたちを包み込んだ。
「だからお前も」
 ふっ、と足元がぐらついて、危うくバランスを崩しかける。
 急にチョンチーの姿が見なくなった。いや、黄色く輝く触手だけが見える。間近に見える。触手に照らされた外闇の中で、白い埃の粒たちが、猛スピードで下へ下へと流れていっている。それは降りしきる雨か、さながら流星群のようだった。
 特殊ガラスにへばりつき、覗きこんでみて、分かった。チョンチーが俺を額に乗せて、空の方へと泳いでいくのだ。
「だからお前も、諦めんなよ」
 自然に言葉が漏れ出るように、おれは喋っていた。かつてなく心臓がばくばくと高鳴った。凄いスピードだ。海が、世界が、急激に神秘的な透明感を取り戻していく。
「諦めんな、いいか、諦めんなよ。諦めるなんて許さねぇ。死に物狂いで生きろ、生きて、生きて……また会うときまで、おれがお前を認めるときまで、絶対お前も諦めんな!」
 そのとき、チョンチーの触手が開閉スイッチを押しこんで、おれはボールから解放された。
 海の中に飛びだすのは、当然ながら初めてだった。体が縮みあがるようだ。海面までは遠くない、あと少しだ。両手両足をばたつかせ、なんとか上を目指す。押し上げられるような感覚があって、見下ろすと、チョンチーだった。しばらくそうすると、力尽きたというように、不意にチョンチーは泳ぐのをやめた。
 ばた足は止めず、首だけ回した。沈みゆきながら、チョンチーはもう一度笑顔を浮かべた。ちかちかと、幾度となく触手を点滅させた。その光信号の意味が、おれには分からなかったが。生きてゆける、と思った。歯を食いしばり、上空だけに向き直った。
 最初は水を弾いていた体毛もてんで役に立たず、身を切るような冷水が体中に浸み入った。経験したことのない急激な体力の摩耗。意識がぶっ飛んでいきそうだ。口から鼻からあぶくが漏れて天へ天へと上がっていく。波打っている。空が波打っている。光の帯が揺れている。景色がぐらぐらぶれ始める。ああけれどがんばれもうすぐだ。もう少し。ひとかき、ふたかき、手を伸ばす、水を蹴る。寒い、痺れて、苦しい、霞んでいく、景色の中に、微かな影を、見たときに――おれは、むせかえるような激しい昂りを覚えずにはいられなかった。
 ボールのままで沈んだはずの仲間たちが、それぞれ同じ場所を目指して、海の底から戻ってきていた。
 力が湧き上がってくる。ありえないくらいのエネルギーが、腹の中で爆発している。ひとかき、ふたかき、伸ばす手が、ぐんと大きくなって感じる。ないと言っても過言でなかったはずの爪が、鋭く水を捉えている。体がいつになく重い、けれど、水を後ろへ押し出す脚は、それ以上に力強い。熱い。凍えるような海なのに、信じられないくらいに熱い。妙な熱に、知らない光に包まれている。仲間たちがおれを見ていた。苦しげな表情で、なのにニヤリと、希望に満ちた表情で笑っていた。
 海面はすぐそこだった。太い水色の龍の尾が、そこにのたうっていた。転覆した船の残骸。ここからは伺えないが、おそらく、それに乗っているのであろう誰かが、力強い声を発した。あまりにも聞き慣れた声だった。おれは、おれたちは、誰からともなく、その声に応える咆哮を上げた。
 光が、ヒカリが、幾筋のひかりが。遠海の空へと、燦々と降り注いでいる。










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