蝶結び






 あたし、アチャモ!
 木の葉の森に棲んでいるの。ママとパパとかわいい妹の四匹家族で、毎日仲良く暮らしているよ!
 木の葉の森はね、きらきらしててのびのびしてて、ポケモンたちはみんなとっても優しくて、すごくすごぉくいいところなの! 春は桜、秋は紅葉がホントにきれいで、夏は涼しくて冬は暖かで、世界で一番過ごしやすい森なんだ。あたしもみんなも、木の葉の森がだぁいすき!
 ……でも、生まれたときからこの森で過ごしてると、ちょっぴりつまんないな、なんて思うこともあるよね。あたしもこの場所で生まれてもう二年になるから、いい加減飽きちゃったというか、うんざり思うこともよくあるの。ほんわかしすぎて、ちょっとなんだか、そう刺激が足りない! オトナたちは満足してるみたいだけど、あたしにとっての木の葉の森は、どこか物足りない……そんな場所。
 だからあたしは時々、パパにもママにも絶対内緒で、こっそり森を抜け出すようにしている。
 森をしばらく西に走ると、ハンカって呼ばれてる町に出るんだけど、そこにはなんと、ニンゲンたちが住んでるの。ニンゲンはとっても刺激的! オシャレな『服』を着たり、かわいく『メイク』したり、あたしがちょっとイタズラすると、『おたまとフライパン』を持って追いかけてきたり、もうおもしろいことだらけで、毎日行っても飽き足りないくらい!
 それにあたし今、好きなポケモンがいるんです。ハンカの町の八百屋さんに住んでいる、赤スカーフのキモリくん。物憂げな眼差しがとってもクールで素敵なの!
 実は今日は、キモリくんと会う約束をしてる日。昨日からウキウキしてなかなか寝れなかったんだけど、顔は大丈夫かな? 水溜まりを覗きこんで確認する。うん、今日も毛並みはバッチリ! 自慢の三枚の飾り羽も、丁寧に整えて、っと。
 ごめんねパパママ、今日もニンゲンの町にいってくる! 二匹が妹をあやしている隙を窺って、あたしはこっそり家を飛び出した。





 森の中は、木漏れ日がキラキラとダンスしていて、風が昨夜の雨のしずくを運んで弾いて、爽やかでなんだかイイカンジ。そして何よりも、朝の空気はホントにおいしい! 新鮮な空気を胸いっぱいにつめこむと、なんだかどんどん元気がみなぎって、地面を蹴る足も自然と早まった。
 そんなときだった。草陰から紫の何かが飛び出して、あたしの行く手を阻んだ。あたしは仕方なく立ち止まって、不機嫌な顔で相手を見上げる――下品な笑顔で声をかけてきたのは、この森に住んでる独り身のドクロッグ。うげっ、あたしの一番嫌いなヤツ。
「よぉ、アチャモちゃん! 今日もかわいいねぇ、舐め回したいなぁ……デュフフッ!」
 イヤッ最悪、やっぱり気持ち悪い! わざわざ立ち止まってやったことがバカらしくなって、あたしはドクロッグの横をすり抜けた。
「あたし、急いでるの」
「ツレないなぁ、ちょっとくらい付き合ってよォ」
「あんたなんかにかまってる時間なんかないの!」
「なんだよォ、カレシにでも会いに行くのかぁ?」
「そうよっ」
 思わず嘘を言ってしまったけど、それを聞いた途端、ドクロッグの表情が一変した。ニタニタしていた半月の目が、ずんずん釣り上がって、充血して、怒りの色に染まっていく。……ヤダ、なんか怖い。
「な、な、な、なんだって……アチャモちゃんは、おれだけのもんだァーッ!」
 ドクロッグは汚い声でそう喚くと、ぐわっとあたしに飛び掛かってきた。
 ギュッ! 毒々しい色の手が、あたしの飾り羽をむんずと掴む。あたしは必死に振りほどいて、一目散に逃げ出した。
 暖まりはじめた空気を引き裂くような勢いで、あたしは森の中を夢中で駆け抜けた。心臓がバクバク音を立てて体じゅうを暴れ回ってるみたい、息が詰まって胸が苦しい。ドクロッグが追いかけてきてるのかどうかちっとも分からなかったけど、とにかくあたしは走りつづけた。キモリくんのことを思えば、このくらいの辛さなんて、全然へっちゃらなんだから!
