逆襲






「あのー、おれ、ずっと気になってたんですけど……その化石って、どうやって復元してるんすか?」
 見事な接客スマイルを披露していた受付嬢の顔が、ヒクッ、と分かりやすく引きつった。
 青いスーツに包まれた華奢な腕が、無骨な化石を抱く滑らかな指先が、順にぴくぴくと痙攣していく。豊潤な唇が閉ざされる。そそられるほど美しい曲線を描く腰が小刻みに揺れているのを見る限り、膝もガクガク震えているに違いない。
 おれが薄くほくそ笑むのに、彼女はきっと気付かなかったろう。そう確信できるほど、その怯え方は尋常ではなかった。ついさっきまで、化石を預けに来館したお子様トレーナーに対応する親切なお姉さん面を浮かべていたのが、今は邪悪オーラ漂うサザンドラを前にした生まれたてのクルミルさながら。おれはカウンターから身を乗り出すようにして畳み掛けた。ここで追及を緩める訳にはいかないのだ。
「やっぱ、でぃー、えぬ、えーがどうとかこうとか、そっち系の難しい話なんすかね? おれ、見てのとおり勉強とかサッパリなんで、多分話聞いても分かんないし、できれば見学させてもらいたいんですけど」
「けけ、見学でございますか? いえ、え、えぇと……」
「お姉さん、化石の研究してるってさっき言いましたよね? もしかしてお姉さんが復元してるんすか? すげぇなぁ、気になるなぁ。立ち会ってもいいっすかね、いいっすよね、おれの『ふたのカセキ』ですもんね」
「あ、あの……化石の復元に関してはその、ごごご極秘事項でして……」
「えぇっ、でも、俺の化石なのになぁ。じゃあ、ちょっとだけでも! ちょっとくらいいいじゃないっすか、ね? 本当に一瞬でいいんで、ちらっとでも見れれば俺満足なんで! お願いします!」
「だ、だからぁッ……――博物館の最重要機密なんですっ、お引き取りください! ごめんなさい!」
 そうして、化石を抱いた受付嬢は、あたふたと奥の方と逃げていった。
 博物館の少ない客が、訝った視線をこちらに向けた。とはいえ、そこにはいつも通りの静寂が戻った。レトロチックな掛け時計も、何食わぬ様子で平穏を刻んでいる。十二時五十七分。極めて呑気な音が、おれの腹から鳴った。昼飯を食わずに来たのは失策だったか。
 顎をさすりながら見渡すと、同じスーツを身にまとった端正な顔立ちの受付嬢たちは、皆流し目でおれを見ている。……揃いも揃って、青ざめた顔で。
 どうやら事情に通じた者には、平穏な時間は戻らなかったようだ。
 化石の復元までの時間を潰すていをして、受付の視線からの死角へとぶらぶら移動し、そこでついに堪え切れなくなって噴き出してしまった。にやりと歪みそうになる口元を必死に隠しながら、おれは心の中で歓喜の雄叫びを上げる――あぁ、やっぱりそうだ。あの焦りっぷり! おれの目に狂いはなかった。ここには何か、面白いモンが隠れてやがる!
