Go ahead!





 暗くて、長くて、険しい道。
 行けども行けども、先は見えない。
 竦みあがるほどの絶壁が、君の前にそびえるかもしれない。
 得体の知れない難敵が、君の行く手を阻むかもしれない。
 けれど、その先に――君の踏みしめる、果てしない砂利道のその先に。
 ほんの一筋見えてくる、かすかにきらめく光だけが――





「――ぷはぁっ!」
 洞窟の先には、広い世界が待っていた。
 若いトレーナーを迎えるのは、どこまでも高い空、日差し、鼻腔をくすぐる若芽の匂いに、平らにならされた大地、そして、遠からず映るハナダの影。
 その全ての輝きを受けて、少年は深く息を吸い、ぶるぶると体を震わせて――両の拳を、天へと強く突き上げた。
「空気が、うまいっ!」
「ハッハッハ! 元気なボーズだ」
 突然の声に、少年はひゃっと声をあげた。振り向けば、たった今自分が飛び出した洞窟、その小さな出口の脇に、大柄の山男が座っている。
 途端に少年は血相を変えた。ちょ、ちょちょちょっと待ってくれ!――慌てて彼がかばったものは、何よりも心強い相棒であり、けれど今は力無くへばっている赤い体のポケモンである。
「俺のリザードはもうこんなんだ、バトルだけは勘弁してくれ! 頼む!」
 そのすがるような瞳を見て、男はまた豪快に笑った。
「いやいや、僕ぁ丸腰のカメラマンさ。どれ、記念に一枚」
 バシャリと瞬いた男の一眼レフは、揃って全身泥まみれ、そして見事な間抜け面の一人と一匹をとらえた。
 暖かな風が頬を撫で、尻尾の炎がくらりと揺れる。突然のフラッシュに、彼らはぱちぱちとまばたきを繰り返すばかりだ。
 男はカメラを下した。若い彼らに向けられる笑みは、まるで保護者のそれである。
「ダンジョンクリアおめでとさん、新人トレーナーくん」
 大きな瞳に、ちらちらと花弁の光が舞い込む。
 少年は少し驚いたような顔をした。それから、あぁ、と呟いて、男の向こうの景色を見た。傍らのリザードも、主と同じように目を向けた。同じ地に、おそらく同じような思いを馳せる彼らの瞳から、感慨深さと、ちょっぴり誇らしげな表情が窺える。
「あぁ、俺たち、この山を抜けてきたんだな……」
 彼らの送る視線の先には、澄み切った青空を背景に、天高くそびえ立つ――とまではいかないものの、初心者トレーナーにとっては十分な難所となる小山があった。
 蹴り飛ばしたくなるほど大量のイシツブテに、しつこく超音波を仕掛けてくるズバットの群れ。歩けど歩けど変わらない景色。ピッピにまつわる言い伝えから「お月見山」なんて可愛らしい名前で親しまれるこの山だが、マサラの方から旅立つトレーナーの中には、ここで挫折する者も少なくない。
 その最初の難関の出口、爽やかな日差しとそよ風の元で、少年は湧き上がるような達成感に襲われて――もう一度拳を振り上げた。
「どんなもんだーッ!」
 耳をふさぎたくなるような声量で叫ぶ主人を見て、ついさっきまで弱っていたリザードまでもがギャオギャオーッと鳴き声を上げた。
 一人と一匹の声はお月見山に何度もこだまして、驚いたポッポの群れがせわしく飛び去った。男はもう一度カメラを構えて、こりゃピッピも相当驚いているな、と苦笑しながらシャッターを切る。
「どうだった、お月見山の探索は」
 吠え終わった少年とリザードは、お互いの汚れた体を見やって顔をほころばせる。
「いや、もー当分はごめんかな、こういう洞窟は」
「得たものはあったか?」
「そりゃあもう! 山ん中ってけっこう暗いだろ? だから本当にたくさんつまづいたけどさ、何かと思って拾ってみたらお宝だらけよ! 見てくれよ、ホラ」
 そう言って膨らんだリュックを揺らしてみせる少年の両腕、両足には、無数の青あざやかすり傷がある。男の視線に気づいた彼は、片足をひょいと上げて、トレーナーの勲章な、と照れくさそうに笑った。
「じゃ、俺そろそろ行くわ。行くぞ、リザード!」
 お月見山を背に駆け出した少年と相棒に、男は待て待て、と声をかけた。少年は振り向きこそしたが、その足はばたばたと「その場かけ足」を繰り返す。