 どこからか笑い声が聞こえる。すれ違うポケモンたちが、揃いも揃って驚いたような顔をする――そんなのお構いなしにあたしはハンカを目指した。
 けれど、その時、あたしは知らなかったの……ポケモンたちが皆、驚いてあたしの顔を見たワケを。





 予定より随分と早くついてしまった。へとへとになったあたしは、とりあえず適当な建物の前にへたりと座り込んだ。
 さらりと風が撫でると、体毛の中に篭った熱がさらわれていく。寄り掛かるレンガはごつごつ硬いけど、ひんやりしてて気持ちいい――空はすんと晴れ渡っている。すごくきれい……今日はいい天気。絶好のお出かけ日和だ。
 目を閉じると、一瞬ドクロッグの不気味な顔が浮かんだけれど、それをすぐにキモリくんの笑顔が掻き消してくれた。もうすぐキモリくんに会えるんだ。怖かったけど、キモリくんに会いたい一心でがんばったこと、いっぱい聞いてもらおう――
 頭のてっぺんがひりひり痛むことに気づいたのは、そう考えた時だった。そうだ、あんまり必死に走ったから、毛並みが乱れているかもしれない。
 あたしは立ち上がって、くるりと振り向いて、そこのガラスに体をうつした――そしてあたしは気づいてしまった。悲しい事実に。あの時、あたしの体に起こってしまったことに。
 ――飾り羽が、ない。
 あたしは目を疑った。ナイ、タリナイ。一枚足りない。三枚並んでいたはずの、あたしの自慢の飾り羽。今は二枚しかない。いちばん右の羽は、どこ……? それは、あのドグロッグに掴まれた羽だった。
 何度もまばたきを繰り返した。その度に瞳にうつるガラスの中のあたしの姿を、何度も何度も見直した。ない。やっぱり二枚しかない……。きっとあの時抜けてしまったんだ。あたしの飾り羽は今、あの汚らしい手の中にある。もう二度と、戻ってはこない。
 ……あたしの大事な飾り羽。
「――おっ、なんだこのアチャモ、だっさいの」
 陰っていくあたしの心に、追い打ちをかけるような言葉。
 振り向くと、そこにはあたしよりちっこいフカマルがいた。そこの民宿から出てきたらしい。おそらくはニンゲンに飼われているんだろう。
 フカマルはケラケラ笑っている。あたしを見て笑っている。
 あたしはもう一度ガラスと向かい合ってみる。……欠けた飾り羽。不格好だ。バランスが悪すぎる。全然かわいくない。きっと、オトナになっても、ずっとこのまま、不格好なまま生きていかなくてはいけないのだろう。
 あたしの未来を覆い尽くしていく、ゼツボウの四文字。視界がぼんやりと歪んでいく。フカマルはまだ笑っている。その後ろを、滲んだ色のかたまりが、あちらこちらと行き交っていく。ニンゲンたちもポケモンたちも、あたしのことなんか気にも留めていない。あたしが負った心の傷になんか、これっぽっちも気付かない。
 ――こんな姿じゃ、キモリくんに会えないよ。
 キモリくんはもう、こんな醜いあたしになんか、目もくれないだろう。ううん、キモリくんは優しいから、見て見ぬふりをしたり、励ましたりしてくれるかもしれない。でも、そんなのやだよ……心の底から、かわいいって、言われたいよ……。あんなに明るかった世界が、どんどんと黒ずんで、色味を失っていくようだった。
 涙が止まらなかった。悲しい。悔しい。これからどんな顔して生きていけるの? ちっとも分からないよ……。
 ようやくあたしの涙に気付いたフカマルが『しまった!』という表情でおろおろしていると、その後ろから緑色の影がぬらりと現れて、ぽこん、とフカマルの頭を叩いた。
「イデッ!」
 フカマルはそう鳴いて頭上を睨んだ。トゲが当たってかなり痛そうだ。ざまぁみろ。
 あたしの敵を取ってくれたのは、ひょろりと背の高いノクタスだった。
「……女の子泣かすんじゃない」
「な、なんもしてないよ、おれは」
 ちらちらとこちらに視線を向けながら、話を逸らそうとするかのようにフカマルは切り出した。
「それで、マスターはまだなの?」
「お前が寝ぼけて庭を掘り返したせいで少し揉めている」
 フカマルはますます顔色を悪くした。
「……また、おれ、怒られるの」
「知らんよ」
「うぅ……先手必勝かなぁ、謝ってくる」
 とぼとぼと建物の中へ戻っていくフカマルを見届けてから、ノクタスは黙ってあたしの泣き顔を見下ろした。普段ならキッと睨み返してやるんだけど、今日はなんだか恥ずかしくて、思わずうつむいて顔を逸らしてしまった。
 ……悔しい。ヒクツになってる自分が、どうしようもなく嫌になる。