 幾多の展示物の影をうまく利用しながら、おれは誰にも気付かれないよう男子トイレの中へと忍び込んだ。あらかじめ用意しておいた、館のものをそっくりそのままトレースした『清掃中』の立て札を置いておくのも忘れない。
 館内の見取り図は既に入手済みだ。怪しいのは、化石研究をしているというあの女が駆けこんでいった通路の奥だが、あの先は上り階段で、小さな部屋へと繋がっている。そいつはおそらくフェイクだ。わざわざ一階分上らせるところが、分かりやすくて憎らしい。
 どうも聞いたところによると、シッポウ博物館の館長は、隠し階段がお好きだそうで。
 愛鳥のケンホロウの背をよじ登って手を掛けると、トイレの通気孔の蓋はいとも簡単に外すことができた。体を捻ってそこへ入りこむ。暗くて埃っぽいが、人ひとり通れない狭さではない。ケンホロウをボールへ戻し、次のボールの中身を見えない目先へと解放する。ぼぅ、と薄く世界が浮き上がる。このヒトモシは十分に懐かせてあり、おれの生命力を吸い取るような真似はしない。人魂のような青白い炎がぴょこぴょこと前進を始めた。おれは四つん這いでそれに続く。
 博物館の中は心地よい静けさで満たされていたが、狭苦しい通気口には、沈黙の中に何かおぞましい生き物が蠢いているような、そんな空気が漂っている。遠く低く風の呻りの中に、ヒトモシの小さな足音と、おれの潜めた息遣いが吸い込まれていく。胸の高鳴りを感じながら、おれたちは予定通りのルートを取って、受付嬢たちの頭の上をやすやすと通過していった。
 ヒトモシが歩みを止めた。数メートル前方に、細く立ちのぼる煌めきが見える。嬉しそうに振り向いたヒトモシの体を撫でてからボールの中に戻すと、訪れた暗黒の中で、光はいっそう強さを増しておれの網膜を刺激した。気配を押し殺してにじり寄る。焦りは禁物だ。ゆっくりと慎重に、金網の隙間からその部屋を覗いた。
 ――青の帽子を被った女がいる。傍らの机の上には、おれが渡したふたのカセキが置いてある。
 ビンゴだ! 弛む口元が抑えきれない。案内嬢は化石を睨んだまま動かず、全くこちらに気づいていないようだった。まぁ、完全なる悪人面のお子様にダクトから見下ろされていようとは、よもやこの女も思うまい。
 息を潜め、隅々まで舐め上げるように狭い室内を観察する。部屋の中央には木製の机。壁沿いの本棚の中には大量の文献らしいものがしまい込んであり、その向かいの棚の中には、大量のモンスターボールが陳列してある。
 あのボールは、一体何だ? そんな疑念が浮かんだ瞬間、女は化石から目を離すと、いそいそと問題の棚の前へと移動した。そこにつっ立って、じっとモンスターボールの群れを眺めている。
 ……意味が分からない。何をしているんだ? 化石の復元と何か関係があるのか?
 おれの中に焦りと苛立ちが募っていく。そんなことはお構いなしに、女は突然かくりと頭を垂れると、ハァ、と溜め息をひとつ漏らした。
「仕方ない、取りに行くか」
 そう言うと、女は帽子を取って顔を上げた。ちらりと覗くその表情は、どこか憂いを帯びて見える。
 ――取りに行く?
 疑問がどんどん膨らんでいくさなか、女はだるそうな様子で部屋の中央手前よりへと移動していく。そこには、大人ひとり入れるほどの大きさのヘンテコな機械が置いてあった。その中で女が何かしている、だがよく見えない……必死に体を捻ると、何やらぶつぶつと呟きながら、仰々しいレバーに手をかける女の姿が垣間見えた。
 その時だった。突如奥の扉が押し開かれて、研究員のなりをした男が入ってきた。
 どきんと心臓が鳴った。おれはとっさに頭を引っ込めた。カツカツと男の靴の音が響いた……若干ヒヤリとしたが、幸い気付かれはしなかったようだ。男は案内嬢と二言三言話をすると、さっさと部屋を出ていってしまった。案内嬢も慌ててその後を追っていった。