「もー、なんだよ、おっちゃん!」
「旅ってのはそう焦るもんじゃない。どれ、洞窟の中で何か変わった様子はなかったか?」
 変わった様子ゥ? 足を回しながら考え込む少年の横で、尻尾を揺らすリザードは今にも座り込みそうである。
「んー、分かんね。最後の方は、もう必死だったからさ」
「そうかそうか、しかしもうすぐだぞ。ちょっと耳を澄ましてみなさい」
 何がだよ、と口を尖らせた少年に対して、素直に音を集めたリザードは――途端に少年の後ろに飛び込んで身を縮めた。
 僅かに空気の流れが変わる。地面に転がっているイシツブテはくるりと丸くなった。コラッタの親子が身を寄せ合い、アーボは慌てて巣穴に逃げ込み、ざわざわと草むらが揺れた。
「ん? どした?」
「ほれ、よく聞け!――来るぞ!」
 男はカメラを手に取り、洞窟の入り口から飛びのいた。
 刹那の後、少年の目に飛び込んだものは――暗闇の中から噴き出してくる、津波のような塊であった。
 たちまちに顔を引きつらせて少年は地面に伏せた。その頭の上を、数えきれないほどの真っ黒なものが次々と飛び去った。重なり合い漆黒の空となる影の隙間に、本物の空の青白い光が、流星のように現れたり消えたりした。
 顔を上げた少年とリザードの瞳には、目の前を駆け抜けるものが持つ両の翼と、小さな白い牙の残像が映った。少年の耳には力強い羽ばたきが、リザードの耳には甲高い無数の鳴き声が聞こえて、一匹は思わず顔をしかめた。
「ズ、ズバット!」
「おい早く先陣を見ろ!」
 どこからかあの男の声が聞こえて、慌てて一人と一匹は波打つ絨毯の下から這い出た。
 青い空の下から見るとんでもない数のズバット達は、小さな洞窟の出口から嫌いなはずの光のもとへ、絞ったホースの先から噴き出す水のような勢いで飛び出し続ける。隣では山男が、何度もシャッターを切りながら興奮気味に何か叫んでいる。
 そのレンズの向く方角を追って、少年は目を見開いた――その目に、次々と閃光が飛び込んだ。
 洞窟から旅立ったズバットの大群は、その先頭から順番に強烈な光を放って、より屈強な翼、より遠くへ、遠くへと飛ぶための大きな翼を手に入れ、彼らの進化形態であるゴルバットへと姿を変えていく。
 高い空と太陽の方へと飛翔する彼らを見、リザードは興奮して唸り声を上げ、少年もまた興奮してかけ足を始めていた。
「すっげー! なんだよこれッ!」
「見たか! 強くなりすぎたズバット達は、その棲み処を後の世代に譲るために、次の洞窟へと集団で旅に出るんだ! そうして、また次、また次のステップへと進み――自然界のズバットでさえ、こうしてだんだんと強くなっていく!」
 男は夢中でカメラを向け、新たな地へと向かう生命の輝きをフィルムに納めていく。
 少年は拳を震わせた。その眼には、誰からも与えられることのない強いきらめきが宿りはじめた。
 相棒の肩を強く叩いて、男に右手だけ上げて、彼は今度こそ次の町へと走り出した。
「おっちゃん、俺も行くわっ!」
 男は彼らへと目を向けないまま、ボーズ! とその声に答える。
「その段差を飛び下りれば、しばらくニビやマサラへは戻れないぞ! いいのか?」
 少年はじれったそうに顔だけ振り向いたが、若草を蹴る足は止めようともしなかった。
「俺、正直、今、新しい冒険以外に興味ねーんだわ! じゃあなっ!」
 そうして坂の向こうへと消えた若いトレーナーとその相棒の背中を一枚だけカメラに残して、男は満足げにカメラを下した。
 ようやく洞窟からの脱出を終えたズバットたちの一群は、晴れ渡る空の中を、漆黒の龍のように長い体躯をくねらせながら、新転地へとはばたいていく。
「――気の済むまで、行きなさい!」




 ――暗くて、長くて、険しい道。
 だから、ただ、君の歩んだ道のりを、それだけを信じて行けばいい。
 どんな苦しみが、痛みが、君を待つかは知れないけれど。
 その、呆れるほど遠い旅路の果てでしか、憧れたものは掴めないのだから。








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