 きっとこのノクタスも心の中では、あたしのことをバカにして笑って、哀れに思ってるんだろうな。マイナーポケモンのくせに。あたしの方が、ずっと人気があるのに。キモリくんが言ってた。アチャモは、ニンゲンたちにとってもかわいがられてるポケモンなんだって。ポケモン初心者にも向いてる、メジャーなポケモンなんだって。それなのに、それなのに……。飾り羽のない惨めなアチャモなんて、きっとかわいがってくれないよ……。悔しいよ……。
 澄みかかっていた視界がまたじわりと霞んだとき、民宿からフカマルと、続いて飼い主らしいニンゲンが現れた。玄関をくぐるなり、ニンゲンはおおげさにため息をついて、片足でちょいちょいとフカマルを小突いた。情けない顔のフカマルは、それを甘んじて受け入れている。
 ひととおりそれが終わると、ニンゲンはそっちを見ていたノクタスに目をやって、それからあたしの方へと視線を下ろした。ニンゲンはあたしに目をとめて、先程のノクタスと同じように、まじまじとあたしを見つめている。……あたしの欠けた飾り羽は、見ていてそんなに面白いの? ――そう思うと、あたしはまた、どうしようもないほど惨めな気持ちになった。一生このままなんだ。一生このまま、誰かに笑われながら、同情されながら生きていくんだ。なんであたしなんだろう。悔しい。クヤシイ。ぼたぼたこぼれ落ちる涙が、あたしの毛を濡らして、あたしの足元を濡らした。
 立っていられなくなって、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。ぎゅっと目を閉じると、体がぶるぶる震えた。辛いよ。なんであたしだけこんな思いをしなくちゃいけないの?
 ……キモリくんに会いたい。キモリくんの笑顔が見たいよ。キモリくんに話したいことが、たくさんたくさんあるのに。もう、会えないよ。大好きだから、こんな姿、絶対見せられないよ。嫌だよ。どうして、どうして……。
 そのときだった。二本残った飾り羽を、何かがふわりと包み込むような感触。驚いて目を開けると、大きな何かが頭を撫でた。
「動くなよ」
 頭の上から降り注ぐのは、ニンゲンだけが操る言葉。
 涙に揺れている視界の中には、ノクタスとフカマルが映っている。さっきまでそこにいたニンゲンが、いつのまにやら後ろに回って、あたしの上で何かしているようだった。
 あたしは動くことができずに、へたりと座り込んだまま、ニンゲンのなすがままにされていた。
 飾り羽にふわふわと触れる指は温かくて、なんだかママに毛繕いされてるみたい。するすると何かのこすれる音がする。目の前のノクタスは無表情に、フカマルはにやにやと意地悪く笑いながらあたしを見ている。
 突然お尻がふわっと浮いた。あたしが驚いてあたふた足を空回りさせる間に、ニンゲンはあたしをくるりと一回転させて、ガラスと向き合うような形で腰を下ろした。
 ……目の前のガラスには、あたしと、その後ろにニンゲンの姿がぼんやりとうつっている。
 とくん、と胸が鳴った。そよ風が吹いて、二枚の飾り羽がさわさわ揺れた。……その根元をまとめるように、真っ白の布がゆるく巻かれていた。そしてその端と端は、羽の足りない部分を補うように、蝶結びで留められている。
「片腕腐ったところで、同じように生きていけるんだ。飾り羽の一枚くらい、気に病むんじゃない」
 ニンゲンの両手が、あたしの頭をぽんぽんと叩く。あたしははっとする。その片方が、指先まで包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「いくぞ。ハリ、ハヤテ」
 ニンゲンが立ち上がった。振り返ると、ニンゲンは早足に町の奥へと向かっていく。ノクタスはちらりとあたしの顔を見てからそれを追い、フカマルは満面のいじわるな笑顔で、
「似合ってるぞ!」
 そう言ってから、てちてちと彼らを追いかけ去っていった。
 心の中がぽわんとして、なんだかへんなかんじ。涙に濡れた町並みは、きれいなお日さまに照らされて、いつも以上に輝いて見えた。体の真ん中が、なんだかほっこりと温かい。
 あたしはもう一度ガラスを見た。心の傷にも巻かれた白い包帯は、かわいらしい蝶結び。
 あたしは空を見上げる。いつのまにか太陽は、天辺ちかくまでのぼりつめている――いけない、キモリくんとの約束の時間!
 あたしはふるふると涙を振り切ると、大好きなポケモンの待つ場所へと向かっていった。




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