 扉が閉まると、階段を駆け上る足音は急激に遠ざかっていった。おれとしたことが今のは少し危なかったか、思わず安堵の息が漏れた。再び体勢を立て直して金網の下を覗きこむと、部屋には寂しそうに佇む化石と、妙な音を発している謎の機械だけが残されている。
「……行った、のか?」
 返事はない。――チャンスか? チャンスだ。行ってしまえ。
 金網の隙間からモンスターボールを落とした。ボンッと少し大きな音がして、控えめな格好でケンホロウが飛び出した。奥の扉は閉まったままだ。ケンホロウが器用に金網を外して、おれもなるべく物音を立てぬように、ケンホロウの背中を滑り下りた。愛鳥をボールに戻す。鉄の扉は動かぬまま。
 まずはモンスターボールだ。急いでそれに駆けよると、モンスターボールの一つ一つにラベルが貼ってあるのが確認できた。アーケン、リリーラ、オムナイト……どれも古代種のポケモンの名前ばかりだ。もしやこれは、化石から復元されたポケモンたちか? ふたのカセキから復元されるべき、『プロトーガ』という名前の書かれたボールは見当たらない。『取りに行く』……この他にも、化石ポケモンの保管庫があるということなんだろうか。
 視線を下げて、おれはぎょっとした。そこに乱雑に詰まれているダンボールに殴り書きされた文字が、一気におれの心を煽っていく――プロトーガ。ガムテープを引き剥がすと、そこには大量の『ふたのカセキ』らしきものが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
 さぁっと胆が冷えていくのを感じた。ポケモンに生まれ変わるものだと信じていたものが、命を得るのだとばかり思っていた冷たい石の塊が、あたかも廃棄物であるかのようにそこには積み上げられている。他のダンボールには同様に、古代種のポケモンたちの名前が記されている。中身は容易に想像できた。つまり、……復元するのに、化石を使わない……?
 ガンガンッ! 大きな物音が響いた。あまりに興奮しすぎてそれが上からなのかこの部屋からなのかも分からないが、俺はとっさにダンボールを元に戻した。時間がない。更に怪しいヤツが、さっきから呻り声を上げているのだ。奴らが戻ってくる前にコイツを調べなければ!
 小さな部屋の中で桁はずれの存在感を放っているその機械に、おれは躊躇もなく飛び込んだ。そして――おれの思考は、さらに戸惑いの渦の中に吸い込まれていく。
 中はさながらSF映画にでも登場しそうな、宇宙船のような様相であった。人ひとりがやっと入れる大きさのカプセルの中に、流暢な外国語の音声が流れ続け、手元のパネルには赤青緑の数多のランプが絶えず点滅し、目の前のモニターでは幾千もの数字の羅列が流れ続けていて、足元はガタガタとイカれた列車のように振動している。――ザチェックオブザセイフガードワズコンプリートシステムオールグリーントランスミッションプリパレイションワズコンプリートプリズユニットアダイアルトゥザターゲットエイジ――ああだめだ訳が分からない。この博物館は一体どうなっているんだ? 頭がおかしくなりそうだ。動悸が激しすぎて、きっともうすぐ口から心臓が飛び出してしまう。外から怒号が聞こえる。それもかなり近くで。
 ばれてはまずい、その一心で、おれは1500とか20万とかBCうんたらとか書いてあるダイアルをぐるぐる回し、無我夢中で手元のレバーを引いた――それは、あの時、青いスーツの案内嬢が手をかけていたレバーだった。
 目の前が真っ暗になり、はたまた真っ白になったかと思うと、おれの意識は極彩色の怪しげな空間に投げ出されて、あれよあれよという間にどこか遠い場所へと流されていった――






 ――気がつくと、おれは草むらの上に寝ていた。
 ひどく落ちついた気分だった。だだっ広い草原の真ん中に大の字に寝っ転がって、ただぼんやりと、空を行く白い影を眺める。千切れ雲がぷかぷかと、ゆったりゆったりと、頭の上を横切っていく。
 何故だろうおれはその時、全てを悟ってしまったのだ――ここは過去の世界で、後にシッポウ博物館となる場所なんだということを。あのへんちくりんな機械はタイムマシンだったのだ。にわかには信じがたいが、例えば本物のSF映画の中で、これはタイムマシンですよと言われてあのデカブツを目の前にすれば、誰だって「あぁ、これはタイムマシンだ」と思うだろう。四百キロ近いホエルオーが手の平サイズに易々収まり、ネイティやポッポが人間を乗せて空を飛び、自転車をショルダーバックに詰め込んで、ニャースが二足歩行でギターを弾きながら人間語をベラベラ喋っても、驚く人の方が馬鹿にされるような時代だ。秘密裏にタイムマシンが開発されていたとしたって、全く不思議ではない。
 腰に手をやると、おれの大切な仲間達のモンスターボールは、いつもの場所にきちんとひっついている。これなら安心だ。こいつらさえいれば、おれはどんな場所でも、どんな時代でだってやっていける自信がある。
 冷静さを取り戻すと、頬に当たる風も、耳元で鳴る草のさざ波も、なんとも伸びやかで心地よい。何もないってのもなかなかいいものだ。目を閉じて、自然のさざめきを感覚のすべてで堪能する。瑞々しい草の匂い。芳しい土の香り。清水のような凛とした風。なんという素晴らしいハーモニー……なんだか眠たくなってきた。
 おれは目を閉じたまま、だんだんと蕩けていく脳味噌をなんとか働かせつづける。機能低下していく頭の中でも、化石復元の謎はするするとほどけていった。簡単なことだ。『取りに行く』というのは、つまり。あの化石研究の案内嬢は、化石の復元を委託されるたび、タイムマシンに乗って遥か古代へと赴き……。
「おぉ? こんなところに人が倒れとる」
 その声におれはとっさに飛び起きようとして、覗きこんでいた誰かと豪快に額をぶつけてしまった。
 ウギャ、と誰かが悲鳴を上げた。気を取り直してそろそろと起き上がると、目の前には苦悶の表情でデコを撫でている男の姿があった。麻のような一枚布に穴を開けて首を通し、腰のあたりを紐で縛っただけの簡素な服装……間違いなく昔の人間だ。笑っちゃうくらい古代人。おれの直感に外れなど存在しないのである。
 不精髭の男は若干姿勢を引きながら、しかし遠慮なしにおれの全身をじろじろと見まわしている。
「……ほう、珍しいもんを着よるのう。外人さんかいね」
 はぁ、とおれは曖昧な返事を返した。
 起き上がってみれば、そう遠くない場所に、幾多の人間のぞろぞろ行列しているのが見える。自然のさざめきがどうとか言ってた数分前の自分がなんだか馬鹿らしい。ともかく、この男はあの群れからおちおちやってきたようだった。
 蛇のように連なる人の群れ。おれは目を凝らす。老若男女、一列になって歩いていく人々の表情は、どれもこれも総じて暗い。そしてそれぞれの手には、さまざまな何かが提げられて、重たそうに揺らされている。
「あれ、何?」
「はぁ?」
 男はおれの顎が指し示す方向に振り向いて、ぽりぽりと頬を掻いて、くるりと向き直った。
「わしの女房か?」
「あと、今って何年?」
「はぁ?」


 他に取り立ててやることもなかったので長い行列に続いていくと、一行は鬱蒼と茂る森の中へと躊躇いなしに進んでいくのであった。
 訂正。鬱蒼と茂っていたであろう森、だ。頭上を覆う葉も枝も、足元に絡みつく草や蔦も、景色を陰鬱に仕立て上げる苔もキノコも、どれも一様に元気がない。紛うことなく原生林なのに両手を広げたくなるような爽やかな空気はなく、かび臭いような重たいものがおれの喉へと絡みついた。耳を澄ませど、鳥ポケモン一匹のさえずりさえ聞こえない。ただ響くのは、ざり、ざり、と、人間たちが踏みしめる重い土砂の軋む音のみ。枯れかけた森、とでも言うのが適切だろうか。立ってるだけで気が滅入る。
 どこもかしこも褪せた色合いの中を歩みながら視線を動かすと、人々が手にしているもの――錆色のバケツ、土の壺、木をくり抜いて作られたコップ、蓋のないやかんのようなもの――には、淀んだ色の水がたぷたぷと揺れている。
「前はここも、良かったんじゃがのう」
 例の不精髭がそれだけ呟いた。その腰には、黄土色のひょうたんがいくつもぶら下がっている。
 やがて行列は足を止めた。前方で何か行われているらしいが、先頭の人々の姿は木々の影の向こうにある。押し黙って順番待ちをしている人々の脇を抜けてしばらく歩いていくと、今度は戻ってくる行列とすれ違った。やはり、どれも疲れ切った表情を浮かべている。ちらりと盗み見ると、それぞれが提げている器には、水は入っていなかった。
 折り返し地点にたどり着いて、おれは、ほう、と思わず息を漏らした。
 そこにはとんでもなくでっかい木が立っていた。見上げると首を痛めるような、天を貫かんと聳える巨大な一本柱。おれは目を凝らす。これはイチョウの木だ。広い森を見渡す限りでも、他のどれよりも断然に高く、生命の全てを抱くかのように鎮座する巨木。太古の昔からの全ての出来事を見つめてきた、そんな圧倒的な威圧感。長寿の木ではあると聞くが、これほどまでに大きくなるとは……。
 しかし、とおれは眉を曇らせる。遠目に見ても分かるほどに、葉は萎れ、色褪せ、幹は腐り、朽ちようとしている。病気なのだか寿命なのだかは分からない。ただ、確かに、イチョウの大木は、色濃い死の気配をまとわりつかせていた。きっともう長くはない。
 ぶつぶつと呪文のような何かが唱えられている。視線を下ろすと、人々は悲痛な面持ちで年老いたイチョウを見上げ、手にしていた器を持ち上げ、その根元に泥水を注ぎ込むと、必死に何かを呟きながら手を擦り合わせている。誰もがその一瞬、懇願するように瞳を潤ませている。……なるほど、ご神木ってことか。もう一度それを見上げようとした時、おれの隣に、白い髭を蓄えた老人が寄ってきた。
「旅の人かね。見なさい……我々の父なる大銀杏様が、お隠れになろうとしておる。なんとも痛ましいことじゃ」
「そうですね」
「森の様子も一変しおった。以前はあんなに豊かで実り多く、我々に命の恵みを与えてくださっておったのに……。全て、ここ数カ月の酷い干ばつのせいなのじゃ。天の神様がお怒りなのじゃ。しかし、先祖代々語り継がれ、土を潤し実を太らせ、多大なる大地の恩恵、占えば百発百中、誰も彼もが相思相愛、見守られ、お守りしてきた大銀杏様を、我々の代で途絶えさせてしまうわけにはいかん。わしらは、例え自らが渇き喘いで死のうとも、大銀杏様をお守りせねばならん」
「そうですね」  
老人はじろりとこちらを睨んだ。おれが興味なさげなのが気に喰わなかったようなので、ひとつ質問をしてみるとする。
「その水は?」
「我々の村の溜め池に僅かに残っておる飲み水じゃ。雨が降らんけぇの、致し方ない」
「……ふぅん」
 老人は語り終えると、腐葉の積もった地面に膝をつき、厳しい顔つきで念仏を唱え始めた。
 入れ替わり立ち替わりに、多くの人々が大木に水をやって帰っていく。ぞろぞろと立ち並ぶ人々の最後列は未だ見えない。彼らの汚れた顔の中には、ただ一片の光さえない。
 あっ、と声がして、やかんのような形状のものが地面にひっくり返った。見るも無残なほどやせ細った女の子が、水を撒き散らして転がっているやかんを前に、わなわなと全身を震わせている。目を剥いた女がその子に駆け寄ってきて、ぐいっと細い体を掴みあげた。
「謝りなさい! 大銀杏様に謝りなさい!」
 ヒステリックな叫び声が、寂れた静寂の森を引き裂いていく。
 母親らしい女は、少女の尻を何度も何度もひっぱたいた。悲痛な泣き声が響き渡った。人々はそれに見向きもしない。ごめんなさい、ごめんなさい、と喚く女の子の横を、死人のような顔をした人間たちが通り過ぎていく。
 ああ、なんだこれは。ばかばかしい。やっぱ昔ってのは不便だ。おれは腰のモンスターボールのひとつに手をかけて、白髭の老人に声をかけた。
「つまり、雨が降りゃいいんだろ、雨が」
「……そうじゃが、そんなことが……」
「降らせてやるよ――出てこい、ダイケンキ!」
 天高く放り投げた紅白のモンスターボールは、空中で光を放って炸裂し――ズシン、と大地を震わして、おれの相棒が過去の世界に降り立った。
 木々が揺れ、木の葉が舞い踊った。空を指すダイケンキの角が、強い日差しにギラリと反射した。そこにいるおれ以外の誰もがあんぐりと口を開ける中、おれは拳をかざして、ダイケンキに指示を飛ばした。
「ダイケンキ、『あまごい』だ!」
 グオォォォォォォォォォッ! ダイケンキの地鳴りのような咆哮が、ヒステリックも、泣き声も覆い隠す様に、世界中を駆け巡っていく。
 日が陰った。人々は空を見上げた。刹那、どこからか現れた真っ黒な雲が、イチョウの神木を中心に渦を巻き、みるみるうちに渇いた天空を覆って、次の瞬間、ピカッと稲妻がほとばしったかと思うと――
 ぽつり。最初の一滴が、涙で濡れた少女の鼻先を叩いた。
 嘘のような大雨が、水に飢えたそこら一帯の生き物の上へと、等しく降り注ぎ始めた。
 おれはダイケンキの肩を叩くと、得意になって白髭を見た。白髭は目を見開いて体を震わせ、どんどんとぬかるんでいく地面に相も変わらず膝をついて、しばらく唖然としていたが、突然カッと口を開いて、しわがれた声を大きく放った。
「――神じゃ!」
 ……え?
 神だ! 雨の神様であらせられるぞ! 恵みの雨をお降らしくださった! みんな、控えろ! そんな声がところかしこから聞こえて、全員が全員水やり用具を放り投げた。おれとダイケンキが振り向くと、そこには、川と化し始めた地面にひれ伏している長い行列が、どこまでもどこまでも続いて、木々と雨霧の向こうへと消えていた。


 そんなこんなでおれは一気に神様へと祭り上げられて、彼らの村へと引きずり込まれて、何やら集会所のような場所で、ご馳走なんだという木の実やら怪しい肉やらをたらふく食わされて、村の女たちの妙な踊りを見せつけられた。
 おれは人形のように座っているだけで、それはもう大勢の人に恭しく崇められた。長老だったらしい白髭はおれの隣について、始終にこにこしていた。あの女の子がやってきて、かみさま、ありがとう、だいすき、と言って、おれの頬にキスをして、恥ずかしそうに帰っていった。
 話を聞く感じでは、このあたりにポケモンは生息していないらしい。現代に残る言い伝えでは、人とポケモンは大昔から仲良く助け合って暮らしていたと言うが、おれには何が何だかよく分からなかった。ここがどこで、いつなのか、なんの手がかりも得られそうになかった。ただ、人々の顔は晴れやかで、皆が皆、心の底から幸せそうに笑っている。なんだかいい気分だ。たまには人助けもするもんだな。
「いやぁ、あのような大きな物の怪を見事に操っておられる姿、いやはや感服いたしました。このような貧相なおもてなししかできませんで、何とも恐れ多い次第でございまする」
 白髭の長老は上機嫌にそういうと、杯をぐびぐびとあおった。
「雨神様は、いつまでここにいていただけるのですかな」
「えぇと、何も考えてないんだけど……今晩はとりあえず、もう一回あのイチョウの所へ行ってみようかなぁ、と」
「さようでございますか、それではお伴を」
「あぁ、大丈夫、一人で行きたいんだ」
 盛大な見送りの中集会所を出ると、もう雨は止んでいた。『あまごい』のPPを切らしたダイケンキが、そこにゆったりと座り込んで休憩している。その背に跨って、たくさんの笑顔に手を振られながら、おれたちは夜の森へと駆けていった。
 森は薄霧に包まれていた。夜になろうとも、そこにポケモンは現れなかった。しかし、耳をそばだてると、気配を潜めてはいるものの、昼間には感じられなかった生命の息吹が、いたるところから伝わってくる。自惚れとは分かっていても、なんだか本当に救世主になったような気がして、おれたちは気持ちよく夜風の中を突っ切っていった。
 巨木の元にたどり着いた。見上げると、大きな月を背負って立っているイチョウのご神木は、心なしか若返ったように感じる。ごろりと寝っ転がると、何とも言えない草の匂いが鼻腔をくすぐる。そこに置き去りにされていた泥に汚れたやかんを見つけて、おれはそれを胸に抱き寄せて、空を見上げた。
 息を吹き返そうとしている森。人々の無邪気な笑顔……。現代に戻る手がかりが何も手に入らない不安よりも、何か心に生まれた暖かいものが、おれの全身を包んでいる。勘違いするほど羞恥心がない訳じゃない、おれという男は何もできない。でも、ポケモンたちは本当に偉大だ。こいつらと手を取り合えば、きっとあの人たちを、もっともっと笑顔にすることができるに違いない。そんな生活も、多分悪くはないはずだ。相棒たちも、刺激的な旅や発見より、常にだれかに求められるような、そんな安定を望むのかもしれない。
 草木が揺れている。大地の鼓動を感じる。夜は静かだ。月は煌々と明るい。冷え切った青い体をさすってやると、ダイケンキは嬉しそうに顔を擦り寄せてきた。何か忘れているような気がしたが、そんなことはもうどうでもいいとさえ思えた。幸せだった。おれはかつてなく満たされていたのだ。
 こんな暮らしも、悪くはない――
 すると突然目の前に、プテラとアーマルドとカブトプスと人間が現れた。
 おれは目を疑った。いや、目を疑う暇もなかった。
 あまりに突然の出来事に、おれたちはなすすべもなく――

 青いスーツを身にまとった女が、ニヤリ、とほくそ笑む顔が、いつまでも脳裏に張り付いていた。






 ――気がつくと、おれはトイレの床の上に寝ていた。
 やはり冷静な気持ちでゆっくりと起き上がり、冷静な気持ちで辺りを観察した。
 ……男子トイレ。ここは男子トイレだ。外しっぱなしだったはずの通気孔の蓋は、何事もなかったかのように元通りに嵌まっている。トイレの入り口の扉の前に置いたはずの『清掃中』の立て札のダミーは、ご丁寧にもおれの腹の上に乗せてある。全く身に覚えがないが、手にはモンスターボールが握らされていて、『ダイケンキ』と殴り書きされたラベルが貼ってあった。
 そろそろと扉を開けると、やはりそこは、シッポウ博物館の男子トイレ前の通路だった。
 夢を見ているようだった。いや、夢を見ていたのかもしれない……でも違う。振り向くと、おれが寝ていた男子トイレの真ん中には、泥のこびりついたやかんがひとつ、寂しそうに転がっている。

 受付には、あの化石研究の案内嬢が、涼しい顔で立っていた。
「お待たせいたしました! こちらが、『ふたのカセキ』から復元したプロトーガちゃんですよ!」
 例のレトロチックな掛け時計は、十三時ちょうどを指していた。不思議と、腹は膨れていた。
 押しつけられるように手渡された幼いプロトーガは、つぶららな漆黒の瞳でおれのことを見上げている。
 あぁ、おれは、青い顔をしているに違いない。目の前の案内嬢は、相変わらずの営業スマイルを炸裂させて、青いスーツを着こなしている。暗闇に浮かんだ悪そうな笑顔となんて、これっぽっちも重ならない。でも、そうだ。おれは、おれたちだけは、知っている。
「……あの」
「はい、なんでしょう?」
「……その化石って、どうやって復元してるんすか?」
 受付嬢は、ニッコリと笑って答えた。







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POKENOVELさんで行われた2010年秋企画の参加作品。




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